〜私のフォーカシング 第7回


出逢い

2005/1/29 更新

 

その日(04/10/20)の私は、ある事情でかなり久しぶりにidentifiedな脱同一化できない、自分の情動の波に呑み込まれて「距離を見失った」状態にありました。

さすがの私も、こういう時には、すぐにうまくフォーカシングに入れないで、いつの間にかいろんな想念の渦に巻き込まれる堂々巡りを抜けれないんですね。

フトンに入って恐らく1時間近くはそういう思い煩い翻弄されていたろうと思います。


外は台風の雨が少しずつ音が大きくなり始めていました。

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「ああ、今の気分とあいすぎてるな....」


と、ふとその雨音に耳を傾け、

その味わい一緒にいられたあたりで、結果的に、自分の内面といつの間にか距離が取れる「隙」(?)が生じたのかと思います。


ふと、ふとんの中の両足の「独特の」感覚に注意が向きました。


しめた!! 


と思いました。

ここを切り口に、

胴体から上の混乱した情動は放っといて、

「ここ」に注意を向ける

所からはじめれば、「距離をとれた」感じを相手にするフォーカシングにできるぞ!!


(このあたりの、数十分の鞘当ての末に、一瞬の隙を見逃さずに斬りかかる、スリリングな「スイッチング」!!



2回目の時ひりひりする熱い感覚かな? と最初は思いました。


しかし、違う。


困った感覚なんです。



熱くて冷たいとしかいえない。



熱い場所冷たい場所が足の別の場所にあるというのなら話は早い。

足全体が、同じように熱くて冷たいとしか表現できない、奇妙奇天烈な感覚でした。


こうした「矛盾した一句」をそのまま付箋にしてフォーカシングを続けてもいいのですが、

その矛盾した質感を一言でぴったり言い表したいという欲の深さは私の業(ごう)。



【アドバイス】ここで、初心者にも役立つ、こういう時の私の古くからの「得意技」を紹介します。


この感じ、生まれてはじめて体験する感じ?」



...........私にはすごく「珍しい」けど、全く初めてではない


「なら、その感じの質にじっくり注意を向けて。

『こんな』感じだった時って、いつだったかなって、

虚心に思い出してみて。

足の感じの周りには、どんな情景が広がる?



【アドバイス】
阿世賀浩一郎
「身体の感じと状況との関わりを重視するフォーカシング・アプローチ・序説」
東京大学教育学部心理教育相談室紀要  第13集  1991


において
「外延的ハンドル」と命名した手法。


「質感」を内側に求めるのを「内包的ハンドル」とすれば、

「........している時の、『あの』感じ」

というふうにして、その感じと「全く同じ質の」感じを感じていた時の「光景」を探してもらう方略。

 「内包」「外延」というのは哲学の基礎用語だけど(私は学部は哲学科です)、皆さんにはこの命名はなじみにくいかな?

この技法に限らず、この論文、今も読むに値する私の真の代表作と自負してますから、フォーカシング専攻の大学院生は図書館で探して必ず読むように(^^)

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.........浮かんできたのは雪景色


九州出身の私からすれば、雪が「積もる」ということそのものが珍しい。

まして数十センチクラスの雪の経験は数回しかない。

例えば、穂高だったかな、エルフィ・ヒンタコフ夢フォーカシングのワークショップがあった時とか、八王子に住んでいた時代の例外的な記録的な数十センチの大雪の時とか。

スキーの趣味はないのでなおさら。

しかし、そういうときのためと限らなくても、防寒用の、すこし断熱用の綿の入ったスラックスは持っていた。

そのスラックスを寒い日にはいていた時の感じが、この「熱くて冷たいにぴったりなのだった!!


つまり、多少の「綿入りズボン」だから体温を逃がさない力があって「暖かい」

でも、スキー用のほど大げさなものでないせいか、やはり外の冷気が多少滲みて
「スースーもする」
のである!!


なんという絶妙の、感覚にぴったりの「外延的ハンドル」見つけてくれたの!!

と、両脚(あし)のフェルトセンスは大喜び!!


その暖かくて冷たい脚の感じをいっそう「増幅して」脚は返してくれる。

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これで、気がついてみると、胴体の上の情動の嵐は、いつの間にか静まりかえっていた。


私は、決して不快ではない、むしろ珍しくて面白い、不思議な足の感じとしばらく一緒にいた。



交感神経副交感神経同時に賦活するなんてあるのかな。でも、漢方薬には、必ず症状を抑える薬に、まるで逆の薬も配合するという話しだし....」

 とか、頭の中では勝手に連想しながら。


(慣れれば、フェルトセンスを味わいながら、こういう、勝手な連想を同時に頭に遊ばせること、いくらでもできます)。


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と、その時。

寝ている自分を足元の方に立って、俯瞰するアングルからもう一人の自分が見下ろしているイメージ

(といっても、イメージの中の私の視点は「見下ろしている」方で、まぶたの裏のイメージだから、ドッペルゲンガー(二重身)ではないのでご安心を)


私の寝ている頭の上の、ホントならふすまがある辺りが暗がりになってて、そこに「何か」「安置」されている。



見えてきた。




即身仏になった上人様ミイラが、

袈裟を着てすわっている。


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「即身仏」といってもピンと来ない方のために。

山形県の出羽三山では、たしか明治の初めまで、信じられない「修行」がありました。

高僧が、生きながら食を徐々に断っていく。

ある段階まで来たら、完全に食を立ち、座れるスペースくらいの土の中の箱に埋めてもらう、もちろん空気穴はある。

その中で、餓死するまで、結跏趺坐する。

「生きながらの自ら進んでの成仏」

しばらくたってミイラを掘り出し、きれいな袈裟を着せて寺に安置する。

多くは常時拝観できたと思います。



南学寺  鉄竜海上人 湯殿山瀧水寺大日坊 代受苦菩薩真如海上人
蔵高院 伝光明海上人



私は、この即身仏になられた上人様を、確か小学校の中学年ごろ、故郷の久留米の井筒屋デパートの「出羽三山宝物展」みたいな催しで見ています。

はっきりいって、すごく怖くて、それからしばらく夜真っ暗にして寝られないというのが、中学ぐらいまで続きました、


(大人になってからは逆に、居眠りでない限り、部屋を真っ暗にしてでないと 安眠できない人になりました。特にフォーカシングを学んでから、 「真っ暗闇は安心できる」という感じが強くなって、この連載の1回目で紹介した「昔の道がたどれなくなって急性不安発作に襲われる」までは、むしろ「暗闇こそ友」という感覚でした。ですから今も、昼間寝る時は、雨戸までは閉めませんが遮光カーテンをひいているくらいですが)

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で、「イメージの中の私」は起き上がり、

さすがに立ったままでは無礼かなと思い、

正座して見上げる態勢をとったのです。

(「実際には」仰向けに寝たままです)


上人様を見つめたら怖いかな、と思ったら、全然怖くない。

全く平静な気持ちで相対できるのが不思議なくらい。



そのまま、数分間、その感じと一緒にいました。

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そのうち、


「どういう姿勢が一番いいだろう」


というのがやはり気になり出しました。


(この場合、「イメージの中の」座っている私がどんな姿勢がいいかです。「実際の」寝ている私の身体ではなくて)


やはり、正座したまま深々とお辞儀をするのが、しっくりする。

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すると、いろんな連想が始まります。


(それにしても、こういう上人様って、お寺に安置されているのはわかるけど、「デパートの展覧会」で、ガラスケースにいいれて「見世物」にされるなんて、ちょっと今思うと、かわいそうな気もするなあ。お寺できちっと拝むのがふさわしくはないかなあ)


そうそう、子供の頃は、即身仏を、「怖い」と感じる一方で、心のどこかでもう一人の私がいて。

 子供心に、


「そんな、自分から餓死して聖人様になろうなんて、すごい名誉欲のかたまりじゃなかったのか? そんな人が偉いとは思わない」


 と思っていたこと。


 でも、確か、この修行の中にも、自分が苦しむことで衆生の苦しみを成り代わって救おう、みたいな面もあったんじゃないか)

こんなキリスト様みたいな考え方、仏教にあったかな、と思いつつも、ともかくそういう連想が沸いてきた。


(もし、そうだったとすれば、「名誉欲のかたまり」みたいに、子供の頃どこかで軽蔑したのは申し訳なかったかな.....)

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イメージの中で、あらためて頭を「更に」深く垂れ


「もしそうだったとしたら、子供の頃『煩悩』に取り付かれていたのは私の方でしたね。申し訳ありませんでした


と心の中でつぶやく。

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すると。


(今やイメージを「見ている」私はそれを横からのアングルで見ていることになっているので、 頭を垂れた私の頭上の光景も「見える」のだが)



上人様のひからびた左手が、前へスーッと出てくる。



そして、その人差し指の先から、


しずくのようなものが、ポタリ、ポタリと何滴か落ち、


イメージの中の「私」の頭にかかる


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その瞬間、現実の寝ている私の目からどっと「熱い」涙がこみ上げてしまう。



思わす、私は心の中で、


「上人様!

 そうです!

 私は今いろんなことで本当に悩み、苦しみ、

 どうしたらいいかわからないでいるのです!!」



と叫ぶ。

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気がつくと、若いころの、りりしいまでに和服を着こなした、母の姿が浮かぶ。

まるでホテルのベランダのようなところから景色を見渡している姿で。


うちの母親って、こんなに「りりしかった」のか........


思わすその感じと一緒にいいる。

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実はそのあと、別のイメージも出てきたのですが、それは「書くな」と、私のフェルトセンスはいうので。


例によって、私が忘れないためのキー・ワードだけ。


「歌舞伎」

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気がつくと、頭痛の感じが、以前と全く変わっていた。



額の辺りに、アイスノンを乗せたみたいに「冷たい」のである。



「この」感触は、頭痛の感触としては、全く初体験である。



ひんやりと、むしろ「気持ちがいい」



うーん、「気持ちいい」「ひんやりした」「頭痛」なんて、

なんという矛盾の塊!!


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それから8時間寝て、これを書き留めて5時間くらいになっていたが、

その時点でも、額の「ひんやり」した、心地よさは続いていた。



背中は、あいかわらずせっせと汗をかき、乾いては涼しくなる。


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後日調べてみたら、即身仏になる修行には、やはり「衆生救済」の思いを込めて、という思想は背景にあるようでした。

第8回(前編)


日本フォーカシング協会メーリングリスト"focusing-net"
5464,5476の書き込み[2004/10/20,22]を、若干増補の上、転載)


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