伊能忠敬(1745~1818)
江戸後期の測量学者である。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に伊能家の婿養子となる。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。商人としても才覚があったようで、伊能家を再興し、かなりの財産を築いた。
1794年、50歳の時に隠居し、江戸に出る。幼い頃から興味を持っていた天文学を学ぶためである。江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。このとき、高橋至時は32歳。忠敬は51歳であった。
1800年、56歳の時に、第1次測量を開始。江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)までの距離と北極星の高度を正確に測り、地球の大きさを正確に求めるために始めたことであった。当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。忠敬は私財を投じて測量事業を幕府に提案した。幕府は、伊能忠敬に全国の測量をさせると共に、薩摩藩の偵察の意味合いも重きにおいて全国に派遣させていたとされている。忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業に育っていった。
1815年、東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。忠敬70歳であった。地図の完成に取り組んだが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。
高橋景保(高橋至時の子)や弟子たちは、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地全図」が広げられた。3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。『大日本沿海輿地全図』完成三ヶ月後、喪を公表したと言われている。

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