音楽劇「狸御殿」
1996年3月21日 夜の部 新橋演舞場
* 当時書いた文章に、この色で注釈を加えました。
友人に宛てたものなので、若干お聞き苦しい表現が混ざっているかもしれません。
原作 木村恵吾 脚本 齋藤雅文 演出 宮本亜門
音楽 服部隆之 美術 荒井良二 衣裳 緒方規矩子
出演 市川染五郎、牧瀬里穂、草笛光子、宝田明、塩田美奈子、
ラサール石井、チャーリー浜、片桐はいり、紅貴代、
深沢敦、山路和弘、金沢明子、スーザン・オズボーン
義務感で見に行ったようなところもあった。好きな映画も見逃している最近のダレた私がなぜもともと嫌いな「音楽」劇など見なければならないのだろう。しかし牧瀬のステージ物(コンサート含む)は全部見てきているからしょうがないのだ。
三幕からなるミュージカル風の喜劇である。
私の場合、芝居を見始めたのがそもそも小劇場、しかも野田秀樹の夢の遊眠社であった。小劇場の芝居に「幕」などというものはない。芝居の途中ばかりではなく最初と最後にもないことが往々にしてある。シーン(や時間)が変わったらそれを舞台上で表現すればいいのである。というわけで、私にしてみれば三幕物などというのはもうそれだけで邪道である。
しかも、一幕目1時間で30分休憩、二幕目30分(!)で25分休憩、三幕目がやっと1時間半と来ては、歌舞伎等のことを忘れて試写会のりで何も喰わずに出かけた私は、もう演ってるやつも見てるやつもみんな狂ってやがる(「ゴジラVSデストロイア」を見た時の気分)、という怒りに燃えていたのであった。
始まってみれば、ラサールが長々と口上を述べる(客いじりもする上に「こんなに客に拍手を強制する芝居も珍しい」なんぞとほざきやがる。私はこれが嫌いで、昔は好きだった「上海バンスキング」も段々演奏後の間が長くなって拍手を要求する形になったので後半見なくなった。つかこうへいなんかは歌を入れても途中でちょん切って次のシーンに行っちゃうから油断ができなくてとてもいい)、女装だけで笑いが来る(これは客が悪いっちゅうか)、ただのシンデレラをやる(ラサールも自分でそういってて、そのエクスキューズで受けようとする姑息な演出)、チャーリー浜がもう腐ってる持ちネタする(しかもそれが受ける)、牧瀬は全然進歩してないし染五郎はひとりだけ歌舞伎口調、当然のようにマイクを使っている(人によってヴォリュームが違うみたいなのは興味深いが、まさか金沢明子までマイク使うとは)、セットは書き割りで(何かのきっかけでパッと立体になって度肝を抜いてくれるのかと期待してしまったが、最後までそのままだった)、歌だってパッとしねえ。とにかく演出の「ねらい」の部分がいやでいやでしかたがない。
という具合に二幕までに気持ちが完全に萎えておりました。あと花道をのぞき込むのは主義主張があって(というほど大袈裟なことではないが)しないことにしているので(必要な時は遠くのテレビを見てた)、ここまでの私を見た人は大変不機嫌な人と思ったはずである。(当時、不機嫌な私を目撃したという声があったので、このような長文を書き、今に残っているのである)
ところが三幕に入った途端、ここまで純和風(外国人のデブも出てるけど)だったのが、衣裳も洋風に変わっていわゆる「ミュージカル」の様相を呈するのである。草笛光子も急に若返るし、特にオペラ畑の人らしい塩田美奈子という人が(衣装も女王様風だし)とても生き生きしてきて(もしこれが最初の配役通り岡本夏生だったらボンデージファッションはいいとして、なんだか下品になってしまっていただろう → 岡本は「私じゃまだまだだわ」といって辞退したのである)、宝田明もグーだし片桐はいりの浮き具合も心地よく(?)、大変よい感じになってきた。
なんだよ、これなら最初っから洋風でやりゃあいいのに、と残念に思った。
といっても、三幕目がまぁまぁなだけで、(私にしてみれば)どうしようもない二幕分があるので、全体として大変不満足なのは間違いのないところである。
というわけで宮本亜門については、完全に洋風のものはあと1回くらい見てみようかとも思うが、今年はカレンダーも買ってないし(いい年こいて2年くらい牧瀬のカレンダー買っていたのだ)、牧瀬里穂はもう完全に卒業であろう(つかこうへいに出れば別 → NODA・MAPの番外公演は見損ねたが、のちに中山秀征の芝居で牧瀬に再会)。
もし再演するならばまったく意味のない金沢明子とスーザン・オズボーンを抜かして二幕程度にまとめるのがいいだろう。
「狸御殿」は昔の映画などは見る気はないが、こないだたまたま発見した三谷幸喜作「深沢版狸御殿」(博品館劇場。筋書きには映画については解説があったが他の芝居については触れられてなかった。主役は当然東京サンシャインボーイズにもいたことのある深沢敦であろう)、これは是非とも見たいものである。たぶん一幕物であろう。