アニメにおける「虚構」と「現実」

 


 朝日夕刊1月9日付け文化欄 「見えない曲がり角 精神風景の変容 5 虚構が織りなす『現実』」(署名:宮代栄一氏)を読んで。

 『ヤマト』がリアルでメッセージ性が強いという意味で、それまでのアニメにはないエポックメーキングな作品であったという論調には異論はない。だが、その後に「ファンの興味は次第に『ヤマト』から離れ、より複雑な虚構の世界である『ガンダム』へと移って行った。『ヤマト』の持つメッセージ性はすでに重荷になっていた」と論調を進められると、かなりの戸惑いを覚えるアニメファンが少なくない筈である。

 なぜならば、当時のアニメファンの一般認識としては、『ガンダム(第1シリーズ)』は、『ヤマト』が実は非常に日本的なナニワブシの見え透いた虚構の「物語」に過ぎないことを暴露してしまうような「よりリアルでメッセージ性の強い」作品の登場という衝撃として受け止められていたからである。この記事の「『ガンダム』の方が『ヤマト』よりもリアルではな く、虚構性が強く、メッセージ性が低い」かのように捕らえる論調を支持するアニメファンは恐らくほとんど存在しない。それまで勧善懲悪の絵空事と思われていたいわゆる「ロボットアニメ」に、辛辣なまでのリアリティとメッセージ性を先鋭に盛り込んだ点こそが、『ガンダ ム』の革命であったというのが恐らく一般の評価であろう。

 論者は、稲増龍夫教授(法政大学)の「70年代がメッセージの時代であったとすれば、80年代は虚構性の時代」という図式に引きつけてアニメ現象を捕らえようとするあまり、『ヤマト』より『ガンダム」の方が虚構性が高いなどという「強弁」に走ってしまっているのではないか。むしろ、当時のアニメフアンは、メッセージへの関心を失い虚構へと走りはじめた時代全体の風潮の中で、むしろそうした風潮に違和を覚えつつ、敢えてよりリアルで真摯なものにこだわりたいと感じて『ガンダム』を選ぶような、カウンターカルチャー的な性格をまだ堅持していたのではないか。

 アニメファン自身がそうした「虚構の80年代」の流れにのみ込まれるのは、むしろ『ガンダム』以後、特に(後述する)『超時空要塞マクロス』という作品のブームを転換点として生じた現象のように思われる。

 非常に逆説的なことを言えば、陳腐で使い古されたありきたりな物語のパターンに寄りかからずにリアリティあふれる物語世界を構築しようとすれば、実写と違ってすべての映像や人間像を人工的に創造するしかないアニメーションの場合、より高度な次元で周到な計算と配慮のもとに「リアルな『虚構世界』(バーチャル・リアリティ)」を創造するしかなくなる。その意味では、『ガンダム』は、それまでになかった次元で創造された周到な「虚構世界」である。しかしそれはむしろリアリティに近づくことでもあるのだ。

 …ただし、この記事の論者がここまで見通した上で『ガンダム』の「虚構性」の高さをひとつの逆説として論じているとは思えない。『ガンダム』におけるリアリティ、そしてメッセージ性の強さということはそもそもこの論者の視野にはないようだ。

 ちなみに、この論者の図式だと、作品の「メッセージ性の高さ」と「虚構性の高さ」は相反する事象のように位置付けられている気がする。しかし、この2つのことは本来別々のことではない筈である。例えば、非常にファンタジックで幻想的な作品世界を創造して、一見おとぎ話のような物語を描きつつも、そこに真摯なメッセージを込めることも容易である(『ミンキーモモ』以降の「魔法少女もの」アニメは、たいていの場合、その強烈なメッセージ性という点でアニメファンを引きつけて来た。『セーラームーン』すらそうした流れの上に位置付けられることは後述したい)。逆に、メカや風俗の映像描写のリアリティにはとことんこだわりつつ も、メッセージ性より娯楽性に傾斜したアニメ作品も、特にオリジナルビデオ作品の世界にはあまた見受けられるようにも思う。

 この論者における「リアル」対「虚構」の二項対立図式 は、メカや戦闘シーンの映像描写のリアリティの程度のことなのだろうか? その物語が描かれている時点での現実の世相を反映しているか否かということなのだろうか? 現実の世相に対する批判精神があるかないかということなのだろうか? 非常に曖昧で多義的である。

 この論者自身、ヤマトで描かれる放射能汚染が当時の日本の公害問題などと重なることを指摘する一方で、『ヤマト』の乗員が全員日本人であることへの違和に言及しているが、『ガンダム』の描き出す作品世界は、民族間の混血が進み、世界政府が樹立され、宇宙への移民が進んだ後で、移民を乗せた巨大人工惑星のひとつに成立した独裁政権(ジオン帝国)と連邦軍の戦争の渦中にある世界である。当然各人の登場人物の名前も外貌も、祖先がさまざまの国のさまざまな人種だった者の寄り集まりであることを伺わせる。

 恐らく『ガンダム』放映当時の日本では、こうした光景は「絵空事」だったろう。日本人が外国人の居住に寛容でないと誰もが思っていたのに、現在の日本で、外国人を町で見かけるのがあたり前の光景となりつつある。

 「ガンダム」の世界にはすでに東西の冷戦構造の後、地球連邦政府が樹立された後の世界である。しかしそれが世界の平和と安定ではなく、更なる混乱と退廃の火種となるであろうことを「ガンダム」の作品世界はすでに予見していたとも言える。

 周到に作られた「虚構」の物語の未来世界は、その時点での一般人の常識すら越えた形で未来の「現実」を予見するのである。

 そして、主人公アムロに代表される登場人物の内面のリアリティ。技術者の恵まれた家庭に育ちつつも、親との情愛の絆が薄い、機械いじりの好きな、内向的なアムロのキャラクター は、今で言う「おたく」そのものであり、そのアムロが、自分の意志にかかわりなく戦場という「現実世界」に放り出されて体験する傷つきや周囲の人間との軋轢の描き方は、恐らく当時のアニメファンにも、自分自身の現実の境遇に重ね合わせて共感できるような性質のものだった筈だ(物語前半の、アムロが乗組員に疎外感を感じて脱走する「アムロ脱走」というエピソードだけでも御覧になるといい)。

 この物語にはすでに善玉も悪玉もいない。地球連邦の人間の側の腐敗も描かれれば、主人公たちも状況に翻弄される中で結果として戦っている側面が強い。登場するすべての人間が弱さとエゴを持っている。

 そうした中で、現状を越える人類のひとつの進化の可能性として物語の中で浮かび上がって来るのが「ニュータイプ」という「新人類」の問題である。彼らは当初高度な戦闘に特に適応する特殊な才能の持ち主として、その能力をむしろ戦争に「利用」されようとすらする。しかし、非常にデリケートな精神感応力を秘めた存在でもあり、むしろそこから新たな人と人とのつながりや平和への希求が生まれることへの期待を込めて、この『ガンダム』第1シリーズの物語は幕を閉じるのだ。

 当時のアニメファンがこの「ニュータイプ」と言う新人類像をめぐってどれだけ真摯な議論をしたかは、当時のアニメ雑誌の投稿欄を振り替えれば十分であろう。ところが、まさにこの「ニュータイプ」の人間像そのものが、まさにマルチメディア化の進展の中で個々人に容易にコンピューターの端末がアクセスされるに至った現在、従来のオタク批判を越えて肯定的に描かれ始めた新たな対人関係様式の先取りそのものなのである。

***

 さて、稲増教授の言う、「もはやメディアによる共有体験しかない」若い世代の心性が真の意味でダイレクトにアニメに反映し始めたのは、十代に『ヤマト』を見てアニメ業界に入って来た若い世代のクリエイターたちが中心になって制作された『超時空要塞マクロス』のブームを転回点としてとらえるのが正確である。

 この作品のブームを最後に、アニメブームは急激な崩壊現象を一時期生じ、幾つものアニメ雑誌が休刊になる。ある意味で東京埼玉幼女連続殺人事件直後以上にアニメ文化の危機が生じた時だった。

 この作品にはすでに『ガンダム』のような意味での深刻さはすでに存在しなくなっている。そして不謹慎なまでに、その時点での若者文化の華やかな側面を風俗描写として取り込んでいる。しかもその主要な作品舞台は、宇宙空間を漂う、マクロスという数キロの大きさを持つ超巨大ロボットの中に形成された人工都市なのだ。それがまさに当時の東京の文化と同様な軽さと華やかさに満ちた世界なのであり、辛辣な現実から切り離された人工的な箱のような空間の中に繰り広げられるバーチャル・リアリティ的な都市生活なのである。しかしそれはまさに、バブル全盛期直前の若い世代が現実に感じていた生活実感とも見事に一致するものだった筈である(つまり、そこにひとつのリアリティと時代性があったということだ)。

 しかもそこで描かれる物語は、リン・ミンメイという一人のアイドル歌手の歌う歌が、歌という「文化」を知らなかった異星人の脳を攪乱し、最終決戦は宇宙船の窓の外で激しい戦闘が繰り広げられる中でミンメイが「最終兵器」として延々と歌い続けるという、何ともはや荒唐無稽なものだった。しかしこのクライマックスの物語(第24話「愛は流れる」)は、アニメの生み出した最もドラマチックで感動的なエピソードのひとつとして、アニメフアンの間ではひとつの「伝説」として語り継がれている。

 なぜ歌が戦争を解決してしまうという荒唐無稽な物語に当時のアニメファンが酔えたのか?それはまさに、当時が、アイドルこそが、誰もがメディアを通して共有する共通体験の頂点を極めた時代そのものだったからである。時はまさに松田聖子が絶頂期へとのぼり始めた時代である。ヒロインのリン・ミンメイを創造した美樹本晴彦という若手アニメーターが実際に松田聖子のファンで、雑誌で松田聖子と対談までしているのである。

 しかし、まさにそうやって、アイドルという虚構を共有することが宇宙をひとつにして世界を救うという荒唐無稽な物語がアニメフアンを感動させ得たのは、当時がまさにアイドルの全盛期であり、今日のようなアイドルブームや歌番組の凋落の時代が数年後に来るなどと誰もが想像してもいなかった、アイドルの未来を人々が信じていた時代だからこそであろう。

 現在、『マクロス7』という、『マクロス』の続編のアニメの放映が始まっている。そこにも歌によって世界を救おうと考える主人公が登場するが、その存在は、時代の流れから浮き上がった、ドン・キホーテすれすれの異端児としてしかもはや描きようはないのである。「果たして歌で世界は救えるのか?」というシラケたムードが物語世界のむしろ基調なのである。

 主人公は、物語の中で、作品世界の中では「歴史的事実」であるところの「リン・ミンメイが地球を救う」物語を再現した「歴史映画」にまさにその歌手役で「出演」する。しかしその戦闘シーンの最中に本物の戦闘が起こり、そこに現在の彼らの歌と、かつてのミンメイが歌うシーンがクロスオーバーされる。

 そして主人公はつぶやく、

「リン・ミンメイ伝説は歴史の都合のいいところだけが人々の心の中に残った『おとぎ話』に過ぎないのではないか」

と。

***

 …いずれにしても、この『マクロス』を転換点として、アニメは、それ自体虚構性が強い当時の一般の若者文化の流れにのみ込まれ、その特異な存在意義を一度見失いかかることなる。そして「オタク」と呼ばれる、若者文化の主流に乗れなかった少数派の人達がうちわで寄り固まって楽しむ対象に変化する。

 この段階で、『ヤマト』『ガンダム』を含めたアニメブーム全体が懐疑され、『ヤマト』以前のアニメの物語へのノスタルジーや、もはやリアリティやメッセージ性とは無縁なところで、登場人物の美少年や美少女を自分の空想や同人誌の世界でもてあそぶ楽しみ方が全盛となる。

 そして、そうしたアニメブームの「内向」化・「自閉」化がある水準を超えた時に、まさにあの、東京埼玉幼女連続殺人事件が起こるのである。

 もとより当時も、その一方で宮崎氏・高畑両監督による長編作品のようなメッセージ性の強い作品も作られ続けたし、劇場版『パトレイバー』2作に代表される、押井守氏の、リアリティあふれる描写と高度なテーマ性を秘めた作品も一部のファンに評価され続けた。

 しかし、アニメブームの真の回復は、数年前に放映されたNHKTVアニメ『不思議の海のナディア』をきっかけとするとらえていいだろう。その『ナディア』の流れと、『聖戦士星矢』『ドラゴンボール』などの、安定した評価を受けていたメジャー漫画誌原作ものアニメの流れが結びついたところに現れたのが、現在の『セーラームーン』ムーブメントなのである。

 さて、この『セーラームーン』について、朝日新聞の今回の記事は、(明言しないものの)「虚構性」の高い、「メッセージ性」を伴わない作品を求める流れの究極の姿として位置付けている気すらする。

 なるほど、この作品は、『ガンダム』のような意味でのリアリティやメッセージ性(この記事の論者はこれすら無視するのだから何とも書きづらいが)は一見持たないかに見える。

 しかし、現在放映中のTVシリーズの物語ですら、蛍という少女の家庭を題材として、現代の家庭に内在する暗黒面とその克服の可能性を暗喩しようとしていることは、何の先入観もなく物語それ自体を味わって行けば容易に気づかれることである。 そして何より、一昨年(1993年)の12月に公開された「劇場版『セーラームーンR』」に至っては、最近のアニメに滅多に見られなかった程の強烈な「メッセージ性」を帯びていることは明白である。

 『セーラームーン』を軽いアニメと思っている人はこの映画(現在公開中の『S』ではなくて一年前の『R』の方)を見るといい。この映画が、子供と一緒について来ただけの積もりの親の方が思わずクライマックスで感情移入して涙をこらえ切れなかった光景があちこちで見られた位の、「普通の大人すら感動させる」恐ろしくシリアスでテンションの高い作品であることにかなりの人が驚愕する筈である。

 今のアニメファンですら、アニメ作品にメッセージ性を読み取り感動することを求める心性は決して失っていないのではないかと思う。歌の世界ですら、KANや槇原、プリ・プリに代表されるような「メッセージ・ソング」が受けて来たこの2,3年の動向があるのは確かである。漫画の世界でも、『ゴーマニズム宣言』のような強烈なメッセージ漫画がなぜヒットするのであろう。

 そうした側面について、この記事は何ら言及していないのである。

                        (95/1/13)


この文は、それこそ朝日新聞文化部の人と稲増龍夫教授(私は教授が勤務する法政大学の多摩キャンパスの学生相談室勤務のカウンセラーで、日頃学生相談の絡みでお世話になっている)と、「アニメージュ」編集部の人しか呼んでいないであろう文章である(ホームページという開かれた媒体を得た今、このような見返りのない試みはもはやしないだろうが)。

 アニメファンには「常識的な」内容が多いとは思うが、あくまでもアニメに素人の人間向けの文章であるという点を斟酌願いたい。

 それにしても、これも今読み返すと、まさにこの文を書いた年の秋に始まるエヴァ」についての予言書の一つかもしれない……な〜んてね。



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