自分探しの旅     …「ふしぎの海のナディア」



 先日、「あとは『ナディア』世代におまかせします」と書いたばかりですが、3月1日放送の第35話『ブルー・ウォーターの秘密』で、まさかあれほどインパクトある内容に遭遇するとは思いませんでした。
 30歳にもなって、まさか再び「テレビアニメ」から、こんなにも「心動かされる」ことがあるとは、思ってもいなかった。ホントに見終わって延々と引く「余韻」に放心状態。結局、この回や、他の幾つかのこれまでの 『ナディア』の回をビデオで見直しながら、明け方近くまでいろいろ考えて過ごしてしまいました。
 そして、それからひと眠りした後で、「やっぱり書こう」と思って、今、ワープロに向っています。



  まずは、その「インパクト」そのものについて、受けた「感じ」そのものの次元で語ることにします。
 
 この回が、これまでの『ナディア』をワン・ランク超越した、何か 「ただならぬ」トーンに彩られていることは、誰もが「身体で」感じたんじゃないでしょうか。それは単にシリーズ全体のクライマックスを迎えた、などというものではなくて、何か、力の入れようが急に別次元になったといいたくなるくらいの「飛躍」のように思います。
 作画の描線ひとつひとつに、これまでにない異様なまでの真摯な思い入れが宿り、ナディアやグランディスの表情のひとつひとつが、何か言葉にならない、忘れがたい印象を残して行きます。
 そして、声優さんたちの声からも、何か「唯ならぬ脚本を渡されて、自分の声優としての才能や器量のすべてを持って『対決』するしかない」という気迫のようなものすら伝わって来る気がするのです。
 こうした、作画と声の異様なボルテージというのは、ほんのひとにぎりの、本当に素晴らしい劇場用アニメでもなかなか味わえないようなものという気がします。『トップをねらえ』3・4話、5・6話に出会った時のインパクトすら完全に過去のもの。
 
  庵野さんをはじめとするスタッフの方々は、とんでもない「高み」をマジに狙いつつあるのではないか? ある意味で は、『ガンダム』旧シリーズにも、『マクロス』にもできなかった「高み」を、今更本気で、しかもテレビシリーズでやろうというのか?
  ……繰り返します。もう、こういう体験、TVアニメを見ている中で、何かその後の自分の感性に、はっきりとした、ずっと残るような刻印を押され、『世界が変わって見える』ような、もう引き返せない体験をさせてもらえることがこれからもあるとは、この35話を見るまで、正直言って思っていませんでした。
 それだけ、アニメの未来について、これまで実は諦めていた自分がいたことに、気付かされました。もう来ないと思っていた、新しい「革命」のはじまりにまた立ち会えたのかもしれないことに、胸いっぱいの思いです。


 何か感嘆符だけをいきなり列挙したような文になっています。もう情動的な興奮はおさまっているのに、もう少し具体的に書かないとな。

  何より、ナディアがあそこまで自分の内面に向き合い、赤裸々な言葉を連発したということ。僕が、自分から「内面と向き合う」という言葉を使うと、職業柄、どうしても擦り切れた、陳腐で新鮮味のない化石の言葉になってしまう。そして、頭で「知って」いるいろんな言葉を小手先で使いたくなってしまう。
 でも、きっと僕が専門家であるかどうかなんてどうでもいいことなのです。みんな、きっと、あのナディアの、あまりに真摯な叫びに、理屈抜きで「打たれ」たろうから。
 僕が全然別の世界の職業に就いていたとしても、きっと同じように「ナディア、君はそこまで言うのか」と、震える思いで、ナディアの絶叫に立ち会ったろうから。
 
  「ナディア、流されちゃいけないよ、自分を信じるんだよ!」
……と、優しくも厳しいまなざして言葉をかけるグランディス(グランディスさんが、ここしばらくのうちに、ここまで魅力的で、奥の深いキャラクターとして描かれるようになって来たことそのものがショックだけど)に、ナディアは、これまで自分の中で淀んでいた殿りをすべて吐き出すかのようにして、堰を切るように、己れの裸の思いをさらし始めます。
 それは、これまでのナディアの言動を35回かけて見てきた私たちにとって、「ああ、君はそんなことまで心の底ではずっと感じ続けていたんだね」と言いたくなるような何か。


  「何を、私の中の何を信じればいいの? ワガママで意地悪で、
   いつもジャンを困らせる私。いつも何かに怯えいて、団長さん
   の機嫌ばっかり取っていた私。お父さんだとわかっていながら、
   さよならも言ってあげられなかった私。
    嫌い 嫌い! 全部大嫌い! 
   私の中に本当のことは何一つないの!
   あるとすれば、アトランティスの力を受け継いだ、恐ろしい女の
   子だっていうことだけ!」


  「君は自分のことを嫌い嫌いって言うけど、僕は、君のことを好きだもん。君は普通だよ。そう思う」
とジャンに慰められて、一度は落ち着いたナディア、バベルの塔の頂上に立ち、自分が宇宙人であることをみんなに明かし、そして、それまでつないでいたジャンの手を振り切って、さっきのジャンの慰めの言葉に更に挑みかかるように、思いを溢れ出させはじめるのです。
 

   「ジャン、私をよおく見て! 私は、普通なんかじゃないわ。
   ジャンを不幸にして、みんなを不幸にして、いつか世界中に不幸
   を振り巻くのよ!
   お父さんやガーゴイルみたいに、ブルーウォーターを使って!」


  ……そして、あの衝撃の「自殺」シーンとなるのですが。
 
  このセリフを聞いた時、これまでのナディアの屈折を極めた言動が好きになれなかった少なからぬ人の気持ちは氷解して、ナディアを『許せた』、そして、好きになれたんじゃないかと思います。
  結局自殺未遂することは避けられませんでしたけど、ナディアが、自分から、「ほんとうの自分の姿」に向き合うための旅を続けたということは、何か、とてつもない潔さです。
  そう言えば、塔にたどりつくしばらく前に、唯ならぬナディアの言葉のなりゆきに、サンソンはついアクセルを踏むのをやめてしまいますが、前に進むように改めて促したのはナディア自身でした。

 自分の中の「悪」と「孤独」と、ここまで向き合おうとする女性が、アニメの世界にいたでしょうか? その悽惨なまでの、自ら進んで傷つくのを厭わない姿、それはそう、我が愛する劇場版『きまオレ』のひかるにしかなかった、ある戦慄を帯びています。
 そしてここでは、ひかるが直接言葉として語らなかったところまで、ナディア自身の口から語られて行くのです。
 
 でも、ナディアになぜそれができたのかというと、やっぱり、ナディアが何を言おうと、何をしようと、ねっこの所では、ナディアを信じ、ナディアに好意を向け、ナディアと「共に歩んで」行った、ジャンやグランディスたちがいてくれたからこそなのだということも、痛いほど、画面から伝わって来ます。
 ひとは、ひとりだけでは、自分の孤独の更に奥にある真実とは向き合えない。ただの寂しさや、疎外感なんて、もっと奥にある「自分自身」と向き合わずに済ませるための甘美な酒のような自己陶酔、自分を守る繭の一部に過ぎないのです。
 ジャンと出会わなければ、ナディアは自殺しようとする所まで自分を追い込むこともなかったでしょうけど、サーカスで、華やかなスポットライトを浴びつつも、漠とした自分の中の空洞を持て余し続けたかもしれない。


  そういうナディアの壮絶な内面の戦いは、気がついて見ると、ブルーウォーターの光以外は、すべて白黒で描かれていました。
 ……どうも、アニメファンを長くやっていると、こういう時、「この手法は『トップ』第6話でもすでに使われているもので、庵野監督はその時、『色がない方がスケール感の演出ができる』と言っていた」みたいなことが頭をよぎってしまいます。しかし、そういうことは作品の価値とは殆ど何も関係ないことでしょう。
  むしろ、何より印象的なのは、ナディアの「自殺」の瞬間の画面の沈黙の直後に、空の青い色が目に突き刺さり、せせらぎの音が耳に入って来た瞬間の、何とも言えない安らぎの感じ。
 命の息吹き、感情の潤いが一気に取り戻される、その瞬間。
 ナディアが飛び下りてブルーウォーターの力で助けられる瞬間を敢えて画面で見せないばかりか、サンソンに「さっきのジャンの取り乱しようを見せてやりたかったぜ」と語らせるだけで、それを画面で敢えて見せないことによってむしろリアルな想像力を見ている人に掻き立てる演出の切れは唯ならぬものですが、
 
 ……結局、そうやって、ナディアが本当の自分の中心の中心で見出したものは、決して破壊や悪の化身としての、恐ろしい自分の姿ではありませんでした。それは、自分も「愛されて」「祝福されて」この世に生れ出たのだという、確かな証明としてのメモリアルでした。  
 グランディスの指輪についてのナディアとのやりとりは、それこそアニメでは滅多に見られないような、ひどく「文学的」な表現と感じてびっくりしましたが、何か不思議な、言葉にならない印象を残します。
  「親が私に残してくれた『もの』そのものは、つまらないもの、無意味なもの(ひょっとすると害を与えすらするもの)かもしれない、でも、そこにこめられた、自分に向けられていた『思い』そのものは、今は信じていたい」
 ……ナディアは、およそのところそういう意味を、あのグランディスへの問い掛けに込めたのだと思います。
 そう言えば、主題歌に「愛はjewel(宝石)より、すべてを輝かす」ってあったんだよなあ……ああ、こうやって絵解きしてしまうと、あのセリフの薫り高い余韻がなくなっちまう。


 冒頭のナレーションで、「ナディアの長い『自分を見つける』旅は、今終わろうとしています」と言われていたのは、単に生れ故郷を探す長い旅が終わるということではなく、これまで述べて来たように、まさにナディアの内面への旅、それまで怖くて本当には直面できなかった自分自身の本当の姿を追い求めての旅でもあるわけです。
 ブルーノアの暗い空間そのものが、実はナディアの内面世界の写像でもあるということになります。繰り返しますが、その「ほんとうの自分」のホントの中心にあったのは、決して死や破壊や孤独や虚無ではありませんでした。むしろ、自分がこの世に望まれて生をうけたということの証明だったのです。
 
 ……このように、専門家の僕が言葉にしてしまう と、実は一番つまらなくなってしまうのはわかっています。僕の仕事の怖い所は、生々しい生きた感情を、ただのコトバ、ただの説明概念に還元してしまうだけになる危険があるということ。
 でも、以前から繰り返し言うように、ただ、もっともらしい「解釈」を作り上げるだけでは、実は何の解決ももたらしません。解釈そのものは人間の生きた感情の「抜け殻」に過ぎず、大事なのは、喜びや哀しみを分かちあう内面への旅の具体的な過程そのものなのですから。
 



  それを覚悟で、少しだけ「抜け殻」の次元に過ぎない言葉を使って話をします。

 僕が以前のアニメの評論の中で、多くの作品の中で繰り返し紡がれているテーマとして抽出したもののひとつが、まさにこの、「自分が生きていることは無意味で、何者からも望まれないもので、むしろ他者(他の人間や動物、環境そのもの)に害を与えるものでしかないのではないか」という深い疑惑と「自分が『存在』し、生きて行くということ は、他者から望まれたものであり、意味があることだ」という、両極端の思いの葛藤というべきものでした。
  これを例えばアイデンティティ論で有名なエリクソンの言葉で置き換えれば「基本的不信感」と「基本的信頼感」の葛藤ということになりますし、精神分析イギリス対象関係学派のメラニー・クライン流に言えば、「bad−me」と 「good−me」の「分裂(splitting) 」ということになります。
 これは他のいろいろな心理学者が、それぞれの表現で取りあげている、人間の基本的な葛藤と言っていいでしょう(もちろん、宗教なら、それはそれで別の表現でこのことを表現するでしょ う)。

 僕が、一方で凄い作品であることを認めつつも、ことあるごとに『ナウシカ』批判を敢えてしてきたのは、そこにアニメファンに代表される現代のかなりの人の価値観の抱えた、ひとつの宿命的なジレンマのあらわれを見るからです。
 そこでは、一見人間と自然との根源的な融合を求めていますけど、それは単に、自分の自我を取り敢えず押し殺し、抑圧するという中途半端な形で、迷いの中で縮こもるか、あるいはむしろ逆に、人間の業を教え諭す側に回って自分を人間以上のメタレヴェルの存在にしてしまう欺瞞をおかす(この典型として、『オネアミス』のリイクニ……まさに『ナディア』のスタッフがかって産み出しだした、ナディアの先駆と言えるキャラクター……が考えられます)という、いずれかの解決しか、大抵の人にはもたらしていないように思うのです。
 
 人間が、この世に、世界から自律した実存的な『自我』を持って生れてしまうゆえに不可分の、外界や他者との根源的な「きしみ」みたいなものを、『ナウシカ』は母なる自然によって慰撫してしまった。「我を張って好き勝手なことをするのはやめて、もう一度『おかあさん』の子宮のもとに帰依しなさい。そうすればあなたは世界との一体感の中で救われるでしょう」
 ……しかし、ユング『変容と象徴』(邦訳ちくま書房。大著のため、必ずしも専門家にすら読まれていないけど、実はユングの最高傑作だと思います。この著作に『ファイブスター』でおなじみのラキシス、クローソーたちについてすら解説されているのですが)の中で述べたように、英雄(生きるようとする人間)は、そうやって胎内回帰を繰り返しつつも、再びいつか「怪物」の腹を突き破り、おなかの中でみつけた「得難い宝物」をこの地上にもたらすという「胎内回帰=死」と「出生」のサイクルを繰り返すしかないのです。
 そしてその度に、自分が世界(母体)から切り離された孤独な存在であることに直面し、単に母体に帰るのではない形で、自分と対等の他者……それは決して全能の存在ではないので、「折り合える」ようになるのには双方の辛抱強い努力がいる……との出会いの中で愛情を育んで行くしかない。
 
  第24話『リンカーン島』で、溺れそうになったナディアが森や海の動物たちに助けを求めても、決して答えてはくれず、実際に助けにきたのはジャン以外の何者でもなかったという展開は示唆的で、どこか『ナウシカ』を意識したアンチテーゼとしての面がある気がします。
 仮に、深い次元での、自然との合一というものが可能であったとしても、少なくともこの時のナディアは、すでに心のどこかで自分はすべてを破壊し去る力を持った存在ではないかと疑いつつ、そういう疑いから取り敢えず目を反らすために、自然や動物たちに一方的になれなれしく連帯していたに過ぎないのですから、ナウシカの場合のように「自然」に救ってもらえなくても仕方がないでしょう。
 ナディアは、この時点では、心の底では、他者も、自然も、そして自分自身をも、不審と疑惑の目で、「怯えながら」しか見ていないのです。
 



 ……さて、今も少し触れましたが、ナディアが全能の力の持ち主ということをどのようにとらえたらいいのでしょう?
  35回にして、それまでのナディアのふるまいの真の原因がかなりの程度明かされてしまったと思います。恐らく、そうした内容は、ナディア自身すらこの時までは言葉になる形で直面すらできていなかったでしょうが、「漠然と」した形ではモヤモヤ感じられかかっていたことなのでしょう。
 例えば、なぜナディアが動物を殺したり食べたりできないか。マア、これまで見てきた中でも、僕の中には「この世に存在する以上、他の存在に何らかの形で依存しなければならないという現実をみつめることを恐れているためであり、その背後には、自分が生きるということが他者から受け入れられ、祝福されているという実感=前述のエリクソンの『基本的信頼感』の欠落がある」などといった説明は浮かんでいたのですが、今回のナディア自身の言葉からは、取り敢えず子供にもわかりそうな理解が明かされたのでした。
 つまり、「ナディアは、自分が本当は世界を滅ぼすくらいの恐ろしい力を持っているのはないかと以前から薄々感じていた。だから、自分が、どんな形にせよ、他の命を滅ぼしてしまうことに荷担するのを人一倍恐れていたのだ」と。
 でも、もしそれが、宇宙人の王位継承者などという「特別な人間」の持つ全能の力という問題に過ぎなかったとしたら、見ている観客は、ああして35話のストーリーの中で苦しみをさらけだすナディアに思わず心をゆすぶられることはない筈です。僕たち自身の中に、そういう「内なるナディア」がいないとしたら。

 ある人は、ナディアの持つ全能の力を、人類全体の持つ科学文明の力として読み代えて理解するかもしれません。それでもいいでしょう。
 しかし僕は、敢えて、そういう「自分の全能の力への恐怖」という問題が、内的な問題としてはすべての人に普遍的な問題ではないかという観点から述べてみることにします。
 
 前述のメラニー・クラインというイギリスの女流精神分析学者は、赤ん坊にとって、世界とはどのようなものとして体験されるかについて、おおよそ次のように述べています。
 赤ん坊は、まだ、自分と他者を別々のものとしてとらえることができません。つまり、快や不快を「感じている」主体としての自分が外の世界から独立した形でいるという認識はなく、自分の中に快が生じると、「自分の外の世界全体から愛されている」、いいかえれば「世界全体は自分のためにある」としか感じていないのです。
 要するに、自分の中に恋愛感情が生じると、相手が自分を愛してくれているとすぐ思い込んでしまうのと同じような状態が、「世界全体」と自分との関係という飛んでもないスケールで体験されているのです(母親はまだ「個体」として認識されず、自分の外界全体の一部として溶け込んでいるのです)。これを「投影的同一視」といいます。
 ところが、赤ん坊には、快楽を感じている時の自分と不快を感じている時の自分が同じ自分であるという認識もありません。ですから、いったん自分の中に不快が生じると、天国から地獄へと一変します。そして、自分の中に生じた不快を、即、外界(世界)全体からの拒絶、攻撃として体験します。
 そして、自分に快を与えてくれる時の母親と、そうでない時の母親が同一人物であることすら最初は分からず、「よいおかあさん」と「わるいおかあさ ん」を別々の存在として体験します。これを「対象の分裂(splitting)」といい、(後者の「悪い母親」像が鬼や悪魔や鬼子母神のイメージのもとともとらえられます)。こうした段階を『分裂的=妄想的態勢』といいます。
 しかし、生れて数週間以上たつと、赤ん坊は「どうも「よいあかあさん」と「わるいおかあさん」は同一人物らしいとは薄々気がつきはじめます。ところが、そうなると、自分の中に不快を感じた時に、その母親に向ける攻撃によって、自分が「よいおかあさん」を破壊してしまったのではないかと思うようになるのです。これは自分を育む世界そのものの喪失、そして、自分の中身を満たしてくれるものはもう何もないという絶望的な空虚感と抑鬱をひきおこすわけです。この段階を『抑鬱的態勢』といいます。
 現実には、しばらくすれば、自分を不快から救ってくれるよいおかあさんが「どういうわけか」また復活して現われてくれることを繰り返すので、こういう「自分の願望が世界を破壊してしまった」という妄想はなくなっていき、自分にそのような全能の破壊の力などないと信じていられるようになるのです。

 しかし、もし、親をはじめとして、そうやって「自分が多少攻撃を向けたとしても、それでも愛してくれる他者が存在し続けてくれている」と感じさせてくれるような他者との関わりが持てないまま成長したら? そういう赤ん坊の妄想が、表面上は社会化されても、その人の心の奥に根を張っていることになります。
 そして、誰もが少なかれ、こうした「母親殺し=世界破壊」への恐怖を無意識的にはかかえ続けるものとも言えるわけです。

  ナディアは、ああして誕生日の記念碑を見付けるまでは、そういう「自分は祝福されてこの世に生をうけている」ことを本当に強く実感できる体験を出来ないでいました。他人は本当は自分のことを嫌っているに違いない、自分の中には「悪い」ものしか詰っていない。 だから、そういうものがまわりに溢れ出して、まわりから害悪を流すものとして拒否されてしまわないよう、用心深く他人と距離を取る一方で、大人からは一応いい子として見られ続けられるだけの「よろい」としての処世術は身につけてしまっていた。
 でも、内心は、いつも怯えていたというのは、まさにナディア自身の言う通りでしょう。そして、他人から多少の好意を示されたとしても、それを信用できずにすぐに疑ったり、あるいは、そういう好意に答えられるだけのものが自分の中にある筈もないと引き篭ったりすることになっていたということになります。
 大抵の人は、ナディアにそういう態度を1,2回取られたら、ナディアと関わることを諦めて離れて行ってしまうでしょう(そういう時、別に心の中でそんなにはナディアを批判したり憎んだりしているわけではなく、「ただ、溜息をついて諦めている」だけかもしれないのです)。
 しかし、ジャンやグランディスたちは、そういうナディアを諦めなかった。しかもそれは単にご機嫌とりをしていたのではなくて、ジャンやグランディス自身の『自分』は大事にして、受け入れられないことはちゃんとNoといい、時には喧嘩をしたりしながらも、「それでも君が好きなのだし、君の味方になる」ということを態度で示し続けたわけです。
 
 第35回だけでも、ジャンやグランディス、そして一見醒めたつき放す形でこそあ れ、サンソンですらもが(誕生日の歌の最後だけ、サンソンが低い声で横っ顔向いたまま唱和したシーンはいいですね)、不安の中で混乱しそうになるナディアを支える態度を繰り返し繰り返し示しているわけです。
 そういう中で、ナディアは少しずつ、自分を愛してくれ、自分が愛してもいるジャンやグランディスたちを自分が破壊してしまう恐怖を克服して、自分自身を、そして自分の周囲の人たちを信じられるようになって行くのです
 
 ナディアのそういう他者破壊への恐怖は、35話の最初の方の、ナディアの語るの中に現われています。「自分の中を見つめようとして行く中で、ジャンやグランディスをそれに巻きこんで溺れさせてしまう」恐怖。
 しかし、夢の中でも、ジャンやグランディスは溺れ死ぬのではなく、「魚になって」、ナディアの中に流れ込んでいる。ジャンたちはナディアの涙の渦の中を泳ぎまわれるだけの力はあるのです。ナディアはこの「予知夢」の持つ希望の光の側面には気がついていないのかもしれない。「そして鐘が鳴る」というのは実は誕生日の記念碑と出会えるということ[記念碑のシーンで実際鐘が鳴る以上、これは意図的演出としか思えない!]。夢を見ている当人が、夢の中にあるプラスの部分を無視してしまうというのは実によくあることです。ジェンドリンの『夢とフォーカシング』(邦訳 福村出版)をどうぞ……と我田引水)。


まあ、こういうふうに説明してしまうと、味気ないですけど、庵野さんたちが、このようにも「読み取れる」ことを、クリエイターとしての直感から描き出せる所までこの作品に己れを没入させていたのか、ある程度は意識的に表現したのかどうかはわかりません。
 しかし、単に頭だけで心理学とかの知識を仕込むだけでは、ひとりよがりになって、こういう「理屈抜きの画面からのインパクト」にはなり得ない筈です。恐らく、本当に人のこころを掴む物語を創造しようとしていれば、こういう普遍的なテーマがおのずからにじみ出てくるというだけのことなのかもしれません。

  ともかく、画面から感じられるインパクトそのものの次元でとらえても、ナディアというキャラクターを、ここまで追い込んだ形で創造したということに、僕はひたすら驚きます。アニメのキャラクターの語る言葉にこれだけ胸を刺されたのは実に久しぶり。ナディアと向き合うことで、(決して心理学者の博識としてではなく)ひとりの人間として試されるだけのインパクトを感じさせてもらえたということ。
 こういう、生身の人間相手にしているみたいなインパクトを、最近のアニメのかなりの部分は避けて通っていた気がします。
 こういう、一見リアルでもなんでもない設定の作品の中で、逆に、これだけ「息をしている」キャラクターに出会えるとは!

  まだ数回あります。そこで、これとは全く別の観点から、この作品について一層驚かされることになるかもしれませんけど、ただ、この作品が、『ヤマト』以降、ほんの片手に余る作品しかまとえなかった、あるオーラのようなものをまとい、そこからひとつの新しい「伝説」を産みだすだけの作品になるかもしれないという予感は、僕の中で強くなっています。

 最後に、『トップ』の時にもらした言葉を、もう一度、もっと声を大にして言います。

 「『この』感じ、『この』感じが欲しかったんだよなあ…
  …今も、こういうアニメがあります」                                                


解説

「新世紀エヴァンゲリオン」をついに生み出したガイナックス制作・庵野秀明監督の前作、NHKTVシリーズアニメ「不思議の海のナディア」のクライマックス、第35話、「ブルーウォーターの秘密」についての大論文である。作品を見た直後の生々しい感慨の中で書かれた。
 某商業アニメ誌は、この直後、この投稿全体の主旨ををまるまる借用してグラビア大特集を組んだという現実がある。
 現在読み返すと、ほとんど「エヴァンゲリオン」論としても読めてしまうあたりがおもしろいところだ。実際、「エヴァンゲリオン」という作品全体が、まさにこの「ナディア」35話、「ブルーウォーターの秘密」の拡大敷衍以外の何者でもないという捉え方も可能だろう。
 この傑作エピソード、当然ビデオ・LD化されているが、現在ご覧になるとその先進性ととてつもない深みに今更ながらに気づかれるはずである。

なお、この「自分探しの旅」をお気に召していただいた方は、是非、「ゴールドメダルの秘密」の方もお読みいただけると、味わいが数倍になると共に、阿世賀浩一郎という投稿者がいかに異色の存在であったのかについて、十分堪能(?)して頂けるはずですので。



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