エゴグラムについて

 私は勤務する学生相談室のサービスの一環として、希望する学生にYGテストとエゴグラムという二つの性格テストをやってもらい、結果について詳しく解説することをしている。今年は昨年までより遙かに繁盛していて、一日平均2件ぐらいは採点している。「サークルの友達がやってみたから」という理由で、友達が友達を呼び、ほとんど「友達の輪!」状態の連鎖が続いているケースもある。
 ほとんど興味本位と好奇心からという場合の方が多いくらいなのだが、「学生相談室は『心の病気』の人が通うところ」みたいな先入観は現在も多くの学生に結構あるようで、そういう「敷居の高さ」を切り崩す意味では、こうした試みも大事だと思っている。
 もちろん、性格テストというのは、ある限られた物差しで、その時点でその人の状況を測定するものに過ぎない。一生涯続く性格を測定しているわけでもなく、実はその時のその人の状況によってかなり大幅に結果は変化するものである。時期を置いて繰り返しやってみれば、結果が変化する部分もあれば、さほど変化しない部分もあるのに気づくかもしれない。その変化しない部分の方が、よりベーシックな性格に関わるとぐらいのことは言えるかもしれないが。 また、ひとつの性格テストのみで多面的にその人をとらえることはなかなか難しく、別の種類のテストも同時にやってもらう(これを「テスト・バッテリーを組む」という)方が、その人を立体的にとらえるのに役立つようである。

***

 さて、エゴグラムという性格テストは、エリック・バーンという心理学者が精神分析の簡略版のようなものとして提唱した、「交流分析」という技法に端を発している。
 交流分析においては、ひとりの人間の中に3つの「自我状態」が機能していると考える。すなわち、

P=Parent(親)
A=Adult(成人)
C=Child(子供)

の3つであるが、これらはそれぞれ、おおよそ、精神分析でいう「超自我」「自我」「エス」に対応する。

 これらのうちPは、更にCritical Parent(CP 批評的な親)Nurturing Parent(NP 養育的な親)に分かれ、CはFree Child(FC 自由な子供)Adapted Child(AC 順応的な子供)に分かれる。
 こうして、都合5つの自我状態について、その働きがその人の中でどのようなバランスで機能しているのかを数値化して、プロフィールと呼ばれる折れ線グラフにして示して分析するのがエゴグラムである。

***

 次にこれら5つの自我状態について解説する。

 私が直接参照しているのは、東大式エゴグラム(TEG)と呼ばれるものである(「新版 エゴグラム・パターン −TEG(東大式エゴグラム)第2版による性格分析−」東京大学心療内科 編著 金子書房 1995)。

 まず、Pの部分とは、その人が、自分自身や他者に対して親的に振る舞う部分である。多くの場合、その態度はその人の実際の親から取り入れられたものではあるが、個々のケースを見ていくと、必ずしも一致していない場合も多い。

 CP、すなわち「批評的な親」が高いということは、その人なりの原理原則や秩序を重視し、「……すべきである」「……してはならない」などという言い方を、自分自身や他者に対して使いがちである。その人なりの原理原則が安定していることから来る信頼感もあるが、得てして自分のものの感じ方を普遍的な原理原則であるかのように他人に押しつけることにもなる。また、このCPのみが突出して高い場合には、自分自身や他者の失敗や弱さや欠点に対して過剰に厳格で非寛容となり、杓子定規で融通が利かないなどという問題点が生じる。
 逆にCPが低い場合には、よくいえば臨機応変で柔軟だが、優柔不断さや時間や集団の秩序への無頓着さ、ルーズさなどとなって現れる。
 旧来の価値観からすれば、CPとは「父性的な」権威性と重なることになるが、現代の父親にはCPが低いタイプというのは、かなりありふれた存在である。

 次に、NP、「養育的な親」であるが、他人に対してわがことのように同情・共感し、相手をありのままに受容し、相手のためになることを進んでせずにいられなくなる傾向のことである。他人の世話(care)をすることが好きであるが、take care of yourself(どうかご自愛下さい)というがごとく、自分自身に対するやさしさとも関わっている。他人の弱点や失敗や欠点にも寛容で、同情的であり、むしろそうした面を「フォロー」したくなる心性である。CPをち「父親的」だとすれば、NPは「母親的」ということになる。
 ただし、このNPが強すぎ、他の自我機能が低いと、相手に対する一方的な思いこみに基づく、うっとおしいまでの「おせっかい」となる場合があり、相手の独立した個人としての自我を真の意味では尊重しないまま、自己愛の投影として、相手を自分の人形としてしまう形になる危険がある。つまり、自分自身の願望や、本当は自分自身が他人から世話を焼いてほしい気持ちを相手に投影して、鏡に写った自分自身への溺愛に過ぎなくなるのである。
 日本の場合、男性でも、管理職に、CPよりもNPの方が強い「面倒見がいい」タイプの人というのは少なくない。気になる部下に自分から声をかけ、いろいろと世話を焼き、相談に乗るタイプである。

 次に、A、すなわち、「成人」であるが、これは、物事を合理的・客観的・現実的・実際的に考え、処理していく能力と関連している。
 前述のCP,NPを「親」というのに対してここでA、すなわち「成人」を分けていることに戸惑う人もあるかもしれないが、Pの機能というのは必ずしも「合理的」ではない。CPの高い人の中には、ひとりよがりな論理を当然のごとく他人に押しつける人もいるし、NPの高い人は「情に流され」やすく、それが本当に相手のためになるかとか、その相手への援助が自分にとって過剰に負担になる可能性を意に介さない場合もあるのである。
 このAの自我機能が高い人は、仕事を任せると、着実かつ効率的に仕上げていくことができる。クールな状況分析力もある実務能力に長けた人物である。だが、Aのみが他の自我機能よりも突出した人物の場合、物事を「机上の計算」のみで考え過ぎ、対人関係的な要素や人間の感情を考慮に入れないまま、効率性や経済性のみで自分のやり方を貫こうとするため、「情に欠ける人」「冷たい人」、まるでコンピューターのような人間とみられ、周囲と結構摩擦を起こす場合もある。SFドラマ『スター・トレック』の、ドクター・スポックが、このA優位人間の極端な例としてよく引き合いに出される。
 逆にAが低い場合には、いわゆる「足が地に着かない」人物となる。仕事の正確さや効率性に欠け、状況判断も甘い。物事の捉え方が空想的な傾向がある。

 FC、すなわち「自由な子供」とは、天真爛漫な子供っぽさである。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、嬉しい時には喜び、悲しいときには涙を流し、腹が立つと怒り出す。一度何かに興味を持って熱中すると、怒濤のごとき勢いで好奇心のままにのめり込むが、飽きたり、少し困難な障害にぶつかるとあっさりと投げ出す。自分の感じる快・不快の原則に忠実である。
 自分の感情に素直で、「ため込んで」いないので、他人から見ると魅力的な雰囲気を漂わせることが多い。ただし、このFCのみが突出している場合、わがままでお天気屋で自分本意で、周囲の人間をコロコロ変わる態度で振り回す場合が少なくない。ある仕事に熱中しているように見えたので感心して任せると、簡単な障害で投げ出す。
 ただし、このFCの高さがAの高さを伴う場合には、「なぜって? わかんない。でも、いいと思うの」式に、本人にも理由をうまく説明できないまま一見直感的に判断した選択が結構あたっていることが少なくなく、創造性の源としてとらえることができる。

 最後に、AC、「順応的な子供」であるが、これが高い人は、一言でいえば、「いい子」である。「他人に嫌われないように」「他人に傷つけられないように」「他人を傷つけないように」、周囲の期待に応えた態度をとり勝ちである。
 このタイプの人は、周囲との摩擦を起こしにくく、まじめで「大人しく」、それこそ「いい人」と見られ勝ちであるが、自分の感情を抑えていることが多いので、周囲の人から想像する以上に、本人の内面の世界は緊張と葛藤と外の世界への怯えが支配している。そして、「他人から見られる自分」のイメージと「本当の自分」との間にギャップを感じていることが少なくない。
 ACが高い人は、よく言えば、他人へのデリカシーを持っていると言える。しかし、特にAの低さを伴う場合には、このタイプの人の抱いている「他人は自分にこのように期待している」というイメージは、結構独りよがりな思いこみに満ちたものであることが少なくなく、自分の中だけで他人にどう見られているかを思い悩む堂々巡りになりやすい。
 このACを、ACという頭文字からAdult Children のことを指すと早合点する人が少なくないが、確かに、Adapted ChildとAdult Childrenは内容的に類似性がある側面はあるにしても、一応別の観点からの概念として区別すべきだろう。

***

 さて、エゴグラムの5つの自我機能について簡単に解説したが、今回私がここで注目してみたいのは、このうち、NPACの関係である。
 この二つの自我機能は、共に他人のことを気にかけ、他人を配慮した行動をとるという点では類似している。しかし、実はかなり異質の自我の機能なのである。
 NPが高い人は、そもそも他人のために行動するのが根っから好きである。基本的に開けっぴろげなまでに人間好きであり、人との距離をつめる方向に積極的に行動する。それに対して、ACが高い人というのは、実は人にどう見られるのかをひたすら「恐れて」いるのであり、むしろ、他人との安全な距離を守るために、他人との摩擦を回避する行動をとる。基本的に受け身的であり、AC的な行動をとることで得られる当面の安堵感と引き替えに、自分を押さえて周囲に迎合することへの苦しさも感じている。
 ただし、NPが高くてACが低い人は、自分が相手のためのつもりでしてあげようとしていることが、ひょっとしたら相手を傷つけたり、うっとおしがらせたりする可能性に鈍感である。自分の善意が相手に受け入れられないとなると内心非常に傷つく。だが、お節介だったかと反省するというより、善意を反古にされたことへの恨みや怒りの方を強く感じる。これで更にFCまで低かったりしたら、自分がそういう善意の通じない相手に腹を立てる自分すら自分で認め得ないので、懲りることなく、手を変え品を変えて、笑顔を崩さずに、更なる善意の大攻勢をかけたり、あるいはストレスを酒や無茶食いなどで紛らわす形になる場合がある。
 逆に、ACが高くてNPが低い人というのは、一見人を傷つけないようでいて、実は非常に自分本意な保身にさりげなく走る傾向があり、周囲の意向に逆らわないで迎合したり黙認したりという消極的な摩擦回避はできても、自分から進んで他人のために何かをしてあげるということはなかなかできない。
 何しろ、自分の「善意」が相手を「傷つける」可能性の方が心配なのである。心の中では「このまま何もしないでいたら相手にいずれ責められるかも」と思いつつも、それと同時に「ここで声をかけたら逆に相手の気に障るかもしれない」ということを同じくらい心配する。こうしてにっちもさっちもいかないまま、あたりさわりのない傍観者になることも少なくないことになる。

 さて、このNPとACの質の違いの問題と、妙に対応関係にあるように思われるのが、精神科医、大平健氏『やさしさの精神病理』(岩波新書 1995)で述べている、二つの「やさしさ」との関連なのだが、このことについては次回に述べることとする。

98/5/25

 


NP的「やさしさ」とAC的”やさしさ”

 大平健氏は、『やさしさの精神病理』(岩波新書 1995)の中で、近年、精神科医としての自分の面接現場に現れる30代以下の若い人たちが”やさしい”という言葉を使う際に、以前とは異なる使い方をすることが少なくないことに気がつき始めた。
 例えば、ある女子高生は語る。バスの中で座っていると老人が乗ってくる。席を譲ろうかとも思ったのだけれど、もしその人が、自分のことをまだそんな年寄りだと感じていなかったら、年寄り扱いされたことで気を悪くするかもしれない。だから、その人に席を譲ることを申し出ないのは、その人への私の”やさしさ”なのだ。そういう私の”やさしさ”を周囲の乗客は理解せず、私を責めているような気がするので寝たふりをしてしまう……と。
 ある男性は、自分が寝てしまった女性と、たいして好きでもないのに「結婚してあげる」のが、彼女への”やさしさ”であると当然のように語る。また別の女子高生は、家が共働きで苦しいけれども1万円の小遣いは「もらってあげて」いる。それを、少しは子供に小遣いを出せるくらいでないとという両親のメンツを立てるための”やさしさ”だと語る。

 全共闘世代の大平氏は、そこで患者たちが語る”やさしさ”という言葉が、自分の世代がイメージしている「やさしさ」からすれば全然やさしさではないことに当初は戸惑いを覚えた。
 大平氏の青春時代、はじめて男にも「やさしさ」が求められる時代となった。相手の気持ちに我がことのように感情移入して思いやり、積極的に関心を向けてくれる人を「やさしい」人と感じ、そういう「やさしい」人に心を開いて思いを共有しあう……それが「やさしい」人間関係だったのである。要するに相手の気持ちに「立ち入る」形で距離をつめることは、旧来の「やさしさ」からすると、当然のものだったのである。
 それに対して、現代の若い世代のいう”やさしさ”とは、むしろ相手の心中に「立ち入らない」、相手との距離を維持しようとする”やさしさ”なのである。
 旧来の、自分の気持ちに立ち入ってくる「やさしさ」を向けてくる人は、「ホット」でありすぎて、うざったくて、うっとおしい存在で、むしろ距離を置きたくすらなる。そのような、自分の本音を晒すように求めてくる「やさしさ」は、全然”やさしく”ないことになる。
 この新しい”やさしさ”の一つの特徴は、”やさしさ”を向けているつもりの当人は、相手に実は積極的には何も働きかけておらず、それどころか、多少は「何かをした方がいいのではないか」という思いが生じても押し殺してさえしていることであろう。何もしない、そっとしておく”やさしさ”。
 もとより、相手の気持ちについて何も推測しないわけでもない。しかし、相手の気持ちそのものにまともに直面して触れあってしまうことはむしろ恐れられている。気持ちに触れられたらむしろ相手が傷つくと事前に想定しているのである。

***

 この、大平氏のいう、団塊世代の「やさしさ」と、それ以降の世代の”やさしさ”の相違は、前回述べたエゴグラムにおいて、周囲への気遣い優位という点では共通であるかに見えるNPACが、実は似て非なる自我機能であることと、かなり見事に対応しているように思える。
 団塊世代のやさしさも、一つ間違うと、相手への一方的な思いこみに満ちた感情移入のままに善意を相手に押しつけてしまう「うっとおしさ」になってしまう。NPは高くとも、AC的な「自分の気持ちのままに振る舞うことが相手をむしろ傷つけたり拒否される可能性」へのデリカシーは必ずしも伴わない、一方的な「連帯」なのである。。
 逆に、若い世代の”やさしさ”は、相手を傷つける可能性を慎重に回避するデリカシーというAC的なものは豊富に含んでいるが、相手と距離を置くばかりで、実際の気持ちの上でのコミュニケーションを取ろうとはせず、自分から相手に能動的に働きかけるNP的な姿勢はむしろ低いとすら言える。

 そもそも、学生相談室を訪問する学生に、他人に自分の気持ちを打ち明けるのが苦手というタイプの学生が増えてきている気がする。相手が堰を切ったように語る悩みをうん、うんと聴いてあげていれば約束の1時間は終わってしまうという例はむしろ稀れで、手短に自分の問題を語ったあとは黙り込み、カウンセラーたるこちらが何か対策を言ってくれるのをじっと待っているタイプの方が多い。まさにAC的な「指示待ち」である。
 そして、「どんな気持ちなの?」という問いかけに対して本人も当惑して、うまく答えられない学生も多い。このような学生はFCも低い可能性が高いが、そもそもNP的な「やさしさ」で他人から関心を向けてもらい、気持ちを聴いてもらうという経験そのものが乏しいのかもしれない。あるいはそのような関心の向けられ方をうっとおしく感じ、必要以上に「侵入」されたと感じるのかもしれない。
 面接場面を、クライエントの気持ちに立ち入りすぎることなく、何か思いを抱いていることを漠と察しつつも、語らないままで安心して一緒にいることが許される場なのだという、(大平氏の患者のひとりの言葉を借りれば)「ホット」ではなくて「ウォーム」な”やさしさ”の場なのだと信頼してもらえるようになることが、カウンセリング関係形成のベースラインとみなした方がいいようである。

 私は、前回述べた学生相談室での性格テストサービス以外に、非常勤講師をしている別な大学の教養課程の心理学の講義の際に、年度始めの早い時期に、受講者全員、6〜700人にTEGエゴグラムをやつてもらう試みを数年続けている。採点の判定の仕方と細かいタイプわけについては詳しく講義で2時間ぐらいかけて説明するが、結果は回収しないという条件でやっている。それでも、何回かおきの講義の際に紙片に自由に感想を書いて提出してもらう際に、自発的に自分のエゴグラムの結果を書いてくれる学生も少なくない。そうした結果を総合すると、どうもNPが低いタイプというのはかなりの割合にのぼる。これは学生相談室でも同様である。中には時たまNP優位型の学生もいるが、意外と少数派という印象である。ちなみにACが高い学生というのは以前から非常に多く見られる傾向である。
 このあたりも、現代の、”やさしさ”世代の傾向と一致しているのではないかという気もするのだが。NP優位型の「やさしい」学生は、むしろ生きづらい時代なのかもしれない。

98/5/26


第5回 『すべての些細な事柄』

 5月28日、東京・銀座のガス・ホールで催された、フランスのドキュメンタリー映像作家、ニコラ・フィリベール監督による『すべての些細な事柄』の試写会、および監督との集いに、行って来た。たまたま私が週1日勤務する都心の開業カウンセリングルームにチラシが置かれていたのがきっかけである。

 この作品は、フランスのブロワにある、ラ・ボルドという精神病院で毎年の行事として行われている、職員と患者による演劇を、その稽古から本番まで、病院の日常を交えつつ、2ヶ月以上にわたって追っていった長編ドキュメンタリー映画である。
 このラ・ボルドという病院は、1953年に、今は亡きポストモダン哲学の旗手、フェリックス・ガタリが、精神科医ジャン・ウーリーと共に設立した開放病棟の精神病院である。ここには鉄格子も柵もない。深々とした森の中に、お城のような建物が立ち、自然に包まれた、実にゆったりとした空間が広がっている土地である。
 私自身、精神障害者のドキュメンタリーは、テレビで幾つか見た程度である。大学院時代の、週1日の病院での2年間の研修を除いては、精神障害者の施設に直接関わったことはない。日々のカウンセリングの業務の一部として、入院歴があったり、並行して通院もしている精神病的なクライエントの方と接しているのみである。私自身、その限られた関わり合いの中からも、カウンセリングの基本に関わる非常に重要なことを日々学ばせていただいて来たとは感じているが、病院や作業所等で日々精神障害者の方々と接している人たちの中には、私とかなり別の感じ方をなさる方もあるかもしれないと想像しつつも、敢えて素朴な印象のままにこの映画のことを書いていきたいと思う。

***

 試写会の会場には、笑いが溢れていた。監督はこの試写会の時にはじめて日本語字幕入りのバージョンを観たそうであるが、言葉の壁を越えて客席が、画面に敏感に反応し、自然な笑い声に包まれる様子を後ろから見ながら、ほっとしていたそうである。
 その笑いは、決して障害者の人たちのふるまいのこっけいさへの嘲笑ではなかったように思う。むしろ、私たちがお互いに日常の中で思わず示してしまう、さりげない「人間くささ」への、あの明るくて他愛のない、共感に満ちた笑いなのである。上演するオペレッタのための歌の練習のシーンの幾つかなど、観ているうちに、そこにいるのが「障害者」であることをいつの間にか完璧に忘れてしまっている。ひとりひとりの個性と人間味に、まるで知り合いの仕草に対して親しみに満ちた笑いを返すように、自然と反応し始めている自分に気づく。そこには「同情」や「哀れみ」の介入する余地もなくなる。「この人、好きだな」と、全く自然に感じ始めてしまう。作為のないインティメートな感覚。淡々とした中にも、不思議な、わざとらしくない「軽み」がある。そんなに観ているわけではないのだけれども、フランスの上質なコメディ映画に通じるものではないのか。
 この映画にはナレーションや解説じみた字幕は一切ない。部分的にカメラを構えた側の監督との対話があるが、それはインタビューというより、映画スタッフとの間に自然と生じた会話というのに近いことが多い。
 終演後の観客席からの監督への質問で「この映画はすべてアドリブなのですか?」という問いかけが飛び出したのもわかる気がする。登場人物の多くが、まるで自然な演技をする喜劇俳優のようにすら感じられるのだ。日本で精神障害者のドキュメンタリーを作ったら、この「自然な軽妙感」が出るだろうか?

***

 この映画を見始めた人は、画面に登場する誰が患者で、誰が医者で、誰が一般職員なのかが区別が付きにくいことに気づくかもしれない。もちろんしばらく観て行くうちに「何となく」その違いはわかってくるのだが。
 この病院にはスタッフや患者用の制服などは一切ない。そして、患者も、できる範囲で病院の日常的な業務の中で一定の役割を与えられている。病院の電話番をして、突然かかってきた英語での電話に片言で応対しているのが、実は患者なのだということも、観て行くうちにさりげなくわかる。逆に、病院のスタッフの中でチーフ格と思われる女性もまた、毎日のみんなの食事を作る当番のひとりとして、患者たちの中へ、自然に加わっている。もちろん医師や心理士、薬剤師等の専門家も勤務しているのだが、あまりに分業的になることをこの病院では意識的に避けようとしているようである。そして、上演される演劇にも、職員たちは、患者たちと対等な役柄で、一緒に練習し、一緒に衣装を着て舞台に立つのである。
 ちなみに、この病院には「教師」と呼ばれる身分の人が何名も勤務しているが、その中にはオペラ歌手や煉瓦職人も含まれるという。監督によれば、この病院の職員としての採用基準は「専門家としての資格ではなく、人間性」とのことである。
 監督は、インタビューで「映画に出てくるこの人は患者なのか職員なのか?」という類の質問には答えないようにしているそうである。ひとつには、患者であることを知られたくない人もあるかもしれないことへの配慮だそうだが、私には、それ以上に、監督自身の注ぐ登場する人たちへのまなざしそのものが、職員であるか患者であるかに全くとらわれていないようにも思われるのである。監督は、この精神病院を格別ユートピアとして描いている意識すらなく、自分たちと同じ、日常の生をそれなりにささやかに楽しみながら生きているひとりひとりへの共感をベースにしているように思われる。
 もちろん、中には、ひげぼうぼうでむっつりとして歩き回り、時々ぶつぶつとコミュニケーションにならない言葉をつぶやくことが多い、かなり病状が重そうな老人患者なども登場する。恐らく多くの人はこうした人を目の前にしたら硬く緊張して途方に暮れてしまうかもしれない。ある程度はそうした人に接して来た経験がある私ですら画面を見ていてその種の「こわばり」に一瞬とらわれたが、映画が終わる頃には、その人物が、子供の頃近所に済んでいたおじいちゃんであるかのように、記憶に残る忘れがたい親しみある人物のように感じられてしまったのである。

***

 監督は、このラ・ボルドに勤めたことのある知り合いから「あなたはこの病院に行って映画を撮るべきだ」と強く奨められたという。しかし、最初のうちは、このような世間を離れて暮らす障害を持つ人たちの日常に土足で踏み込み、一般公開する映画を撮ることに対する躊躇も大きかったという。この映画の撮影に先立ち、監督たちは病院に繰り返し赴き、患者や職員との話し合いを重ねたのだが、その席上で監督は、上述の躊躇の念を率直に患者たちに語ったという。すると患者たちの中から「そのような迷いの念を持って下さるというだけで、あなたは尊敬に値する人間です。どうぞ私たちの生活を撮って下さい」とむしろ歓迎する反応が広がり、結局、病院を自由に撮影していいけれども、画面に登場するかどうかは本人の許可を取るという形で撮影が始められたという。
 最初の一週間はカメラも回さなかった。患者や職員たちが撮影スタッフたちと気心を知れるようになることを優先したのである。完成した作品を病院で上映した時も、「これぞ私たちの姿と生活をありのままに映した映画だ」と患者たちに絶賛されたという。

 監督は、「自分がすべてを知っていて、それを観客に『教えてあげる』ような作品づくりをするつもりはない」と語り、客席からの「日本の若い精神障害者に何かメッセージを」という求めには応じなかった。
 だが、それでも次のことだけは語った。「この病院が目指しているのは、ひとつには、かつて共同体から疎外された患者たちに、再び共同体に参加する機会を与えること。そして、もうひとつは、患者の日常の中で生じる、些細にも思える小さな事柄に関心を持って共有していくことを大事にしているそうです。私がこの映画に『すべての些細な事柄』とタイトルを付けたのはこのためです」

 「ここにいるとまるでお母さんに抱かれているようなんだ。社会が私たちを病気にした。でも、私たちを病気から癒してくれたのも社会なんだ」

 ひとりの、中年の男の患者はそのように語った。

 幅広い層の一般の人たちにも、「気軽に」観て欲しい映画である。人間が好きな人なら、決して退屈することがないだろう。

***

 

 

次へ進む


「こういちろうの心理学ノート」INDEXに戻る

「フォーカシングの部屋」に戻る

ホームページに戻る

Email:kasega@nifty.com