第10回 夢とフォーカシング

 

今回は私の専門の一つである夢分析のことを書きましょう。

 夢を分析する時に、例えば「高い塔が出てくればペニスの象徴」式に、これこれの内容はこれこれの「象徴」であるとか、これこれの無意識的願望を意味するなどというふうに、まるで辞書でも引くかのように分析することそのものには、無意味ではないにしても、さして重要なことではないというのが私の立場です。

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 フロイトは、すべての夢を願望充足であるととらえます。それに対して、ユングは、夢の中の場面や登場人物というのは、基本的に、その人の意識的「自我」にまだ統合されていない自分の内界が投影されたものであると考えます。

 つまり、ユングに言わせれば、夢の中に登場してくる他者はすべて自分自身の意識的な生き方に未だ統合できないでいる「自分自身」の様々な可能性であり、それを「自我」に統合していくことにより、自己実現の過程が前進していくと考えています。

 夢の中に出てくる異性は、自分自身の中の、まだ生きられていない異性的な側面ということになります。男の人にとっては夢の中に出てくる女性は自分自身の中の女性性で、これを「アニマ」と呼び、女性の夢の中に出てくる男性のことを「アニムス」と呼ぶことは皆さんもご存じかもしれません。

 同様にして、夢の中に出てくる、自分とは好対照の、得てして自分を当惑させたり攻撃したりしてくる、多くの場合同姓の姿を取る人物は、自分自身が意識的自我から排除した、自分の現在現れている性格とは正反対の側面のことで、これを「影」というわけです。
 この「影」は決して単純に「悪いもの」ではないわけです。

 たとえば、夢の中に自己主張が強い人物が出てきてその人に振り回されるとすれば、自分自身が「もう少しは」その夢の中の人物のような自己主張的態度を発揮してもいいのではないかと言うことを示唆するものではないかと連想してみるのがいいかもしれません。

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 もう一つ強調したいのは、夢を理解する際に重要なのは、夢の「内容」ではなくて、その夢を体験している時の、身体ごとの「気分」「居心地」がどのようなものかだということです。

 たとえば、夢の中で出てくる場所について、場所のイメージとして、現実にそういうふうな場所を体験したことがないかどうかを連想してみるのは確かに意味があることがあります。丁寧に探していけば、例えば、子供時代の忘れていた思い出と結びついて、その瞬間に大きな洞察が得られるかもしれません。
 しかし、その「場所」が、視覚的に見て過去の記憶の場所と重なるどうかのみに拘泥する必要はないのです。実感の上で「そんなふうな」居心地になったことが現実にないかどうか、全く虚心に内面の実感を頼りに探してみると、一見別の光景に思えても、全く予想もしない場面での「居心地」と同じであることが思い出され、当初は当惑しつつも、なぜその過去の現実場面と夢の中の場面が同じ「居心地」なのかについての新鮮な洞察が次第に得られることがあります。
 得てして、夢を見ている現在と、その過去の現実場面で、同じような心境になり、同じような葛藤に直面しつつあることが示唆されているのです。このような現象を、「共通の『布置(constellation)』」がある、といいます。

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 同じようにして、夢の中に出てくる他者、しかも特に、自分の見知らぬ人(stranger)について、その他者が夢の中で自分に対して取っている態度を、その夢の中の人物になりきって心の中で思い切って大げさに演じてみて、演じてみるときの自分の内側の身体ごとの実感を味わってみると、予想外の発見があることが少なくありません。

 これは「心理劇」という技法やゲシュタルト療法でも使う「役割交換」とか"empty chair"とよばれる技法です。

 たとえば、化け物に襲われる夢を見たとします。その「化け物」になりきって演じるとすれば、目の前に、自分=化け物に襲いかかられる「私自身」がいるわけですね。この時、化け物になった自分自身の内側でどんな感じがするのか、そして、目の前にいる襲われる「私」がどんなふうに見えるのかを感じてみるわけです。かなりのケースでは、予想外の驚くべき体験となり、深い洞察を導きだします。

 このことは、夢の中に出てくる人間だけではなくて、動物や植物、それどころか岩やものや建物や海に「なってみる」という方向に応用することもできます。

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 この手法は、ジェンドリン著「夢とフォーカシング―からだによる夢解釈」(福村出版)に詳しく書かれていますが、池見陽編著、「フォーカシングへの誘い―個人的成長と臨床に生かす『心の実感』」(サイエンス社)にも、森あい子先生の、実におもしろい、ライオンとラクダの夢についての実例が載っています(この本、私も一章書かせていただきましたので宣伝そのものですが)。

少し省略して概説すると、

「町の四つ辻の電信柱にラクダがつながれている。突然ライオンが飛びかかり、後ろからガブリとラクダを食べた。ラクダはギャーッ甲高い声を上げて倒れて死んだ。私はああーっと言って目を覆いそこに座り込んだ」(pp.143-4)

 この人は夢分析を進める際に、まずは夢の中のラクダに「なってみた」。重い荷物。だが降ろして欲しいとも頼めないまま。
 彼女は、子供時代から、人に頼まれたことには嫌とは言えなかった自分を思い出す。ちなみに、夫は「電気関係」の仕事で、「電信柱」につながれたラクダの姿は、まさに自分の姿であることにも気がつく。

 だが、彼女はここで分析を止めなかった。ラクダにかみつくライオンにも「なってみる」決心をしたのである。

 太鼓のようなうなり声が聞こえてくる。低くうなってみる。続けて何回か吠えてみる。喉から「ライオン化」がはじまった。
 激しいエネルギーが次に腕に来て、次に足を踏ん張り、瞬時にラクダに跳びつき、大きな口でガブリとやった。

 ライオンがラクダの後ろ半分を食べた時、ふとラクダの顔が振り向いてライオンと顔を合わせる。ライオン=彼女の身体がゾクッとする。食べられることを了解したのか?

「食べられるものと、食べるもの、両者をそのとき生きたと思う」(p.149)

 自分自身の辛抱強い「ラクダ性」を、その人の「影」になっていた「ライオン性」が消化して、対立から統合に向かう。

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 また、ユング派の流れをくむボスナックという人の"dreaming body"とよばれる夢解釈の技法(来日時に実演を見ました)も、このジェンドリンの技法と随分似たところがあります。

 おもしろいもので、夢分析のために夢を覚えておこうと一度決心すると、容易に夢を「覚えていられる」ようになることが少なくないようです。起きあがると忘れやすいので、枕元ですぐにメモを取る方がいいかもしれません。

 


 

第11回 群れる野ネコの生態学

 

しばらく多忙で、「心理学ノート」、実に、実に久々です。

今回は脱線して、2度目の動物ネタです。しかし、人間の心理と重ねて読むこともできるのではないかと思います。

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 教育テレビで現在放送中の、「NHK人間大学」の「群れる・離れるの動物学」 (担当講師:琉球大学助教授 伊澤雅子氏 毎週水曜日22:45-23:15 1/13-3/31 全12回放送 テキストはNHK出版より発売)を楽しみに観ている。
 一言で言えば、私たちの身近に幾らでもいる、野ネコ(野良猫)について、動物行動学の観点からなされた研究について紹介するものである。

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 イヌはもともと群れで生活するもので、群れを構成する個々の個体の間には、厳密な「順位」があることは良く知られているだろう。飼いイヌと共に暮らす個々の人間も、イヌにとっては、群の中で序列何番目の「イヌ」であるかどうかが問題であり、序列1位の「ボスイヌ」の地位についた人間には従うけれども、そのイヌよりも低い序列に位置づけられた人間の家族には従わず、噛みつくなどの振る舞いもする……などというあたりは、例えば『モーニング』連載の守村大氏による『考える犬』などにも描かれている。
 そのような、群れ生活するイヌに対して、ネコの方は、基本的には単独行動を本能とする動物であると考えられてきた。
 皆さんも、集団への適応に気を使い、他者との信頼関係の絆を大事にし、孤独を嫌う、人なつこい「イヌ型」人間に対して、必要とあらば人間に媚び、利用するけれども、継続的な心の絆を期待する人間を平然と裏切り、何を考えているのかわからず、マイ・ペースで気まぐれで孤高を保つ、「ネコ型」人間、という形で自分自身や身の回りの人物をタイプ分けすることがあるだろう。
 クレッチマーの性格類型論に当てはめれば、「イヌ型」人間とは、他者との協調性を重んじる「躁鬱気質」(循環気質 太り型)であり、「ネコ型」人間とは、対人関係で他者との距離を保ち、本心をなかなか明かさない「分裂気質」(やせ形)人間に相当するだろう。
 では、ネコには「社会」というものがないのだろうか? ライオンやチーターは群れを作る。しかしこれらの種はネコ科の中では例外、異端児であり、トラやイエネコを含むネコ科の大半については、生殖行動を別にすると、基本的には単独行動というのが従来の考え方であった。

 だが、そこに第3の例外があることが近年「発見」された。それが野ネコなのである。

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 伊沢氏によれば、野ネコの行動観察をしていくと、ネコ社会の基本的なルールとして、次のようなものが見出せるという。

 

  1. 野ネコは「規則正しい」生活を好む。

    個々のネコは、そのネコ固有の、一定の寝ぐら、ゴミ箱などの餌場、休息所を決めていて、それらを毎日、基本的には一定の道順で、ほぼ同じ時間に規則正しく巡回する。季節や天候などによる変動はある程度はあるらしいが、時を置いて同じ個体について観察しても、基本的には同じようなコースを巡回するのが確認できるそうである。その規則を変更することは好まない。
     例えば、「巡回」の途中で偶然イヌに出会ったとしても、引き返してしまうことなく、物陰に隠れていて、イヌが去った後で「予定通りの」コースを先に進むことを選ぶらしい。

  2. お互いに出会うのを避ける

     そうした巡回の途中で他のネコと出食わしたらどうするか? ネコの個体相互間の基本原則の第1は「なるべくお互いに出会わないようにする」ということである。他のネコの存在に先に気づいた方が、もう一匹がその場を立ち去るまで、脇道や物陰に隠れて待っているそうである。
     もし、運悪く、お互いに鉢合わせてしまい、しかも脇によけるなどがやりにくく、すれ違うしかなくなったとすればどうするのか? こうした状況はも双方のネコにとって、物凄い「緊張状態」だそうである。できるだけ互いの目を合わせないようにして、慎重に距離を取って、ゆっくりゆっくりとすれちがう。

  3. 早いもの勝ち

     例えば、いつもの休息場所に向かうと、すでに他のネコがその場を占有していたとする。すると、先に来ていたネコがその場を占有する権利があり、後から来た個体は引き下がる。これは後から来た個体の方が大きかろうと強かろうと、そんなことには関係ない。「先着順」がネコ社会の基本原理である。
     一般に、生殖行動や食べ物の確保などで、非常に差し迫った状況に追い込まれない限り、ネコ同士は互いに争うとことをせず、この「先着順」の原則を守るそうである。

  4. おしっこは交通信号

     ネコも、イヌと同様に、通りすがりのあちこちにおしっこを噴射するという「マーキング」行動を取る。しかし、野ネコの場合、これはなわばりの確保や発情期の異性の誘惑という目的だけではなく、前述の「互いに出会うのを避ける」ための工夫として発達した側面があるそうである。つまり、他のネコのおしっこのニオイが新鮮なものなら、近くに今も他の個体がいるという意味なので、前進停止の「赤信号」、少し古めになると「注意して前進」の「黄信号」、古いニオイなら「安心して前進」の「青信号」というわけである。

  5. 高いところにいるものの方が優位

     例えば塀の上と下などでネコが出くわした場合には、高い位置にいる個体の方が「気分的に優位」である。ただし、これは、たまたまその時高いところにいた者が、その場の「気分」で優位になれるに過ぎない。 例えば人間にしても、塀の上にいるネコを見上げる場合には、かなり近づいてもネコの方は平然としている。しかし、ネコを「見下ろす」アングルに立つとネコはびっくりして逃げ出してしまう。

 

 「できるだけ他の個体と出会わないように互いに配慮する」とか「先着順」が基本原則と聞いて、こうしたネコ社会の基本的な掟に妙に共感し、「うらやましく」すら思う人も少なくないのではなかろうか??? 何とも分裂気質者向きの集団ルールである。

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 さて、ゴミ箱などで得られる餌の分量が限られている限り、野ネコたちは、一匹一匹が、それぞれ別々の餌場を確保し、それぞれのなわばりを確保する。つまり、一匹ごとのなわばりの碁盤の目が、ほとんど互いに折り重なることなく分散され、そのそれぞれにそのネコ専用の餌場(ゴミ箱など)が一つずつある、という形で住み分けるそうである。子ネコも、生まれて数ヶ月は母ネコと共に暮らすが、それ以降は、自分だけのテリトリーと餌場を求めて親元から離れていく。近くにそうした空間が得られなければ遠方まで散ってしまう。
 こうした「一匹ごとに一つ、互いに折り重ならないなわばりを確保」というスタイルは野生のトラなどとも共通するもので、伊澤氏はこれを『単独なわばり型』と名付けている。

 だが、もし、ある特定の餌場に、一匹の個体を養うには十分過ぎるほどの餌が供給されるように状況があればどうなるか? 例えば、漁村などでは、売り物にならない雑魚などを大量に投棄する場所が幾つも作られることになる。こうなると、自分の餌を確保するために他のネコをその場所から排除する必要はなくなる。同じ時間に、ほとんど顔をつきあわせるようにして、互いに寛容な態度で、安心して餌を食べることができるようになる。こうして「出来るだけ顔を合わせないようにする」という、前述の「野良猫の掟」に、重大な例外が生じる。
 幾つかの餌場が隣接してある場合にも、どのネコがどの餌場を利用するかはほぼ決まっていて、他の餌場にも出入りする個体は稀だそうである。例えば、数百メートル以内の距離に隣合ったA,Bという2つの餌場があったとすると、一部の雄を除き、餌場Aに出入りするネコと餌場Bに出入りするネコは基本的には別々ということである。つまり、それぞれ排他的な「グループ」が成立していることになる。
 このようにして、特定の餌場を共有する形で、数匹から数十匹に及ぶネコが、個々のテリトリーの一部を重ね合わせて「群居」するという形態が成立する場合がある。
  ただし、この場合、グループ構成員は、休息場所や寝ぐらまで共有しているわけではなく、餌場以外では、それぞれが別のテリトリーを持ち、「なるべく互いに顔を合わせない」などの前述の「社会ルール」は堅持される。このようなスタイルを、伊澤氏は『餌場グループ』型と名付けた。

 なお、こうした『餌場グループ』のネコたちは、食事の後、すぐに餌場を立ち去るわけではない。毛づくろいなどを終えた後も、互いに身体接触はほとんどしないまでも、近接した距離で、友好的な態度で、共にたたずんだまま2,3時間を過ごすという行動が観察される。これが、俗に「ネコ集会(social gathering)」と呼ばれるものである。この「ネコ集会」が、生殖目的ではないことは以前から知られていたが、伊澤氏は、同じグループの構成員が、互いの顔を忘れないためになじみあうことを目的としていると理解すべきではないかと述べている。

 この『餌場グループ』型ネコ社会のさらに進んだ形態が、餌場ばかりか普段の生活空間すら共有する『餌場・休息場所グループ』型ネコ社会である。前者は、供給量の大きなゴミ箱などを餌場としているが、後者の場合には、もっぱら、ネコ好きの人からの給餌に依存しているという違いがある。
 ゴミ箱などの場合には、いくら捨てられる餌が豊富でも、ネコの数が増え過ぎてしまうとその集団を維持する上限に行き当たる。ところが、ネコ好きの人から餌をもらっている場合、子猫が増えればその分だけ餌を多くもらえるようになることが多いのである。恐らく、一日に複数回餌をもらえることが期待できる場合も多いだろう。こうして、狭い空間に、驚くべき猫口密度(?)で猫の大家族が集団で生活する空間が、ごく短期間で成立する場合が出てくるのである。

 ちなみに、同じ『餌場(・休息場所)グループ』の構成員は、親子関係、兄弟姉妹関係の血縁が濃いそうである。(ネコの場合には、DNA判定までしなくても、身体の模様が実に明快に遺伝の法則に従うため、どの個体とどの個体の子供なのかを判定するのは容易らしい。この種の『餌場グループ』型の生活をしている野ネコ集団をご存じの方は、同じ餌場のネコたちに、確かに同じ系統の毛の色のネコが多いことにお気づきかもしれない)。
 『餌場グループ』型ネコ社会では、特に母ネコと娘ネコの関係は緊密で、生まれてから2年たっても母親と共に過ごす娘ネコが多い。『単独なわばり型』地域において子ネコが母親から自立して独立したテリトリーを持つのは、同じ餌場で得られる食物の量が限られているからに他ならない。『餌場・休職場所グループ』型ネコ社会のように、豊富な食い扶持さえ得られれば、親から自立しなくていいのである!

 『餌場・休息場所グループ』型ネコ社会の場合には、子猫の「共同保育」すら見られる。つまり、母親同士が、互いに相手の仔猫についても、授乳などの面倒を見ることすらするのである。こうして、母ネコは、仔猫を他の母ネコのもとに残して餌を探しに行くこともできるし、身体の弱い母ネコの負担軽減にもなる。

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 結局、餌の状況など、環境に応じてしたたかに適応様式を変え、本来の単独生活型のスタイルすら捨てて、群れをなすことすら厭わないのが野ネコの社会なのだ。

 伊沢氏は、この野ネコの例を通して、動物行動学で、実はある特定の環境条件のもとでの観察結果に過ぎないデータに基づき、ある種に固有の普遍的な「本能」「習性」であるかのように決めつけることの危険を説いている。動物ですら、環境に応じて、短期間で想像以上にライフスタイルを変えて生き延びようとするものなのである。
 これは、人間の社会適応や家族関係について心理学が考察する際にも留意すべきポイントのように思う。家族関係のあり方などについて、安易に固定的な理想像や、ステレオタイプな病理像を作りすぎてはいないか?

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 猫というのは、せいぜいネズミを捕ることしか人間に期待されなかったせいもあり、イヌに比べると野生動物としての側面が強いままである。伊澤氏は「家畜」の定義を「生殖についての十分なコントロールを人間から受けていること」と述べていてる。この点からすれば、ネコは「家畜」には程遠く、家ネコですら、「せいぜい『餌付けされている』と言える程度」であると伊澤氏は言う。

 野ネコが、人間を都合のいいところだけ利用してしたたかに生きるだけの「すき間」のある生活空間が、身の回りから失われて欲しくないと、私個人は思っている。

 

千鳥が淵のするめ猫一家

 まさに『餌場・休息場所グループ』の典型といっていいネコたちのしたたかな生き様を追い続ける写真集です。ここのネコたちは、多くの人の善意によって、ただの餌やりに留まらない生活面でのいろいろなケアを受けています。

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