相田幸子に花束を  ……OVA「誕生」


 

 それにしても望月智充監督の作品で描かれるの女の子の肢体には、今日のサイボーク化したたいていのアニメ美少女には感じられない「そそられる」ものがある。特に夏服からムキダシになった手足が何とも…。

 OVA『誕生』全2巻では、足先の方からなめるように「這い上がる」カメラ視線が多用されている。彼女たちはただ当たり前に自分たちの生活をしているだけで、ヘアヌード写真集の女性たちのような、ことさら男たちに媚びを得る演技は何一つしていない。通勤途中やファーストフードの店で見かける女子高生を「結構かわいいじゃん」と思って見る時と全く同じ感覚が生じてしまう。

 しかもその圧倒的な日常性のリアリズムが、あくまでも、アニメの中のフィクションの登場人物が「実写の映像作品」に出演して物語を演じるという脈絡の中に置かれているあたりが、何ともはや不思議な感覚に襲わされるのだ。

 『誕生』第2集の中でも、回想シーンの中で3人の子役がタイムカプセルを地中に埋める部分で、スコップの土がタイムカプセルにかかるのを穴の底から見上げるアングルが用いられていたりするのだが、「こんな撮影をするためには、地面に大きな穴を掘ってカメラを据えつけてその上にガラスをかぶせて撮影するしかないよな〜 …カメラマンの入るような大穴を掘るのは大変なのでリモコン操作か何かだろう。この撮影のためだけに大きな穴を掘る裏方さんも大変だよな〜 『映像に凝る完璧主義の監督』<笑>へのグチとかこぼしながら夏の暑い中穴掘ってたりして…。それとも実はこの土の中の穴そのものが大道具のセットとして作られたもので、3人の子供はそのセットの上に乗っかってこわごわ演技しているのかもしれないな〜」とかいう想像を、物語への感情移入の一方で、ふと我に返って思わずしてしまったりするわけである(私の想像力だけが特別性?)。

 今だからわかるのだが、「鮎川まどか 檜山ひかる 春日恭介 in きまぐれオレンジロード」とオープニングでクレジットされた、あの劇場版『あの日にかえりたい』もまた、この『誕生』と同様に、まどか、ひかる、恭介という3人の俳優が演じるひとつの「物語」であることを望月監督は示唆していたのかもしれない。

 だだし、『誕生』の場合にしても、アイドル伊東亜紀は「伊東亜紀」という名前の役として「ドラマ出演」しているのである。藤村さおりも、田中久美も同様。『セーラームーン』の水野亜美と現実の自分の性格まで混同されてしまうことを声優の久川綾さんは一時期凄く嫌だったらしいが、望月監督は、敢えて虚構と現実が容易に混同されてしまう効果をねらってすらいるのではなかろうか。

 だが、そのようにして「実写映画の制作」というメタフィクションであることを一方で強烈に意識させる望月監督の描き出す物語は、たいていのアニメ作品体験では生じないくらいの、身につまされる生々しい感動を呼び起こす。その生々しい直接性故に望月監督の作風を嫌悪するアニメファンがたくさん出てきても仕方のないことだと思う。

 しかしその一方で、たいていのアニメ作品を見ている時には満たされない「何か」を満たしてくれる希少価値のアニメ作家として尊重せざるを得なくなる一群の「望月ファン」も生むに違いない。こうした一見例外的な作風が、いつ何どき、アニメのメジャーな流れに影響を与える存在にならないとも限らないのである。

 現に、『セーラームーン』のSDたる幾原邦彦氏の作風には、望月作品とクロスオーバーするトーンが、映像演出面でも作品のテーマの上でもかなりの程度内在していることは見逃されがちかもしれない(ちなみに、一時期アングラ劇を志し、東映動画に入社するまでアニメにさほど関心がなかったらしい幾原氏が、望月氏の作品を全然見たことがなかったことは、ある個人的ルートを通してはっきり確認出来ている)。

 『誕生』第2集ではついにセーラームーン人形をUFOキャッチャーする田中久美嬢すら登場したが(久美役のかないみかさんが、『セラムン』の準レギュラー格、ミメット役でもあることは知る人ぞ知るとおり)、望月監督が単に「現在の風俗」のリアリズム演出効果という以上の関心で『セラムン』を御覧になったことがあるのかどうかは不明である。

 ただ、『誕生』第2集は、「すでに忘れてしまっていた、遠い子供時代のささやかな出会いと、その時手渡された花をめぐる物語」なのである! 少なくとも結果的には「望月氏の世界観による劇場版『セラムンR』の物語」のようにも受け取れてしまうあたりが、仮に偶然であったとしても、望月氏と幾原氏を共にひいきとしてきた私に取っては何とも興味深い。何処かで、お二人が映像作品で目指すものに共通項があるのだと思う。

 さて、OVA『誕生』それ自体の話題に戻ろう。

 第1話「つま先で、恋」は、容易に劇場版『きまオレ』の余韻を聞き取れる少女の失恋物語であった。劇場版『きまオレ』のひかるに比べると『誕生』の亜紀はあまりにもあっさりと身を引き過ぎていると感じる人もあるかもしれないが、ひかると恭介はすでに数年間見かけ上はつき合っていたのである。ひかるがあっさりと身を引けないのは当然のことなのだ。それに比べると亜紀とミケこと三浦健一君の間には、何回か顔を合わせたという以上の具体的な人間関係の繋がりは何もない。ここでもし亜紀がひかるちゃんしてしまったら被愛妄想・被害妄想の疑いがかかるかもしれない。

 (念のために言うけど、思春期の男女なら、一過性のハシカのようなものとしてならばあってもおかしくないとは思う。心身の急激な成長期の思春期の子供たちは多分に「妄想的」なのだ! しかしそれは自然と克服されていく。もちろんオトナでも、すでにステディな相手や結婚している相手に横恋慕してモノにするような恋愛を即悪いとは言えないが、そういう場合でも、自分と恋する相手、そして自分の恋敵が現実にどういう人間関係の水準にあるのかを心の一方で醒めた目で見据えた上での行動になるだろう)。

 亜紀の失恋は失恋としてはもともとあまりにささやかな「初期水準」のものなのだ(だ が、そのようなささやかな失恋の中に、どれだけ人間の真実というものが赤裸々に含まれていることか!)

 これに対して、第2話「ディア・マイ・フレンド」は、未完に終わったOVAシリーズ 『トワイライトQ』や藤子不二夫氏の短編SF作品(どちらにも望月演出作品があることは知る人ぞ知る)をほうふつとさせるシュールなファンタジーである。

 (ちなみに第1話では伊東亜紀と藤村さおりはつい先日まで同じ学校の生徒であることすら知りあっていなかった恋敵[…というより「勝負はすでについている」現実を亜紀が逃げずに受入れていく]関係だが、パラレルワールドたる第2話の作品世界では亜紀・さおり・久美は幼なじみの関係なのだ)。

 夢の中に現れる少女は実はかつて一度だけささやかな出会いをしたことのある少女で、しかもその少女は、その出会いの直後に……。そのことを3人が思い出し、幻想的な再会を果たすまでの物語。これだけ聞くとファンタジーとしてはありがちの話なのだが、少女たちの生活感をとことんリアルに描写する望月氏の演出の手にかかると、第1話に引けを取らな い、手に汗握るスリリングな物語に仕上がってしまう。

 第1話の時に、この物語の小道具として出て来る『アルジャーノンに花束を』の物語の内容そのものが、「現実に直面する中で人は成長する」という点で、この『誕生』第1話の物語の内容と呼応している可能性を私は示唆した(もちろん単にダニエル・キイスブームということを現代の日常を表現する小道具にしただけかもしれないが)。この第2話の物語にも、妙に「アルジャーノン」の物語に呼応するとも受け取れる所がある。

 「アルジャーノン」の主人公は、自分の中に残る、夢とも現実ともつかないかすかな記憶に基づいて、自分を育てた親についてのイメージを作りあげていたが、親との再会など、様々なエピソードを経て、その記憶の断片の中に含蓄されていた本当の現実について気づいて行く。そしてそのことを通して、人間について、世界についてのイメージを劇的に変化させていくのである。そしてそうした上で、彼は知能の低い段階へと急速に回帰していくのである。彼がなぜ一度知能が高い人間になったこと、そこで得られた経験や人との出会いに感謝すらしているのか(物語のこの人生肯定的な側面は彼の存在を悲劇的にのみ受け止める表面的な作品理解に一度はまると見えなくなってしまう)。それはそうやって置き忘れられていた過去の記憶に真の決着を得られたからこそだったのだ。

  人の中には、そういう様々な「未完の思い」がある。それらは不可解な断片的なイメージとして連想や夢の中に現れることしかできなくなる。3人はそれぞれ、日常の中でのさりげない体験(入学前のさりげない出会い、教室の片隅のいつまでも空席のままの席から受けた印象、親の世間話)の中で、そこに相田幸子という「本当ならば友達のひとりになっていたはずの女の子」の存在を認めるという形ではじめて「完成」に導ける断片的な「未完了な」体験を、実は繰り返し漠然とした曖昧なものとして小学校時代体験していたのだと思う。そういう体験の中で3人それぞれの中に無意識裡に積み上げられた「未完の思い」自らが、真の解決を求めて3人の意識的な自我をつき動かして行ったのかもしれない。

 さおりがその少女に関わる記憶を思い出したのは突然10年前のタイムカプセルの記念日であることを思い出すのと同時だったが、この種の「記念日効果」…本人が意識していなくても、誕生日や結婚記念日に思いもよらないことが生じてそれにふりまわされるという現象…が決して珍しくはないことは精神科医やカウンセラーの常識のひとつである。

 少女の残した花の種を土に「埋葬」した時、3人は、長年心の片隅にあった漠とした引っかかりの背後にいた「相田幸子」という少女に、真の「弔い」をしてあげることができたのだ。

 ラストシーン。さおりの家のベランダで、その種は今や大輪の花を咲かせている。そし て、3人の少女たちは、相田幸子が生きられなかった分まで、今の娘時代の人生を謳歌していく。3人がバイクで小旅行に旅立つラストを私はそう理解している。

 いずれにしても、この『誕生』全2巻は、派手な宣伝もなされることはない、一見地味な作品かもしれない。しかし、ある意味でこれほど完成度の高いアニメ作品は年に何本も作られていません。世間一般の評価にとらわれず、「本物」を捜し求める人には、ぜひ推薦したいと思います。 望月氏が、決して同じ地点に立ち止まることなく、絶えずsomething more,something else(某ジャズ名アルバムのタイトルだが)を目指しつつあることも確かだと思います。

 一見大作ではない「企画もの」だけれども、ある意味ではこれまでの望月演出作品で一番凄いと思う。      (94/12/26)

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続編:『誕生』第2話をすべてリアリズムで理解する怪説(!)

 この前の『誕生』第2話についての投稿の続きのつもりで読んでください。

 タイムカプセルの中になぜすでに死んでいた相田幸子の品物まで入っていたのかというあたりが、リアリズムでは説明がつかない部分である。

 無理やりに説明をつければ、3人は、子供時代には、実は相田幸子という事故で死んだ 「友達になるはずたった」女の子の存在をずっと自覚していた可能性もあるのではないか。そして、ずっと幸子という「4人目のともだち」が死んだ後もそこにいるという空想を3人で共有して友達づきあいしていたのかもしれない。

 そういう「現実にはいない人物」を友達のひとりに加えてしまうことは、子供の世界ではありがちなことという気もするし(実は私にもいたんです! 小学校時代、クラスメートたちに架空の登場人物一人を加えた小説を書いて学級新聞に載せて楽しんでいた…いかにも将来オタクになりそうなアブナイ人物の子供時代である)。

 そして、3人は、大きくなっても相田幸子のことを忘れないために、相田幸子用の3つの引き出しのある箱も用意して、一つ目の引き出しに相田幸子に渡した花束とそっくりの花束をあらためて作り、タイムカプセルを埋めた地点の近くにあった花壇(画面の中で実際に描かれている!)の花の種も3人自身が2つ目の引き出しに入れておいた…という解釈は深読みだろうか?

 (ちなみにこの2つ目の引き出しは二重底になっており、3つ目の引き出しが開けられた時はじめて種が見える仕掛になっていたりして)。3人は、そういう記憶を成長するにつれてすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。

 …ついでにドラえもんかキテレツ君にでも頼んで箱の3つ目の引き出しの中に〇〇〇〇の映る立体映像装置を仕込んでもらっていた…ということにすればすべてリアリズムで説明がつきます(どこがじゃ!)

…ジョークですってば! 意外と望月監督自身もそのつもりだったらどうしよう…

 


「誕生」は、「プリンセスメーカー」「卒業」と並ぶ、美少女育成シミュレーションゲームの代表格で、私がこのゲームのフリークであることは「プロフィールの部屋」でも書きました。

 望月監督は、OVA化にあたって、例によって我が道を行き、OVA全体を、ゲームの主役たち3人が主演するテレビドラマとして構成するメタフィクションの道を貫いております。一部「撮影風景」とかもオープニングでは登場しますが、本編はあくまでも全体が一本の独立したドラマのように表現されます。ここまでやられると、思わず「実写ならこのシーンをどうやって撮影するか」という妄想すら始まってしまうわけでして(笑)。

 人を食ったような辛辣なユーモアもこの監督の持ち味ですが、一度シリアスをやらせ始めると、劇場版「オレンジロード」(この作品が映画「危険な情事」を意識している可能性にどのくらいの人が気づいているだろうか)のように、並のフィクションを通り越した異様な生々しさに到達することがあります。ちなみに、この両面を同時に楽しもうと思ったら、OVA「ここはグリーンウッド」がおすすめですね。

 それにしても、結果的に「エヴァンゲリオン」は、こうした望月作品の長所(日常主義リアリズム・メタフィクション性)もすべて表現できているのだから空恐ろしい作品である。庵野監督自身は望月作品を意識していないかもしれないけれども。



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