アニメファンの基本パーソナリティの成立についての一仮説 :
マーラーのいわゆる「再接近期」における自発性の撤去
こうして、フィオレとキセニアンの関係を通してアニメファンの両親との関係と成育歴の問題への注意を喚起することとなったが、ここでしばらく『セーラームーン』の物語から離れて、アニメファンのパーソナリティとその成育史的要因についての筆者の見解をまとめて述べてみたい。
一般に、おたく族について、「いつまでも子供のままでいたい存在、大人になりたくないモラトリアム人間」といった言い方が好んでなされる。筆者はこの「通説」に対して或る違和感を常に感じてきた。それは、彼ら・彼女らが「子供っぽい」「子供のままでいたい」などと言われる時の「子供」とは何を指すのかがひどく曖昧なままで、そこに或る種の混乱が生じている気がしていたのである。
むしろ、彼ら・彼女らは、無邪気な子供時代を最初から持っていないとも言えるのではないか。おたくたちが思い描く理想としての「純粋無垢な子供」の姿は現実の子供の姿とは実はかなり掛け離れている。彼ら・彼女らは、現実の幼稚園児に身近に遭遇すると、 「ギャーギャーうるさくて汚らしくて煩わしい」悪魔的存在とけむたがることが多いという自己矛盾を平然と犯すのである。『クレヨンしんちゃん』の主人公は、むしろ現実の幼稚園児に内包された悪魔的な側面を誇張してカリカチュアライズされた存在と言うべきだろう。だからこそオタク層にはウケないのである。
彼ら・彼女らは、むしろ、「一人前の」子供らしい子供になることをひどく根本的なところでスポイルされたまま、形の上でだけの成長を迫られていた存在ではないのか。もしそうだとすれば、彼ら・彼女らに更に強引に大人社会への適応を迫ることは、内在する歪みを更に拡大することに他ならない。その歪みに耐え切れなくなることへの防衛・抵抗として、おたくたちは「大人になる」ことを拒み、モラトリアム的現状を維持しようとするのではないのか?
彼ら・彼女には真の意味で「子供」としてこの世に祝福されて生まれ落ちた経験をまだしていないのではなかろうか?
筆者は、このことを、アメリカの女性小児科医、マーラーが、数多くの母親と子供の相互作用を継続的に直接観察したデータに基づいて確立した『分離−個体化』理論(主としてマスターソン,1972 に基づく)の発達図式に当てはめて捉えてみたい【注】。
【注】ウイニコットやマーラーらの発達早期対象関係論は基本的に「二者関係」論である。そこにはエディプス期以降の三人目の登場人物としての「父親」に固有の役割が認められていない。これは父親が子供との関係に無意味と言うことではなく、父親もまた、育児に関わる場合には「母親」と同じ意味を持つ者とみなされている。ウイニコット,1965 自身、自分の文献で「母親」という言葉を用いる場合には、「母親的役割を取る人物」すべてのことを指すことを注釈している。例えば「good enough motherとしての役割を果たす男性セラピスト」という表現すら可能である(心理療法家としてのウイニコットを一言で言い表せば、まさにそのような人物であった)。
つまり「母親」という言葉には男性つまり父親や、家族以外の養育者も含まれる。更に言えば、「乳房」という表現は必ずしも人工栄養否定を意味しない。以下の本論文でもこれに従う。
おたくの場合にも、多くの場合には、マーラーの『分離−個体化』理論で言うところの生後一年未満の 『共生期』 における親との相互作用は、基本的には、ウィニコットの言う「ほぼ十分(good enough) な」形でなされているのではないか。すなわち、赤ん坊の中に何らかの欲求不満が生じた時に、「あたかも自分が欲求するということが対象を『創造する』かのように」、的確に、乳房に象徴される供給物が与えられることが「ほぼ十分に」なされているように思われる。
この時点では、乳房は必ずしも自分の外部にある現実存在として十分に体験されているわけではない。自分が「お乳がのみたい」と空想すると、あたかも魔法の呪文に応じてくれるかのように目の前に乳房が現れてくれるわけであり、乳房が自分の空想の生み出した幻想なのか、外界の客観的実在なのかについてのはっきりとした認識は赤ん坊にはない (子供時代の衛にとってフィオレとの出会いがそのような現実とも幻想ともつかない曖昧さを持っていたことに注意)。
このような、赤ん坊の生理状態の変化に敏速に対応する養育者の高度な共感性は次第に減じられて行き、赤ん坊は次第に欲求不満や不快に長時間耐えねばならなくなる。「自分の中には確かに欲求があるのに、必ずしもそれは即座に満たされない」という体験を通して、赤ん坊は、自分の単なる延長でも一部でもない、自分の自由にはならない「自分ではない」外界と他者が存在することを徐々に認識できるようになって行く。
ただし、自分が一定の自発的身ぶりとしての働きかけをすれば、たいていの場合にはしばらくのうちには欲望は満たされるという体験は堅持される【注】。大抵のオタクの場合でも、こうした中で外界や養育的他者への「基本的信頼感」そのものはある程度は形成され、決してバリントの言うような「基底欠損」ということはないだろう。
【注】ちなみに、生後4カ月ごろから、母親自身の身体や直接的な世話を得られない瞬間にも、特定の毛布や、おしゃぶりや、自分の指や、ほとんど叫びに近い自発的な発声などが、特別な愛着の対象となり、母親の方もそれが赤ん坊に取って特別の対象であることを尊重し、安易に取りあげたり洗濯したりはしなくなる。赤ん坊はその対象への愛着に没頭している限りは母親と分離している不安を感じずに済むのである。
このような対象のことをウイニコット,1971 は 「移行対象(transitional object 「過渡対象」とも訳される) 」と呼ぶ。 この「移行対象」という、精神分析に関心のある心理療法家の間ではkey concept として周知の概念は、単に毛布を吸うことが乳房の代用品となることで子供の不安が静められるということを指すかのように短絡的に誤解されがちである。しかし、単なる空想や内的願望の投影ではなくて客観的実在物でもあり、だからといって母親それ自身のように、自分の意志から分離独立した「他者」としての「外的対象」でもなく、いわば現実と空想の中間に位置する過渡的・移行的(transitional)な対象、しかもその赤ん坊の心的世界における特別の価値を母親によっても承認されている対象であるという点に意味がある。
おたくが執着する収集物などの「モノ」との関係、そして、フィオレが衛から贈られた薔薇の花に向ける、まるで他者との「つながり」による安堵すべてをその「モノ」に象徴させるかのようなこだわりは、こうした、自分が助けてくれる人もないまま孤立の中に放置されているという「分離不安」・「見捨てられ抑欝」への直面から身を守ってくれる「移行対象」としての性格を持っている。
もとよりオタクの場合には、その「移行対象」を他者−世界とのつながりとして保証しているのは、もはや現実の母親ではなくて、ここで「キセニアン的代理母」と呼ぶ所のものということになる。
いずれにしても、赤ん坊の運動機能はこうした間にも急速に発達していくわけで、欲求の充足は完全に受け身的なものから、自発的・能動的な活動性が関与するものへと急激に変動する。
次に、生後1年前後の、マーラーの言う 「練習期」であるが、この時期はハイハイから直立歩行が可能になり、赤ん坊の中に旺盛な外界の対象への自発的な関心と探索欲求が生じ、興味を持つ対象に向かって一目散に歩いて行き、何でも手に取っていじり回してみたり口に入れたり、同じ対象を飽きもせずに眺めたりする。
これはおぼつかない足取りで歩いていて転んだり、何かに頭をぶつけて痛い思いをするなどということがどれだけくり返されようと、親に何度しかり付けられようと、懲りることなく自発的に試みられる外界の探索であり、しかもこの「練習期」においては、親の方を振り返って反応を確かめることも多いが、その一方で自分の視野から親の姿が見えなくなってもそのことに気がつかないくらいに対象への探索やいじり回しに没頭している瞬間が増える。これをマーラー は、「世界との浮気」と呼んでいる。
もっとも、この段階では赤ん坊の周囲の世界はまだ母体の子宮的な空間と融合して体験されている側面が少なくないため、こうした探索の中での子供の高揚状態は極めて誇大な自己愛性を帯びている。この段階においては、後におたくとなる子供は、少なくとも当初の自発的活動水準は基本的には平均値ないしそれ以上であろう(さもなければ、おたく独特の、一度関心を持った対象への強烈な没頭と執着は生じまい)。
普通の親は、子供のそういう自発的な活動を、危険なことやしてはいけないことをした時にはしかる(これは当然あっていいことである)にしても、基本的にはむしろ子供の成長して行く姿として肯定的な感情を抱きつつ眺め(いい意味での「親バカ」性)、感情移入的な言葉かけをし(この「言葉かけ」については18節で詳述する)、時には子供の探索にむしろ積極的につき合ってあげるなどという対応を自然にすることができる。
そうした一方で、養育者は、子供に危険がなさそうならば「放置」して子供のしたいようにさせて自分の関心や家事などに没頭したりもできる。このようにして、親と子供が一緒にいながらもそれぞれの関心に安心して没頭していられる状態、すなわち「一緒に居ながらそれぞれが安心して『ひとりでいられる』状態」は、母子の分離個体化の為の前提として不可欠な体験である。つまり、他者との関係の中に居て、しかも「自立」していられる能力の礎となるのである。ウイニコット,1965 はこれを 「ひとりでいられる能力 (ability to be alone) 」 と名づけている。
もちろん、普通の親でも時にはそういう子供の旺盛な活動性に対していら立ちや不安を抱き、神経質になり、すぐに「介入」したくなる時もあるだろう。こうした反応がすべてマイナスと言うわけではない。親と子供が歴然とした「他者」であることもいずれ自覚せざるを得ない以上、分離−個体化の為にはこうした経験は子供にもある程度必要である (子供の成長と共に自然と親はこうした反応を取る時が増える。これはサル等の親子関係にも見られる現象である)。
しかし、このような、自発性の発現に親から干渉される経験が子供に取って意味を持つのは、あくまでも、前述のような、自発性の発現を親に受け止め、共有して貰う経験や、干渉されずに放置して貰える経験の方が先行し、比率的に優位に体験されていた場合だけである。
ところが、このような、赤ん坊の自発的活動性に干渉的・抑制的な対応をする傾向が 「おたく」の親の場合は平均よりやや顕著である可能性があるのではないかと思う。ここで言う「干渉」には、一見肯定的でいながら、子供の行動につき合い過ぎる傾向、あるいは、親の願望を子供に投影して先回り的に満たしてあげようとする傾向のみが過剰で、子供自身の自発的探索に先回りしていろんなものを与え過ぎたり、親が期待する何らかの活動に誘い込もうとし過ぎる傾向も含まれるだろう。これはこれで子供の自然な自発性の発露を殺しているのである。
恐らく親の方が、子供が勝手に自分から分離−個体化して、子供に「見捨てられて」しまうのを恐れて、子供に無意識的にしがみつき、コントロールして支配下に置こうとしているいていることの結果である。要するに親の方に子供が「親離れ」していくことに耐えられる心の安定がないのだ。それが得てして「愛情」「子供の早期教育」という名の過干渉を産むのである。
子供が「……が欲しい」「……取って」などとしつこくわがままを言うことをせず、親の差し出したものをはねのけもせず、いつも「大人しく」親の差し出したものを受け取るだけになっていたりしたら大変な危険信号である。
少なくとも、伸び始めた芽生えをヤットコでつかんで無理やり引きずり出そうとするかのように「創造性を伸ばそう」とするなどいらぬおせっかいであろう。むしろこれは子供のありのままの成長能力への不信に基づくと捉えることも可能であろう。人工肥料で促成栽培された植物は一見育ちがいいが果実の味に深みはなく、ちょっとした気候の急変でしおれてしまう。
この「練習期」においては視野に親がいるかどうかに子供は比較的無関心に探索に没頭することはすでに述べたが、この時期に引き続く 「再接近期(生後15−22カ 月)」 に入ると、赤ん坊は外界全体からから独立した個体として養育者個人を認知する度合いが更に高まるために、そうした自発的な世界の探索の途中で養育者が視野にいないことにふと気づくと、とてつもない不安に襲われるようになる。これがいわゆる「見捨てられ抑欝」であり、「劇場版」の中では、衛の両親の突然の死や、子供時代のフィオレとの別れの中に象徴されている。
だが、この不安に圧倒されている時と言うのは、子供が親からの自立、すなわち分離−個体化を達成する上での決定的な分かれ道なのである。「見捨てられ抑欝」は、親からの心理的な「分離不安」でもあるのだ。分離不安に泣き叫ぶ子供の姿、それは心理的な意味での出産体験、すなわち、親の心理的「子宮」と一体化した安息状態から外界に産み落とされて孤立した自我に直面して泣き叫ぶ子供の姿なのであり、子供が真の意味で「この世の中に生まれ落ちる」誕生の時はこの時なのだ。
もとより、こうした時に泣きわめく子供を長時間放置するような経験のみがいきなりくり返されると、子供の中の傷つきは癒しがたいものになり、自分を産み落とした「世界」と「他者」を恐ろしく迫害的なものとして捕える傾向が固着し、人間を信頼して交流する能力が基本的なところで侵害され過ぎてしまう。
故に、当初は、子供がひとりでの外界の自発的探索の中途で突如不安になり泣き出したら、さほど時を経ずして養育者が現れて抱っこしてあげるような関係が望ましい。 こうした「しばらくすれば必ず養育者が助けに来てくれる」体験の中で、子供の中に は、以前のように「魔法のように」かなえられる「共生関係」にはないにしても、ひとりになっても、いざという時には「他者」としての自分を愛する人間は自分のことを配慮してくれるという「基本的信頼感」が形成され、それにつれて視野に養育者がいなくても不安を徐々に感じなくなる現象が再び生じる。
「今現在『ひとり』であることが孤独なのではない。人間は『これからもひとりかもしれない』と感じる時に孤独になるのだろう[幾原,1994]」
泣き出して養育者が抱っこしてくれるまでの時間も自然と次第に長くなることだろう が、子供は次第にそのことに平気となり、ついには、少し前までのように、養育者の姿が見えないことに気づいた瞬間に火のついたようなパニックになることそのものが減少してしまう。
こうして「再接近期危機」は克服され、「対象の恒常性の確立」に至る。
この、一人で居ることに不安を感じる傾向が再び減少した状態は、前述の「練習期」における養育者から離れても「世界」の探索に没頭できる子供の姿と一見似通っている。しかし、「練習期」の場合には、探索する外界そのものが子供には子宮内の体験のように捕えられている度合いがまだかなり高かったからこそ平気で親の方を振り返らずに出歩いていたのであり、「再接近期」において見捨てられ不安が克服された後に養育者との間で確立する、互いに分離独立した「他者」どうしの信頼関係に基づく、親から離れても不安にならずにふるまえるというのとは次元が異なるのである。
この「再接近期」の危機的段階において、「見捨てられ不安」から親が視野に居ないと再び泣き出すようになった時、それまでも子供の自発性の発現そのものを愛おしみ、信頼し、受け止めてきた母親ならば、「しかたないわねえ」というのに近い調子でほほえみながら、ある種の余裕を持ちながら「どうしたの?」と声をかけて抱き寄せることもできるだろう。別に熱が出たとか、おもらしとか、怪我をしたりして泣き出した訳でもなさそうだ。親のあやす表情や口調には更に余裕が生まれ、暗黙のうちに「大丈夫、何も心配することはない。あなたは何も間違ったことをしていた罰を受けた訳でもない。私から自立した命と意志を持ちつつある今のありのままのあなたでいいのよ。でも今のあなたがまだか弱くて一人になると心細くなることも受け止めてあげるわ」というようなメッセージが込められることになるだろう。
このようにして、子供の自発的活動性を基本的には受容しむしろ肯定的な評価を与えつつ促進しながらも、子供の不安をも受容する態度を取れる親がいる一方で、次のような、問題のある反応しか取れない親もいるのである。
すなわち、この段階で、もし親の側に子供から自立する心の準備がなく、子供を自分とは分離独立した自発性を持つ「他者」として存在そのものを祝福する心構えがなかったとすれば? いわば親の方が子供の成長と自立によって子供から「見捨てられる」不安を感じていたとすれば? あるいは、親自身が、子供の頃から独りぼっちになった時に前述の余裕ある母親のような態度で受け止めて貰えない経験を繰り返してばかりの人物だったらどうだろう?
子供が親の目を離れた所で不安に泣き叫んでいるのを見た瞬間に、親の中にも「異様なまでの」不安が喚起されることになる。前述の母親と一見同じように「どうしたの?」とかけ寄るにしても親の漂わす雰囲気そのものが妙な切迫感と余裕のなさと動揺に満ちているだろう。泣いている子供の方も、この時こうして親の方もパニックを起こしているということを肌で直感するだろう。自分が自分の意志でひとり歩きしたという行為は、自分の存在を今も支えてくれている母親をこんなにも不安に陥れるものなのか? 子供は自分の不安とパニックを駆け寄った親に「優しくしっかりと受け止めてもらえた」安心感というより、自分がこうした不安やパニックを体験することで母親を更に不安定にしてしまったことにいよいよ深刻なショックを受け、更に不安定になるだろう。
「母親の反応は、自分が自発性を発揮したことそのものへの罰ではないのか?」 結果的に、こうした親は、子供がそうした自発的衝動を取り下げた場合にはじめて受容するような反応をしてしまうことになる。
「おかあさんの目の届く所でお母さんがやっていいということだけをしていたら、その場合に限って愛してあげます」と暗黙の内に教育していることになる(こうした親自身が、子供時代に自発性を受け止めてもらえず、他人が認めることをするだけの生き方に『甘んじて』いたことが多い。それ故に子供の発揮する自発性にも過敏に不安になり、受容できないのである)。
後者のような反応がくり返されると、子供の中の身体的・衝動的・内発的な表出性と結びついた、ウイニコットのいわゆる 『真の自己(true self) 』 の形成それ自体が阻害され、親子の『分離−個体化』は促進されず、共生的な段階にとどまることになる。そして、養育者や周囲が求める行為や感情だけを表出する 『偽りの自己(false self)』による適応のみが発達する。
もとより、この「再接近期」以降、子供が更に成長し、個体化すると、養育者は子供がより小さかった頃の、ほとんど『共生的』関係の中での高度な共感性を(恐らく遺伝子のプログラムに従い)次第に喪失するものであり、自分のエゴイズムを次第に優先するようになったり、子供の自発的な活動性や訴えに対して養育者が何らかの干渉や禁止を与え、むしろ親が期待する活動を強制したりする傾向は、通常の親子関係ではむしろ激しくなるくらいかもしれない。しかし、「再接近期」において、自発性を基本的には受容されて育った子供の場合は、それ以降に関しては、そういう自分の内発的自発的な願望充足への欲求を、養育者からの禁制や強制に抵抗しつついかにしぶとく実現するかについて、親やきょうだいや同胞との果てしない戦いやの渦に自ら進んで身を投じ続けるだけの個体化された自我の潜在力をすでに開発済みである。
こうして、周囲と折り合う社会性を身につけながらも、ずる賢いまでの狡猾さでもって自分の内側からの欲求もかなりの程度満たし続けるしたたかな対人関係の技能を磨いて行くのである。交換条件を付けたり、いいわけをしたり、巧妙に甘えたり、同胞とぐるになったり、形の上だけ謝ったりといった対人的なかけひきに熟達して行くのである(筆者 は、このような「内発的欲求」と「社会的・対人的なかけひきの能力」を統合的に機能させる自我機能全体を『真の自己』と呼んでいるつもりである)。
ところが、「再接近期」に、内発的自発性をむしろ撤去しないと親に受容されない体験ばかりが優位になってしまった子供の場合は、この時点であっさりと『偽りの自己』のみによる適応が優勢となり、「手のかからない『いい子』」としての道を歩み始める。
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