「右脳で描け」を読む
カリフォルニア州立大学のベティ・エドワーズ女史は、「右脳的認識モード」への切り替えの仕方を学ぶことによって、だれでも絵画の能力は飛躍的に向上する、という画期的な教育理論を提唱している。 結局のところ彼女が語っているのは、「絵を描く」ということは、「見方」を覚えることであり、見ることが出来ればだれでも絵を描くことはできる、ということである。以下に、「脳の右側で描け」の中で彼女が具体的に挙げている「絵を描くための技法」のいくつかについて、紹介したい。
右脳的思考モード
まず、複雑な絵を、逆さにして描いてみる。その目的は、われわれが普通それと気づかずに陥っている、パターン化された認知の機構が働かない状態にして、絵を描く体験をさせることにある。ピカソの「レオン・パクストの肖像」を、逆さまにして描くと、自分では何も意識しなかったのに、前に突き出した足は短く描かれ、ポケットに入れた手も顔の表情も自然に見え、体も立体的に見える。だが、同じ絵を、普通の状態で模写しようとしても、うまくいかない。それどころか、模写の対象がものすごく複雑に見えて、描き始める気力がそもそも沸かない。実際に自分でやってみると、その効果は歴然である。
いったいなぜこのような現象がおきるのだろうか。
思うに、エドワーズ女史の指摘する現象は、イギリスのP・トンプソンが発見した「サッチャーの錯視」によって説明することができる。この発見は、人間が顔を知覚するとき、方向性が重要な影響をもっていることを明らかにしたものである。マーガレット・サッチャーの顔写真を逆さまにしたものを二枚作る。一枚の写真は、目と口が逆さまにしてある。われわれは、その写真が逆さまになっている時は、両方の写真はそれほど違和感なく、「サッチャー」と認識する。ところが、それが普通の向きに戻ったとたん、目と口が逆になったサッチャーの顔は、鬼のようなすさまじい形相であると感じる。
このことから考えられることは、われわれが「普通」の状態で認知しているものは、われわれの知覚の仕組みが、意味を「脚色」しているのではないか、ということである。絵を描くにあたって、対象物を写実的に描くことを、この「脚色」の機構が邪魔しているのである。
いったん、この仕組みを実感できれば、われわれは対象物の「意味」を無視して知覚することが出来るようになる。その絵を正しく模写する仕事にとっては、実は「意味づけ」は余計なことだったのだ。
逆さまにして、何も「意味」をなさなかった線は、簡単に描けそうに思えた。しかし、向きを戻して、それが微妙な人格をたたえた一人の初老の人間であると「意味付け」をしたとたん、それがおそろしく複雑なもののように思え、描く気力がなくなった。
この現象もまた、人間の知覚の性質によって説明できる。実際は、ただの線にすぎないものに、見る人間の知覚が、勝手にいろいろな「意味付け」をして、その複雑な意味を味わっているのだ。 エドワーズ女史は、この人間の認知の「ゆがみ」は、われわれが成長の過程で、さまざまの複雑な現象の「経験」に対して、「言葉」と、それに伴う単純化した「イメージ」を左脳に蓄積してきたことによる、と理由付けている。われわれは、成長の過程で、知らないうちに世界をすべて「シンボル化」して処理する癖をつけてきたというのである。知覚モードを「右脳」モードにするということは、このシンボルによる意味付けの機構を停止させることなのである。
このシンボルによる意味付けは、われわれを世界に存在するさまざまの複雑な情報から遠ざける。だが、この状態から脱却することは、実はたやすいことなのだ。それは、知覚の対象物を、時間をかけて、よく見ることによって、われわれの左脳が処理できないほどの情報の洪水に見舞わせてやればよい、というのだ。
例えば、一つの椅子を描く場合、左脳はただちにその対象物の特徴と使い方をイメージし、そこで「わかった」として判断を中止する。「それは椅子だ。人がすわるときに使うものだ。わたしはそれが何であるか知っている。ザッツオールです。それ以上この対象物に関与するのは時間の無駄である。つぎの問題は何ですか。」という反応をする。だが、「現実」にはその椅子は、「左脳」にあらかじめ手持ちの貧弱な認知パターン以上のものなのである。
左脳がその椅子を見て、「椅子」と判断するについては、脳の記憶領域の中にさまざまの「特徴」がデータベースとして収まっているのであって、左脳は、その対象物が自分のもっている「椅子」という概念の範疇にあてはまるかどうか、を瞬時に判断しているだけなのである。確かに、左脳の真骨頂は、それを見たときに「椅子」という認識を下せるところにある。しかし、悲しいことに、左脳はそれが「現実に」どれほど複雑なものなのかについては、「ほとんど知ってはいない」にもかかわらず、自分が実はなにも知らないということに気が付いておらず、むしろ椅子については「すべて知っているかのような」錯覚をしているのである。 なお、知覚モードが右脳モードになっているときの特徴は、つぎのとおりであるという。
- 時間を意識しない。
- 話しかけられた言葉の音声を意味のある言葉に解読しない。
- やっていることがすべてとてもおもしろく感じられる。
- 注意深くなり、神経が集中される。
- エネルギーと自信がわく。
- 思考は言葉ではなくイメージでなされ、知覚しているものに思考が釘付けになる。
絵を描くときに、左脳モードを右脳モードに転換させるには、左の脳ではできないか、やりたがらない課題を与えることである。すなわち、長い間何かを見つめ、多くの細部を知覚し、できるだけ多くの情報を、できればすべてを心に銘記することが必要なのである。そのためには、古くからある美術教育方法のひとつ、「純粋輪郭画法」が、脳の認識モードの転換に有効であると言う。
「純粋輪郭画法」とは、1941年に、美術教育家キーモン・ニコライデスが提唱した方法である。その内容は、対象物の輪郭を、自分が描いている絵は見ないで、ありのままに描くという、「ただそれだけ」のものである。ここで、「輪郭」とは、対象物を見ることよって感じる「端部」のことである。「端部」とは、「二つのものが接するところ」をいう。そして、この作業をするときは、「描きながらその形に触っているところ」を想像しなければならない。
左脳が絵を描く場合は、まず全体をシンボルによって知覚し、現実の輪郭とは関係なく、それをすばやく紙に転写しようとする。だが、この純粋輪郭画法では、できるだけゆっくりと描くことが要求される。遅ければ遅いほどよい。そして、一回の知覚をごく小さい部分に限って、目に写った輪郭線だけを、正確に、少しずつ少しずつ描いて行くことを要求するのである。
自分がどう描いているか見えないようにして絵を描き続けるということは、上に述べたような思考をする「左脳」にとっては苦痛以外の何物でもない。だが、左脳が「描く」ことへの関与をあきらめたときに、初めて「画家の目」つまり「右脳的思考モード」が開かれてくるのである。
その他の技法
この「左脳モード」から「右脳モード」への転換が最も大切な技術であって、この発見に比べれば、以下の技法はちょっとした「コツ」のようなものであるかもしれない。
絵画では、構図の善し悪しはネガ(地)の形の複雑さで決まると言われる。言い換えれば、絵は、ネガだけでも造形的に十分美しいものでなければならない。よほど訓練された鑑賞者でないかぎりは、ポジ(図)の形しか意識には上って来ないのだが、それでも無意識のうちに、必ず「ネガ」の形を判別しているのだ。広告の世界では、この知識を逆用して、ネガの中に不道徳な形や、反社会的な形をひそませて、大衆の購買意欲を操作していることはよく知られているところである。
ところで、このネガの形には、「名前」がない。従って、われわれがネガを意識して輪郭線を描くときには、左脳に邪魔をされないのである。そこで、われわれが複雑な対象物を描く場合、その対象物そのものをよく見ようとするよりも、対象物を包む空間の形の方を見るようにしたほうが描きやすい、ということになる。
デンマークの心理学者ルビンが「図と地」の心理学的性質を提示した「ルビンの杯」の絵はあまりにも有名であるが、われわれの知覚は、環境内の数多くある刺激の中から、ある特定の部分を抽出し、ほかの部分は無視する傾向がある。この性質を逆用するわけである。
エドワーズ女史は、さらに、そのほかの技法として、目測による遠近法、解剖学的知識による補助、明暗による立体感の出し方についても語っている。
遠近法の知識を実際に応用する場合には、イメージの上で、三次元の対象をあたかも二次元の平面のように切り取り、四角い紙の上に転写する必要がある。そのときに、対象物をみるためのグリッドを想像することと、四角い紙の四辺を地平線と垂直線にあてはめてみる見方ができればよい。
また、人体に関する人間の知覚はきわめて敏感なので、正確に解剖学的な法則にのっとっていない顔は、顔のように見えない。そのため、特に顔を描く場合は、解剖学的な知識、−といってもちょっとした比率の決まりなのだが−を守らなければならない。
立体感を出すための有効な方法が、陰影である。だが、この陰影は、対象物を知覚するとき、その「明度」によって、ゲシュタルト(統一的に知覚された意味のある形)を作り、それをそのまま写し取るだけでよいのであり、右脳による知覚モードに慣れていれば、難しいことではない。
エドワーズ女史の提唱するデッサンの技法を通じての「右脳モード」の体得は、美術家を目指す者にとって、強力な武器となるだろう。
保存用