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![]() 開森橋を北側から見る。撮影は昭和初期のもの。 『あしや子ども風 土記 第7集』から この橋は江戸期から使われていたものだろうか。昭和13年の「阪神 大水害」で、この橋は流失。近辺の様相は一変することに。
![]() 「汐見桜」の花見風景(大正10年頃のもの) 写真集『芦屋 今むかし』より ![]() 明治18年 参謀本部地形図 『芦屋の里』より 矢印の先にある、小さな黒い四角は、建物を表します。 芦屋小学校の最後の頃には、いくつかの建物があった ことがわかります。しかし、どれが開森校舎であるか は、残念ながら、まだはっきりとは分かっていません。 |
「芦屋小学校」の面影さあ、137年の時間をさかのぼる旅をご一緒しましょう。 1872(明治5)年、明治政府が、「学制」を発布します。それをうけて、当時の芦屋村周辺においても、いち早く小学校開校への動きがあわただしく始まりました。 明治5年から6年にかけて、村内寺院での仮教場(安楽寺のあと薬師堂《芦屋廃寺址内》)を経て、早くも、明治7年に、平屋建て3教室の木造校舎が建築されました。当時、開守(のちに開森)と称された場所、芦屋川に架かる「開守橋」の西づめに150坪の敷地があてられていました。 こうして精小の淵源となった芦屋小学校が誕生しました。 左上の写真は昭和に入ってからのものですが、画面右に見える建物のある風景は当時の芦屋小学校開森校舎の面影を彷彿とさせます。 <実際の校舎は、明治28年に現在の校地内にそっくり移築され、同22年発足の精道村の村役場として再び活躍したといいます。> 校地の中には、有名な「汐見桜」が植えられていました。現在の精小のシンボルは青き松ですが、当時は美しい枝垂桜だったのです。 やがて、明治19年5月に「精道小学校」と改称されます。 “明治維新そして文明開化”という歴史の回転とともに、精小はこの地にて黎明を告げます。 この項の史料: 『武庫郡誌』大正10年刊 『摂津国菟原郡芦屋村誌』明治17年 (『新修 芦屋市史 資料編第二』所収分) 開森校舎の文献 ![]() 生まれ変わった開森校舎 写真集『芦屋のうつりかわり』より ![]() ![]() |
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***1970年卒 若林 伸和 *** ![]() ↑文字を直接入力して下さい↑ |