第64回

底をさらう

 棚卸し、とか、底さらえ、のようなことを、時々はやらなくてはならないんだろう。気をつけていても、だんだん溜まってくるものがある。ましてや、気をつけない(私のような)人間は。
  で、底をさらっていた。一週間ほど。手始めは、やはり鍋を焼くことだった。気づいたら、昨年もまさに同じ時期に、鍋を焼いていた。あの時は十年越しの汚れを焼き切って、もう二度とこのようなことをする羽目には陥るまいと固く決意していたが、一年経ってみるといくら毎朝クレープが焼ける鍋肌を保ってはいても、それなりに焼き切るべき汚れは溜まっていて、生きるということの真実に、またひとつ気づかされた。
  つまりそういうことだ。生きることは、溜まることなのだ、どうしても。
  鍋は時々は磨かなくてはならないし、物入れは時々は空っぽにしなくてはならない。鍋を焼いた後は、棚の本を動かし、たんすの服を引っ張り出し、ただし本格的徹底的な片づけには至らないで、沈殿すること、底をさらうこと、上澄みをすくいとること、などについてぼんやりと考えているうちに旧正月が明けて、雪が降った。
 眼の前に次々と降ってくる新しいことどもを相手にしているだけでもじゅうぶんにやることは尽きなくて楽しくも忙しい日々は続いていっていっこうに構わないのだが、「次々と新しいものが降って」こないよう少しだけまぶたを下ろすようにして、既にここにあるものを眺めまわしてみると、そこにもとうぜんじゅうぶんにやることはあって楽しくも忙しい日々が続くことは容易に予想がつく。それくらいに、ここには既にたくさんのことどもが溜まっていて、すなわちどういうことかといえば、いずれにしても人生が終わるその時になってもやりかけのこと、いつかやりたいと思っていること、そのうちやろうと考えていること、やるつもりで忘れていたこと、どもに全く事欠かなくて、何事もなし終えた気がしないうちに命の方が先に尽きるのは間違いないと確信できるということで、だからいろんなことが積み上がってどうにも収拾がつかないという現在の状態は、私にとって何ら問題ではないのです。
  ただまあ、こうして半眼に閉じた眼でぼんやりと眺めていると、次々に降りかかるものを見ようと眼を見開いている時よりも、少々、人間が善くなっている感じがしないでもないから、しばらくは半眼でいようかなあとは思っている。生きるとか息をするとか歩くとか眠るとかだけで、私という人間はけっこう忙しくて楽しい日々を暮らしていけるのではないかという気もするから。歩くためだけにでも、今朝は雪かきをせねばならなかったし、眠るためには湯たんぽを火にかけねばならないし、息をするには息をしていると感じなくてはならなくて、息をしていると感じるためには何であれしていることをいったん止めなくてはならなくて、そうして手を止めて息をしていると、やらなくても良いことをやっていたとわかる場合などは小気味が良い。で、生きるためには考えるということをする。考えるのは、書くことをである。書くことの内外をである。
  数えてみると私が私を作家であるとみなすようになってから丸十年になる。先のことはわからないが、昨年末に書きあげ、来る三月に上演される作品で、阿藤智恵の第一期(のようなものがあるとして)が終わるのではないかという気がしてならない。書き終えて、いろんなことがすっかり終わった感があり、底さらえをしたい気もちになったのは、そのためかもしれない。すっかり終わったなら何事かをなし終えたのかといえば、もちろんそれほどの大それたことは言えない。もし今夜か明日いきなり死が訪れたとすると、何事もなし終えぬままいったと人は言わざるをえないだろう。と、書きながら一方で、しかし今夜か明日いきなり死ぬとしたら、私はいろんな方に申し訳なく思いつつも、自分ではそれなりになし終えたと思うかもしれないなあと考えたりもする。

2012年1月24日


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