2005/1/29 更新
夢から目覚めた私は、そのまま体感を味わっていました、かなりいいコンディション。
ただし頭には、OHPに使うくらいの薄いプラスティックの板を円筒状にしたような形でかぶっているような、比較的軽度の「被帽感」(緊張性頭痛)はありました。
フォーカシングまではやらないでいいいか、と最初は思いかかったのですが、
ここで「基本」に立ち返ろうと、突如思い立ちました。
「今の自分は完全に申し分がない、と自分の内側に問いかけてみればどうだろう?
しばらく内側からの返事に耳を澄ましてみて」
【アドバイス】
フォーカシングに親しんだ皆様だとご存知の、微妙な不全感や、些細な気がかりに浮かび上がってきてもらう、最も標準的な「導入技法」(clearing a space)」。
私は 英語だと、”I an OK,"などいうあたりを、「申し分のない」という言い方を、個別指導でも良く使います。すごく「日本的」で、いいいでしょ(^^)
......右側の肩甲骨の下のあたりに、かすかな痛みがある。まるで寝違えたみたいなの。
その感じの中に、特定の「何について」とはいえないまでも、私の現在抱えた様々な気がかりが、「残りかす」のようにたまっているのもわかりました。
しばらく、その「この身体の感じは、何についてとまでいえないまでも、私の置かれた状況と、『どこかで、何らかの意味で』響きあっているという感じを繰り返し味わっていました。
【アドバイス】
(この前紹介した阿世賀、1991において提唱した、『外延的ハンドル』と並ぶもうひとつの新造語、『外共鳴(external resonating)』。
内側で感じられる曖昧なモヤモヤ、不全感に、付箋となる「とりあえず感覚的にぴったりな言葉やイメージ」を具体的に見つけられず、特定の気がかりや悩みとのつながりまで実感できなくても、
自分の置かれた状況と「とこかで、何か」響きあっている
という漠然とした実感
があれば、それを繰り返し味わうというもの。
付箋となる言葉やイメージがはっきりしていて、その言葉やイメージとフェルトセンスを響き合わせ、繰り返し消し味わう、オーソドックスなやり方を、「内共鳴(internal resonating)」と名づけて区別した。
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しかし、それ以上の展開は自然とは起こらなかったので、私はまたもや立ち上がり、ラジオ体操もどきを始める。
やはり右肩甲骨の辺りから、「コキ」という小さな音。やはり「ずれてた」な。
でも、それだけではその部分の感じは完全には楽にはならなかった。
むしろ、ある種の熱を帯びて、鮮明になっていく。
私はその感じと無理なく共にいられるありようを、仰向けに寝たまま静かに探していく。
この「共にいられる」あり方が、ある「深み」にはまって実現されていく時、独特の「吸い込まれるような」体感があることを、そこ何日かの私は、はっきり気づいていた。
(恐らく、通常のフォーカシングより深い水準の「変性意識状態(altered states)」に入って行く時の感触である)
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雪景色。
道路にも降り積もった雪。
スノータイヤで踏み固められた道路を、1台の宅急便の小型トラックが走っているのを後ろから追いかけるカメラアングル。
宅急便のトラックなのに、車の後部にしっかりした扉がついていない。
昔のトラックみたいに、布製のほろの屋根と囲いはあるが、後ろはうっぽんぽんに開かれたままなのだ。
その荷台の一番後ろの左寄りに、無造作に積まれているのは...........
むき出しのガラスケースに入った、
「お上人様」ではないか!!
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私は、どうやってトラックを止めたのか、運転手は登場しないのでわからない。
ともかくお上人様のところに駆け寄る。
「いったいどうしたのですか。しかもこんな無造作な積まれ方をして。これではトラックの振動でお上人様の身体が崩れてしまいます」
「はっはっは、いつものことじゃよ。また全国行脚の旅に出て、衆生に私の姿を見てもらうことになっての」
(今回のお上人様は、まるで隣のおじいさんのように、気さくに笑い、話す「動く」お上人様になっている!!)
「それはお務めご苦労様です。でも、この積み方はないでしょう!!」
「いや、わしはこのくらいではへこたれはせん。
それに、いろんな景色が見えて いいもんじゃよ。
どうだい、一緒に行かんかね」
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.......というまもなく、
私は、気がついてみると、
お上人様と同じようなガラスケースの中に入れられ、お上人様の向かって右脇の空間に積まれてしまっていたのである!!
「あ、あのう......私も、デパートや美術館でこのまま『展示』されちゃうんでしょうか?」
「いやかね?」
「それに私、まだ成仏してませんので、ご飯も食べますよ」
「かまわんよ。弁当でも差し入れてもらいなされ」
「はあ......」
突然お上人様は、懐から小石を取り出す。
「貴殿、この小石を何と見る?」
あれから調べたけど、天台密教系のはずなのに、禅宗みたいな問答しかけてくるじいさんだな。ま、いいか。
「ただの小石とも見えます。
しかし、この石をみつめる中で悟りを開く人もあるかもしれませんし、
ある人にとっては、親の大事な形見かも知れません」
「はっはっは、そつのない模範解答してきたな、こ奴。
しかしそなたのいう通りじゃ。
空の星を見るがいい。伝え聞く所によると、異国では、星の名前も皆違えば、星座をどういう形に見て、どのように呼ぶかも皆違うそうじゃのう」
「ええ、そうらしいですね」
「しかし、星そのものは同じものじゃ、
同じ所に同じように『在る』。
この石のようにな」
「上人様、わかりました。私が子供の頃、上人様を『名誉欲の塊』と呼んでも許して下さったわけが」
「悟ったか。
そう。
ミイラとなった私の姿を見て、
きっと百人いれば百人違うことを思うかもしれん。
しかしそれは、この世の『形あるもの』の定めなのじゃ。
わしはそれでいいと思う。
わしを見て、何かを感じてくれるなら、喜んで全国行脚の旅に出ようと思う」
「『自分のことをこういうふうに理解してもらわないと嫌だ!!』
と思っているうちはまだまだなんですね」
「それもまた、
現世を生きる人間の自然な煩悩だがのう」
「ともかくわが身をさらす。
それをどう受け止めてもらえるかも、
運命(さだめ)に任せよ、
という意味にうかがいました」
「そちがそう理解するなら、それでもよかろう」
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このまま上人様と、「レインマン」や、
「パリ、テキサス」のように、「同行二人」で全国行脚のロードムービーもいいかな、
とも思ったが、やはり"Closing"しよう。
「上人様、やはり私は現実に帰り、
今学んだことを実践してみようと思います。
ただ、いつか必ず、ほんとうに出羽に出向き、
上人様にお礼を申し上げるつもりです」
「おいでなさい。
人の世の悩みは尽きないものじゃが、
当面のそちの悩みに一区切りついてでよいからの。
ご父堂、ご母堂、達者のうちに一緒においでになれることを、
わしも祈っておるぞ」
「ありがとうごさいます」
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人にどう見られるかを気にするあまり本心を偽り、迎合する私がいた。
なのに他人に人に自分は適切に理解されていないという不満を感じていた。
周囲の、根も葉もない誤解をどうしても許せずに切れてしまったこともある私。
いろんな場面で、「私の真意が伝わらない」と不満に感じていた。
自分を抑えて、「見せない」ようにしていたいたくせに。
こんな当たり前のことに、自分で「本当に」気づくのに、ここまでかかるとは。
ただ、お上人様の出してくれた結論は、単に
「自分の気持ちに正直であれ」
とか
「アサーディヴであれ」
ということを、はるかに、はるかに「超えて」いる。
他人に私を「適切に」理解してもらおうと努力するより大事なことがある。
ただ、そこに<在る>こと。
<存在>を示し続けること。
それをどう感じてもらえるかは、
相手の判断に、
運命に委ねてしまっていいとすら「覚悟」できる形で、
肝を据えて<そこにーいる>
ような生き方。
私に欠けていたのは、
そういう、
存在のさらし方
に耐えられるような生き方をする、「覚悟」だったのではないか。
だから、夢の中で、
「自分の空中浮遊を他人には悟られない=自分の本心と存在はひとに認識されないで済む」
というような、
姑息な思い込みに、浸れていたのではないか。
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これは、いわゆる「自己開示」とは別のものです。
私個人は「自己開示」という言葉の「語感」に何か違和感が自分の中にあって、私自身は一度もこの言葉を使ったことがない気すらします。
恐らく、精神分析の世界で言う、治療者の「中立性」の対義語みたいな形で言われだしたのか。
あるいはそこに更に、後期ロジャーズの「自己一致」重視の姿勢も重ねられていったのかなというくらいの認識しかありません。
岡野憲一郎先生が「新しい精神分析理論 〜米国における最近の動向と「提供モデル」〜(岩崎学術出版社)」で提唱した、中立性を重視しつつも、自分をリアルな現実的存在として、クライエントさんのモデルになるように「自己開示」していくあり方について、たまたま私の職場で前任者がそろえた本の中にあって、いくつかの章に目を通したことはあります。
しかし、私の中には、もはや、
「自分の本当の気持ち」なるものを「開示したり」「隠したり」できる
という発想そのものが、ある意味で
「治療者のナルシスチックで傲慢な思い込み」
のように感じられて仕方がない。
寝椅子の後ろに立とうと、
すべてをどれだけ受容的に傾聴しようと
いや、電話の向こうで「沈黙」している場合ですら、
人と人の”Presence”は伝わりあっているのです
それが、「本当の気持ち」や「正しい理解」などに還元できないとしても、
かといって「解釈の仕方でどのようにでもなる」というものでもない。
そこに-いる人固有の「存在の」匂い、
あるいは人と人との間に生じる「雰囲気」には、
常に個有の「テイスト」があるのです。
それを特定の「意味」や「理解」にのみ還元することは、
究極には不可能ですが、
でも、具体的に「そこにー在る」ものとして。
ミイラになったお上人様が「自己開示」しますか?
空の星が「自己開示」しますか?
石ころが「自己開示」しますか?
ある観点からすれば、これらの「存在」は、
すべて存在を他者に「すでに- 曝(さら)して」
いるわけだし、
何も意見を言わないという点では
「中立的」でもある。
そういう次元で、実は、自分自身も
「すでに-世界の-中に-存在している」ことを、
今回やっと「気づいた」のでした。
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・・・・・これは、この無意識の物語の作者自身が、後から振り返ってとりあえず意味づけ、総括した、現段階での「理解」に過ぎません。
皆さんには、皆さんなりの「星座」をそこに見つける権利があります。
しかし、私なりの、仮の「総括」として、述べさせていただきます。
(日本フォーカシング協会、メーリングリスト"focusing-net"
5491,5494,5508の書き込み[2004/10/25,28]を、若干増補の上、転載)
私のフォーカシング 〜こういちろうのひとりフォーカシング日記〜 INDEX