第8回 バリント『治療論からみた退行』の症例について
バリントの「治療論からみた退行」(中井久夫訳 金剛出版)、取り敢えず読了しました。確かに、精神分析用語の煩わしさはありますが、標準的な精神分析の治療同盟とはどのようなものかを最小限理解していれば取り敢えず乗り越えられる水準かと思います。そして何より、「たいへんなクライエント」に苦労した経験のあるセラピストなら、思わず共感し、なおかつ「グサッとくる」生き生きとした叙述の宝庫というしかなく、どんどん引き込まれました。特に終わりの2,3章は味読に値すると感じました。
いわゆる「限界設定」や「行動化」についての見解をはじめとして、流派に関わりなく、今日でも多くのセラピストが取り敢えず従っている治療的態度について、非常に根本的なところで再認識をせまる、何ともはやpregnantな魅力に満ちた本だと思います。
もとよりバリントは、わかりやすい技法として解決策を提示しているというわけではないのですが、何と言いますか、それこそ神田橋先生風に言えば「幽体離脱」して、「語り手」のバリントの「身になってみる」つもりで「傾聴する」つもりで読むと、バリントが「身体で」取っていたスタンスが自分の身体に少しずつ「しみこんで」くるような、そんな本という気がします。
これを本当に消化吸収するには、折に触れて読み返し、しかも面接の現場の中で「バリントならここでどうするか」などと反芻しながら味わう必要があるという気がします。
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さて、抽象的な一般論にならない形で、私の専門とするフォーカシングとも関連づけて少し具体的なことを述べてみようと思います。
訳書P.170から出てくる症例。
バリントが1920年代後半から分析治療を開始した女性の主訴は、恋愛や学業での自分の不決断に悩んでいた。
2年の面接の後、バリントは
「どうやらあなたに最も大切なことは、安心して頭をもたげ両脚でしっかり大地を踏みしめることですね」
という解釈を与える。
女性はそれに応えて、
「私は小さい時から一度もとんぼ返りしたことがない。
いろんな機会をとらえてやってみましたがだめでした」と答える。
バリントは言う。
「今はどうだね」
女性は寝椅子から起きあがると易々ととんぼ返りを打つ。
女性自身びっくりしてしまう。
この後、女性は試験に合格、結婚。その後バリントとその女性の祖国だったハンガリーは、ナチ台頭、第二次世界大戦とそれに引き続く共産政権樹立などの動乱の中にあり、バリントが祖国を離れイギリスに移住した後も、その女性は、その外的な運命の変転の中を立派に耐え通す。
彼女の転機となった「とんぼ返り」の促し。若い女性が面接現場で突然とんぼ返りをして、一回で成功するという光景は、想像するだけで不思議な光景なので、この本を読んだ人の少なからぬ部分はこの箇所を決して忘れないと思うのですが。
これをバリントは、従来の精神分析の考え方からすると「転移」場面での「行動化」としてとらえられてしまうが、実は「良性の退行」の状況下ではじめて可能な「新規まき直し(new beginning)」のきっかけを与えた示唆であるという意味のことを述べているわけですが。
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この症例を読んでふと思い出したのが、私が学生相談の中で、進路等の選択に迷い、「何をやろうとしても本気でコミットできない」「ほんとうにそれが自分のやりたいことなのか確信できない」などと、アンデンティティ拡散的なことを訴えられた場合に「決断しようとしても『腰が据わらない』『足が地につかない』わけね」などという「身体感覚的比喩の」レスの仕方を私個人はよく使うわけですが、更に、およそ次のように提案してみたことが何回かあったことです。
「椅子に座っている時、深く腰掛けて、自分の身体がどちら側に引っ張られているか内側から感じてみることを時々やってみたら。自分の身体に『重力』がどのように働いていて、その結果、椅子にからだがどのように押しつけられているか。椅子の方からあなたの身体にどのような『反作用』が返ってくるか。椅子はあなたの身体をどのように『支えて』くれているのか。
……その『重力』の働く方向を大事に味わえれば、より『腰が据わった』形で物事を判断できる方向に近づくかもしれない。『その』重力の方向が、あなたが進んでいくといい方向なのだと思う。ゆったりと腰掛けようとしても心地よく身体が(椅子が)受けとめてくれない時は、確かにどうにも『足が地に着いていない』時で、無理にそのタイミングで何らかの行動を無理して選択しなくていいのかもしれない」このような提案をすると、何か素っ頓狂なことをいわれたとしか思ってくれない学生もいますが(^^;)、少なくとも実害はあまりないかなと今のところ思っています。(不用意に鬱状態の人とかに使ったら、鬱をひどくする心配はないかな、とか、直観的には思うのですが)
これは、実は、フォーカシングの名教師、アン・ワイザー・コーネルの技法にインスパイアされたものです。
(アン・ワイザー・コーネル「フォーカシング入門マニュアル」「フォーカシングガイドマニュアル」 ともに村瀬孝雄監訳。金剛出版)。このアンの技法では、フォーカシングの最初で、身体の真ん中に注意を向けてもらう際に、まずは
「椅子とお尻や背中が接している部分の感じを内側から感じることはできますか」
というのをやりますけど、その技法からヒントを得たものです。
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それにしても、バリントの、先の症例の女性に対する
「どうやらあなたに最も大切なことは、安心して頭をもたげ両脚でしっかり大地を踏みしめることですね」
という「解釈」を最初に読んだ時は、独特のインパクトがありました。精神分析的な「解釈」というものについての私の先入見的イメージからすると、あまりにも平易で、『ひらがなで』表現された言葉と思ったからです。
これは、その場で相手に『通じる』表現を見つけだすバリント自身の臨機応変で当為即妙なセンスの良さと、中井先生の訳文のセンスの良さが複合しているのかもしれないと思いますが。本日、大学の図書館から、中井先生の『アリアドネからの糸』(みすず書房)を借りてきました。楽しみです。
- 今回の稿は、日本フォーカシング協会メーリングリスト、"focusing-net"への私自身の書き込み、<356><362>を改訂の上で転載させていただいたものです。
私はみにくい。
私は、まわりの「人間」たちと、何か決定的なところで、違う。
私は、他の「人」たちと同じようになれるわけがない。
「人間」と同じように振る舞うことなど、許されるわけがない。彼女は、そう信じていた。
だが、その彼女が「人間」に恋をしてしまう。
そして、魔法使いに、自分を「人間」にしてもらおうとする。ただし、魔法使いは一つの条件を出す。
「もしおまえが『人間』ではないことを見破られたら、その時、その愛する男性は、おまえを見捨てて去っていく」
と。
彼女は、完璧に『人間』として振る舞う決心をする。そして、『人間』ではないと悩んでいたことすら忘れてしまおうと決心する。
そして、ほんとうに彼女は、そのことを忘れてしまう。
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生まれた自分の娘、リカがイグアナにしか見えないという奇妙な幻覚にとり憑かれた母親、ゆりこ。
彼女は、娘リカに愛情を感じることができない。もうひとり、今度は「普通の」人間の女の子が欲しいと望む。
そうやって生まれたリカの妹、マミは、母親の思い描く理想どおり、女の子らしい、かわいい子供へと成長する。
そのマミをひいきして、イグアナ=リカを虐げ続ける母親。リカ自身も、自分は普通の人間とは違うという疎外感を感じつつ、それでも母に愛されたいと努力するが、すべては裏目に出るばかり。物語は、そうやって母親に愛されることのないリカへの読者の感情移入を誘う形で進行する。
こんな醜い子には女の子らしいかわいい服は似合わない。かといって、男の子っぽく育つリカが野球に興味を持つと「女の子だから」とやめさせる。
ボーイフレンド? イグアナのクセしてませている。知能指数が学校一? イグアナのくせになまいきだ。
すべてが否定。どちらをやっても受容されない。決してありのままの自分を母親に受けとめてもらえることがない。母親の誕生日に贈られた、妹マミからのハンカチのプレゼントは喜んで受けとるのに、イグアナ=リカからの手鏡のプレゼントは「無駄遣い」と叱りつける。
おまえには、人に愛情を贈り、その愛情を受けとめてもらう資格もないのだ。***
ひいきして愛される妹マミは、母親と一緒になってリカを軽蔑し、リカと違って母親に愛されている自分に優越感を感じていたが、自分のボーイフレンドが姉のことを美人だと振り向いたのを見た時、ショックを受ける。
それまでは、マミは小さい頃から、母親の「リカは醜い」という暗示によって目を曇らされていた。だが、この時を境に、リカの「ありのままの姿」を自分の感性で受けとめようとし始める。
そして進路指導で、姉リカと自分の偏差値に決定的な開きがあり、姉の頭の良さを素直に尊敬する気になったことをきっかけに、むしろ姉を差別する母親に抗議して姉の味方をしはじめる。
この時から、母親の理想通りの人形として育ってきたマミの自立がはじまり、母親から「このごろ反抗的になった」とみられるようになる。
ここまでのストーリーの流れの中で、この、妹が姉の理解者に転じていく成り行きは、私の中に、はじめて救われるものを感じさせてくれた。***
母親とリカ自身の目にはイグアナと見えるリカも、他の人からは容姿が美しい女性と映り、いろんな男が声をかけてくる。彼女はそうした男性たちに自分が魅力的に映っていることが理解できないのだが、声をかけらけるのは嬉しい。デートに誘われれば、思わずお風呂でうきうきと身体を磨きはじめてしまう。
だが、その男性との恋の夢を更に思い描こうとすると、行き詰まる。夢の中で、リカは怪物のようなイグアナになって男性を大きな口で食べてしまうのである。
結局は、自分が人間ではなくてイグアナであることがばれてしまい、イグアナとしての本当の自分がありのままにふるまったら、相手を破壊してしまうのではないか。そのことへの恐怖が、彼女が実際に恋愛に踏み出すことを躊躇させる。そこに現れた牛山一彦という男性。木訥で大柄、大きな牛のよう。
リカは彼を「食べてしまう」ことへの恐れから、当初、自分の中の彼への感情を抑え込もうとする。
だが、夢の中でイグアナの彼女が彼にガブリとかみついても、大きな牛の身体はびくともせず、まるで蚊をはらいのける程度のこと。
すっころんだ彼女を「怪我はない?」とむしろ助け起こしてくれるのである。この人(この牛)なら、ありのままの私をぶつけても壊れない。大丈夫だ。
この展開、イギリスの女性精神分析家、メラニー・クラインが唱えた「抑鬱ポジション」の理論、つまり、赤ん坊には、自分が母親に向けた攻撃性によって母親を破壊してしまったという抑鬱的な妄想にとらわれる時期があるが、実際には母親は破壊されてはおらず、繰り返し復活して現れてくれるという体験の中で母親への信頼感が育まれるという見解を思い起こさせられる。作者の萩尾さんはクラインを知っていたのではないか。
リカは彼との恋を深め、結婚する。
この期に及んでも、母親は、「三浪した男なんて信用ならない。だまされている」などと横槍を入れ、祝福してくれない。それでも、北海道での新婚生活は、時には喧嘩をしながらも、以前からすればこわいくらいに幸せだった。***
だが、その母が急死する。
恐らく、リカも幸せをつかんで独立した家庭を築き、自分の人形だったマミの方も精神的に自立する中で、母親は内心孤立を深め、その疎外感が、心も身体も急激に蝕みはじめていたのではないか。
故郷に戻る途中、「ほっとしてる。ちっとも悲しくない」自分に戸惑うリカ。
死に顔を見たら少しは悲しくなるかもしれない。
だが、そこに見たのは、自分と同じイグアナの姿をした母親の顔だった。
悲鳴を上げるリカ。もちろん、母親の顔は他の人たちにはイグアナとは見えない。
その晩見た夢の中で、リカはすべてを察する。それがこの文の冒頭で述べたシーン。
母親自身が、昔は自分のことをイグアナだと思いこんで、悩んでいたのだ。だが、そのことを自分でもすっかり忘れてしまうぐらいに完璧に「人間」を演じるオトナとなった。
だが、娘リカの中に投影する形でのみ、彼女は、無意識下に抑圧した「自分の中のイグアナ」をみるようになったのである。娘リカへの嫌悪は、かつての自分自身への嫌悪。そして、かつての自分自身を再び想起させられることへの無意識的抵抗。子供のリカが母親に贈ろうとした誕生日のプレゼントが「手鏡」だったのは象徴的である。自分の「ありのままの姿」を映し出し、それと直面するためのもの。母親は、そのような自分自身への直面、つまり、他ならぬ自分が自分にイグアナに見えることとの直面を拒否して、そのプレゼントを無意識的に嫌悪した可能性がある(これも作者の萩尾さんが意図的に仕組んだ伏線だろう)。
母親は、結局、生きている間は、自分が思い描くままの、理想的な「人間」を演じ続け、娘リカに投影されたありのままの自分を拒否し通したのである。死してはじめて、ありのままの姿に戻る。こうして、リカは浄化されていく。
「どこかで、母親の涙が凝(こご)っている」
リカ夫婦とその子供が散策する森の小さな流れの中に、一匹の小さなトカゲの姿がさりげなく見える。
転生した母親の姿か。
それとも、これからも「人間になりたい」と願う小イグアナはいくらでも生まれて、同じような物語が繰り返されるであろうという暗示なのか。***
『イグアナ−の−娘』というタイトルも示唆的である。
このタイトル、普通に読むと、『イグアナ娘』『イグアナの姿をした娘』だろうが、助詞の「の」をより素直に理解すれば『イグアナを母としていた娘』となる。つまり「母親がイグアナだったのだ」ということの方に力点がかかることになる。このへんも、作者が意図的に二重写しにしたものだろう。人間の内面の未解決の葛藤は、本人の意識的な意志を越えて、親から子へと、更にその子へと、世代を越えて引き継がれる。かつて自分が感じた苦しみを、今度は我が子に味あわせるきっかけをいつの間にか作ってしまう。
だが、その不幸の連鎖は、止められる時には止められるのだ。
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萩尾さんの作品は、『マージナル』を折り返し点にして、急激に、生活感のある現代の生身の人間の日常の内面を描く方向へと関心を転換したように思う。
そうしたここ数年の流れを端的に象徴する短編こそが、この『イグアナの娘』であり、コミックスの同じ巻に収録された、『カタルシス』『午後の日差し』『学校へ行くクスリ』などの作品群、そして現在も連載中の長編『残酷な神が支配する』だろう。下手なドラマなど足元にも及ばない、物語の、無駄を廃した緻密な構成力も凄い。
だが、何より、これらの作品に込められた、潤いに満ちた響きに、私の中のイグアナも、渇きを癒してもらえた。
萩尾望都 『イグアナの娘』 他4編
小学館 プチフラワーコミックス