フロイトの「ヒステリー研究」、取り敢えず読み終わったので、あまり強迫的にはならずに、思いつくままに読後感を書こうと思います。
なお、私が読んだのは、人文書院版のフロイト著作集第7巻所収のものです(懸田克躬訳)。
この著作は、フロイトがパリのシャルコーのもとで催眠術によるヒステリーの治療を学んで帰国して、プロイラーという医師と協力して、催眠術によるヒステリーの治療を試みていた時代の集大成として、ブロイラーとの共著として書かれたものであることは、フロイトについての本をお読みの方はたいていご存じだと思います。有名なアンナ・Oの症例もこの中に載っていますが、その章について実際に執筆しているのはブロイラーの方で、この人文書院版全集では付録としてこの事例も収録しています(ただし、フロイト自身が書いた部分よりもかなり読みにくいというか、文章としての魅力に乏しいです)。
この時点でのフロイトは、まだ自由連想法は用いてはおらず、一応、「抑圧」「防衛」「抵抗」「転移」「不安神経症」等の概念は使われ始めていますが、まだ未完成なフロイトが試行錯誤しながら前に進みつつあるという感じで、そのやや単純化され過ぎていて妙に物足りなくもなる一面もあります。しかし何かその分、妙に等身大の人物としてのフロイトのあり方に妙に共感するところもあります。
ヒステリーという病気には大別すると解離ヒステリーと転換ヒステリーがあります。前者は人格が一種の分裂をおこし、一方の状態でいる時のことを他方は覚えていません。多重人格障害というのは、この解離ヒステリーが複雑化したものみたいにとらえられるかと思います。
転換ヒステリーの方は、神経学的には成立しないような形で身体症状が生じるものです。痛み、逆に痛みを感じなくなる、歩けなくなる、視野狭窄など、様々な症状の現れ方があります。フロイトは、ヒステリーの原因を、抑圧された(多くの場合性的な)外傷体験的な記憶や、抑圧された性的感情体験に求め、その時に体験した感情をありありと再体験する形で想起し、自我に統合し得たときに症状が消失すると確信していたわけです。
「その時の回想を十分な明白さでよみがえらせて、それとともにこれに随伴する情動をも呼び覚ますことがうまく成功し、しかるのちに、患者がそのできごとをできるだけ精細に描写してその情動に言葉を与えるならば、個々のヒステリー症状は、たちどころに消えてふたたび起こることがないということを発見したのだった」(訳書p.12,p.178)
ここで重視されているのが、
- その時のことをあたかも現在体験しているかのような生々しさで詳細に再体験できること
- その時の情動体験もありありと再体験できること
- その時感じていた情動に「言葉を与える」ことができること
という点は注意すべきでしょう。単なる知的な解釈でわかったような気になることは治癒でも何にもないわけです。
読み始める前、特に意識していたわけではありませんが、身体的不快感に注意を向け、そこから何か気づきが(得てしてその感覚にまさにぴったりの何らかのことばを随伴しつつ)浮かび上がってきた瞬間に、それまであり得なかった仕方でその身体感覚がシフトを生じるフォーカシングと、妙に通じるものがこの時代のフロイトにはあることにもなります。
もし、症状の消失が起こらなければ、その時点で想起された過去の体験はまだ究極的なものとは言えず、いわば二次的・三次的な症状形成に過ぎず、更に核心的な過去の体験の想起に行き着けるはずと、フロイトはねばり強く患者に働きかけました。
この「症状が消えなければまだ先がある」という恐るべき単刀直入さは、場合によっては治療関係の継続を不可能にするもののようでしたが、そこには若きフロイトの気負いとオプティミズムばかりではなく、「症状が消えない限り自分の治療はまだ成功していない」とあっさり認める潔さのようなものも感じます。フロイトは当初、このような抑圧された過去の体験の想起に催眠術を用いていたわけですが、どうしても催眠術にかからない患者が多発する中で、「前額法」と後に呼ばれた技法を取るようになりました。
「これからあなたの額を数秒間押さえますが、私がその手を離した瞬間に、何かが見えたり、頭に思い浮かぶはずです。それをどんなに無意味なものだと思われても報告して下さい」
と、事前に暗示をかけた上で試みるわけです。「それが無意味なものと思われても報告せよ」と求めるあたりに、後の自由連想法に通じるものがありますが、この「ヒステリー研究」の段階では、結局フロイトはこの「前額法」こそ最良の方法と主張する段階に留まっています。
***
さて、今回は、個々の症例の話はひとまず置いて、私がこの本の中で印象に残った2つのフロイトの言葉を引用することにします。
「もし侮辱を受けた場合、実際にそのように判断せざるをえないような感覚が感覚が心臓部に起こったり、そのような感覚が顕著であったりしなかつたならば、われわれはどうして侮辱された人のことを『それは彼の心臓を突き刺した』などと言ったりするのであろうか。屈辱を甘受することに対して用いられる『ぐっとのみこむ』という言いまわしこそは、ものも言わずに、侮辱に対する反撃を押しころしている場合に、のどもとに生じる神経感覚から実際に生じてくるのだということは、まことにありそうなことではあるまいか。
これらの感覚の興奮や神経支配はすべて、『感情の動きの表現』に属するものであり、しかもダーウィンが教えてくれたように起源的には十分な意味を持ち、克つ合目的的な作業から成り立っているのである。現在はこういう行為が持っていた力はたいていひじょうに 弱められているので、その言語表現は比喩的な伝達のように思われるのである。しかしながら、おそらくはそのすべてがかつては文字通りの意味を持っていたに違いない」(p.152-3)私は、「フォーカシング入門」の中でも、例えば「腹が立つ」とか「腑に落ちない」「虫が好かない」などというやまとことばによる感情語が、感情の身体感覚的基盤を示唆するものであり、身体感覚の変化こそが変化の指標となることを返し述べてきたと思いますが、要するにフロイト先生がとっくの昔におっしゃられていたことということになります。
次に、この「ヒステリー研究」の最後の部分。
「私はカタルシスによる治療によって、援助とか軽快とかを患者たちに約束すると、何度となく彼らから、『わたしの病気はきっと境遇や運命とかかわりがあるのだろう、と先生はおっしゃいました。それでは、先生はそれをどうなさることもできないじゃありませんか。だとすれば、いったいどんな方法で私を治してくださるつもりですか』というような異議申し立てを聞かざるを得なかった。これに対して私はいつもこう答えることができた。
……あなたの病気を取り除くためには、私より運命の方に分があることは疑いもありません。けれども、あなたのヒステリーのみじめさをありふれた不幸に変えてしまうということにわたしたちが成功するのだったら、それだけでもずいぶんとくをしたということになる、とお気づきになりましょう。ありふれた不幸に対してなら、あなたも精神生活の回復によって、ずっとたくみに防衛することができましょうから、と」(p.228-9)「この不安さえなくなれば、この症状さえなくなれば自分はうまくやれるのに」式の期待をフロイトは認めない。あとに残るのは、ある意味で平々凡々たる悩みや苦しみに耐えながらも、それを克服しつつ生きていく人生なのだ。
ユングも、『心理療法論』の中の『心理療法と世界観』という論文で、次のように述べている。(林道義訳 みすず書房)
「心理療法の最高の目的は患者をあり得ない幸福状態に移そうとすることではなく、彼に苦しみに耐えられる強さと哲学的忍耐を可能にさせることである。(中略)苦しみがある程度まで十分にないと幸福も毒されてしまうということを考えてもみないで、つねに改善や夢のような幸福について口当たりよく語られるものである」(p.72-3)
もとよりこれは自分の中だけで問題を解決するように「我慢する」ということの勧めではないでしょう。例えば家族との関係、社会との関係を変えていき、自己主張したり新たな関係を築き上げることもひとつの苦しみと葛藤を引き受けてはじめて可能なのでしょうから。
フロイトが「ヒステリー研究」で示した症例の幾つかは、近親者からの性的虐待の経験を無意識下に抑圧したものでした。最初の版では患者の「叔父」などとして書いた相手が、実は実の父であったことを、後年のフロイトは注釈して明かしています。
そういう近親者といかに生きるか、あるいは仮にその近親者と生別・死別の後も、その近親者との経験の記憶をいかに背負って生きるか。その苦しみと葛藤は引き受けざるを得ないわけでしょう。98/4/29
これは、かつて多摩動物公園に行った時のことである。
チンパンジーの住処には、ケーラーの有名な実験そのままに、透明な箱の中の食べ物を箱の穴から棒で2つの穴を通して落とさないと転がり出てこない、「UFOキャッチャー」と称する餌箱の前に、齢40歳の渋い大御所チンパンジー(つい先頃ボスの座をあっさりと若いのに禅譲したという)が、まるで縁側でくつろぐ職人のオヤジか何かのようにしてデンと居座っている。
そのため、ほんとうは餌をとりたくて仕方のない別の若いチンパンジーが、後ろの方からそーっと餌の取り出し口に手を伸ばすのだが、少し大御所が身じろぎするとそばの柱の影にササササッと隠れては奇声を上げる。自分から両腕で頭を抱え込んで、まさに『ぼのぼの』のシマリスくん、「いぢめる?」状態である。
大御所の方はその若いのに特ににらみをきかせ牽制するというわけでもなく、「おい、若いの、どうした?」とでもいうような感じでそいつにむしろやさしげに手を差し出すのだが、そのシマリスくんの被害的な態度は延々と繰り返されるのであった。カンガルーはひたすらダレて、まるで死んだように横になりひなたぼっこしていた。時々前足をピクピク動かし、明らかに夢を見ているのであろうという奴もいた。
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さて、実はこの日の1時半過ぎにやっと入園したのだが、4時頃から大きな動物はそれぞれの厩舎……というとウマやウシ用の言葉か……に健康上の理由で戻されるとわかっていたので、広い園内、かなりポイントを絞って急ぎ足で見て回る必要があった。
3時を過ぎた頃から、見て回る哺乳類の動物が何かある共通の行動パターンを取ることに気が付いた。
レッサーパンダの中には妙にそわそわと歩き回り続ける奴がいた。そのうち、群の大半が奥の方にたむろしはじめる。そいつらがたむろしているところの後ろにはねぐらへ通じる今はまだ閉じられた出入り口があるのだ。
後ろ姿が妙にコアラに似ているウォンバットも、我々の方は決して振り向くことなく、檻の背後にある建物の入り口の引き戸に、まるで猫がやるのと同じように、何とか前足を引っかけて開けようとする動作を繰り返している。4時を回り、大きな動物の中にはすでにねぐらに連れ戻されたあとのものも多くてやや残念だったか、そうした中、引き返す途中で再びカンガルーのコーナーまで来ると、連中はまだみんなそこにいた。
昼間とは打って変わって、たいていの奴が起きあがり、飛び跳ねたりして盛んに動いていた。こいつらは日が陰ってきてからの方が活動的な習性なのかと思っていたら、どうもそうではないことがじきに明らかになる。飼育係の車が横付けされる。ドアの閉まる音。このあたりからカンガルーたちの態度が更に何か色めき立ち始める。カンガルー舎の隣の建物の施鍵された扉が開き、閉まる音。カンガルーたちはほとんど一斉に、その建物に通じるドアの前にどやどやと集合し始める。
(中にはそうした大勢の流れに乗らないままホケッとしている子カンガルーもいて、その親とおぼしき個体が、振り返りながら途中でたたずんでいる)。そして、飼育係が箒を持って扉を開けた瞬間、彼ら/彼女らは、入ってくる飼育係と入れ違いに、自分からぞろぞろと退出していくのである!
まるで5時の「終業時間」を待ちわびていた「勤め人」のように!
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玖保キリコの『バケツでごはん』という漫画をご存じの人は少なくないだろう(小学館 スピリッツコミックス)。動物園の動物たちが、実は「勤務時間外」には人間同様の生活を営むサラリーマンとして「出勤」して「仕事」をしているという内容だが、あのアイデアは、玖保さんが、このように実際に動物園の「終業時間」の有様を見た時にインスピレーションを得たのではないか。
自然の習性を歪められて動物園で暮らす彼らは、人間社会の勤め人の習性そのものを身につけてしまっているのかもしれない。
「終業時間」が近づくにつれて、外の広場よりも、狭いねぐらに戻ることを自分から望む。もちろんねぐらに戻れば餌にありつけるのかもしれない。朝には逆に、小屋の中で「早く外に出せ」とジリジリしているのかもしれない。
しかし、外のひろいところにいる時も、連中は結構「お仕事」だから仕方なしにそこにいるだけであり、さっさと「お仕事」を切り上げてねぐらに帰りたいのかもしれない。やはり、こういうあたりの妙に人間くさく感じられる生態(もちろんこっちの勝手な感情移入かもしれない)は、実際に動物園に来てみてはじめて実感できることだろう。野生から切り離されて生きる彼らの犠牲を受けとめねばならないとは思うが、そうやって犠牲を払って、こうやって、状況に適応する「いきもの」としての生き様を示し、我々にいろいろ考えさせてくれることについては、むしろ感謝せねばならない気がする。
かわいそうだという理由で動物園にすら行かない人の方が、実は人間や動物に更に鈍感な生き方しかできなくなるのではなかろうか。動物園は、人間を、社会を哲学し、瞑想する場所なのかもしれない。
確かウィトゲンシュタインも日がな一日動物園で動物を眺めるのが好きな人だったと記憶する。
98/5/2
「ここにひとつの手があることを君が知っているのであれば、それ以外のことについてはすべて君の主張を認めよう。(中略)
私はこれを疑うことができるだろうか。私にはこれを疑う根拠がない」……ウィトゲンシュタイン 『確実性について』
一般に、感覚は「五官」の名の通り、視覚・聴覚・臭覚・味覚・皮膚感覚の5つとされています。これらの感覚器官の特徴は、基本的に外部に開いているということであり、外界の感覚を受けとめる機能ということになります。 しかし、実は、感覚はあと3つあるのです。
ひとつは平衡感覚。ご存じのように耳の奥にある三半規管がこれを感知しています。
次に内臓感覚。胃や腸や肺の場合、消化器官の中や肺の空間は、実は「身体の外部環境」の一部といえるという点からすると、実は一番五官に近い性質を持ちます。それほどではないにしても、心臓や脳もまだしも感覚の変化を直接感じやすい方でしょう。ただ、内臓感覚は自律神経系と密接に関わっているため、メンタルなストレスや精神的な安定が実に容易に反映する側面があります。
他の多くの内臓は、よほど調子が悪くならない限り、はっきりとした痛みを伴うことは希です。例えば肝臓が「沈黙の臓器」と呼ばれ、重篤な病気になっても肝臓そのものの痛みという形をとらない、実にやっかいな臓器であることをご存じの方は少なくないでしょう。残るのが筋肉や関節の感覚ですが、通常の我々は、スポーツをし過ぎた時の筋肉痛や、筋肉の腫れや肩こり、腰が痛い、手足が冷えるなどという形でこれを感じている程度ですが、実は、これらの我々が通常知覚している筋肉や関節の感覚は、「固有感覚」と呼ばれる、普段はほとんど全く感覚として意識していないのに、実は非常に重要な感覚の一部に過ぎないのです。
それは、一言でいえば、身体の内部の筋肉や関節の動きに対するフィードバック回路として働いている感覚のことです。フォーカシングの初心者向けの準備段階で、この「固有感覚」を意識的に感じてもらうことをやってもらいます。目を閉じて、手を前の方に差し出して行ってもらいます。
「あなたは今自分の手の平や手の甲がどこにあるのか内側から感じられるでしょうか?」
こうした場合、皮膚感覚やイメージの力もある程度は関与しているのですが、実はそれはさほど大きなウエイトを占めていません。それは、この固有感覚が何らかの原因で完全に失われてしまった症例を見れば明らかになります。
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オリバー・サックスの『妻と帽子を間違えた男』(高見幸郎 金沢泰子訳晶文社)は、いわゆる「外因性精神障害」、つまり、事故や細菌感染や薬物などが原因で精神・精神機能が重篤な障害に陥った事例を中心としたすぐれたエッセー集としてつとに有名です。
この中に「身体のないクリスチーナ」という章があります。このクリスチーナという女性こそが、ある時突然この「固有感覚」を永遠に喪失することに生涯苦しまなければならなくなった貴重な症例のひとつです。胆石のため手術を受ける際に抗生物質を投与されて二日後、彼女は夢を見る。身体がぐらぐら揺れていて足元がおぼつかず、地面を踏みしめている感じがほとんどしない。手に持っているものの感触はほとんどなく、持ち上げるものは皆落としてしまう。
目を覚まして数時間後、それは現実のものとなる。「手術による不安のためのヒステリー発作」と取り合わない精神科医。
しかし症状はどんどん悪化する。足元を見つめていなければ立っていることもできない。手は見つめていなければどこに動くかわからない。何かを取ろうとか、食べ物を口に運ぼうとするとねらいがはずれてしまう。顔の表情も奇妙に無表情。あごもだらりと垂れ下がる。かろうじて立ち上がれても、目を閉じたとたんに身体はがくんと崩れ落ちる。「身体の感覚がなくなったみたいです」
抗生物質の影響による脊髄神経と脳神経の感覚神経のほぼ全域にわたる炎症が確認された。皮膚にはある程度感覚は残っていたが。
「腕がここにあるはずなのに。気がつくと別の場所にあるんです。固有感覚というのは身体の中の目みたいなもので、身体が自分を見つめる道具なんですね。私の場合、身体が盲目になったみたいなものなんですね。身体の中の目が見えないのならば、私の場合は、顔についている目で見ねばならなくなったわけですね」。
彼女は何時週間ほど失意のどん底に沈んだが、決心をかためて、失われた機能を目と耳で補うような訓練を始める。
体を動かす時は、まずその部分をしっかりと見つめて、どうなっているのか目で確かめねばならなかった。最初は痛々しいほどぎこちなかった。目をつぶったとたんに身体は崩れ落ちる。しかし、そのような目配せも次第に習慣となり、三ヶ月後にはベッドにしっかりと起きあがり、自然な表情と抑揚で話ができるようになった(顔の筋肉の感覚についての内側からのフィードバックがないので、音を耳で聞いて矯正するのになじむのにたいへんな努力を要したのだ)。彼女は一年間のリハビリの後、何と以前いたパソコンを使う職場に復帰する。
そういう彼女も、自分が身体の感覚を失い「脊椎が抜かれたような」状態になっているのが悲しくなることがある。
身体をなくした魂。生き霊のよう存在感。通常の全身麻痺患者とは異なり、彼女は自分の身体で動くことはできる、しかし、魂だけが移動しているような感じしかない。物質的で有形の身体によるアイデンテイティ、「肉体的自我」の喪失。
「自我とは、何よりもまず肉体的なものである(フロイト)」
彼女はオープンカーに乗るのが気に入っている。
「腕にも顔にも風を感じて、自分には腕も顔もあるという気がするんです。本物ではない、幻のようなものでしょうけど。でも、ほんのしばらくでも、恐ろしい死の影を忘れることができるんです」
彼女は、冒頭に掲げた、ウィトゲンシュタインが言う意味での「ここにひとつの手がある」ことの自明性、確実性が体験できないのである。末端からの刺激が伝達されないため、実存的認識論的基盤を奪われてしまったのだ。身体を動かすことには成功したが、アイデンテイティを持って「存在すること」には失敗したまま。
……このような状態に陥って以降、彼女の情動生活や夢にどのような変化が生じたのかについてはこれ以上具体的なことは書かれてはいない。もちろん情動は人間的に維持されている。しかし、固有感覚が失われる前とはかなり異なるものの感じ方の中に生きているのは確かそうな気がする。
普段は全く意識されない「身体感覚」の上に人間の自我は成立しているとと言うこと。
その、知覚の「地」となった感覚の中にこそ、人間の自己存在の基礎は築かれている。
98/5/4