*過去日記*

Fiori Chiari の名前の由来は・・・?

2004年7月3日(土)
アレッツォに行ってみたら、ちょうど第一土曜だったので町中に骨董市の屋台が出てにぎわっており、小花刺繍のついた小さいテーブルクロスをいくつか買った。こういうのってヤフオクであんな値段で出てるけど、もとはこういう値段なわけね、ふふん・・・といろいろ勉強。
私も大量買いして売りさばこうかしらとも思ったけれど、カードが使えないのでひとまず断念。

ところでこちらに来た当初、グウィネス・パルトロウがイタリア語のセリフをしゃべるマルティーニのCMに違和感を感じていたのだけれど、今は携帯のCMでナオミ・キャンベルが妖しい笑みと色気をふりまきながらイタリア語のセリフを言っている(しかもけっこうたくさん)のがどうにもヘンで目が離せない。だーい、ヴぃっとーりお、ヴぃえにこんのーい。
数年前はクラウディア・シファーが車の中で次々服を脱ぎながらなんかしゃべってたな。
アレッツォ以外に今週行ったところ:ふたたびピエンツァ。小さい町だけどかわいくて、ピエンツァ好き好きー。

関係ないけど、ポピーの花のイタリア語名『パパーヴェリ』って音がかわいい。

2004年7月5日(月)
2週間前のコースのときはクラスメイトに歴史や文化に興味のあるひとが多かったので、文法やイタリア語云々ではなく、モンテプルチャーノの歴史、中世からのオリーブの木の扱われ方と歴史、糸杉にまつわる諸説、エトルリア人とその文明について、そしてルネッサンス美術史などをそれぞれ専門の本のコピーを教材に、えらくたくさん教わった。
モンテプルチャーノから南西に広がるVal d'Orcia(ヴァル・ドルチャ=Valley of Orcia)とよばれる地域一帯について、土地の歴史なんかも勉強したのだけれど、そのときにIris Origo(イリス・オリーゴ 1902-1988)という女性について教わった。

アメリカ人の父とアイルランド人の母との間に生まれたイリスは幼少から家族でフィレンツェの北にあるフィエーゾレに暮らし、22歳でイタリア人公爵と結婚した後、トスカーナの当時湿原だった大丘陵地帯ヴァル・ドルチャ(渓谷という地名だけれど私にすればうねうね丘陵地)に移住する。湿地を干拓・開墾し、貧しい農民の手助けをしたり、戦争中はイタリア都市部の戦争遺児や、親が出征や工場労働で不在がちな子ども達を集めて保育園を始めた。攻撃がこの地域にも迫ると、すでに爆撃が済んだモンテプルチャーノに保育園を移したりもしたようだ。
そのトリノやジェノヴァの子ども達を疎開させていた当時の日記『Guerra in Val d'Orcia』(原題『War in Val d'Orcia』、人生の大半イタリアに暮らしたイリスだがやはり著書はほぼ英語で書かれ、近しい友人が後年イタリア語訳している)はなんといっても素晴らしいと学校で薦められ、授業でも先生が一部朗読してくれた。戦時中の攻撃、子ども達の様子なども淡々と冷静に描写しており、難しすぎずやはりきれいな文章。
帰国までに買おうと思っていたところ、ある晩、ステイ先のマンマが何の前触れもなくいきなり「あなた、イリス・オリーゴ公爵夫人の本を読んだらいいわ」と言い出したと思ったらおうちに偶然まっさらの『Guerra in・・・』が一冊あり、見せてくれた。あぁっこれ買おうと思ってた!学校でもこの人のこと習った!と反応したら「じゃあプレゼント」と快くくれた・・・。出版社がどうやらモンテプルチャーノにあるらしく、ここでは各家庭必携本なのか?・・・それはともかく、毎日大切にビニール袋に入れて持ち歩き、少しずつ読んでいる。そして、彼女についての伝記だか評論だかの本も買った。彼女の著書はAmazonで英語版を売っている(彼女の本はイギリスでたいへん売れたらしい)し、帰国後に今のを読み終えたら次の本は英語版つまりオリジナルを注文してみても面白いかも、と思う。当分先の話だろうけどさ。
それにしても彼女のことやここらへんの土地のことを教わっていたおかげで、この数日は干拓・灌漑・折半分益小作人とかいう単語を教室でやたら耳にしていたのが我に返るとおかしかった。

2004年7月11日(日)
6月半ばあたりからヴァカンスシーズンというわけでイタリアのテレビは俄然やる気がなく、昔の映画やドラマの再放送が多くなっている。もしくはファッションショーと歌のショーが組み合わさったようなのや歌謡フェスティバルをイタリア国内のベッリッシマな各地の屋外特設スタジオからお送りしております、な特番ばっかり。今まで既にこんなのをいくつやってるだろう。ちらっと見て覚えてる開催地だけでもガリポリ、ウスティカ、スィルミオーネ、サンレモ・・・。そして司会者や出演歌手がけっこうかぶってたりするんですけど。

さて、きのうはモンテプルチャーノ滞在中最後の土曜日ということで、ここらへんでまだ行っていなかったSan Quirico d'Orcia(サン・クィリコ・ドルチャ)という町へ行ってみることにした。日本のガイドブックにも大して載っていないしうーむと思ったけれど、とりあえずOrciaと付く地名は気分的に要チェックなので、シエナ行きのバスに乗って行く。着いてみると、小さくて静かで明るくて(天気が良かったからだな)観光客も少なくて、すごく私好みの町だった。まぁシンプルっちゃあシンプルなところなんだけど、今回の滞在中行った町のなかで一番好きかも。いいところだぁ・・・。気に入ったので、今週中にもういちど学校のあと行くことにした。

あぁ学校もあと一週間。すごくいっぱい勉強になって、7週間という期間も私にはちょうどよかった、大正解。これ以上長くなるとダレそうだし、先生たちも私がまだ使っていない教材というかやっていないネタを探すのが大変になってくるかも。と余計な気も遣ってみる。
モンテプルチャーノの町の下方にうねうね広がる大地では、きつね色の麦畑の刈り入れが進んでスジスジができてきた。丸められた麦わらの大きなかたまりがあちこちにころがっている。
サン・クィリコ・ドルチャ以外に今週行ったところ:サルテアーノ。ここってきっと日本人はめったに来ないだろうなぁ。小さくて、でもやっぱりいっちょまえな中世からの町。サルテアーノの近くの山ではバーベキューもした。バーベキューなんて十年ぶりくらいかも。三十過ぎてからイタリアの山の中でバーベキューすることになろうとは思わナンダ。

2004年7月30日(金)
前回7月11日まではむこうでちょこちょこ書いていたのだけれど、それ以降スッカリ何も書いていなかったのでまとめてしまえー。
7月17日にモンテプルチャーノでの生活を無事終え、その後二日間フィレンツェに滞在した。アルノ川左岸に宿をとったので、中心街に行くためポンテヴェッキオよりもひとつサンタクローチェ教会寄りの橋を渡っているとき、ポンテヴェッキオ側じゃない反対側右手の何もない景色ばかり見ながら橋を渡っていたら、私の後ろから歩いていたおじさんが見かねて「そっちじゃなくてこっち側にほら、これが有名なポンテヴェッキオだよ」と親切に指差してくれる。
「いやこっちの何にもない側の景色のほうがめずらしくて」と答え、ついでに色々話をしながらしばらく一緒に歩いた。そのおじさんおすすめの本屋をおしえてくれたのでそこで一人で本を見ていると、赤ん坊を抱いた明らかにイタリア人でないジプシー風の女性二人がその本屋のレジの女性にいろいろ値段に難癖や屁理屈をつけ出し、じきにそのうち一人が平積みの本をわざとひじで崩したりし始めた。途中でこれはヘンだと気づいたレジ女性がしまいに怒って「出て行け!もうたくさん、出て行って!!」と怒鳴り、ジプシー女性が本をわざとばらばら落としたりするのを唯一の客だった私は少し離れたところから見ていた。その二人が去ったあと私も本を戻すのを手伝い、レジ女性が念のためレジをあらためると、なんと100ユーロなくなっていた。聞いて!100ユーロなくなってる、とにかくヤツらは成し得たわよ。いつのまに?・・・知らない。とふたりでふつふつ怒り嘆いて私は店を出たのだけど、なんだか益々フィレンツェの印象が・・・。

二日後、一気にイタリア北部ヴェネト州のバッサーノ・デル・グラッパへ移動。そこを拠点に毎日マロースティカ、ウーディネ、トレヴィーゾ、カステルフランコ・ヴェネト、トリエステ、アーゾロ、トレント、フェッラーラと見物してまわり、再度フィレンツェへ戻った。

日本への帰国はローマから。香港経由で29日に関空到着。暑い暑いーー!!日本暑すぎ。
イタリア暑いとかフィレンツェ暑いとか思ったけどケタ違いでござんす。空港で迎えのオットTに会った瞬間、「ちょっとやっぱりイタリアに帰らせてもらいます」と思わず言ってしまう。
このなんと言うか、ぶ厚い湿気、きっついなぁー。そして家に着いてみれば家の中のものすべて低い!テーブルも椅子もシンクも便座もひっくー・・・。あとテレビに出てるいい年した若手女優たち(ハタチ前後とか)のしゃべりがタルく、みんな頭足りなく見える。ほんとに足りないのかもしれんが。そしてニホンジンみんな生っ白ーい、今は夏やでっ、この日差しの中でなんでそんなに白いのん?と思わず突っ込みたくなるくらい・・・だってイタリア人、今みんな真っ黒なんだもん。・・・以上が日本に帰ってきて早々の印象デシタ。



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