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第12回 「思いこみ」をぶつけること

 

アニメに限らず、「物語」についての評論というものそのものに関心が薄れてきている所があります。結局、物語についての評論そのものが投影法のロールシャハテストみたいなものに思えてきて。要するに物語という鏡に映した自分自身を語ることしかできそうにない。

そのようなものとして開き直り、「自己表現」の場とすることもモチロンあっていいと思います。そしてそれが他人の共感を得るとすればそれはそれでイイことなのかもしれないとは、決して皮肉ではなく、今でも思っています。

生身の人間というのは、虚構の登場人物や物語とは違って、絶えずこちらの思いこみを覆してくれる。自己完結を許してはくれない。そして恐らく、カウンセラーの思いこみを覆すようなことが何も起こらないカウンセリングなんて、ホントのことは何も起こっていないんだ、などと最近思います。

物語の登場人物はこちらに反論してくれません。でも、クライエントさんに限らず、自分が直接関わる現実の生身の人間は、絶えずこちらの予想や分析を越えた存在であり続ける。その弁証法的(?)過程そのものが大事なのだと思っています。

ただ、ある時点で自分がその「物語」をそのように受けとめたことが、自分にとっては意味のある、大事なことだったとは思うから、自分が過去に書いたことを消し去るつもりもないのです。
私が物語の登場人物に投影した、私自身の分身たちのためにも。

……といいつつ。

昨日、11月24日、NHK総合で朝10時35分から放送した「ようこそ先輩」という有名人が母校の教壇に立つ番組で、『エヴァンゲリオン』の監督、庵野さんが母校の山口の宇部の小学校でアニメの授業をするのがあったんですが、この番組の最初の方で、何の予告もなしに拙書『エヴァンゲリオンの深層心理』(アリアドネ企画)の表紙が大写しで1秒ほど写されました。恐らくタスキの文字に利用価値があったんだと思います。

庵野さん、自分はどんな人間かを生徒に事前に勝手に予想させて、生徒一人一人にタップをあてがい、パラパラアニメでそれを表現させ、更に自分の両親を含む子供時代のゆかりの人や場所を子供たちに取材させて、それをまたパラパラアニメにさせてビデオとパソコンでその場で撮影・編集して一本の作品にしてしまうということをやっていました。

子供たちに自分なりの「思いこみ」を作品として表現させ、更に自分なりに「現実」の中から取材させ、そこから更に新たな「思いこみ」としての作品を作らせるというのは、いかにも庵野さんらしいやり方だったと思います。それにしてもこの人、どこまでも素材は「自分自身」なんだな……と。

3週ぐらい前、スピリッツに連載中の榎本ナリコの『センチメントの季節』(この人が、エヴァ論で同人誌界で著名だった「野火ノビ太」であることは知る人ぞ知る)で、男の18禁少女漫画家を登場させ、「これは全部自分の妄想に過ぎないんだ」自嘲する漫画家に、ファンの少女が「でもそれもあなたの『こころ』でしょ?」と言わせるけれども、勝手な思いこみであろうと妄想であろうと「表現」せずにはいられない作り手の「こころ」というものをうまくとらえていたようにも思います。

結局、人類補完計画が成り立たない以上、人は、他人の「こころ」そのものを理解することはできず、他人の心を自分自身の「思いこみ」「妄想」を通してしか理解しようとすることはできない。

(もちろん、相手の話をじっくりと「聴く」中でもこちらの「思いこみ」は覆されていきます。しかし、相手から「聴いた」ことをどのように受けとめるかとなれば、結局私の「こころ」を使うしかない。そこに開かれるのは、結局、私の中の相手への、更新された新たな「思いこみ」「妄想」がつきまとうはずです)

そういう「思いこみ」を他人にぶつけすらしないよりも、実際にぶつけて、それが他人の共感を得るかどうか試してみることをする方がまだましかもしれない……などと思う今日この頃なのでした。

 


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