異世界へと召命された戦士たち

……「ふしぎ遊戯」「魔法騎士レイアース」


   

左:「ふしぎ遊戯」オリジナル・サウンドトラック CD(アポロン APCM-5064)ジャケット 人物中央が夕城美朱、上が星宿、左斜め上が鬼宿。その他「朱雀七星士」の面々。      

右:「魔法騎士レイアース」音楽集1<ゆずれない願い>CD(ポリドール PCOH-1490)ジャケット 人物左より、龍咲 海、鳳凰寺 風、獅堂 光


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INDEX

序.

1.現実社会への適応シミュレーションとしてのゲーム空間 

2.異世界からの召喚:現世での母性のくびきからの分離=個体化への「内なる声」の突き上げ

3.閉じた世界の孤独な支配者であることを捨てる時

4.地上に舞い降りた天使たち


    

『私、きっと最後のページをめくるまで、あの本からもう

 逃げられないと思う。

 四神天地書を開いた時から、鬼宿に出会った瞬間から!

 お兄ちゃん、おかあさんに、ごめんねっていっておいて!

 じゃあ、行くね!』

   

……このように言い残すと、高校受験を控えたごく普通の中学3年生だった少女、夕城美朱(ゆうきみあか)は、兄の制止を振り切り、あの四神天地書(しじんてんちしょ)の本の中の異世界、古代中国の紅南国へと、今や心ひかれる鬼宿(たまほめ)のもとへと、再び姿を消すのである。

 戻ってきたばかりの東京には、もはや美朱の居場所はなかった。母親は、美朱が受験勉強のし過ぎで「変なことを考えるようになった」としか思わず、まともに相手をしてくれない。女の子がまじないや異世界に引かれる気持ちを理解する大学生の兄も、「お母さんに心配をかけないために」四神天地書のことは忘れろと諫めるの み。リュックに身の回りのものや食べ物を詰め込んだ美朱のいでたちは、もはや「家出(出家?)」以外の何者でもない。

 こうして紅南国に舞い戻った美朱には、国を守る「朱雀の巫女」としての使命が再び待ち構えている。今や紅南国は長年続いた平和な時代が終わり、隣の倶東国からの侵略に脅かされ始めていた。しかもその倶東国を守護する「青龍の巫女」として、美朱と入れ違いに四神天 地書の世界の中に吸い込まれた幼なじみ、本郷唯(ゆい)が召喚されていたのである。

 運命が二人を分かつ。唯が異世界の都に独り舞い降りて、欲望の虜になった街の男たちに襲われた時、美朱が同じような目に遭いかかった時のようには、「白馬の王子様(=鬼宿)」は現れてくれなかった。唯の心と身体(手首)には、容易に癒しがたい傷が残る。そして、「王子様」に出会えた美朱への唯の嫉妬心は、美朱の愛する鬼宿に対する横恋慕へと変わって行く…。

 もはや二人は敵どうし。いつも、何をするにも一緒だった子供時代は、もう帰って来ない。

 …これが、『ふしぎ遊戯』(原作:渡瀬悠宇 小学館 『少女コミック』連載 単行本:小学館フラワーコミックス TVシリーズアニメ:テレビ東京系列で毎週木曜日夜6時より放映)の、序盤のストーリーである(冒頭に掲げた美朱のセリフは、原作コミックス第2巻、アニメでは第8話で描かれたエピソード)。

 一見ごく普通の、何の取りえもない少年や少女が、ふとしたきっかけで異世界へとトリップする。その異世界で、彼/彼女は、その異世界を救う鍵を握る戦士や超能力者としての使命を授けられ、異世界で出会った「仲 間」たちと共に、世界を救う宝の捜しや、悪者に幽閉された姫君を救出するための冒険の旅に出る。次々と出会う怪物との戦いや試練、人々との出会いの中で、主人公の超能力や戦闘力は「成長」して行き、遂には悪玉のボスとの戦いの時を迎える…。

 これが、今日の非常の多くの漫画やアニメやTVゲームで繰り返されているストーリーのパターンであることは、多少なりとも現代の青少年の文化に興味をお持ちの読者には周知の事実であろう。

 オウム真理教事件の実体が少しずつ明らかになるにつれ、数多くの人が、この事件がこうした虚構の「物語」を「現実化」しているかのような性格を帯びていることについて言及し始めた。私は、そうした論調が、東京埼玉幼女連続誘拐殺人事件の場合と同じような形で、過度に単純化された「おたく批判」に結びつく可能性に一抹の危惧を感じている。しかし、この事件全体を振り返る中で、現代日本の青少年の成育環境や親子関係、ひいては大人世代の生き方に内包された根深い闇の部分を直視しようとする試みは積み重ねられるべきだろう。

 すでに民俗学者であると同時に漫画編集者や原作者としても活躍する大塚英志氏、現代思想や若者文化に関心の深い精神科医の香山リカ氏、社会批評漫画『ゴーマニズム宣言』(週刊SPA!連載 扶桑社刊)の小林よしのり氏をはじめとする幾人もの人物が、この、オウム教団事件とおたく文化の共通項という問題に考察を試みている。

 そうした中で、私が敢えて屋根屋を重ねる論考を試みるのは、私が、大学の学生相談室で数多くの若者に接して来たカウンセラー(臨床心理士)であると同時に、現在でもアニメ雑誌の読者投稿を続けているくらいの、 「現役バリバリ」のアニメファンであり続けているからである。現在のアニメを肌で感じ、楽しんでいるというまさにその一点においては、大塚氏も香山氏も恐らく私にはかなわないだろうという自負はある<笑>。そして、現在放映中の人気アニメ作品の内容と、オウム事件がクロスオーバーする地点についての考察という、商業アニメ誌の編集者だと今はとても怖くてできない「危険な 話」<笑>をできるのも、私のような立場の人間しかいないように思われるのである。

 ただし、…念の為に前もって言い添えるならば、私がどれだけアニメを愛しているか、そして、アニメを心底愛し、心の糧とし続けている人たちを愛し続けているかということは、この論考を最後まで読んでいただけると理解していただけるものと確信する。アニメをろくすっぽ愛してもいない人間が中途半端な情報収集で似たような論調の「おたく批判」を今後万一書いたりしたら、私からの「正義の鉄槌<笑>」が下るであろうことを覚悟されたい。

  

  

 1.現実社会への適応シミュレーションとしてのゲーム空間

  

情報戦争くぐり抜け ママが選んだベースキャンプ

司令塔のご機嫌は 損なわず 無視せず 軽くかわす

予習するなら TVゲームでシミュレイション

寝不足の目をこすり 未来を手の中に

Carry on 夏の日も冬の日も 見えない戦いは続く

Carry on 偏差値が価値観 等身大の僕を抱きしめて

目の前にニンジンぶら下げて走り続ける

あなたが願う その夢はきっとかなう

Carry on 雨の日も風の日も ひたすらコマンドー達は行く

Carry on 群がる強敵をはねのけ 手にいれた hard work

(田村直美[詞・歌]”Carry on” in アルバム”N’”)

       

 青少年のゲームやアニメへの耽溺を、「現実から虚構の世界への逃避」として批判する論調はちまたにあふれている。しかし、中には、むしろ逆に、ゲームの作品世界の原理そのものが、青少年の現実世界での受験をはじめとする競争原理とあまりにも相似形になっていることに注目してきた人たちも少なくない。

 『ゴーマニズム宣言』の第1巻に、基本的にはゲームやアニメがあまり好きではない小林よしのり氏が、はじめて『ドラゴンクエスト』に挑戦した時の困惑が語られているエピソードがある。小林氏は、まずは画面に現れる「王様」が自分に命令を押しつけてくる調子が気に食わない。そして、シコシコとお金を稼いで、武器を買い替え、戦いの中で徐々にレベルアップして行ってはじめて次のステージに進めるゲームのチマチマした段取りに遂には我慢できなくなって途中で投げ出す。そして叫ぶ!

「わしならまずは王様をぶっ殺して城を乗っ取って姫をモノにする道を選びたい。でもどこでどうボタンを押してもそういうふうにはできないじゃないか!」

 確かに、ロールプレイングゲーム(RPG)というのは、非常に地道な人生の歩み方を押しつけられるような気分にさせられる側面がある気もする。自分の能力は体力から性格に至るまで全て数値の変動に置き換えられるし、ロールプレイング・アクションゲームででもない限り、実は戦闘の結果はその時点での経験値や体力や武器の強さから確率論的に勝敗が決することが多く、ボタンを操る反射神経すら問題にならない。「導師」や「王様」の命令や判定は神のことき絶対性を持ち、プレーヤーの方が連中の価値観にどれだけ順応するかが肝心ということが多い。

 まるで受験予備校で指導を受ける受験生のような側面がある。受け取りようによっては、受験勉強で疲れた気分転換に、どうしてこんな「地道な努力」を重ねるゲームまでしなくちゃならないのだろうと感じる人がいてもおかしくあるまい。

 もとより、受験勉強そのものよりはシンプルに「努力は報われる」構造になっていて、現実の勉強の世界では思うように成績が伸びないフラストレーションを晴らせるという面があるかもしれない。そして、実生活ではなかなか味わえない、「仲間と協力してひとつのことを成し遂げる」とか、「窮地に陥ると、うまく捜し当てさえすれば、どこかで誰かが確実に役に立つヒントや解決法や魔法のアイテムを与えてくれる」とか、「工夫と努力次第で、当初の主人公の姿からは想像もつかない能力と地位と名誉と異性関係に到達できる」という達成感を与えてくれるのも確かかもしれないが。

 (念の為に言い訳すると、私自身は何よりも『卒業』『誕生』『プリンセスメーカー』等の「育成シュミレーション」は大好きで、どのようなエンディングでも自在という境地にまで自分を追い込んでしまおうとするし、『ストリートファイター2』『ぷよぷよ』などの反射神経の修練を要するゲームも下手なりに嫌いではないが、これらに比べるとRPGの経験そのものに乏しい。経験豊富な読者からの、「いや、そういう楽しみにとどまるものではない」「最近のソフトはそんなに単純じゃないですよ」というご叱正があれば甘んじて受けるつもりである)。

 オウム事件においても、オウム教の修業のシステム が、実に明快に構造化されたイニシエーションのステップの「一覧表」になっており、しかもどれだけ多くのお金(ゴールド)を「御布施する」よって修業の等級が規定される、そのあまりのシンブルさに、「どうしてこんなに単純なシステムに信者はあそこまで必死になるのか理解しかねる」という声も多かったが、あまりにもいたれりつくせりの受験産業のみならず、ゲームの世界を通しても、今の若者は、単純明快な「修業すれば夢がかない、当初のみすぼらしい自分の姿からは想像もつかない別人へと『成長』でき、その世界の支配者に祝福されて特別の地位を与えられる」という世界観のシステムになじんでいるわけである。「絶対的な価値観・世界観をもつた支配者への、閉じた『異世界』での服従」も、ゲームコンピューターのプログラムという「神」の声に順応する快感になじんだものにとっては何ら不自然ではない。

 大学の学生相談をしていると、入学して数日から1,2か月のうちに、対人関係を形成できない疎外感や、講義への関心の喪失の中で学校から足が遠のくばかりか、かといって遊びや趣味やバイトに精を出すわけでもなく、何をするのもおっくうになる学生たちがいる。エーリヒ・フロムの『自由からの逃走』ではないが、彼らは、何をすればいいか指示してくれる人のいない、「枠組みのない自由」というものにそもそも耐えられないようなのだ。何か意味があることをせねばならない。しかし何をどうしたらいいのかわからない。

 そうした多くの学生の場合、学業への適応と同様あるいはそれ以上に、「サークルに入って友達を作っていつも人の輪の中にいて楽しくやれるようになること」そのものが、一人前の学生の義務というべき達成課題と感じられているのである。

 彼らの内面は、決して単に 「無気力」なのではなく、むしろ落ち着きなく騒ぎ、焦り続けている。そのうちに自分だけが何も「学生らしい」意味のあることをできないまま落ちこぼれ、対人関係から孤立してしまうのではないか? 他人より大学への適応に「乗り遅れた」、何かせねばならないことをしていないという意識が強いので、思う存分自分勝手に気ばらししたいという衝動に従うことすらできない。

 敢えて言うが、講義に出ずに昼夜逆転の生活をしていたとしても、親からの仕送りを使い込んででもTVゲームやアニメビデオ(パチンコや競馬やツーリングでもいい)に熱中できる学生や、学業に全然関係ないとしても、好きなジャンルの本ならのめり込んで読めるという人は、まだかなり心の中に救いと余裕を持てている部類に入る。

 いずれにしても、ほどほどに成績が取れる受け身な生徒の場合、高校までの日常生活は、学校に通っていさえすればある程度の知り合いもでき、何をやればいいのかも迷わずに済む、まさにTVゲームの世界のようなシンプルな世界になっている。大学に入るということは、彼ら/彼女らの少なくとも一部にとっては、それまでの自分の適応様式が突然全く通じなくなる、とてつもない孤立感と無力感の中に置き去りにされるかのような経験となるのだ。

 高校までおとなしく順応したのは何のためだったのか。こんなみじめで無力な自分自身に直面する 「現実」が待ち構えていようとは、彼らは予想もしていなかったのである。こんなつらい思いをするために、自分は生まれてきたのだろうか? こんな思いが延々と続くことに耐えねばならないとしたら、この後の人生を生きて行く意味は何かあるのだろうか。

 そういう彼らに、高校までの生活空間に近い閉じた受け身の順応が可能な空間への誘いがかかったら? しかもそこが、平均的一般人以上の幸福と救済を、来世にまでわたって保証しようというのなら? 彼らには、大学時代のモラトリアムを自由に生きようという活力すら育っていなかった。そうした活力の芽生えを封印し続けてきたのは、いったい何だったのだろうか?

 ただ、私は敢えてここで言いたいのである。彼らは決して、受け身に順応していればいい高校時代までの「受験サティアン」的世界(小林よしのり『ゴーマニズム宣言』151話)への単なる「退行」を求めるあまり入信したのではあるまい。それはやはり、長年彼ら/彼女らの自立を妨げて来た「何か」から、これを機に解放されようという決死の跳躍、「出立」の試みでもあったのではないかと。

   

2.異世界からの召喚:現世での母性のくびきからの

    分離=個体化への「内なる声」の突き上げ

   

 前節の最後に言及した問題提起との関連で、『ふしぎ遊戯』の話題に戻ろう。 この論考の最初に引用した、主人公の美朱が家族に別れを告げて、再び四神天地書の「本の中の『異世界』」に向かう時のセリフをもう一度読んでみて頂きたい。

 恐らく、「おたく」を自覚している人の中には、このセリフにわけのわからないぐらいの興奮と共感を覚えるタイプの人と、寧ろこのセリフからとっさに距離を取るタイプの人がいるはずなのだ。

 美朱は今まさに、受験生としての現実を投げ捨ててまで、四神天地書の中の異世界へと再び戻ろうとしているのだ(原作には、その後も単語帳をめくり続ける美朱の姿が描かれたシーンがあるが)。

 そして、鬼宿への思いに素直に生きる道を選びつつある。ただし、美朱本人も次のことを自覚しているのだ。

へへっ ホントに鬼宿のお嫁さんになったみたい

……… そ…か 何言ってんのあたし…

お嫁さんどころか…

「彼女」にもなれるわけないじゃない

彼は本の中だけの人なのに

      (原作単行本第3巻・アニメ第9話)

 一般に「おたく」と呼ばれる人たちが小さい頃から漫画やアニメが一般の人より好きだったかというと、必ずしもそうではないようだ。むしろ、思春期以前には、そんなにTVや漫画も読まない、生真面目な「いい子」だった場合すら少なくない。それが突然、思春期に入る頃(早くて小学校上学年、遅くて高校生になって)、何かかふとしたきっかけで、忽然と、プラウン管や紙の上の異性像に魅せられ始める。

 このような、「おたく」としての「目覚め」の体験が鮮烈な人とそうでない人はあるかもしれない。だが、いずれにしても、これらの美朱の台詞は、少なからぬ「おたく」に、彼ら/彼女らが「目覚めた」時のあの熱病のような興奮を思い出させてしまうことは確かだろう。年季の入った「おたく」の中には、そのようなアニメの見方に「疲れて」しまっている場合も少なくないようだ が<笑>、彼ら/彼女らですら、遠い青春の日々(?)には、まさに美朱と同じ興奮の日々という「恥ずかしい」記憶があることが少なくないはずだ。

 さて、アニメでしか知らないたいていの人は見逃しているであろうが、『ふしぎ遊戯』の序盤の中で、美朱 は、「自分はお母さんのために受験勉強してきただけ」というセリフをさりげなくつぶやく(アニメ第5話)。すでに述べたように、美朱の兄も、「お母さんを心配させないために」四神天地書のことは忘れろと諭すのである(同第8話)。

 そして、アニメの第5話では、鬼宿と共に美朱のアニムス、すなわち美朱に内在する「内なる異性」の化身のひとり(ユングは、女性にとってのアニムスは複数の人格像として現れると述べている)と言えそうな、紅南国皇帝・星宿(ほとほり)は、美朱との会話の中で、美朱の「母さんのために受験勉強してきただけ」という身の上話に共感するかのようにして、母親によって幼くして皇帝に据えられ、母親の操り人形のように扱われた少年時代のこと、そして、数年前に母親が死に、忠実で有能な廷臣達に囲まれての、何不自由ないけれども孤独が支配するかごの鳥のような日々を暮らしてきた思いを美朱に打ちあける。

 これは、実は美朱自身こそが、「母親の操り人形」として育てられ、恐らく異世界の星宿の母の死と同じと同じ数年前に母親と心が通じなくなり、その後は、衣食住不自由ないものの「かごの鳥」として育ち、閉じ込められたかのような孤独感を無意識の中では感じてきていたことの隠喩として自然に理解できるので、前述の、皇帝星宿が美朱の分身(アニムス)として意識的に表現されている可能性は、更に高まるだろう【注】

 更に、美朱のもうひとりのアニムスたる鬼宿も、アニメの第十話(単行本第3巻)で美朱の後を追おうと家族と別れる時に、次のようにつぶやく。

…オレな…今まで家族のためだけに生きてきたんだ。

みんなが幸せになるまで自分の望みなんて捨てる気だった。

…だから女なんて目に入れる気もなかったよ。

でも美朱は突然現れて、どんどんオレの中に入ってきて…

オレは…あいつが好きだ。

だから、命をかけても護ってやる!

 …これまた、実は鬼宿を分身とする美朱の、鬼宿への心情として読み替えて、何の無理もない。「家族への愛情を捨てでも、好きな相手のもとに向かう」…これはまさに、直前の美朱の東京への一時帰還のエピソードの最後で美朱がした決断と同じことなのである。

 結局、この『ふしぎ遊戯』という作品の序盤では、 「家族に愛されたいという思いの呪縛を振り切ってでも、『愛おしい人のために(アニメのテーマソングのタイトル)』旅立つ」というメッセージが、美朱自身および美朱のアニムスたる鬼宿・星宿の口を通して繰り返し語られ続けるのである。

 結局、この『ふしぎ遊戯』という作品では、「(本の中の)異世界への旅立ち」「異世界の人物への恋」と 「家族からの自立」が、同じベクトル(方向性)を向いている。

【注】初期の原作を読む限り、美朱の実際の母親は、美朱自身が思っているよりも「いい人」のようである。世間体にとらわれて美朱に進学校の受験を勧める一方で、内心はその進学校に無理して行かなくてもいいと感じる時もあるようだ(原作第1巻)。父親と離婚したとはいえ、美朱は実は星宿よりは両親の愛情に恵まれていたようだ。実際、美朱ののびのびとした感性と行動力はむしろ幼児期の幸せを推測させるものである。

 実は前述の星宿との会話の最後で、美朱は「かごの鳥」を嘆く星宿を「だったらこれから飛び回ればいいのよ」と慰めている。美朱がこのようなことを言えるということは大事なことだと思う。

 恐らく、物語が進む中で、美朱は、単にall goodでもなくall badでもない、現世を生きる生身の母親としての弱さと限界とやさしさを合わせ持ったリアルな等身大の母親と出会い直すのではなかろうか。だが、その時はまさに、四神天地書の物語が閉じられる時なのではないかと思う。

 さて、既に述べたように、一半に、アニメやマンガ、ゲームに代表される虚構の世界の登場人物への耽溺は、「現実逃避」だとか、「子供の世界への退行」だとか、「母性的な子宮空間への引きこもり」などと批判されることが少なくない。しかし、このような捉え方は、実は問題の反面しか見ていないように思われれる。

 虚構世界の人物への耽溺、それは、子宮内への退行であると同時に、現実にそれまでその人をがんじがらめにしていた、子宮的・母性的な心的空間の殻を打ち破っ て、今まさにその人の「個体化された自己」の芽生えが『誕生』しようとしているまさにその時なのである。虚構世界への登場人物へのあふれる思いは、今まさに身体と心がはじめてひとつにつながって沸き上がって来た、生まれてはじめての真に自発的なあふれる肯定的な生の息吹きなのである。自分の中の「それ(es)」が「私(Ich=自我)」に向ってリビドーのエナジーを浴びせかける。

 この息吹を自分の中に感じ始めた時、人ははじめて母性的な庇護空間の中で、親に嫌われない「いい子」に甘んじていることを窮屈に感じ始める。

 それまで夜更かしもせず、そこそこに成績も良かった子供が徹夜で漫画に読みふける。いつも親にものを買ってもらってっいた子供が勇気を振るって本屋で周りの目を気にしながら漫画の本をレジに差し出す。それまで自分から親にこづかいをねだらなかった子供が、親に嘘をついて別な理由を立てでも臨時のこづかいをせびって隠れて少し高い原画集を買い込む。それまで一人旅などしたことがなかった子供が、声優のコンサート見たさに独りでそれまで行ったこともない街のホールを目指す冒険の旅に出る。そしてホールで偶然出会った同好の士と意気投合し、それまで年賀状以外書いたことがなかった子供が文通をはじめ、遂には同人誌の編集にチャレンジする。中には、それまでおとなしく受験勉強していると思っていた子供が、突然声優になりたいとかアニメーターになりたいと言い出して、上京して専門学校に通いたいと何度も何度も訴えてくるのに困惑する親の姿も見られるかもしれない。

 もとより、彼ら/彼女らの、こうした、熱に浮かされたようなエネルギーは、かなりの場合、真の意味での自立に到達することはない。すでに述べたように、たいていの場合、あるひとつの母性空間からの離脱は、何か別の代理的母性空間の引力圏に引き込まれることでもある。

 母親から自立したつもりの男性が恋人と深い関係になるにつれて、その恋人への母親的依存に陥りやすいというのもひとつの例であるし、母親に対して「いい子」でしかいられなかった少年が、オタク趣味によって多少我がままになり、何らかの秘密を持つようになる形で相対的に自立し始めることに成功しても、今度はオタク的電脳密室空間や虚構のキャラクターの女性像や、オタク同士の人間関係のネットワークそのものが、人工的母性的庇護空間としての機能を果たし始める。

 親から出立してたどりついた虚構世界を媒介としたコミューンそのものが、いつの間にか、疑似子宮的な閉じた空間となり、更に個体化に向けて歩み出そうとする一部の仲間たちの足を引っ張り、その人たちの一番生き生きした生気あふれる部分を且ぎ落とすことにすら貢献し始める。

 しかし、ユングは『変容の象徴(邦訳:筑摩書房。文庫版あり)の中で述べている。人は現実の中で意義ある活動を持続しようとするかぎりは、生涯、母親という名の怪物の子宮空間の中へと自ら進んで呑み込まれる危険を冒し、そして再びその「怪物」の腹を突き破って 「生まれ直し」、「怪物」の腹の中にあった「得難き 宝」を地上へともたらすというジグザグ運動を繰り返すしかないのではないかと。

 ただし、本当に母性の腹の中に飛び込むこともできず、それを突き破って飛び立つこともできず、その中間を行ったり来たりしている存在、それが、現実に対して何ら影響力を行使できないままの「永遠の少年/少女」の姿である。

 オウム真理教そのものが、そうやってそれまでの自立を阻む母性から信者たちが取りあえずの跳躍を遂げ、引力圏から離脱するためのコミューンとしての性格を持っていたこととは確かだと思う。その意味では、様々な破壊的カルト集団から、信者を家族から引き離す「口実」として利用されてきた、聖書の「私に従うものは家を離れ、故郷を離れることになる」という意味の言葉や「預言者は故郷では迎えられない」という言葉には、本来重要な真実が含まれているのではないかと思う。

 ただし、真の意味での「母性からの自立」は、単に現実の母親から物理的に距離を取るということによっては達成されない。同様にして、およそ母性というもの全体を、十把一からげに子供の自立を妨げる因子としてとらえる論調(小林よしのり氏にもこの種の単純化された父性vs.母性の二項対立図式に呪縛されている側面があ る)は、問題を過剰に単純化している。

 マスターソンによれば、母性には全く対照的な二つの母性があるのである。ひとつは、子供が内発的な子供らしい奔放さを発揮した時、殆ど常に否定的な評価を与 え、愛情を撤去し、母親が期待する「いい子」としてふるまった場合にのみ愛情の備給が与えられる場合である。もうひとつは、ごく幼少期には子供が生きて存在していることそのものに祝福を与え、続いて子供が自発的な衝動に基づいてふるまうようになったら、共感的応答をしながらも、子どもの更なる成長と共に、子供の自発性を「見守る」アングルを大事にし、子どもが本当に危険な時や事態が子どもの手にあまる時、やってはけないことをした時だけ介入するというタイプである。

 後者のような母性的役割をウイニコットはgood enough motheringと呼び、むしろ子どもの自立をしっかりとサポートし、子どもが自発的にふるまうことにむしろ自信を与え、この世を自分の生きるフィールドとし て、こころのままにふるまっていいという、自己と世界への基本的信頼感の優位を子どものこころの中に確立するような態度である。

 一度本来の母性的庇護空間から「離陸」した後で、このようなgood enough mother的な母親的態度をとれる母親代理的存在(これは男性でも構わない)と取りあえずの密接な関係を結ぶ場合には、母性に再びとり込まれることのマイナス面を最小限におさえることができ、本人はこうした新たな母性代理から容易に「再離陸」できるのである。

 もっとも、最終的には、子供本人自身の中に、「自分自身や他者の自立を促進し、支えて行くような、ウイニコットのいわゆるgood enough mother的な『内なる母性』が育まれるかどうかが鍵となる。男性女性に関係なく、こうした、「自立を妨げない母親的態度」を自分の自我に内面化できた人物のみが、真の意味で成熟した、現実に対して生産的な影響力を揮える人物だろう。

 私は、いわゆる「ほんとうの自分」の確立とは、単に「生き甲斐を見出す」などと言うことではなく、このような、自分自身に対する母性的careによって「内なる子供」の自発性と創意を大人としての現実の活動の中に生かし続けることができるだけの自我を確立することであると考えている。

 もとより、オウム真理教は、このような、個々人の中の個体化に向けての欲求の芽生えを、育み育てるどころかむしろ抹殺した場合にのみ(すなわち、「すべての煩悩を滅却した場合にのみ)救われるという教義を持っていたようである。これに対して小林よしのり氏は、「全ての煩悩のバランスが取れた一致点で、はじめて悟りが生じるのだ」と答えている(『ゴーマニズム宣言』151話)。これはユングの言う、「個性化の過程とは、自己の 全体性のバランスを回復しようとして行く過程である」という指摘と一致する発言だと思う。

 オウムの母性は、全てを呑み込み、破壊し、死の本能の支配するタナトスのカオスへと解体しようとする、グレートマザーの暗黒面のみを肥大させた存在へとどんどん歪んでいったようだ。このような母性への現世からの跳躍は、再び早めにその腹を食いやぶって再跳躍できない限り、決してその個人の母性のしがらみからの自立には結びつかないだろう。

 一度たどり着いた「約束の地」が実は悪魔の巣窟と化していた現実を信者達が受容するのは大変な困難をともなうだろう。統一教会を脱会して今や破壊的カルト集団からの救出カウンセラーとして活躍するスティーヴン・ハッサン(『マインドコントロールの恐怖』浅見定雄訳 恒友出版)は、今日のマインドコントロール技術の洗練は、もはや被害者の性格や成育歴がどのようなものであるかに殆ど無関係で、誰もが被害者となる可能性があることを強調し、ことさら本人や家族の問題点をあげつらうことには慎重な態度を採っている。そして、カルトによって別な人格を吹き込まれる前の「本当の自分」を少しずつ呼び戻し、成長させることが、単なる強制的脱洗脳とは異なる救出カウンセリングの鍵であると述べている。

 しかし、入信する前の人物が、まさにその、「ありのままの本当の自分」を充分に受容されることなく、それとは別の誇大なまでに理想的な人物像との比較の形でいつも責められて貶 められていたり、あるいはそうした 理想的な人物像との同一化を強いられて、見かけの上での高度な社会適応を強いられて成長してきていた可能性はやはり否定できないと思う(マスターソンは自己愛パーソナリテイについてこのような図式で説明してい る)。

 つまり、脱会後、「ほんとうの自分(真の自己)」の芽生えをまさにこれからはじめて育て始めねばならないというのに近い人物も少なくないように思われるのである。ハッサンの例示したケースの多くが、自我の成熟度がもともと高かった人物が入信した場合に偏ってはいまいかという思いは拭いきれない。この点では、ハッサン自身、被害者の中に、立ち返るべき「ほんとうの自分」がどうしても見いだせない人が含まれてい手、現実に体験したことがない理想状態のイメージの力などを借りる必要がある場合を認めている。

   

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