あんとに庵は在世フランシスカンという身分になったので、それについてのページなんかを作ってみましたよ。


 在世フランシスコ会とは

在世フランシスコ会と言われてもふつーの方はよく判んないと思います。昔は「第三会」という言い方をしましたが、今は「在世フランシスコ会」と言います。「第三会」などといわれてもよく判んないという人の為に説明いたしますと、修道会には第一会、第二会、第三会と三つのグループがあり、第一会は男子修道会、第二会は女子修道会、そして第三会は在俗信徒の修道会ということになるのです。(フランシスコ会の場合、第一会は「OFM/小さき兄弟会」「コンヴェンツァル」「カプチン」の三つがあり、第二会は「クララ会」第三会は律修第三会と呼ばれるものと在俗の会があるのです。
 修道会というのは聖域のもんじゃないか!在俗で修道とは片腹痛いわ。という方の為に更に説明いたしますと、第一会と第二会は貞潔やら清貧やら柔順といった修道誓願を立て集団生活を営むことになるのですが、第三会は誓約を立てますが身分は在俗のまま、結婚生活は営めるし、財産も所有出来るという案配なのですね。一般的「修道」の生活とは異なる生き方をするわけですが、在世会(第三会)はそれぞれの修道会でローカルルールがあり、それにしたがった生活を営むことになるわけです。


 在世フランシスカン的な生き方とは

えーと。そういうわけで、在世フランシスカンですが、そもそも創設者である聖フランシスコという人はイタリア生まれの有名な中世の聖人で、カトリック教会でもマザー・テレサなんかに並んで有名かもしれない。「乞食坊主の親玉」ぐらいに認識してる人もいるかと思いますが、ちょっと知ってる人なら「イエスに倣って、あらゆるものを捨てて、シンプルに、清貧に生きた人。」というぐらいはご存知かもしれません。まぁ日本なんかでも禅宗のお坊さんとか、托鉢僧などがいるので認識しやすいかと。
で、在世フランシスカンもそのフランシスコの生き様に倣って、「福音書のイエスを生きる」とかフランシスコの考え方を通じて神を、或いは世界を見てみるとか、そういうのを「霊性にならう」などとギョーカイ用語でいいます。


 フランシスコの霊性とは

んじゃ、「フランシスコの霊性」ってナニよ?と聞かれても一言では言えません。フランシスコ会でも「霊性研究会」などと称して色々な人が探求しているように、本当に奥が深いと申しますか、それを探求すること自体が修道なのだといえるぐらいなことですから、わたくしのようなものがこんなちょっとのスペースで説明出来る代物ではございません。
 一番よいのはフランシスコ会関係の著作を読むのが一番です。例えば「小さき花」これは初期のフランシスコ会修道士達のエピソードを集めたものですが、馬鹿小咄集としか言えないような内容です。流石、「デカメロン」を産んだイタリアだけはあります。これを読むと「クリスチャンというのは面白みがない。」とか「クリスチャンたるもの真面目に生きなければ」という認識を新たにされ「クリスチャンって、天然なお莫迦な方々の集いなのね」「こんなアホな人々でもソンケーされてたんだ」と少し気が楽になるかもしれません。それ以外には真面目な伝記「アシジの聖フランシスコ」などといったタイトルで、エングルベールという人や、哲学者の下村寅太郎とか、「キリスト最後の試み」の作者ニコラ・カザンツァキスも書いてます。(下村も、ニコラ君も哲学者だよなぁ・・・哲学者受けするのかね?)


 福音的生活様式と完全な歓び

フランシスカンの霊性といいますと「様式のない様式」といわれとても自由なのですが、まぁ一応、イエス・キリストの福音に従う生き方である「福音的生活様式」などというガイドラインがありますね。これは福音書に書かれたイエス・キリストの生き方考え方に倣おうということで、「イエス・キリストに一致して生きる」ことを目指すのですが、我が創設者、聖フランシスコはとにかく単純な人だったので、イエスに一致したくて一致したくて、ついにイエス・キリストが十字架で受けた傷と同じ「聖痕」を体に受けてしまったりしていました。肉体的にイエス様コスプレをしてしまったわけですね。(まぁ、自分で加工したんじゃなくて、神秘的な力による、ギョーカイ用語でいうところの「神からの恵み」だったわけだが。)ここまでの一念は凡人にはありません。普通に聖書に書かれたイエスの教えを「なるべく」実践しようという生き方が求められたりするわけです。わたくしの場合、「なるべく」も通り越して「あわよくば」程度なので聖人になどは到底なれません。
 それから、フランシスコはかなり変わった人なので、彼的な「完全な歓び」というのはすごく逆説的なものでした。これは人に尊敬されようが、ものすごい知恵を持とうが、言論に優れた説教師となり世界の人すべてを福音に導く能力を与えられようが、彼にとっては「それは完全な歓びではない」らしいです。ではいったいそれはなにかというと、寒空で餓え、家の門をたたいたら門番にけり飛ばされて、罵声を浴びせられるような体験こそ「完全な歓び」なんだそうです。聖人になるような考え方の人にはついていけませんね。わたくしのような凡人は、日常辛いことがあって哀しくなったら「完全な歓びだ・・」などと自分を慰める道具に使うのが関の山でしょう。



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