Text From Atarayo

                    


Text from atarayo〈7



 ワルプルギスの夜                           written by さいとうけいこ

先日10月31日は、日本でももうすっかりお馴染となった「ハロウィン」でしたが、その対極の日、4月30日の夜は「ワルプルギスの夜」と呼ばれています。ゲーテの「ファウスト」にも書かれたこのお祭りは、ドイツのブロッケン山に魔女が集まって春の到来を祝うもの。世界中の魔女や魔法使いが箒に跨ってブロッケン山に飛んでくる光景は思い描いてみただけでも壮観ですね。魔女たちは魔王と共に朝まで宴会。年に一度のお祭り騒ぎで日ごろの憂さを晴らし、情報交換なんかをするのでしょうか?しかし魔女は魔法が使えるのだからストレスなんかとは無縁だし、パソコンやケータイがなくてもあらゆる情報を入手できると思うのですがそこはやはり、魔女なりの事情やご苦労があるのでしょう。猫は自由な生き物だなぁと思うけれど、猫は猫なりのルールがあるように、魔女には魔女のルールや日常が存在する。それらから解き放たれて思いっきりフィーバーする「ワルプルギスの夜」。            

ジャズに限らず、西洋音楽に限らず、人間は最初、どのようにして音楽を生じさせたのか?嬉しいことがあった時、小鳥の鳴き声を真似てルンルンする。悲しみに打ちひしがれた時、胸のしこりを解きほぐすために絶叫する。悔しくてたまらない時には雷の音とともに慟哭。または自分の朗らかな気分を相手に伝えたい、周りの人と分かち合いたい、淋しい気持ちを理解してもらい、慰めてもらいたい、慰めたい。そして、他者と思いを共有したい、他者とコミュニケートしたい、さらには人間というルールの中で生きていくことから解放されたい、あぁ小鳥になって空を飛びたい、自然界と一体になりたい・・・と思った瞬間に音楽は誕生したのかもしれませんね。なぜなら「音楽」は自然界に偏在するものだから。              
                 
               
自分の気持ちを伝えるとき、そこに「表現」が必要になる。私たちは一生の間ずっと、この「表現」の勉強を続けているわけです。どう言ったら素直に相手に通じるのか?どう言ったら誤解や曲解から免れるのか?どう言ったら相手は心を開いてくれるのか?そして、お互い共感し合えるのか?言葉使いや言い方ひとつでわたしたちの関係は様々に変容してしまう。音楽における「表現」も同じで、テンポや強弱、間の取り方など一つ間違えればとんでもない代物になってしまう。表現が美しいものであればこの世の諍いや仲違いや確執も減ることでしょうし、音楽はさらに美しく私たちに届くことでしょう。                        
猫には猫の、魔女には魔女の、人間には人間の「ルール」があるように、自由にピアノを弾くためには「ルール」を設定することが大前提となります。インプロビゼーションのルールは「始まったら終わる」。                                          



2008/11/11 吟遊コンサートvol.7 〜吟遊Night in PAUSE〜プログラムパンフレットより









Text from atarayo〈6

        

   atarayo発                            written by さいとうけいこ              

19697月、アポロ11号に乗り込んだ飛行士、ニール・アムストロング船長・エドウィン・オルドリン月着陸船操縦士の二人が「静かの海」に着陸して、「人類にとって偉大な一歩」を踏み出してから早38年が過ぎた。「やっぱり月にウサギはいなかったね」などと言いながらテレビ中継を見て、その後は何回も録画を見て、新聞の切抜きを集めてアルバムに貼り付けたものをそのまま「夏休みの自由研究」として提出し、翌年の大阪万博では月の石を見るために辛抱強く並んだ。その後もアポロ計画は続いたが、それらの印象はアポロ11号に比べて薄い。そしていつの間にか有人飛行のニュースも聞かなくなっていたが、先日91日付け読売新聞夕刊は、ロシアが2025年までに月面基地建設のための有人飛行計画を発表したと告げた。これからはまたクレーターの隕石衝突説とか月の土地販売とか「月の情報」が溢れてくることになるのだろう。人類は偉大な一歩の次の一歩を歩み始めているのだから。

さて、「atarayo発」と題した今回のコンサートツアーですが、atarayo とは「あたらよ」、漢字で書くと「可惜夜」。「中秋の名月」「良夜」、つまり「十五夜」という意味です。

瞑想の可惜夜発の舟ゆらり

月光を浴びてはじける人魚たち

うさぎ餅絵に描いた餅夢の淵

月のしずく滴り落ちて白露かな

満月は第三の眼宇宙の眼

アリストテレスは月蝕を観て地球が球形であると発想しました。「発想した」と言うより「気付いた」と言うべきか。幸運にも何かに気付くことのできた時、「何でこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろう?」と愕然としてしまうことが多々ある。そんな時は嬉しさ反面、情けない気分に陥るものだ。だいたいに於いて、すぐ近くに答えは満ちているのにわざわざ遠くまで探しに旅に出てしまったりする。収穫のない旅から戻って、あれれ、何だかな〜、ここにこうしてちゃんと答えがあるじゃないの。と知る。わざわざ遠回りをして、迷路の出口や答えを見出す課程を無意識に楽しんでいるのだろうか?それとも旅に出る前と旅から帰還した後では波長か何かが変わるのだろうか?
旅は経験、「経験すること」は大いに人生の糧になるだろうが、人間は残念ながらその一生の間に何もかもを経験できる訳ではない。そこで「今までのひとつひとつのかけがえのない経験をシナプスで繋ぎ、脳内で編集する作業」が必須となる。それが上手くできれば「経験したくても絶対無理そうなこと」をも経験できるかもしれないし、また、より豊かにしかも手っ取り早く「何かに気付く」ことができるかもしれませんね。

月旅行に憧れています。できれば「かぐや姫」のように8畳ぐらいの畳カーペットにふわりと乗って、ゆらりゆふらり漂いながら飛んで行きたい。月の引力に導かれるままに。
Fly me to the moon ,Fly me to the ataryo.



2007/09/14
「吟遊コンサートvol.4
2007/10/20
「吟遊コンサートvol.5
2007/12/02
「吟遊コンサートvol.6
CD
同時発売記念「吟遊コンサート」ツアー2007atarayo発〜プログラムパンフレットより






 






Text from atarayo5

 短夜ロハスのための短夜六句        詠み人  さいとうけいこ   

           
           
短夜が繋げる昨日今日明日

           短夜恨めしやロミオとジュリエット

           抱きしめて眠れよ君の短夜を

           明易き障子の向こうの白夜かな

           みじか夜の乙女の恋よ永遠の灯よ

           短夜が繋ぐ現在過去未来



           2006/06/23「吟遊コンサートvol.3」〜短夜ロハス〜プログラムパンフレットより





 







Text from atarayo 〈4〉


 邂逅の秋                         written by さいとうけいこ   

「癒し」という言葉がはやり始めて久しいが、いまだにこの言葉は根強い人気があるようだ。テレビドラマで俳優たちが話す言葉を、つまりはシナリオライターが用意した台詞を日常の会話にそのまま取り入れると違和感を覚えてしまうのと同じように、「癒し」という語感にはちょっとした衒いがある。何となく胡散臭さをも感じてしまうこの言葉とは距離を置いて接してきたが、昨今では誰もが臆面もなく使うようになってきた。そこで思い切ってこの言葉と対峙してみる。

1991
年、キース・ジャレット・トリオのCDThe Cure」がリリースされ、当時活動を共にしていた黒人べーシストJ君にそのニュースとCDのタイトルの話をした時、彼はアメリカ人特有の感慨深げな素振り、つまり私から目をそらせて少しうつむき加減になり顔を左右に小さくゆっくり2、3回往復させて「Oh,・・・」といったため息を漏らしたものだ。「癒し」は「heal」からきた言葉かもしれないが、「cure」にもそういった意味を感じ取っている、そんな反応を目の当たりにした。ヒーリングソング、ヒーリングミュージックという呼び名はそれ以前から耳にしていたのでここで勝手に憶測させてもらえば「The Cure」も「癒し」と言う言葉自体を流行らせるきっかけを作った作品かもしれない。

昨年あたりから懐かしい旧友たちに再会することが多くなった。もうそういう歳になったのだねぇなどと言い合いながら同窓会などで昔の話をして盛り上がってしまう。久しぶりに会った友人たちは自分が昔抱いていたそのイメージをより増強、増幅させて目の前に現れるから驚かされるしまた圧倒されてしまって、それが事のほか愉快だ。しかしもっと楽しいのは自分では記憶にない過去のエピソードや発言した内容を「覚えてる?」と言う枕詞と共に語ってくれること。それに触発されて彼や彼女の思い出話をすると相手は全く覚えていなかったりするのだが、満面の笑みを返してくれる。旧友の瞳の中に過去の自分の姿がクリアに蘇ってくる現実はまさに記憶という次元のワープ体験。旧友たちが自分に対して持ち続けていたイメージを把握できると共に、当時の自分自身と邂逅できる喜び。しかしその瞬間、当時直面していた壁やもどかしさといったものもついでに蘇ってきてしまうからほんの少しほろ苦さや哀しみも脳裏を掠めてしまい、気の利いたコメントひとつも返せなくてたじろいでしまったりする。人は記憶によっても癒されるのかもしれない。しかし、記憶ほど曖昧なものも無い。歴史というものが日々史実や解釈を新しくしているのと同じように、人の記憶も完璧なものではなくむしろそれぞれの感受性の中で改ざんされ、作り直されているものかもしれない。タイムカプセルから出てきたメモやノートにしたためられた「書き言葉」からは昔の思索を「話し言葉」よりも正確に辿る事ができるかもしれないが、それは今現在の自分自身のフィルターを通して新しく思索されることでもある。たとえ「書き言葉」であってもそれらは永久に記号や符号にすぎない。邂逅の度にそれらから思い起こす印象は多少なりとも変化していくのだから。
そしてまた音楽も記号や符号以外の何者でもない。音楽(という時間)に身を委ねれば、原風景との美しい再会や心象風景との初めての出会いは心を穏やかにそして全身の細胞を活性化してくれるがそれは自分の内面に耳を澄まし自分自身のピュアな声を聴く作業につながって行く。その作業を通して自分の持つ受け皿の存在に気づきさえすれば、他者に依存することなく最高の癒しを自分の力で施せるに違いない。つまり音楽や音楽家たちはその受け皿までの水先案内人に過ぎない。
人生がスパイラル状の邂逅の連続であるならば望むらくは上昇するそれであることを。



2005/11/05
「吟遊コンサートvol.2」〜アジアから宇宙へ〜プログラムパンフレットより









 

Text from atarayo 〈3

 夢短冊                         written by さいとうけいこ

子供の頃、七夕の日にどんな願い事を短冊に書いたのか記憶にない。
短冊に書いた願い事は叶ったのだろうか。すぐに叶う事ではないと教えられて何日も待ち続けたのだろうか。そして幾つかの新しい夢を見るうちに願い事をした事さえ忘れてしまったのだろうか。

願い事の内容は忘れてしまっても子供の時に見た「忘れられない夢」というのがある。4歳の時、3つの恐い夢を見た。その「三大恐怖夢」を生涯忘れないだろうと子供心に覚悟していたが今現在覚えているのは2つまで。幼稚園の運動場全体を覆い尽くすようにゆっくりと降りてくる巨大な黒い怪鳥。そして家の中にいつの間にか住み着いてしまう気味の悪いピエロ。これらの夢から当時受けていた恐怖感は未だに鮮明である。睡眠中に見る「夢」と短冊に書く「夢」はおよそ意味が違うのに同じ言葉で済ませてしまっている。後者は「将来こうなりたいというイメージ、願望、希望、祈り」などの意味で「覚醒時に夢想する事」である。そして覚醒時に夢想した内容が睡眠中の夢に展開される事も稀にはあるが、どこからこういうイメージがやってくるのか見当もつかないというのを経験する方が圧倒的に多い。アンドレ・ブルトンは、入眠時のおぼろげな意識の中で出てくる言葉をつなぎ合わせて詩を書く、という実験をした。オートマティスム(自動記述)と呼ばれるこの方法により何を追求し何を理解し何を生み出せるのか?私たちの想像を超えたそこはかとない大きな意識が出現してきてしまうのか?そしてその「大きな意識」とは何者か?

恐い夢を頻繁に見た4歳頃からやや時が経った10歳頃からは「飛ぶ夢」を見る事が多くなった。学校や学校の先生や両親からの圧力より解放されて自由になりたい、自立したいという気持ちの現れだということはフロイトの「夢判断」にも書かれてある。クロールで泳ぐように地面から1メートルぐらいをすいすいと飛ぶ「泳ぎ飛び」、ジャンプしているうちにジャンプ力に勢いがついてしまってだんだんと高さを増していき、最初のうちは地面に着地しているが途中からは空中を踏み台にして跳び上がり続け、成層圏を突き抜けてその次の圏も突き抜けて終には宇宙までジャンプしてしまう「直線的宇宙飛行」、邪魔な電線を避けながら街の夜景を楽しみ、ビルからビルへとふわふわとまたある時は鳥たちのようにつーっと飛べてしまう「夜間飛行」等々...。それらの夢は生理的快楽感と共に「自分の中に存在する未知の自分」情報や「自分の中に潜んでいるかもしれない未開拓な部分」情報などを運んでくれて、目が覚めた後暫くは余韻に浸れる。夢の残滓にしがみつき余韻に浸って反芻すれば心が軽くなる。そのようにして夢見で澱を排泄する。時には体重が減っていたりするので澱には重力があるのかもしれない。しかしうっとりするような幸福感をもたらす良夢ばかりでなく時には悪夢が襲ってくる事もあり、これが「覚醒時の夢」とは大いに異なる点だ。ドロドロしたものを持ち帰ってしまった悪夢の後は疲労が濃い。良夢にしても悪夢にしても、自分自身ではコントロールできない「夜見る夢」は往々にして現実生活まで支配しようとする。夥しい情報量が怒涛のように押し寄せ、それらの印象があまりにも強烈であると午前中一杯またはその日一日中夢たちに支配される。どちらが「うつつの世」であるのか疑ってしまうほどに。だから人は創作に向かうのかもしれない。詩作や絵画や音楽の他にも未挑戦の料理や次の季節に植える花苗についての直接的または潜在的なヒントやアイデアを享受し実行する事で、夢見で持ち帰ってしまった何かを排泄する。または昇華させる。次元の違う世界からメッセージを受け取ったという任務のもと「何かをしなくては」という衝動にかられてしまうのだ。しかし「新しく何かをする」という創作に向かわせる夢自体は一体誰の創作物なのか?

夢で逢いましょう いい夢見ろよ 夢見る人 夢芝居 夢追い人 夢のまた夢 夢殿 夢枕 夢を売る商売 トロイメライ・夢のもつれ(シューマン) 夢のあとで(フォーレ) 夢(ドビュッシー) 初夢 夢見心地 夢が叶う 夢物語 夢合わせ 夢路 夢のお告げ 
長き夜の夢を夢ぞと知る君やさめて迷える人を助けむ(明恵上人)

あさきゆめみしゑひもせすん / 浅き夢見じ 酔ひもせず
〈悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることもなく、現象の仮相の世界に酔いしれる
こともない安らかな心境である。寂滅為楽(じゃくめついらく)



2005/07/27
「 吟遊コンサートvol.1プログラムパンフレットより (修正加筆 2005/07/30)





  







Text from atarayo 2

 平成申年散歩考           written by さいとうけいこ  


雨が降っていなければ散歩に出る。
散歩は日常生活の中でのささやかな非日常だ。散歩という習慣を何時頃身に付け始めたのかは忘れてしまったが、身に付け始めた最初の頃は景色を眺めたり未知の場所を訪れたりするのが目的であった。
何年かが経ち、ここ最近は歩くこと自体が楽しみとなってきた。用足しのために移動するのではなく、「歩くため」に歩くことはなかなか気分のいいものだ。コースはほぼ決まっていてK川の遊歩道をB橋からH橋まで。H橋の手前で折り返すと往復40分の手頃な道のり。このコースを歩くようになって十年近くなり、また散歩する時間帯もほぼ決まっているのでいつのまにか顔見知りも増えた。ほとんどが愛犬を散歩させている人たちだが私のように一人で歩いている人もたまに見かける。ずっと前から顔見知りでやっと最近挨拶するようになった人、ずっと前から顔見知りでそのままの状態の人、ここ最近見かけるようになってすぐに挨拶するようになった人たちと行き交う。人と人がすれ違う時の処し方は人それぞれで、ちょっと照れる人や、まっすぐ前を向いたまま会釈する人や、すれ違ってから「こんにちは」という人や、全然表情を変えない人や、後ろ向きで歩いている人などとすれ違ったり追い越されたり追い越したりする。
土筆の芽が出る季節、授業をエスケープしてきた男子と女子が自転車二人乗りして通り過ぎて行く。こんな暑い日は誰も歩いていないだろうと思って出かけた炎天下、さすがに歩く人はいなかったが、ジョギングする人が汗を飛ばして走り抜けて行く。大寒から立春の頃は出かけるのにちょっと億劫になるが、膨らんだ梅のつぼみを認めるとこの冬を越した万象に自分自身も含まれていることが嬉しく、着膨れた格好で一句捻ったりする。K川には鴨と鯉が泳ぎ、電線には鳩たちが五線譜を作り、土手の椋鳥が小さく螺旋状にジャンプを繰り返す。飼い主と歩調をあわせて歩く柴犬君、飼い主をぐいぐい引っ張ってほとんど走っているビーグル犬、しんどいけれど歩くことは業と悟ったのかもしれない高齢の大型犬などとすれ違い、飼い主さんと「暑いですね」とか「寒いですね」と声をかけあい飼い主さんの名前は聞かないがワンちゃんの名前は尋ねたりする。
空気の乾燥するお正月の頃には、富士山が小さくだがはっきり見える。真昼の天頂、白い満月に気づく日もあれば、雨上がり、「天使の梯子」に遭遇する日もある。
オーロラのように光り輝くその光芒を鑑賞するにはある程度の距離が必要で、今、もし自分がその光芒下に佇んでいるとしたら明と暗の気配を穏やかにまたは激しく交互に体験しているはずだ。そして、もしかしたら、至近距離に天使たちが降りてきているのかもしれない。が、そういう時天使たちに気づくことはできるのだろうか?
今まさにあの光芒に照らされている彼処、そして、雲の流れが変わってもう少ししたら光の当たる彼処、梯子を上っていく天使たち、梯子を降りてくる天使たち、日常の中の非日常、その昔、ヤコブの夢見た夢の跡。



CD「天使の梯子」より








Text from atarayo 1

  CONTENTS                     written by さいとうけいこ

1 Floating Moon

  浮月
  海に浮かぶ白い月
  波間を漂う引力
  飛ぶためにはまず浮くこと
  フローティングコードはそれ自体独立しないし
  何処にも向かわないでただふらふらしているのみ
  しかしそれらを何とか繋げていくとどんどん高く飛べるようになる
  充分に気をつけないと失速して地上に落ちてしまうこともあるが


2 あさきゆめみし

  夢見の激しい夜
  夢が夢を呼んで
  夢が夢を作り
  夢は果てしなく膨らんでいく
  夢見のたびに目を覚まし
  夢を反芻して
  夢の数をかぞえる
  しかし明け方に見た最後の夢が
  それ以前の夢をすべて持ち去ってしまうのだ
  何処へ?


3 Cygnet

  真夏
  森の中でキャンプをする
  思いのほか森の中は賑やかだ
  川のせせらぎは止まることなく夜通し続く
  雨が降ってきたかと夜中
  目を覚ましてしまうほどの音量で
  夜明け
  精霊たちがお喋りを始める
  何を喋っているのか
  もうすこしで聞き分けられそうになったときに鳥たちが囀り始める

  瓢湖の白鳥たちも予想に反してかなり賑やかだ


4 海水浴 1982

  海に行きたくなっていざ浜辺に着くと少しがっかりしてしまうようなことがある
  多分思い描いていた風景と何処かが違うから
  けれど家に帰って海の景色を思い出すと来年もあの海に行きたいと考えている
  イメージは憧れで始まる
  憧れて、焦がれて焦がして、何時の日か...


5 Meisouの小舟
  
  迷走する瞑想
  メディテーションで大切なのは元の場所にきちんと帰ってくること
  冒険は楽しいけれど帰ってこなければ「楽しかった冒険」も失われてしまう
  ひとつひとつ帰ってこなければいけない
  最後の旅に出るまでは


6 琉金抄
 
  毎日、同じ曲から違う発想が生まれてきて
  即興演奏は未完のまま
  しかし徒然に好き勝手に弾いていても
  何故かルールらしきものが生まれてくる
  これが正解かもしれないと確信を持った次の日
  また違うアプローチが新鮮に思われてしまう
  すくってもすくっても逃げてしまう
  金魚掬い宛ら


7 ピアノのための「猫」

  猫の友達、馬場たみ子に捧ぐ


8 お香箱

  香箱を組む猫の姿は気品に満ちている
  叱られた後だと反省のポーズかとも思ってしまうが
  多分違うだろう
  香箱を組んだ猫に話し掛けても無視されるだけ
  人間が正座を組んでいるのに似ているから
  猫のセルフ・メディケーションなのかもしれない
  香箱を組む猫の姿は威厳に満ちている
  鞠になって眠っている時の愛らしい顔つきではなく
  一気に老けこんだ表情
  目は半眼で機嫌が悪そう
  彼女の前世に想いを馳せているのだろうか
  誰にも邪魔されない聖域
  猫の国にワープするためのお香箱


9 流星の距離

  飛行距離のそれぞれ違う流星を数えて迎える朝は
  何となくしらじらしい
  夜はいつまでも続かないし
  朝や昼間や夕方も過ぎ去ってしまうもの
  美しい時間たちを閉じ込めて音楽を作ろう




 CD「あさきゆめみし」より
  

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