| 中年と呼ばれる年齢になった。若い頃からさして運動神経のいい方ではなかったので、体力や運動能力の衰えはさほど感じないのだが、記憶力の衰えは目を覆うばかりだ。 たとえば会話の途中で、ふとある女優に言及したくなったとする。ところが「ほら、あの女優がさあ、名前なんだっけ、ほら、あれだよ、あれ・・」と繰り返してみても、一向に名前が出てこない。 仕方がないので、「ほら、元のダンナも役者でさあ・・」と言い出すが、今度はケネス・ブラナーという名前が出てこない。それならと出演作を挙げようとするが、ものの見事に1つも思い出せない。ほとんど恍惚の人である。 その点、ホームページというメディアは、忘れたらゆっくり調べて書けばいい。あの女優についても安心して言及できるという寸法だ。えっと、名前なんだっけ。ほら、あれだよ、あれ・・。 |
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レスラー (2009.6.7.)![]()
ターミネーター4 (2009.6.7.)![]()
ブッシュ (2009.6.7.)![]()
グラン・トリノ (2009.4.14.)
スラムドッグ$ミリオネア (2009.4.14.)
アライブ 生還者 (2009.4.14.)
ザ・バンク 堕ちた巨像 (2009.3.23.)
フロスト×ニクソン (2009.3.23.)
映画は映画だ (2009.3.23.)
オスカーナイト・ウォッチング! (2009.2.24.)
チェンジリング (2009.2.16.)
7つの贈り物 (2009.2.16.)
ホルテンさんのはじめての冒険 (2009.2.16.)
ベンジャミン・バトン 数奇な人生 (2009.2.16.)
2008年(私の)ベスト10!(2009.1.23.)
ザ・ムーン (2009.1.23.)
ティンカー・ベル (2008.12.22.)
WALL・E/ウォーリー (2008.12.22.)
ブーリン家の姉妹 (2008.10.24.)
宮廷画家ゴヤは見た (2008.10.24.)
ウォンテッド (2008.9.13.)
イントゥ・ザ・ワイルド (2008.9.13.)
アクロス・ザ・ユニバース (2008.8.6.)
近距離恋愛 (2008.8.6.)
テラビシアにかける橋 (2008.6.25.)
パリ、恋人たちの2日間 (2008.6.25.)
最高の人生の見つけ方 (2008.5.31.)
アウェイ・フロム・ハー 君を想う (2008.5.31.)
譜めくりの女 (2008.5.31.)
ジェイン・オースティンの読書会 (2008.5.31.)
いつか眠りにつく前に (2008.4.15.)
つぐない (2008.4.15.)
再会の街で (2008.4.15.)
2007年(私の)ベスト10! (2008.3.30.)
ピアニスト映画の三重奏『私のちいさなピアニスト』『僕のピアノコンチェルト』『4分間のピアニスト』 (2007.12.30.)
アンジョリ三変化『グッド・シェパード』『ベオウルフ』『マイティ・ハート』 (2007.12.30.)
ハリウッドの戦略と限界『アイ・アム・レジェンド』『28週後...』 (2007.12.30.)
恋とスフレと娘とわたし (2007.10.8.)
夕凪の街 桜の国 (2007.7.4.)
プレステージ (2007.6.10.)
ブラッド・ダイヤモンド (2007.6.10.)
ロッキー・ザ・ファイナル (2007.6.10.)
クイーン (2007.6.10.)
パヒューム ある人殺しの物語 (2007.6.10.)
あなたになら言える秘密のこと (2007.6.10.)
それでもボクはやってない (2007.2.17.)
2006年(私の)ベスト10! (2007.1.30.)
リトル・ミス・サンシャイン (2007.1.18.)
硫黄島からの手紙 (2007.1.8.)
氷の微笑2 (2006.12.6.)
レディ・イン・ザ・ウォーター (2006.10.2.)
イルマーレ (2006.9.30.)
幸せのポートレート (2006.9.17.)
X−MEN ファイナルディシジョン (2006.9.17.)
ユナイテッド93 (2006.7.18.)
ステイ (2006.5.24.)
美しい人 (2006.5.17.)
戦場のアリア (2006.4.26.)
県庁の星 (2006.4.10.)
ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女 (2006.4.9.)
ブロークバック・マウンテン (2006.3.17.)
クラッシュ (2006.2.6.)
ヒストリー・オブ・バイオレンス (2006.2.6.)
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レスラー THE WRESTLER
(2008年、米=仏、字幕:太田直子)

短くても自分らしく生きることが幸せなのか、自分を殺して長生きすることが
幸せなのか。
『レスラー』は、人生の岐路に立つ中年プロレスラーの悲哀を描いた異色のスポ
ーツ・ヒューマン・ドラマである。ダーレン・アロノフスキー監督のたっての希
望で主演したミッキー・ロークは、自身の転落人生を地でいくこの役柄で、まさ
かの復活を果たした。
主人公のランディは、80年代にはマジソン・スクエア・ガーデンを満員にした
ほどのプロレスラーだ。オープニングのタイトルバックには、当時の派手な新聞
記事や雑誌の表紙がにぎにぎしく並ぶ。
ところが本編に入ると場面は一転、場末の体育館のわびしいロッカールームの
映像に。アロノフスキー監督は紙幣数枚分にしかならないギャラや、綿の飛び出
したダウンジャケットで、ランディの現在の境遇を端的に物語る。
ただ、その「哀れな末路」にも思えた場末のプロレス興行が、ランディにとっ
て必ずしも居心地の悪い場所ではないことが、序盤のうちに明らかになってくる。
レスラー仲間は結束が固く、長幼の序もそれなりに守られている様子。医療班の
手配を含めた主催者側の運営体制もしっかりしているし、何より観客の声援が熱
い。
それに対して、一歩リングの外に出れば、トレーラーハウスの家賃は払えず、
バイト先の店長にはいびられ、“有名人”に面白半分に声をかけてくる礼儀知ら
ずに悩まされる日々。ランディにとって、リングは唯一、自らの尊厳や存在価値
を確認できる場所なのだ。
だからこそ彼は、たとえ家賃を滞納しようとも、日焼けサロンやネイルサロン
にはしっかり通って、プロレスラー「ランディ・ザ・ラム」としてのアイデンテ
ィティを堅持する。
ロッカールームのレスラーたちの生態が、(どれほど現実に即しているのかは
知らないが)何とも愉快で興味深い。
たとえば興行の開始前にプロモーターがその日の対戦カードを発表すると、レ
スラーたちは一斉に「段取り」の相談に入るんですね。
試合運びの筋書きや、使用する反則技などを、対戦相手と一緒になって決めて
いく。隣のペアが首攻めで行くと聞きつけた2人が、「俺たちも首だとダブっち
ゃうな」なんて考えこむ一幕は、あたかもネタがカブらないように腐心する寄席
の楽屋の光景だ。
ランディがバンデージの下にカミソリを仕込むシーンもあるが、彼がそれを何
に使うのは本当に傑作。「プロレスは八百長だ」とよく言われるけれど、こうア
ッケラカンとやられると、むしろ「プロレスはショーだ」と称えたくもなる。
昔懐かしアブドラ・ザ・ブッチャーのフォーク攻撃も、馬場や猪木は合意の上
だったのかしらん?
そんなプロレス界にどっぷり浸って生きていたランディにも、来るべき時がや
って来る。デスマッチの後で心臓発作を起こし、今度リングに上がったら命が危
ないと医者から宣告されるのだ。
来し方、行く末を見つめ直したランディは、スーパーで接客の仕事を始め、絶
縁状態だった娘と和解する。なじみのストリッパーとも「客」以上の関係になれ
そうな気配が漂う(44歳とは思えない姿態を惜しみなく披露したばかりか、自立
した女の強さと優しさを存分に表現したマリサ・トメイが素晴らしい)。
しかし順調に見えた「第2の人生」は、些細なことから連鎖的に崩れていき……。
あれこれあって恋も仕事も家族も失ったランディは、たったひとつの自分の
「居場所」に戻っていく。マイクを握ったランディが、リング上で観客やレスリ
ングへの感謝を述べる姿には、ゴールデン・グローブ賞授賞式でのロークのスピ
ーチが重なった。
ボロボロの体で繰り出す大技「ラム・ジャム」は、レスラーというより人間ラ
ンディの存在証明だ。
よくわかった。お前がそういう選択をしたのなら、俺たちはもう何も言わん。
ランディよ、お前はリングの上で死ね。
ターミネーター4 TERMINATOR SALVATION
(2009年、米、字幕:菊地浩司)

4作目にして初めてシュワルツェネッガー抜きでの製作。おまけにメガホンを
とるのは、おバカ映画の『チャーリーズ・エンジェル』を撮ったマックG。
『ターミネーター』シリーズのファンとしては大いなる不安を抱きつつ『T4』
の完成を待っていたわけだが、喜べ、同志よ、幸い不安は払拭された。
マックGは前三作を相当に研究したらしく、シリーズの精神をきっちりと押さ
えた、堅実な作品に仕上げている。
2018年、荒廃した世界で機械軍<スカイネット>と戦う人類抵抗軍の指導者ジ
ョン・コナーは、人間と機械のハイブリッドであるマーカス・ライトと出会う。
まだ見ぬカイル・リース(『T1』で80年代にタイムスリップし、ジョンの父親
となった男)が敵に捕獲されたことを知ったジョンは、敵か味方か判然としない
マーカスの手引きで<スカイネット>の中枢に潜入するが……。
シリーズ3作目に登場したターミネーター(T−X)が高性能になりすぎて、
「進化の袋小路」に入ってしまった感のあったこのシリーズ。ところがこの4作
目では「<審判の日>の10年後/1作目のターミネーター(T−800)が完成
する前」という時間軸が設定されたことで、新たな仕切り直しが可能になった。
今作のターミネーター(T−600)はワンサと登場するわりに性能が低く、
早い話がショッカーの戦闘員も同然。当然、高性能ロボットによる単独のマンハ
ントというシリーズの基本パターンが崩れ、『ターミネーター』の4作目という
よりは『スカイネット・ウォーズ』の1作目といった風情になっている。
ただ、冒頭に述べた通り前三作への目配りは十分。下半身を吹き飛ばされたT
−600が上半身だけでにじり寄ってくる序盤のカットは、「『T1』をちゃん
と継承してますぜ」というマックGなりの挨拶だろう。
その他にも、ジョンが肌身離さず持っている母親の写真がずいぶんと古びてい
たり、「アイル・ビー・バック」というシュワルツェネッガーの決めゼリフが別
の登場人物に引き継がれていたりと、前三作へのオマージュは目白押しだ。
終盤、「一緒に行って戦うよ」と言うカイルに、ジョンが「もう来てくれたじ
ゃないか」と返すところなんざ、『T1』を知る者には感涙もの。「あの人」が
若返って登場したのはさすがに予想外だったが、確かに整合性を考えれば、そう
であっても不思議はない。
勢い余って『ダークナイト』や『宇宙戦争』からいただいたようなメカも出て
きたが、その点は見ない振りをしておこう。
というわけでシリーズの大ファンである筆者にも、全体としては満足の行く仕
上がり。さらなる続編への含みを残したエンディングにも期待が持てる。
余韻を引きずって試写からの帰途についたら、京浜東北線の振動音が「ダ・ダ
ン・ダン・ダ・ダーン」というシリーズのテーマ曲に聞こえた。
ブッシュ W.
(2008年、米、字幕:井原奈津子)
今はなきトーク番組の『今夜は最高』で、司会のタモリの友人であるジャズメ
ンたちが「自民党の田中角栄vs共産党の田中角栄の対談」という物真似芸を披露
したことがあった。
彼らに言わせれば、物真似の極意とは、いかに顔や声を似せるかではなく、い
かにその本人が言いそうなことを言うかにある。従っていかにも田中角栄が言い
そうな言い回しを使うなら、たとえ共産主義を論じても、ちゃんと田中角栄の発
言であるように感じられるわけだ。
そっくりさん映画の『ブッシュ』を見ていたら、20年以上前に聞いた、そん
な話を思い出した。
民主党支持のオリバー・ストーンが作るのだから、相当なブッシュ批判映画に
なるだろうと思いきや、意外に公平な伝記映画にも見えるこの作品。ただし、
「公平にも見える映画」というのは、必ずしも「公平な映画」とは限らないので
注意が必要だ。
早い話、ストーンの真意が模糊としてわからないのである。確かにブッシュを
ダメ男だと批判してはいる。だが、それは公平な伝記映画が当然備えているべき
批判精神の範疇を大きく踏み越えるものではない。あるいは確かにブッシュ周辺
の人物を演じる役者に珍妙なメイクを施してはいる。だが、それもまたリアリテ
ィを追求したまでだと強弁されれば、矛を納めるしかない程度のものだ。
仮にその筋から「国家の元首をコケにするとはいかなる了見か」と批判されれ
ば、ストーンは純粋無垢な顔をして、こう答えることができるだろう。「私は真
面目にひとりの政治家の人生を描きました。ブッシュ氏をコケにつもりなど毛頭
ございません」と。
もちろん、ストーンが純粋無垢な男だなんて誰も思ってやしない。さりとて、
そう言われてしまえば、それ以上にストーンの悪意を立証することは難しい。そ
の意味で、ストーンは実に巧妙な逃げを打っていると言える。いや、逃げを打っ
ているというよりは、意地の悪いジョークを仕掛けて陰でほくそ笑んでいると形
容した方が当たっているだろうか。
本作の構成は、伝記映画にありがちな、「現在」と「過去」を並行して描いて
いく手法。「過去」のパートでは、名門に生まれたダメダメ息子が、いかにして
大統領を目指すまでになったかが語られる。立派な父親へのコンプレックスや、
デキのいい弟への対抗心が、巡り巡って無謀なイラク攻撃につながったとする解
釈は興味深い。
だが、本作の一番の見どころは、何と言っても大統領となったブッシュが、ホ
ワイトハウスで閣僚たちと繰り広げる虚々実々の閣議だろう。悪の枢軸という言
葉がいかにして考案されたか、イラク侵攻がいかにして決定されたか、大量破壊
兵器の不存在がいかにして確認されたか。ストーンはそんなブッシュ政権の節目
節目を取りあげて、シンプルに再構成して見せている。
たとえばイラク侵攻派のチェイニー副大統領と、慎重派のパウエル国務長官が
口角泡を飛ばして激論を交わすシーンなどは、すでに報道されている内容をなぞ
っているに過ぎないのだけれど、新聞やテレビニュースで同じ情報を得るのとは
かなり違った臨場感がある。
撮影中から話題になっていた通り、各閣僚に扮した俳優たちが本人そっくりの
メイクぶり。のみならず、ブッシュが、チェイニーが、パウエルが、ライスが、
ラムズフェルドが、いかにも本人たちの言いそうなことを言うのが面白い。
いや、発言だけではない。閣僚たちが高度に政治的な議論をするのをブッシュ
がまるで聞いていなかったり、賢いライス補佐官(当時)がブッシュのアホ発言
を礼儀正しく聞き流していたりする姿も含めて、いかにもモデルとなった本人を
彷彿とさせる人物造形がなされているんだよね。閣僚相互の力関係までが、微妙
なやり取りの中で如実に浮き彫りになってくる。
もちろん、そのダイアログは脚本のスタンリー・ワイザーによって創作された
ものであり、実際の閣議の議事録に載っているものとはかなり違っているだろう
(早い話、本当の閣議にはもっと大人数が出席したはずだ)。だが、「いかにも
本人の言いそうなこと」を役者に言わせることができたなら、それだけで物真似
映画としては大成功なのだ。
この辺でキャストがどれだけ本人に似せているのかを見ていただこう(写真は
http://www.washingtonglobe.jp/article_detail?id=1176より転載させていただ
いた)。
肝心のブッシュ父子を演じたジェームズ・クロムウェルとジョシュ・ブローリ
ンは、どうも顔が似ていることを基準にキャスティングされたのではないようで、
メイクをしても必ずしもそっくりというわけではない。だが、いかにもな発言を
聞いているうちに、だんだん似ているように見えてくるから、あら不思議だ。

それぞれの妻を演じたエレン・バースティンとエリザベス・バンクスは、こち
らはイメージ優先でキャスティングされたようで、顔というより雰囲気がそっく
り。

スコット・グレンのラムズフェルド、トビー・ジョーンズのカール・ローブ、
ジェフリー・ライトのコリン・パウエルといった面々は、似ているという点では
かなり苦しいが、それでも発言内容や政治姿勢に関しては報道されているイメー
ジそのままだ。このあたり、ストーンは新たな解釈を提示するというより、誰も
が知っていることを面白おかしく再現することに注力したように思える。ストー
ン自身は(十分予想されたことだが)パウエルのシンパであるようですね。
一方、リチャード・ドレイファスのチェイニーと、デニス・ボウトシカリスの
ウォルフォウィッツはまさに瓜二つ。後者などはあまり知名度の高い役者ではな
いから、似ていることだけを基準に起用されたとしか思えない。

でも、一番傑作なのは、やっぱりタンディ・ニュートンのコンドリーザ・ライ
スだろうなあ。ライスさんて、時々顔面神経痛を思わせるような顔のゆがませ方
をする人なんだけど、ニュートンもしっかりそれをコピーしていた。これって、
たとえば『アビエーター』のケイト・ブランシェットがキャサリン・ヘップバー
ンの話し方をコピーしたのとはまた違った、清水ミチコ的な毒を感じるんだよね。
グラン・トリノ GRAN TORINO
(2008年、米、字幕:戸田奈津子)

差別の問題を論じる時にしばしばやりきれなさを感じるのは、持てる者が持た
ざる者を差別するという構図ばかりではなく、待たざる者がさらに持たざる者を
差別するという構図が往々にして見られることだ。
『グラン・トリノ』の主人公もまた、コワルスキーという姓から明らかな通りポ
ーランド系のカトリック。どちらかといえば彼自身がWASP(アングロサクソ
ン系プロテスタントの白人)に見下される側だったはずだ。実際、彼は自動車工
場のブルーカラーとして職業生活を終え、老境を迎えた今もアジア系移民が流入
する(つまりはあまり高級ではない)地区に住み続けている。
そんな彼が貧しい移民を蔑視するところを見せられたら、普通なら楽しい気分
になるはずがないのだが……。
あにはからんや、クリント・イーストウッドが演じ、自ら演出するこのコワル
スキーという男の造形がユーモラスで、起承転結の「起」の部分はクスクス笑い
通しだった。
息子や嫁に遠慮会釈なく憎まれ口を叩く、孫娘のへそピアスに不機嫌なうなり
声を上げる、イタリア系の床屋と口汚く罵り合うといった偏屈ジジイながら、そ
の道徳観や正義感には一本筋が通っている。よく見れば騎士道的な女性への優し
さも持っているようだ。要は昔気質の頑固親父なんですね。
そんな彼がふとしたきっかけで隣家の姉弟、スーとタオを救うことになり、蔑
視していたモン族の一家との思いもかけない交流が始まっていく。
コワルスキーとタオとの関係が徐々に深まっていく「承」の部分が温かい。目
標のない日々を送っていた移民の少年は、渋々コワルスキーとつき合ううちに、
アメリカ社会のルールや男の生き方を覚えていく。
頑固親父はタオをこき下ろしながらも、新たな「息子」を一人前にすることに
久方ぶりの生き甲斐を見出していく。世代間の、あるいは異文化間の望むべき交
流の形がそこにある。
日本の観客が最もカルチャーギャップを感じるのは、コワルスキーが再三愛用
の銃を持ち出し、侵入者を追い払ったり、少女を不良から守ったりすることだろ
う。
だが、全米ライフル協会のPR映画のようにも思えた作品の基調が、途中から
微妙に変わってくる。タオにつきまとう不良グループをコワルスキーが銃でおど
した結果、隣家は銃撃され、スーは暴行を受けるのだ。
正直なところ、この「転」の部分はいささか不出来。コワルスキーの行動は軽
率だし、“監督イーストウッド”に演出してもらえなかった“俳優イーストウッ
ド”が木偶の坊のように座っているだけというシーンさえ見られる。だが、それ
らを補って余りあるのが最後の「結」の部分である。
往年の東映ヤクザ映画なら鶴田浩二や高倉健が長ドス抱いて殴りこみをかける
ところ。同様の状況がクライマックスに配置された『ロード・トゥ・パーディシ
ョン』(02)や『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(05)でも、敵対する者たちを
一掃しなければ主人公とその愛する者たちに平和な日々は来なかった。
コワルスキーもそうするのか? しないんだな、これが。代わりに原案・脚本
のニック・シェンクは、まったく違った、哀切極まる結末を用意していた。
コワルスキーはある衝撃的な方法で自らの命を張り、タオとその一家の生活を
守るのだ。「ムダに生きるか 何かのために死ぬか」というコピーは、『ランボー
最後の戦場』ではなく、この『グラン・トリノ』にこそふさわしい。
コワルスキーの決断は、ストーリーの上では、「朝鮮戦争時にアジアで行った
非道な行為への償い」だと説明されている。だが私には、かつてイーストウッド
が演じた『ミリオンダラー・ベイビー』の主人公が、あちらで最後に犯した「あ
る罪」のオトシマエをつけるために舞い戻ってきたのではないかと、そんなふう
に思えてならなかった。
スラムドッグ$ミリオネア SLUMDOG MILLIONAIRE
(2008年、英、字幕:松浦美奈)

ご存じ、アカデミー賞作品賞を初め、昨年の各種映画賞を総なめにした快作だ。
インドで人気のクイズ番組に出場した青年ジャマールは、残り1問で大金を手に
するところまでこぎ着けながら、不正を疑われて逮捕される。
スラム出身の負け犬(=スラムドッグ)は、なぜ次々と難問に答えられたのか。
そして何のために全問正解しなければならなかったのか……。
まずは物語の構成の巧みさに舌を巻く。取調室での尋問から、収録されたクイ
ズ番組のプレーバックに移り、そこからジャマールの少年時代の回想へ。巧妙に
してスムーズなその時間軸の循環を通じ、出題された問題のひとつひとつが図ら
ずもジャマールの過去とつながっていたことが明らかになっていく。
回想シーンで描かれるジャマールの生い立ちは(とりわけ先進国の観客にとっ
ては)壮絶だ。ゴミためのようなスラム、宗教暴動で惨殺される母親、孤児を集
めて物乞いをさせる怪しげな組織。だが「後進国」の惨状に安易に心を痛めたり
すれば、劇中に登場するアメリカ人夫婦と同様、現地の人から失笑を買うだろう。
人は置かれた状況の中で精一杯生きていくしかない。ジャマールとその兄もま
た、我が身の不幸を嘆く暇もあらばこそ、時には盗みや詐欺まがいの行為も働き
ながらしたたかに生き延びる。引きこもりやリストカッターが続出するどこかの
「先進国」の住民の目には、そのバイタリティがまぶしくも痛快だ。
インド人作曲家、A・R・ラフマーンの起用も大正解。その音楽は全編をエキ
サイティングに盛り上げる。
生き別れた孤児仲間のラティカに向けるジャマールの一途な愛も、本作を貫く
もうひとつの柱だ。ラティカをようやく探し当て、「君に会いに来た」と告げる
ジャマールのけなげさ。ギャングの囲い者となったラティカが、「会えたわ。そ
れでどうなるの?」と返す言葉の切なさ。
無学なジャマールがクイズ番組に出たのも、彼女が見ていると思えばこそ。だ
からあなたは、彼が最後の1問に臨む時、我がことのようにハラハラし、祈らず
にはいられない。ライフラインというクイズのルールと恋の行方を絡めたプロッ
トは見事のひと言。ここまでジャマールを利用するだけだった兄が、最後に見せ
る男気にも泣ける。
本作のアラを指摘するのはたやすい。ジャマールが過去に知り得たことばかり
が偶然クイズに出るわけないだろ。ましてや経験した順番通りに出題されるって
どーゆーことよ?
だがこの『スラムドッグ$ミリオネア』には、そうした作り手の作為や観る側
のツッコミをすべて呑みこみ、心地よく疾走させるだけのパワーと感動がある。
社会性と娯楽性、アクションとロマンス、インド的なるものと普遍なるものを
見事にバランスさせた、これはダニー・ボイル監督の最高傑作。観るべし!
アライブ 生還者
STRANDED: I HAVE COME FROM A PLANE THAT CRASHED ON THE MOUNTAINS
(2007年、仏、字幕:?)
ウルグアイを飛び立ったチャーター機がアンデス山中に墜落。生き残った者た
ちが人肉を食べて72日間を生き抜いたという1972年のニュースは、当時の世界に
衝撃を与え、イーサン・ホークの主演映画『生きてこそ』(93)の題材ともなった。
本作は50代を迎えた生還者たちや、当時の救助関係者へのインタビューを通じ、
現場で何が起きたのかを改めて伝えようと試みたドキュメンタリーだ。
ゴンサロ・アリホン監督は、35年後に語られた証言から、猟奇趣味とは無縁の
団結と友情、そして生きようとする意志の尊さを浮かび上がらせる。
混乱とパニックに始まり、捜索打ち切りをラジオで知ったことによる絶望、増
えていく犠牲者、寒さと飢え、そして物議を醸すあの決断。
生存者のうちの2人が、最後の望みをかけて4000メートル級の山塊を越えるく
だりなどは、なまじなフィクションを吹き飛ばすほどのドラマ性と感動がある。
16人の生還者が必ずしも真実を語っているとは考えなくていいだろう。自分や
仲間の行為を正当化するために、多少の歪曲は交えているかもしれない。
それでも、仲間の遺体を「使わせてもらった」と表現する彼らの謙虚さや感謝
の念にウソはないように見える。
生還者の1人が語った「遺体を使う許しがほしかった。だから生き残った仲間
たちと『自分が死んだらその遺体を使ってくれ』と約束し合った」という言葉に、
そんな気持ちの一端が表れているように思う。
遺体を「使われた」者たちの遺族もまた善意に満ちている。作品の終盤、彼ら
が生還者と共に事故現場に赴き、手を取り合って祈りを捧げるシーンがあった。
そこで恨み言ひとつ言うでもなく、むしろ「お役に立てて故人も喜んでいます
よ」的な発言をする彼らの寛大さには、我知らず目頭が熱くなった。
それにしても不思議なのは運命の配剤だ。「座席1つ違うだけで生死が分かれ
た。一方は死に、一方はほとんど無傷。神は何を基準にそれを分けるのか?」と
いう生還者の疑問は、そのまま私たちの疑問でもある。
ついでに言うなら、九死に一生を得た16人の生還者は、三十数年が過ぎた今も
なお、全員が存命だという。50代にもなれば1人や2人、病気や事故で欠けてい
ても不思議はないのに、神様、あなたは本当に気紛れだ。
ザ・バンク 堕ちた巨像 THE INTERNATIONAL
(2009年、米、字幕:松浦美奈)

『パフューム ある人殺しの物語』(06)のトム・ティクヴァ監督が、不正な手段
で巨利をむさぼる巨大銀行と、その摘発に人生をかけたインターポール捜査官と
の攻防を描いたクライム・サスペンス。複雑でわかりにくい経済事犯ではなく、
古典的な謀略と暗殺の物語に徹した構成が成功し、緊迫感あふれる一作に仕上が
った。
インターポール捜査官のサリンジャー(クライブ・オーウェン)は、ニューヨ
ーク検事局のホイットマン(ナオミ・ワッツ)の協力を得てIBBC銀行の不正
を暴こうとするが、重要証人や捜査官が次々と殺害されて……。
主演のオーウェンはいささか地味だが、ワッツやアーウィン・ミューラー=ス
タール(IBBCの幹部役)らの脇役は健闘。
だが本作で最も魅力的なのは、何と言ってもIBBCに雇われた義足の暗殺者
“コンサルタント”(ブライアン・F・オバーン)だろう。この男、外見は影の
ように目立たないが、腕とプロ意識は超一流。ティクヴァ監督が『パフューム』
で創造した“嗅覚のターミネーター”とも言うべき殺人者を彷彿とさせる強力キ
ャラだ。中盤、彼がイタリアの大統領候補を狙撃すると、ストーリーの進行が一
気に活性化するのがわかる。
物語は欧州、ニューヨーク、イスタンブールと三大陸を股にかけて進展するが、
中でも見応えがあるのはニューヨーク編だ。サリンジャーが義足を手がかりにコ
ンサルタントの居所をつかむと、IBBCは2人に刺客の軍団を差し向ける。
観光名所であるグッゲンハイム美術館での壮絶な銃撃戦は迫力満点! その特
徴ある内装が特大セットでまるごと再現されたものだと知って2度ビックリ。
宿敵のサリンジャーとコンサルタントが、インディアンに襲われた保安官と護
送犯よろしく手を組んで窮地を脱し、奇妙な(しかし、はかない)友情を取り結
ぶシーンは、男の涙腺をかなり刺激する。
意味不明の副題にひるまず、ぜひご鑑賞あれ。
フロスト×ニクソン FROST/NIXON
(2008年、米、字幕:松岡葉子)

ジョージ・W・ブッシュが登場する以前、最も不人気な米国大統領といえば、
それはリチャード・ニクソンのことだった。なんたって米国史上初めて弾劾裁判
にかけられ、辞任を余儀なくされた大統領だったのだから。
そのニクソンが表舞台への復帰を狙って出演した1977年のテレビインタビュー
は、4500万人もの視聴者を集めたという。インタビュアーを務めたデビッド・フ
ロストはコメディアン上がりのテレビ司会者で、こちらも人気の先細り感に焦り
を抱えていた。
『フロスト×ニクソン』は、そんな2人がそれぞれの起死回生をかけて臨んだ伝
説のインタビュー番組と、その舞台裏で繰り広げられる虚々実々のかけひきを描
いた実録のドラマだ。
脚本のピーター・モーガンは存命中の有名人をキャラクター化することにかけ
ては第一人者。モデルとなった人物に媚びることなく、しかも魅力的な登場人物
を造形する手腕は、06年の『クイーン』ですでに証明済みだ。
本作においてもフロストやニクソンはもちろん、それぞれのブレーンに至るま
でが生き生きと肉付けされ、おそらくはモデルとなった本人たち以上に好感度の
高いキャラクターとして再現されている。
分けても秀逸なのはフランク・ランジェラの演じたニクソンだ。顔そのものは
決して似てはいないのだが、その貫禄や懐の深さはまるで本当の大統領経験者。
「あんな奴とは握手しない」と息巻いていたフロストのブレーンが、その迫力に
呑まれて思わずお追従笑いをしてしまう気持ちがよくわかる。
その弁舌や人心掌握術の巧みさには「腐っても鯛、辞任しても大統領」という
雰囲気がありあり。アカデミー賞ノミネートも納得の、ランジェラの名演だった。
当初は単なる売名行為の一環としてこのインタビューを企画した口先三寸男の
フロスト(マイケル・シーン)が、キー局には放送を断られ、ニクソンにはいい
ようにあしらわれという屈辱を味わう中で、いつしか真摯なジャーナリスト魂に
目覚めるあたりの成長ぶりも見どころ。
ちなみに彼がニクソンから決定的なひと言を引き出せたのは(あるいは、ニク
ソンから引き出した言葉が決定的なものとなり得たのは)テレビの力だったとい
う解釈には、しばし考えさせられた。けだし、テレビとは両刃の剣ではある。
映画は映画だ
(2008年、韓、字幕:根本理恵)

韓流ブームが去ったと言われて久しい。確かにひと頃のヨン様やイ・ビョンホ
ンに匹敵するような人気者は、さすがに日本では生まれなくなった。だが、スト
ーリーを生み出す力に関して言えば、韓国映画界にはまだまだ底知れぬポテンシ
ャルが隠されているように思う。それを実感させてくれるのが、たとえばこの
『映画は映画だ』のような作品だ。
暴力的で高慢な映画スターのスタ(カン・ジファン)と、俳優になりたかった
ヤクザのガンペ(ソ・ジソプ)。出会うはずのない2人の運命がひょんなことか
ら絡み合い、決闘シーンをガチンコ勝負で行うことを条件に、スタの主演映画に
ガンペが客演することに。
楽屋では満腹の野獣同士のように牙を隠している2人だが、いざカメラが回り
始めると段取りを無視して大暴走。あわや一触即発かと思いきや、カットがかか
れば不思議と脚本の枠内に事が収まっているあたりの呼吸は見事なものだ。
観ているこちらにはスタとガンペの行動のどこまでが「演技」で、どこからが
「素」なのかさっぱりわからないが、一方でカン・ジファンとソ・ジソプは脚本
に添ってそういう「演技」をしているわけで、その二重構造まで視野に入れると、
本作の面白みがさらに増す。
劇中劇の監督に扮したコ・チャンソクも、ヤクザにビビりながらもガンペをシ
レッとこき使う、何とも味のあるキャラクターを作っている。
撮影を離れた私生活の部分でも、ガンペが組織の内部抗争に命を張ったり、ス
タが恋人との密会写真をネタに脅迫されたりと波瀾万丈。注目すべきは、裏社会
にどっぷり浸かっていたヤクザと、天狗になっていた俳優が、互いの存在を触媒
に、生き方を徐々に変えていく点だ。
劇中劇の最後を飾るのはスタとガンペのガチンコ勝負。「結末は変えるな」と
釘を刺す俳優と、「お前が勝てばいいだけさ」とうそぶくヤクザが、泥まみれの
壮絶なバトルを展開する。
すべての撮影が終わった後のエンディングもまた印象的だ。見下していたガン
ペにいつしか友情さえ感じ始めたスタの前で、ガンペはしかし「ヤクザはしょせ
んヤクザだ」「俳優はしょせん俳優だ」と言わんばかりの暴挙に出る。ここに至
って、多くの観客は『映画は映画だ』というわかったようなわからないようなタ
イトルの本当の意味を知るのである。
監督のチャン・フンは鬼才キム・ギドクの下で助監督を務めていた人物。恩師
の原案を脚色し、ギドクの作品以上にエンターテイニングな一作に仕上げた功績
は大きい。
オスカーナイト・ウォッチング!

81回目となるアカデミー賞授賞式が日本時間の2月23日に開催、邦画の
『おくりびと』が外国語映画賞に、また『つみきのいえ』が短編アニメ賞に輝い
たことで、日本のメディアでも式の話題が大きくクローズアップされた。
ただ、個人的に最も印象深かったのは、アカデミー賞の国際化(というか脱U
SA化)が一層進んだことかな。司会のヒュー・ジャックマンはオーストラリア
人だし、作品賞はインドを舞台にイギリス人監督が撮った映画でしょ。俳優部門
の受賞者4名は、昨年アメリカ人がゼロだったのに続いて、今年もスペイン人1
名、イギリス人1名、オーストラリア人の故人が1名。アメリカ人は主演男優賞
のショーン・ペンのみという内訳になった。
全米の期待を背負って就任したオバマ大統領についても、意外や、司会者のジ
ョークや受賞者のスピーチでほとんど触れられることはなし。ショーン・ペンが
サラッと言及したのが、唯一記憶に残る程度だった。
これを大恐慌以来の経済危機の震源地となったアメリカの、自信喪失の表れと
見るのはうがちすぎだろうか。
ジャックマンの司会は手堅かったなあ。近年は喜劇俳優や芸人がずっとホスト
役に起用されてきたのだけれど、ジャックマンは彼らに遜色のないジョークが言
えて、しかも歌って踊れる芸達者。最前列に座った俳優たちとのかけ合いも余裕
しゃくしゃくにこなしていた。これも長年舞台で培った「現場力」のたまものか。
もちろん彼が口にしたセリフやジョークはすべて台本に書かれたものなのだけ
れど、生の舞台でそれを自分の言葉として語るのは、映画俳優とはまた別のスキ
ルがいる。プレゼンターを仰せつかった俳優たちが、セリフを棒読みしてしまう
ケースが意外に多いことも、そのことのいい証明になるだろう。
ただ、破綻はなかった代わりに、数年たっても語り草になるような強烈なシー
ンもなかったかも。良くも悪くも「善良だけど面白みのない人」というジャック
マンの持ち味が、そのまま反映された司会ぶりではあった。
棒読みのプレゼンターと言えば、今年は俳優部門のプレゼンテーションの仕方
が大きく変わっていた。例年だと、前年の助演女優賞受賞者が助演男優賞のプレ
ゼンターを務め、前年の主演男優賞受賞者は主演女優賞のプレゼンターを務める
という具合に、男女クロス方式で行われるのが慣例だったが、今年は過去の助演
女優賞受賞者5人が助演女優賞をプレゼントしたのを皮切りに、4部門とも同パ
ターンで行われた。
助演女優賞のペネロペ・クルスは、たっぷりスピーチのアイデアを練ってきた
印象。冒頭で「気絶しそう」とジョークをかますと、受賞作のウディ・アレン監
督のみならず昔世話になったペドロ・アルモドバル監督らにまで感謝を捧げ、
「すべての芸術は守らなければならないもの」という硬派なメッセージで締める。
助演男優賞のヒース・レジャーはどうなんだろうね。確かに『ダークナイト』
での怪演は存命なら十分受賞に値したと思うが、亡くなった俳優に与えたことで
名誉賞、あるいは「冥土のみやげ」的な色合いが濃くなった。個人的には生きて
いる者に与えるのがフェアだったと思うけど。
主演女優賞のケイト・ウィンスレットは6度目のノミネートにして初受賞。ゴ
ールデングローブで主演女優賞と助演女優賞をダブル受賞した勢いは衰えていな
かった。「スピーチの練習をしてこなかったといえばウソになります」なんて爆
弾発言をしたので、こりゃ嫌われるぞと思ったら、「8歳の時にシャンブーのボ
トルで」と続けたので、会場の雰囲気が一気に和らいだ。
主演男優賞のショーン・ペンは『ミスティック・リバー』に続く2度目の受賞。
いの一番に感謝を捧げた「サト・マツザワ」という日系の名の人物は、彼の個人
マネジャーなのだとか。ゲイにエールを送り、オバマの当選を祝い、ミッキー・
ロークの復活を称えと、何事にも一家言ある彼らしいスピーチだった。
今年の進行の特色は、映画の製作過程に添うように脚本→美術系→撮影→ポス
トプロダクション系と、順に部門賞の発表を進めていったこと。
例年だと主題歌賞の候補曲が「トイレタイム」として適度に分散発表されるの
だが、今年は3曲を集中発表し、代わりに司会のジャックマンやビヨンセがミュ
ージカル復権をうたったパフォーマンスを披露した。まあ、どのみち「トイレタ
イム」になることに変わりはないのだけれど。
ポストプロダクション系の最後には作曲、主題歌、録音、編集の各部門賞が発
表されたが、あろうことかそのいずれもが『スラムドッグ$ミリオネア』からの
受賞。同作はそのままの流れで監督賞、作品賞をも獲得したために、見終わった
後は『スラムドッグ』の地滑り的勝利という印象が濃くなった。
結局同作は、9部門ノミネートされたうちの8部門でオスカーを獲得。無名の
俳優ばかりだったから俳優部門へのノミネートはなかったが、ノミネートされて
いたら勢いで受賞していたかもしれない。
一方で最多の13部門にノミネートされていた『ベンジャミン・バトン』は、
美術、メイク、視覚効果の技術系3部門の受賞にとどまった。
『つみきのいえ』はロボットに所属する加藤久仁生監督の作品。プレゼンターの
ジェニファー・アニストンはちゃんと「かとう」と発音してくれていたが、ジャ
ック・ブラックには「けいとう」と読まれてしまった。『ブラックレイン』で松
田勇作が演じた「佐藤」も、マイケル・ダグラスらに「せいとう」と発音されて
いましたね。
『おくりびと』は作り手が思っていた以上に大きな作品になってしまったという
印象か。脚本の小山薫堂も、これがアカデミー賞を取ると知っていたら、女装男
のエピソードなんぞをオープニングに持って来なかっただろう。
外国人には理解不能と思われるシーンもけっこうあったよね。茶髪の女子高生
の遺体を前に、母親が「うちの娘はこんなじゃない」と泣くシーンがあったけど、
欧米人の目には茶髪で派手な化粧をした遺体の方が、のっぺりした遺影の顔(母
親の目には「清楚な顔」なんだけど)より確実に美しく見えたはず。
そもそも納棺の儀式を家族全員が正座する前で執り行うという習慣自体、意味
がわからないだろうなあ。あ、それは多くの日本人にもわからないか。
杉本哲太が母親を火葬しながら「ゴメンよ」と泣くシーンがあったけど、これ
は火葬の習慣のない国の人には誤解されて伝わったかもしれないね。
ちなみに本家に先立って発表された日本アカデミー賞では、『おくりびと』が
主要部門を含む10部門を獲得し、これこそ地滑り的大勝利。とはいえオスカー
にノミネートされていなかったら、結果はおそらく違っていたはずだ。日本人っ
て権威に弱いんだよなあ。
チェンジリング CHANGELING
(2008年、米、字幕:松浦美奈)
母ひとり子ひとりの家庭から9歳の息子が姿を消し、母親は眠れぬ日々を過ご
す。5ヵ月後、警察から息子が発見されたとの報が入るが、名乗り出てきた子供
は明らかに別人で……。
1928年に実際に起きた事件を元にした、クリント・イーストウッド監督の
入魂作だ。不屈の母性愛を見せたアンジェリーナ・ジョリーは、本作でアカデミ
ー賞主演女優賞へのノミネートを勝ち取った。当時の町並みや衣装が見事に再現
されているのにも驚く(20年代の実物を見たことはないのだけれど)。
前半の焦点となるのは、ヒロインのクリスティンとロサンゼルス市警との攻防
だ。子供は偽物だと話しても、メンツを重んじる市警の担当者ジョーンズは一件
落着だと耳を貸さず、それどころかマスコミに支援を訴えようとしたヒロインを
精神病院に放りこむ始末。
ジョーンズ警部役のジェフリー・ドノヴァンがいかにも憎々しげな演技で観客
の怒りをあおる一方、ジョン・マルコヴィッチの演じる牧師は衷心からヒロイン
を支援して、暗い物語を照らす数少ない光となった。偽の子供と市警との関係が
必ずしも明確にされていないのは、元になる史実が曖昧だったからだろうか。
タイトルの『チェンジリング』とは取りかえ子(妖精が子供をさらったあとに
置いていく醜い子)のことだが、ヒロインの戦いは――つまりはこの映画は――
名乗り出た子供が偽物だと証明されてからが長い。息子が大量殺人鬼に監禁され
ていたことが判明してからは、彼が見つからないこと以上に、その生死が分から
ないことがクリスティンを苦しめる。彼女が殺人鬼に直接そのことを問いただす
シーンの緊迫感や、心の震えは、客席で観ているこちらの心をも動揺させずには
おかないほどだ。
どれだけの状況証拠が息子の死を指し示しても、その確証が出ないがゆえに、
クリスティンは捜索をあきらめない。いや、あきらめることができない。クリス
ティンの母性愛を称えてきたイーストウッドの演出は、2時間22分の上映時間
が終わる頃、微妙に(そう、あくまでも微妙に)ヒロインの正気を疑わせるもの
になってゆく。
本作のエンディングには「希望のようなもの」が提示されるが、それを「希
望」と見るのはあくまでヒロインの主観であり、観客は彼女がそれを「希望」と
見ることに、微妙に「不幸」の影を見る。いっそ早めに息子の死体が見つかって
いれば、彼女も新たな家庭、新たな子供、新たな幸福を手にすることができたか
もしれないものを。(青地の部分はマスメディアに書くと差し障りがありそうな
ので、本HPにだけ書いておく。日本にも拉致被害者のご家族らがいますからね。
イーストウッドの演出が微妙なのも、似た立場の方々への配慮があったためかも
しれない)
最後の字幕で、クリスティンが死ぬまで息子を捜し続けた(つまりは見つけら
れないままに人生を棒に振った)ことを知るにつけ、彼女の失ったものの大きさ
に暗然とせずにいられない。
主演のジョリーは当初、本作への出演に乗り気ではなかったという。母親とし
て、子供が行方不明になる映画には出たくなかったということらしい。
行方不明になる子ばかりではない。ホームレス生活から脱するために他人に成
りすます子、殺人鬼に殺される子、それを手伝わされる子と、本作はさながら不
幸な子供のオンパレードだ。大恐慌を前にした、今より人の命が軽かった時代の
哀しい記録と言えるだろう。
7つの贈り物 SEVEN POUNDS
(2008年、米、字幕:松崎広幸)
通販会社の電話オペレーターとして働く盲人にしつこくクレームをつける。入
居者を虐待する老人ホームの経営者に、「お前には、やらない!」と謎の言葉を
ぶつける。『7つの贈り物』は、主人公のこんなシーンから幕を開ける。どうや
ら彼は「いい人間」を探しているらしい。でも、いったいなぜ?――と思った時
点で、あなたは作り手の術中にはまっている。
主人公のベン(ウィル・スミス)は、許されざる過ちを犯し、「7秒間で人生
を破滅させた」男だ。その贖罪のために、彼はある過激な計画を実行に移してい
る。情報を小出しにし、ベンの意図を巧みに隠した序盤の作りは、好奇心と期待
感をかき立てるに十分。ただ、ベンが“対象者”の女性(ロザリオ・ドーソン)
に惹かれ始める中盤以降は、横糸のロマンスによって、本筋の推進力が殺がれる
結果となったのが惜しまれる。
本作の設定に「幸福な王子」を連想する方も多いだろう。オスカー・ワイルド
の手になるこの童話、虚心に読めば無私の精神への賛辞なのだが、どこかで反発
や懐疑を感じさせることも事実。「自分さえよければ他人はどうなってもいい」
という利己主義と同じように、その真逆もまた、あまり勧められたことではない
ように思えるからだ。
ベンが親友(バリー・ペッパー)の手を借りてやろうとしているのも、利他的
行為の最たるもの。童話の中でそれをしたのは銅像とツバメだったからギリギリ
のところで納得がいったが、生身の人間であるスミスやペッパーにそれをされた
ら、さすがに道徳的な疑問が湧く。
ベンの行為を素直に称えられないもうひとつの理由は、彼にとっては結局「家
族のところに行くこと」が主であり、「贖罪のための贈り物をする」ことは従だ
から。事故で死なせてしまった7人が全員、他人であったなら――そちらの方が
罪は重いはずだが――彼は同じ行動は取らなかっただろう。
ところで原題のSEVEN POUNDSって、何のことなんでしょうね? 換算すれば3
キロ少々の重さなんだけど、ストーリーとの関わりが分からない。
IMDbの掲示板で質問してみたが、どうも英米人でも必ずしもピンと来てい
ない様子だ。「心臓の重量」という回答もあったが、人間の心臓は、実際には1
キロもない。
ちなみに回答のひとつには、こんなのもあった。「『ベニスの商人』では借金
のかたに胸の肉1ポンドを払うという契約が登場する。主人公は7人を死なせて
いるから、1人1ポンドの計算でSEVEN POUNDSなのではないか」
真偽のほどは定かではないが、少なくとも興味深い説ではある。
ホルテンさんのはじめての冒険 O'HORTEN
(2007年、ノルウェー、字幕:石田泰子)
「判で押したような人生」という表現は、どちらかといえば自嘲的なニュアンス
で使われることが多いけど、雇用環境がこれだけ悪化してくると、「判で押した
ような人生」を送れる人はむしろ幸せなのではないかしらんと思えてくる。
本作の主人公のホルテンさんも、ノルウェー鉄道の運転士として、つましくも
規則正しい毎日を送っていた。ところが定年退職の前日になって、彼の人生は予
想もしなかった脱線をし始めて……。
『キッチン・ストーリー』(03)のベント・ハーメル監督が、またまた独特のユー
モアと暖かさをたたえた作品を生み出した。無骨な初老の男が、まるで三谷幸喜
の戯曲のように、次から次へと予期せぬ窮地に追いこまれ、「人生初めての体
験」を重ねていく。
麻薬所持容疑で**の穴まで調べられるわ、赤いハイヒールで街を歩くハメに
なるわ、目隠しで運転する男の助手席に乗せられるわと、もう散々。いかにもま
じめそうな主人公(ボード・オーヴェ)が、奇人ぞろいの脇役たちに翻弄され、
困惑した顔を見せるのが、最高におかしい。
一見ランダムにちりばめられたようなホルテンさんの“冒険”だが、実はハー
メル監督の周到な計算に従って配置されていることに、目ざとい方なら気づくは
ず。序盤の“冒険”は完全に巻きこまれ型だ。ホルテンさんは運命や他人に振り
回されてばかり。珍しく自発的にヨットを売却しかけたかと思えば、契約直前に
心変わりして逃げ出す始末。このあたりまでのホルテンさんは、いまだ「判で押
した人生」から離れることができていない。
ところが行きつけのタバコ店で店主の死を知らされたり、何度マッチを買って
もそれを忘れてしまう老人の姿を見たりするうちに、ホルテンさんの中で何かが
変わる。そして、それまでは尻込みしていたことに自ら挑むようになっていく。
生まれて初めてスキージャンプを飛んだ後、67歳にして人生最大の冒険(そ
れが何かはおわかりですね?)に乗り出していくホルテンさんを、誰が声援せず
にいられようか。ある脇役の語った「人生は常に手遅れ。逆に考えれば何だって
間に合う」というセリフが印象的な、チャーミングな一作だ。
ベンジャミン・バトン 数奇な人生 THE CURIOUS CASE OF BENJAMIN BUTTON
(2008年、米、字幕:アンゼたかし)
老人のような肉体を持って生まれ、年齢を重ねるごとに若返っていく男。鬼才
デビッド・フィンチャーは、そんなワン・アイデアを元に、2時間47分の堂々
たる大河ドラマを撮り上げた。
母親の命と引き替えに生まれた“ヨボヨボの赤ん坊”ベンジャミンは、直後に
父親に捨てられ、数奇な人生を歩み出す。運良く老人ホームの寮母に拾われると、
「すぐに老衰で死ぬ」と診断した医師を尻目に順調に成長。若くして船乗りとな
り、期せずして戦争にも参加するが、その心には幼い頃に知り合った少女デイジ
ー(ケイト・ブランシェット)の面影が常に宿っていて……。
自分の肉体的ハンデを嘆きもせずに、時に雄々しく、時に淡々と人生に立ち向
かうベンジャミンが好ましい。周囲と違う自分に居心地の悪さを感じるためか、
彼は頻繁に旅をする。そして様々な人と触れ合い、いくつもの小さなドラマを紡
いでいく。だが、年齢と共に若返る彼の人生自体が、いわば非日常の旅のような
もの。本作にロードムービー的な要素を色濃く感じるのは、おそらくそのためだ。
ベンジャミンはその“旅”の折々に、デイジーという“港”に帰港する。だが
20代のデイジーは、ベンジャミンを「年齢差のある友人」としか見ることがで
きず、いたずらに彼を傷つける。40代を迎えてようやく心身共に同年代となっ
ても、ベンジャミンの宿命はその愛の永続を許さない。彼が運命に屈服すること
なく生きてきたのを見ているだけに、そこで下される苦渋の決断が胸を打つ。
本作は作品賞、監督賞、主演男優賞など13の部門でアカデミー賞にノミネー
トされた。各部門ともライバルは強力だが、1つだけ受賞確実と断言できるのが
メイクアップ賞だ。
「小さな老人」として生まれたのに「大きな赤ん坊」にはならないのかというツ
ッコミはさておき、ブラピに施された様々な段階の老けメイク&青年メイクは見
事のひとこと。しかも序盤では、その顔が子供の体に“貼り付けられ”ていたり
していて、VFXの進歩にも舌を巻く。
ブランシェット他の共演陣も何段階かの年齢を演じ分け、様々な老いや傷跡の
メイクを施した。久々に見るジュリア・オーモンド(老いたデイジーの娘役)の
容色が妙に衰えていたのは、残念ながら特殊メイクのせいではなかったようだが。
それにしても、これほど数奇な生涯を送った男であっても、人生(と、この映
画)のハイライトはやはり前半生に集中してるんだよね。人生、すでに後半生に
入った私としては、ちょっと切ない。
2008年(私の)ベスト10!
2008年の日本国内における興収ベスト10は、『ポニョ』を筆頭に7作ま
でが日本映画。外国映画はかろうじて『インディ・ジョーンズ』『レッドクリ
フ』『アイ・アム・レジェンド』がランクインしただけだったとか。
ありえないよね。なぜあんなテレビドラマと大差のない邦画に客が入るんだろ
う? いや、もちろん邦画の真の問題は、「テレビドラマと大差がないこと」で
はなく、「クソつまらないこと」なのだけれど。
・・・と言った責任上、私のベスト10も挙げておかないとね。例年どおり、
優劣ではなく、見た日付順に並べております。
1 魔法にかけられて ENCHANTED
中盤の群舞シーンには「やっぱりディズニー映画って楽しいじゃん」と思わせ
る底力が。冒頭のセルフ・パロディは、ディズニーの迷いではなく、余裕の表れ
だったようだ。プリンセス女優が三十代というのは、いかにも現代的ですね。
2 ペネロピ PENELOPE
『モンスター』などで“重要な役”は演じていたクリスティーナ・リッチだけど、
“素敵な役”をもらったのは大人になってから初めてかも。今年の日本公開作3
本がいずれも傑作だったジェームズ・マカヴォイの、やさぐれた風情もよかった。
3 つぐない ATONEMENT
画家には画家の、役者には役者の性(さが)がある。過ちを正すための真摯な
告白にさえフィクションを交えずにいられないのが小説家の性。それが物語の構
造と巧みにリンクし、観た者はしばし大地の底が抜けたような感覚を味わう。
4 パリ、恋人たちの2日間 2 DAYS IN PARIS
主演のジュリー・デルピーが脚本・監督など6役を担当。エッジの利いたキャ
ラクター、エスプリに満ちたセリフが笑わせる。「つき合って2年、楽しいこと
もあったけど、ほとんどはフツーだ」といった、恋愛に対する健全な諦念が好き。
5 最高の人生の見つけ方 THE BUCKET LIST
難病モノに際どい笑いを盛りこみながら、しかも同じ境遇にある人々への礼を
失わない稀有な作品。2人のオジサンのやり残したことが意外な形でかなえられ
ていくのを見れば、誰もが限りある生を少しだけ大切にしようと思うだろう。
6 アクロス・ザ・ユニバース ACROSS THE UNIVERSE
ビートルズの名曲で綴られたミュージカル。歌詞が物の見事に物語に組みこまれ
ているのには舌を巻く。ダンスの振り付けやセットデザインは斬新で、キャスト
の歌唱力も絶品。とりわけジム・スタージェスの高音部の色気が光る。
7 イントゥ・ザ・ワイルド INTO THE WILD
恵まれたボンボンのモラトリアム話にも堕しかねない題材が、物質文明にきっ
ぱりと背を向けた青年の、鮮烈な成長物語に仕立てられている。青年が行く先々
で袖すり合う、それぞれに喪失感を抱えた者たちの逸話も興味深かった。
8 ウォンテッド WANTED
アクション映画にこれほどのワクワク感を覚えたのは『マトリックス』以来。
見たこともない映像が目白押しだし、マカヴォイもアンジーもカッコよすぎだ。
銃を撃つ腕をスイングさせて弾道を曲げるなんて、コロンブスの卵だよね。
9 ブーリン家の姉妹 THE OTHER BOLEYN GIRL
無欲な妹を小悪魔系のスカーレット・ヨハンソンが、野心家の姉を学級委員タ
イプのナタリー・ポートマンが演じたのがポイント。個性のまるで違うキャラを
演じながら、それぞれが女としての業の深さを表現して見事だった。
10 WALL・E/ウォーリー WALL・E
単なるロボット版ボーイ・ミーツ・ガールのお話かと思いきや、『2001年
宇宙の旅』にも連なるSFの大テーマに発展したので驚いた。ヒューマノイド型
でさえないのに見事に“感情”を表現するロボットの“演技”にも感服。
製作国の内訳はアメリカ映画6、イギリス映画2、米英合作1、仏独合作1。
例年に比べるとヨーロッパ大陸の映画が少ないかな。
日本映画はゼロ。あえてコメントはすまい。
ザ・ムーン IN THE SHADOW OF THE MOON
(2007年、英、字幕:林完治)

なぜ今、アポロ?――と、今日性のないテーマに疑問を感じつつ見始めたのだ
が、冒頭からたちまち引きこまれた。アポロとその時代を知る世代なら、誰もが
多かれ少なかれそうなるのではないかと思う。
若い世代のために申し添えれば、「アポロ」とはアメリカ航空宇宙局(NAS
A)が実施した月面探査計画のこと。1969〜1972年にかけて彼らは6回
のミッションに成功し、計12名の宇宙飛行士を月面に送りこんだ。
それから現在に至るまで、地球以外の天体に降り立った人類は、この12人を
おいて他にいない。
『ザ・ムーン』は、そのアポロ計画の軌跡を、NASAが冷却保存していた記録
映像と、実際に月に行った男たちのインタビューで再現したドキュメンタリー作
品だ。
中心はもちろん、初めて月面着陸に成功したアポロ11号。当時小学生だった
筆者は、着陸の直前、アームストロング船長が平坦な場所を探し、60秒という
タイムリミットの中でギリギリの飛行をしていたことを初めて知った。
過去の記録映像だとわかっているのに、その種のシーンになると、まるで現在
進行中のミッションを見るように手に汗握ってしまうのはなぜ?
11号の月面着陸に関して、私にはかねてから気になっていたことがあった。
それは月面に下りたアームストロング船長の、「1人の人間にとっては小さな1
歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」というあの有名な第一声に関すること。
あの言葉、一般には真摯な名言と考えられているし、子供だった時分には私も
そう理解していたのだけれど、ある時期から私は、アームストロングがあれをジ
ョークのつもりで言ったのではないかと疑うようになった。ほら、言われてみれ
ば、でしょ?
その疑問が本作を観て氷解した。アームストロング本人はインタビューに応じ
ていないものの、周囲の者たちの発言から推すと、どうやら彼は衆人環視の中で
ジョークを飛ばすようなタイプの男ではなかったらしい。やっぱりあの名言は、
本心から発せられた真面目なひと言だったのだ。それがわかってちょっとうれし
かった。そしてちょっとガッカリした。
七十代を迎えた元宇宙飛行士たちの肉声も興味深い。現役の宇宙飛行士はエリ
ート然とした優等生的な発言しか許されていないようだが(それはそうだ。“劣
等生”のやることに巨額の税金を投入しようとする納税者はいない。その意味で
は、毛利さんや若田さんから本当に面白い話が聞けるのは、かなり先のことにな
りそうだ)、そうした責任から解放された老兵たちは、意外なほど人間くさい、
率直な語り方をする。
実のところ私は、そのことに少し驚いた。「月面に下りた飛行士はその大半が
精神を病んでいる」という都市伝説を、半ば信じこんでいたからだ。しかし実際
の彼らは、性格の違いこそあれ、皆それぞれに常識人だ。しかも語るうちに名言
がポンポン飛び出す。
「私の父はライト兄弟が飛行機を発明したすぐ後に生まれた」(そうか、人類は
わずか2世代で月まで行ったのか!)「月の陰に入って日がかげった時、それま
ではずっと太陽に照らされていたことに気づいた」(そうか、月までの道程は
“暗黒の宇宙空間”ではなく、明るい“日なた”なのか!)という具合に、何度
「へー!」と思わされたことか。一方、軍のパイロットだった彼らが、ベトナム
で戦う仲間たちへの「罪悪感」を吐露するシーンには深く考えさせられた。
アームストロングと共に月面一番乗りを果たしたオルドリンの告白はとりわけ
傑作。彼が「あること」を月世界で初めてしたと語るシーンには、思わずクスリ
と笑わされた。そのことで彼は、完成作を見た奥さんからお叱りを受けたとか。
一方、司令船にひとり残ったコリンズの、「月に立てなかったのは残念だが、
その役目を受け入れたからこそ、私は11号のメンバーに入れたのだ」という言
葉にも、陰影が交錯する人生を送った者ならではの味わいがある。
複数の元宇宙飛行士が「月に行ってからは以前ほど日常の些事が気にならなく
なった」と語っていたのも印象的。月に立つという超絶的な体験は、人をある種
の悟りの境地に至らしめるのか。
いや、そうではないだろう。「小さなことが気にならなくなる」のは、「あま
りに大きな体験は、精神活動全般を食い尽くす」からだ。だからアームストロン
グが人前に出なくなったり、上記のような都市伝説がささやかれたりするような
ことが起こる。競泳の柴田亜衣選手が、北京五輪で不本意な成績に終わった後の
引退会見で、「アテネの金は重かった」と漏らしたのも、同じことを別の言葉で
表現したものだろう。
彼らの栄光は、凡人にとってはうらやましい限りではある。でも、くだらない
些事に悩んだり喜んだりできる人生もまた、僕にはちょっと愛おしい。
ティンカー・ベル TINKER BELL
(2008年、米、字幕:村上美智子)

ティンカー・ベルといえば、本来はピーター・パン物語のかき回し役。いたず
ら好きで嫉妬深いこの妖精は、アニメ作品はもとより、ジュリア・ロバーツやリ
ュディヴィーヌ・サニエが演じた実写版でも、かなりエキセントリックに描かれ
てきた。その“ティンク”が、脇役から主役に格上げされた本作ではぐっと感情
移入しやすいキャラに生まれ変わった。人間の言葉(というか、観客が聞いてわ
かる言葉)だって初めて口にしちゃうのである。
もの作りの妖精ティンカー・ベルは、人間界に春を届けに行く仕事がしたいあ
まりに、水や植物を司る妖精に“転職”しようと奮闘する。ところが大失敗を重
ねたあげく、妖精たちが進めてきた春の準備を台無しにする始末。タイムリミッ
トが迫る中、ティンクが失地挽回のためにフル稼働させたのは、本来与えられた、
もの作りの才能だった……。
いの一番に目を奪われるのは、妖精たちが住むピクシー・ホローの美しさだ。
その色彩、陰影、明暗は、どこか2Dアニメの暖かさを残しつつも独創的。3D
アニメもここまで来たかと感動さえ覚えるほどだ。半透明の羽根の羽ばたきや水
滴の表現、妖精たちの衣装や植物のデザインも秀逸。ティンクの愛すべきドジぶ
りにも我知らず頬が緩む。ただ、大人の目で本作を観た場合、最も注目される点
は別にある。この『ティンカー・ベル』、もしかしたらディズニー映画の歴史的
な転換点になるかもしれない。
従来のディズニー映画は、常に成長・進歩・変化を肯定してきた。それは「明
日が今日よりよくなること」を無邪気に信じられたアメリカ社会の反映だった。
だからプリンセスたちは、ガラスの靴を履いたり、王子様のキスを受けたりする
ことで、「よりよい自分」に変わることができたのだ(そのナイーブな変身礼賛
主義を鋭く茶化してみせたのが、ドリームワークス製作の『シュレック』だった)。
この春日本で公開された『魔法にかけられて』でも、ヒロインは「あるがままの
自分」をある程度までは肯定しながら、最後はやっぱり成長や変化を求めた。彼
女がそれを王子様のキスではなく、自らの意志と選択でつかんだ点は画期的だっ
たが、「よりよい自分」を希求するディズニー映画の基本線は揺るがなかった。
ところがこの『ティンカー・ベル』で、ディズニーは「あるがままの自分」に
対する完全肯定に転じている。人は本来自分に合った役回りや取り得があるもの、
無い物ねだりはやめようよという発想だ。言葉を変えれば、(マリナーズのイチ
ロー選手が毛嫌いしている)「ナンバーワンよりオンリーワンを目指そうよ」と
いう発想ですね。変化を肯定してきたディズニーが、変化を否定することで、自
らの変化を鮮明にするという構図。4部作になることが予定されている『ティン
カー・ベル』シリーズで、ディズニーの姿勢が今後どのように推移していくのか
が興味深い。
WALL・E/ウォーリー WALL・E
(2008年、米、字幕:稲田嵯裕里)

舞台は人類にうち捨てられた29世紀の地球。主人公は700年間、たったひ
とりでゴミ処理を続けてきたオンボロのロボット、ウォーリー。そんな孤独なロ
ボットの前に、白く輝く最新鋭の探査ロボット、イヴが現れて……。
序盤は文字通りウォーリーの独り舞台。機械特有の律儀さでゴミを集め、圧縮
し、積み上げるロボットのルーティーンワークが一切のセリフ抜きで描かれる。
退屈そうだって? とんでもない。昆虫と絡んだり、おかしなゴミをもてあそん
だりするウォーリーの行動はギャグの宝庫。ヒューマノイド型でさえないロボッ
トが、その無骨な体で見事に“感情”を表現しているのには舌を巻く。
イヴが“降臨”してからがまた爆笑。一目惚れしたウォーリーはどうにか彼女
の気を引こうと努めるが、任務に夢中のイヴは鼻も引っかけない――どころかキ
ャノン砲をぶっ放す。パターンとしては「労働者階級の男の子&良家の女の子」
という青春物の定番的な展開だ。とはいえ本作を単なるロボット版ボーイ・ミー
ツ・ガールの物語と思って観ていると、後半のストーリーの膨らみに度肝を抜か
れることになる。監督のアンドリュー・スタントンは、製作に入る前にたくさん
のSF映画を見直したという。ぜひ過去の傑作のモチーフを、本作の中に探して
みてほしい。
イヴを追ってウォーリーがたどり着くのは、地球を捨てた人類が暮らす巨大な
宇宙船だ。ウォーリーはそこで、愛するイヴに任務を完遂させようと“命”をか
けて奮闘する。それを邪魔しようとする勢力との戦いは『2001年宇宙の旅』
にも連なるSF界の大テーマ。ウォーリーの愛ゆえの献身を、人類と地球全体の
未来に直結させた脚本の力業には感服した。
ちなみに宇宙船に住む人類は、いつか地球を再生させる夢を持ちながら、安逸
な宇宙暮らしに流され、自分の足では歩けないほど肥え太っている。本当は生き
ているとは言えないような状態なのに、生きているのだと思わされている大衆―
―と来れば、思い出すのは『マトリックス』だ。人類に覚醒を促すウォーリーは、
キアヌ・リーブスが演じた『マトリックス』のネオにもなぞらえられるだろう。
とすれば、その導き手となったイヴはトリニティか。ネオが1度命を失ったよう
に、ウォーリーも最後に機能を停止する。だがネオにトリニティがいたように、
ウォーリーにはイヴがいる。先が読めても、なお感動を誘う終幕に素直に身を委
ねたい。
ブーリン家の姉妹 THE OTHER BOLEYN GIRL
(2008年、英=米、字幕:松浦美奈)

今をときめくスカーレット・ヨハンソンとナタリー・ポートマンが、複雑な愛
憎で結ばれた姉妹に扮する歴史劇。新興貴族のブーリン卿は一族の隆盛を図るた
め、長女アンをヘンリー8世の愛人にしようと企てるが、国王が見初めたのはす
でに結婚していた次女のメアリーで……。
穏やかな田舎暮らしが一番という無欲な妹を小悪魔系のヨハンソンが、のし上
がることこそ喜びという野心家の姉を学級委員タイプのポートマンが演じている
のがポイント。一見、似つかわしくないキャスティングだが、できあがった作品
を観れば、2人ともこれ以上なく役にハマっている。若手“実力派”との形容は
伊達ではない。
世界史にはそう詳しくない方でも、王妃との離婚を望んだイングランド国王が、
それを認めないカトリック教会と決別して英国国教会を作ってしまった逸話はか
すかにご記憶だろう。その国王というのが、他でもない、ブーリン家の姉妹が寵
愛を奪い合ったヘンリー8世だ。美しくはあっても退屈だったメアリーが早々と
国王に飽きられた後、アンは洗練と機知を武器に王に取り入る。だが私生児を産
んでも得にはならないと計算したアンは、恐れ多くも王に対し、王妃と離婚して
自分を正室にするよう迫る。
アンがそのエサにしたのはセックスだった。王の誘いを巧みにじらし、6年間
も体を許さなかったのだという。思惑通りに王は王妃を離縁し、1度はアンを正
室にするのだが、これは明らかにアンの戦略ミスだ。6年もじらされれば、セッ
クス自体が目的化し、それが達成された瞬間に熱が冷める。ヘンリー8世もまた、
アンの産んだ子が男児ではなかったと知れた途端にアンへの愛情を失った。離婚
という名のパンドラの箱を開けたアンは、今度は自分が離婚される恐怖におびえ
る身となったのだ。そして誰もが唖然とするような起死回生の大勝負に出て、非
業の死を遂げていく。そんな「策に溺れた策士」の悲哀を、時に傲慢に、時に繊
細に表現するポートマンの名演が忘れがたい。
一方のメアリーは、アン・ブーリンと違ってほとんど無名の存在だったそうだ
が、脚本のピーター・モーガン(『クイーン』)は、彼女を歴史の闇から発掘し、
魅力的な肉付けを施した。夫に気兼ねし、いやいや王の愛人となりながら、いざ
宮廷に上がると本気で王を愛してしまうあたり、ある意味では“算盤づく”のア
ン以上に女の業が深いとも言える。
もうひとつ世界史の復習をするなら、アンの産んだ女児というのが、後にイギ
リスの黄金時代を作るエリザベス1世だ。ケイト・ブランシェット主演の『エリ
ザベス』を観た時には、なぜ少女時代のエリザベスがあれほど不遇だったのかが
ピンと来なかったが、本作を観れば“アン・ブーリンの娘”が冷遇された理由が
よくわかる。試験勉強の世界史は個別の年号を覚えるだけのデジタルなものにな
りがちだが、本当の歴史はアナログに連続したものなのだと改めて気づかされた。
歴史は教科書に書かれていない部分こそが面白い。
宮廷画家ゴヤは見た GOYA'S GHOSTS
(2006年、米、字幕:松浦美奈)

美人がそうでない女性に比べて不当に得をしているのは事実だと思うけど(得
をさせているのは他ならぬ我々男性なのだから、その点は間違いない)、美人は
美人なりに、いろいろと悩みがあるもの。特にその美人がたまたま女優であった
りすると、「おバカなブロンドの役しか回ってこない」とか「どんなにいい演技
をしても美しさしか評価されない」といった憂き目に遭いがちだ。それを甘受で
きない野心派の美人女優は、たとえば『モンスター』(03)のシャーリーズ・セロ
ンのように13キロもの“逆ダイエット”を敢行し、自らのイメージを打ち破って
みたりする。
ナタリー・ポートマンも、そんな野心派のひとり。十代の頃から出演していた
『スター・ウォーズ』シリーズでは、ジョージ・ルーカスに“美人でさえあれば
誰が演じてもいい役”の典型(パドメ・アミダラ姫)を振られてしまったが、名
門ハーバート大学を卒業し、本格的に演技に取り組み始めた頃から選ぶ役柄が変
わった。『クローサー』(04)では奥手なイメージを覆すストリッパー役に挑戦、
『Vフォー・ヴェンデッタ』(05)の拷問シーンでは自毛を丸刈りにされる体当た
り演技を見せている。
『宮廷画家ゴヤは見た』(06)は、日本での公開こそ遅れたものの、ポートマンに
とってそれに次ぐ出演作だ。18〜19世紀のスペインを舞台とするこの歴史劇で、
彼女は“隠れユダヤ教徒”ではないかと疑われ、苛酷な異端審問にかけられるカ
トリックの娘イネスを演じている。スレンダーな姿態をさらしたり、醜悪なメー
クを施したりするこの汚れ役によって、ポートマンはまた一歩、“美少女”から
“女優”への階段を上ったのだ(イスラエル生まれの彼女が、この役柄を演じる
にあたって自らの信仰とどう折り合いをつけたのかも気になるが、それは別の話)。
ハビエル・バルデムの変節漢ぶりもキョーレツだ。彼の演じるロレンツォは、
最初はカトリック教会の神父として異端審問を推進し、イネスの弱みにつけこむ
形で彼女を孕ませる。いったん失脚したかと思えば、今度は教会を否定するナポ
レオン軍の手先となって舞い戻り、イネスとその娘の人生をさらに狂わせる。名
匠ミロス・フォアマンは、そんなイネスとロレンツォの数奇な運命の絡みを、中
世から近代へと向かう激動期のスペインという舞台装置に無理なくはめこみ、業
深い人間ドラマを紡ぎ出した。
タイトルロールのフランシスコ・デ・ゴヤ(ステラン・スカルスガルド)は、
実際には狂言回しといった役どころ。ただし劇中で彼が描く絵のできばえは素晴
らしく、当時の宮廷画家の暮らしや仕事ぶりも大変に興味深い。映画ファンばか
りではなく、美術ファンや歴史ファンにもお勧めしたい一本だ。
ウォンテッド WANTED
(2008年、米、字幕:松浦美奈)

アクション映画の中には「予告編で見たシーン以外には見せ場がありませんで
した」と言いたくなるようなズッコケ作品も少なくないが、この『ウォンテッド』は
明らかに本物!
オープニングの超人的な襲撃&反撃シーンで観客を引きこむと、休む間もなく
スタイリッシュな銃撃戦に、ケレン味いっぱいのカーチェイス。アンジー姐さん
は登場するなり、眉間にしわを寄せて銃を乱射し、疾走する車のボンネット上で
イナバウアーだ。ここまでの20分間だけで早くも映画料金の元は取れると断言
できるが、ジェームズ・マカヴォイ演じる主人公が能動的にストーリーに関わっ
てくるのは実はそこからだ。
原作は映画『マトリックス』に触発されて書かれたグラフィックノベルだそう
で、なるほど物語の導入部には既視感が。ただし本作の作り手は小難しいサイバ
ーSFの世界に踏みこむのは避け、わかりやすいアクション・エンターテインメ
ントに徹している。
メガホンをとったティムール・ベクマンベトフは、『ナイト・ウォッチ/NO
CHNOI DOZOR』や『デイ・ウォッチ』といったロシア時代の作品で注
目された監督。ハリウッドでの処女作となる本作でも、異彩を放つ映像表現を見
せ、改めて鬼才ぶりを証明した。
本作の何がすごいって、見たこともないシーンが目白押し。ライフル弾の射出
から命中までをあえて逆回しで追った映像は、オープニングとエンディングで効
果的に繰り返される。
その他にも飛んでいるハエの羽根だけを撃ち落としたり、飛翔する銃弾を別の
銃弾で迎撃したりと、VFXなしにはとても映像化不可能な超絶技巧が次々と登
場。極めつけは銃を撃つ腕をスイングさせることで弾道を曲げるというテクニッ
クだ。まじめに考えればあり得ないけど、言われてみればできそうで、これはま
さにコロンブスの卵。シンプルなアイデアなのに、どうして今まで使われなかっ
たのだろう?
負け犬だった主人公が自分でも知らなかった特殊能力に目覚めるという展開は、
私たち小市民全員の夢。暗殺者版の「虎の穴」に入った主人公は、殴られ、刺さ
れの地獄の特訓を受けるのだが、『ナルニア国物語』では白い魔女(ティルダ・
スウィントン)に、『ラストキング・オブ・スコットランド』ではアミン大統領
(フォレスト・ウィテカー)にいたぶられたマカヴォイにとって、この手の演技
はお手の物だ。
緩急を利かせた脚本は、適度な遊び心を交えつつ、主人公の成長と苦悩、出生
の秘密と裏切り、危機と反撃を描きだす。『セルラー』の脚本家のクリス・モー
ガンが本作にも関わっていると知れば、デキのいいのも さもありなんだ。
それにしても“ウォンテッド”がそのまま映画の邦題になってしまうなんて、
ピンクレディもずいぶんと風化したものです。
イントゥ・ザ・ワイルド INTO THE WILD
(2007年、米、字幕:?)

エミール・ハーシュが「童顔のウルバリン」といった風貌で登場するオープニ
ングを見た時には正直言って失笑を漏らしてしまったのだが、物語が進むうちに
「この男はそうバカにしたもんじゃないぞ」と思えてきた。つまりはこの映画自
体もだ。
ハーシュが演じるクリスは裕福な家庭で育った成績優秀な青年。ところが大学
を卒業すると、約束された将来に背を向け、中古のダットサンで旅に出る。……と
いうあらすじだけ紹介すれば、恵まれたボンボンのモラトリアム話にも思える
のだが、彼の場合は社会への背の向け方が半端ではない。身分証明書を処分し、
貯金を寄付し、車も名前も捨てた末に、アラスカの原野で狩猟生活に入るのだ。
アラスカでの暮らしと並行して描かれるのが、そこに至るまでの旅の軌跡だ。
物質文明を拒否するクリスは、荒野のような土地を転々としながら、アラスカ行
きの資金を稼いだり、銃の腕を磨いたりする。面白いのは彼の立ち寄り先の中に
ロサンゼルスのダウンタウンが含まれていること。「いいとこのお坊ちゃん」だ
った彼にとって、LAのダウンタウンは荒野にも等しい場所だったのか。まあ、
ある意味納得できなくもないが。
様々な土地を巡る主人公が、様々な人々との触れ合いを重ねていく筋立てはロ
ードムービーの定番(いや、彼が巡るのは荒野だから“オフ”ロードムービーと
呼ぶべきか)。老若男女の別はあっても、クリスが袖すり合うのは心に大きな喪
失感を抱えた者ばかりだ。クリスの心にもそれと「交感」する空洞が開いている
ことは、いずれ明らかになってくる。
実はクリスには同名のモデルがいる。脚本・監督・製作のショーン・ペンは、
実在のクリスについて書かれたノンフィクションに魅了され、10年がかりで映
画化権を取ったという。時間軸を前後させながらの巧みなストーリーテリングに
も感心したが、何より「甘えたガキの逃避行」に陥りかねない題材を、鮮烈な成
長物語に仕立てた手腕は見事。主演のハーシュも驚くばかりの減量をこなすなど
してそれに応えた。
「生きる意味がわからない」なんて愚かな理由で命を絶つ者が後を絶たない昨今
だが、クリスはそれを見出すために荒野に入った。この点で同じ社会からの逃避
でありながらも、両者の方向性はまったく違う。それだけに物質文明に背を向け
て自然の懐に飛びこんだ主人公が、その自然から背を向けられる結末は胸に迫る。
彼が手記の最後に記した「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った
時だ」という感慨が、そしてそこに(捨てたはずの)本名を署名した事実が、自
身の人生の肯定であるのか否定であるのかをとくと考えたい。
アクロス・ザ・ユニバース ACROSS THE UNIVERSE
(2007年、米、字幕:藤澤睦美)

「ビートルズを特別視しているのは日本人だけで、英米では単なる“解散したバ
ンドの1つ”としか見られていない」と言われることがあるけれど、やっぱりそ
れは俗説だ。ツェッペリンやクイーンの曲をどうつないだってミュージカルは作
れまい。いや、作れば作れるかもしれないが、少なくとも一般公開できる映画に
はなるまい。
『アクロス・ザ・ユニバース』は、舞台版「ライオンキング」の演出家として知
られるジュリー・テイモアが、ビートルズの33曲のナンバーから紡ぎ出したミ
ュージカルだ。通常のミュージカルではストーリーが先にあり、後からそれに合
わせた音楽が書かれるのだが、本作の場合はビートルズの曲が先にあり、それに
合わせたストーリーが考案された。テイモアはレゴの模型を組み立てるように、
膨大なビートルズナンバーから曲を選び、あれこれ並べかえていったのだろう。
物語の縦軸となるのはイギリス人の若者ジュード(ジム・スタージェス)とア
メリカ人の少女ルーシー(エヴァン・レイチェル・ウッド)との恋、横軸となる
のはベトナム戦争、公民権運動、ドラッグカルチャーなどで揺れる60年代アメ
リカの社会情勢だ。
これらが織りなすプロットに、ビートルズナンバーの歌詞がものの見事にはめ
こまれているのには舌を巻く。イギリスを旅立つジュードが「毎日手紙を書く
よ」と元カノに約束し(All My Loving)、彼と出会ったルーシーが「恋に落ちた
ら、あなたも私を愛してくれる?」と尋ねる(If I Fell)という具合。さらには
こうした直球ばかりではなく、徴兵事務所が「I Want You」と歌い出すような変
化球もある。「A Day In The Life」のノイズの使い方なども含めて、本当にうま
い。
面白いのはビートルズと同時代の英米を舞台にしていながら、あれほどの影響
力を誇ったバンドが劇中にまったく出てこないこと。言ってみれば、ビートルズ
の存在しないパラレルワールドが舞台なんですね。その代わり登場人物の役名は
すべてビートルズの歌詞から取られたものだし、セリフの中にも頻繁に歌詞とそ
のパロディが紛れ込む。確かに「ビートルズの存在する世界」でこれをやったら
リアリティがおかしくなってしまうので、テイモアのこの舞台設定は正解だった
と言えるのだろう。
もちろん、テイモアの「本業」であるダンスシーンは多彩で華麗。ダンスクラ
ブやチアリーディングといった定番的なシチュエーションから、徴兵事務所や病
院を舞台とする変わり種まで、見事な振り付け、セットデザインの群舞が見られ
る。もちろん、曲はすべてビートルズナンバーだ。
主演のジム・スタージェスは、日本では『ラスベガスをぶっつぶせ』で先に顔
が売れたが、実はこちらがスクリーンデビュー作。当然、撮影時には無名だった
わけだが、基本的に歌はうまいし、高音部の色気はなかなかのもの。序盤に歌わ
れた「GIRL」と「All My Loving」を聴いただけで、オーディションテープだけで
テイモアに起用を決めさせたという逸話に納得がいった。
ベトナムや人種暴動の陰をくぐりつつも、ジュードとルーシーのロマンスは、
ビートルズファンなら誰もが知る屋上ライブのクライマックスへと駆けのぼる。
シンプルな物語に名曲の力が感動を加え、131分の上映時間が少しも長く感じ
ない。ビートルズを知る世代なら我知らず膝がリズムを取るだろう。
近距離恋愛 MADE OF HONOR
(2008年、米、字幕:戸田奈津子)

「男女の友情は成立するのか」なんてことを中学生時代にまじめに討論した人は
少なくないと思うが、大人になった今聞かれれば答えは簡単、イエスで、ノーだ。
確かに友情が成立するケースもあるけれど、それはあくまで恋愛対象にならない
(または恋愛対象にできない)相手との間で代用品的に成立させるもの。要する
に恋愛の方が友情よりも上位概念なんですね。
ハンナと十年来の友情を温めてきたトムも、彼女への恋愛感情に気づいた時、
友情という名の“代用品”では満足できなくなる。日頃のカサノバ生活を切り上
げ、ハンナと身を固めようと決意したその時、皮肉にも彼女は別の男と婚約し、
あろうことかトムに花嫁付添人(普通は女友達が務める役回りだ)を依頼する……。
ハンナに心変わりさせようと奮戦するも、彼女が連れてきた婚約者コリンには
何をやってもかなわないトムのカッコ悪さが笑わせる。いまいち大人になりきれ
ないこのプレーボーイを演じるのは、TVドラマ『グレイズ・アナトミー』で遅
咲きの花を咲かせたパトリック・デンプシー。四十路の彼に30歳前後と推定さ
れる役を振ったのは若干無理があるけれど、その無闇に甘ったるい笑顔は確かに
トム役に打ってつけだ。ハンナ役のミシェル・モナハンは、クセのない持ち味で
多くの女性客の感情移入を引き受ける。
計算された紆余曲折で盛り上げて、最後は落とすべきところにストンと落とす、
上々のデートムービーである。
ところで本作が『ベスト・フレンズ・ウェディング』(97)の鏡像になっている
のは、映画ファンなら誰もが気づくところ。あちらではジュリア・ロバーツが“
旧友”のダーモット・マローニーをキャメロン・ディアスから取り戻そうと、あ
の手この手を繰り出した。
同作のほろ苦いエンディングが好きだった筆者には、『近距離恋愛』の予定調
和はいささか物足りないのだが、それは言っても詮無いところか。だってハンナ
が大金持ちで貴族のコリンを捨てるのは許されても、マローニーが可憐で音痴な
ディアスを捨てたりしたら観る方は気持ちよく帰れないもんね。男女同権の進む
世の中だけど、やっぱり違いは厳然としてあるわけで。
もうひとつ言えるのは、ジュリア・ロバーツを観にいった男性客はマローニー
に感情移入するわけではないから、2人の恋が実らなくても何ら痛痒は感じない
ということ。それに対し、デンプシーを観にいった女性客はモナハンに我が身を
重ねるから、ハンナが(あるいは自分が)トムと結ばれるのを請い願う。劇中に
はトムに捨てられた元カノもわんさと出てくるのだが、女性客にはなぜか彼女た
ちが目に入らない。女性の心理って、ほんと不思議ですね。
テラビシアにかける橋 BRIDGE TO TERABITHIA
(2007年、米、字幕:?)

大昔の角川映画の宣伝文句に「読んでから見るか、見てから読むか」というの
があったけど、一般に文学を原作とする映画化作品が好評を得ることはあまりな
い。批判されるポイントは様々。「キャラクターのイメージが違う」「省略が多
すぎる」「エッセンスだけ借りた別の話になっている」などはその典型か。
長編の小説をそのまま映画にしたらとても2時間前後には収まらないので、キ
ャラやプロットをどうしても割愛する必要があるのだが、そこに映画作家の側の
解釈や、独自性へのこだわり、セールス面での配慮などが加わるから、時として
できあがった映画は、原作の小説とは似て非なるものになる。というか、必ず似
て非なるものになる。
それを承知でなお原作ファンが批判をせずにいられないのは、その映画が「原
作と同じではないから」ではなく、「原作を裏切っているから」なのだ。
『テラビシアにかける橋』も1970年代に書かれた児童文学を映画化した作品
だ。原作となったキャサリン・パターソンの同名小説は、権威あるニューベリー
賞を受けている。
今年のお正月に劇場公開されたこの映画を今になって取りあげる気になったの
は、つい最近になって原作小説を読み、とても驚かされたからだ。なぜか? 信
じられないほど原作に忠実だったからだ。訳書にして259ページある作品なの
だが、主要なキャラや逸話にほとんど省略がない。のみならず、空想上の王国で
主人公たちが敵と戦うシーンなどは、最新VFXを駆使して原作の記述をふくら
ませてもいる。「原作を裏切らない」映画とは、まさにこういう映画のことをい
うのだろう。
主人公の少年ジェスは、家では一男四女というきょうだいのなかで割を食い、
学校ではイジメの標的になっていた。走ることと絵を描くことだけが慰めだ。そん
な中、隣家に越してきた変わり者の少女レスリーと意気投合し、川向こうの森に
想像上の王国テラビシアを作るのだが・・・。
映画の後半で、ジェスはたったひとりの友人レスリーを失うことになるのだが、
本作は「友だちが死にました。悲しいです」というだけのお涙ちょうだい劇では
ない。憧れの女教師から美術館に誘われ、レスリーを誘うべきかと迷いつつも、
(ある意味での)利己心から2人だけで出かけたジェス。その帰宅後にレスリー
の死を知らされたのだから、彼の罪悪感はいかばかりか。
悲しみとはすこぶる個人的なもので、必ずしも他人が感情移入できるとは限ら
ないが、このいたいけな罪悪感は観る者の良心と涙腺を大いに刺激する。『グッ
ド・ウィル・ハンティング/旅立ち』のロビン・ウィリアムスよろしく、「君の
せいじゃない。君は悪くない」と、我知らず語りかけてやりたくなるんだよね。
ジェス役のジョシュ・ハッチャーソンがまた、そういう保護欲をいたく刺激する
顔立ちなんだ。レスリー役のアナソフィア・ロブとともに最高のキャスティング
だと言わざるを得ない。
ジェスへの感情移入を促すもう1つの伏線は、レスリーが「聖書は信じない」
と発言していたこと。幼心に「聖書を信じないと地獄に行く」と信じているジェ
スは、その点でもレスリーの死に動揺している。子どもは大人が思いも寄らない
ことで心を乱すもの。その未熟さが、何ともいたいけで切ないのだ。
原作小説の中では、実はジェスの罪悪感や聖書のくだりは、長編の膨大な記述
の中に埋没しがちになっていた。監督のガボア・チュポは、もしかしたら原作者
のパターソン自身がさほど重視していなかったのかもしれないこれらの「勘所」
を、的確に拾い上げ、わかりやすく強調してみせた。
原作に限りなく忠実でありながら、原作以上の感動をもたらすこの1本。本作
は小説の映画化作品の、幸福な成功例である。
パリ、恋人たちの2日間 2 DAYS IN PARIS
(2007年、仏=独、字幕:松浦美奈)

多才なジュリー・デルピーが、主演・監督・脚本などの六役をこなした恋愛喜
劇。皮肉屋のアメリカ男が、フランス人の恋人と一緒にパリを訪れるも、行く先
々で元カレと出くわす彼女に心中穏やかではいられず……。
アメリカ男役のアダム・ゴールドバーグが、実生活上の元カノのデルピーから
いいようにイジられているのが微妙におかしい。劇中の2人が「昔の恋人と話を
したりしないわけ?」「ああ、あえて避けたりはしないけど、好きこのんでイチ
ャつくことはしないね」なんて口論するシーンがあるけれど、デルピーとゴール
ドバーグはこだわりなく会うタイプなんですね。
最近の若いカップルはメールが来たら即座に返信しないと愛情を疑われちゃう
らしいけど、本作に描かれるのは「つき合ってても常時ラヴラヴってわけじゃな
い」という、三十代の飾らない恋愛観だ。そんなの寂しいと言うなかれ。この健
全な諦念があればこそ、「あばたもえくぼ」とは違う形で相手の欠点を受け入れ
られるし、愛が壊れ物であることを前提に、今を大事にしていける。
際どいダイアログで爆笑させるかと思えば、切ないモノローグでしんみりさせ
る、デルピーのエスプリあふれる一本だ。
(「FLIX」2008年7月号掲載原稿に加筆)
最高の人生の見つけ方 THE BUCKET LIST
(2007年、米、字幕:桜井裕子)

死は突然にやって来る。だから多くの人は何の準備もしないまま、思いを残し
て旅立っていく。が、中には自分の死期を事前に知らされ、十分な準備の時間を
与えられる“不幸な”人々もいる。
同じ病室に入院した金満実業家のエドワード(ジャック・ニコルソン)と、学
問好きな整備工のカーター(モーガン・フリーマン)は、互いに末期ガンで余命
半年の命と知る。アメリカには同室者の前で余命を宣告する医者がいるのかと首
をひねったが、とにかくそこがこの素晴らしい感動作の出発点だ。2人はやり残
したことをリストに書き並べ、それを実現するために病院を抜けだす。
・・・と、ここまでの導入部を観ただけで、ロブ・ライナー監督の手練れの技
に感服した。不遜な金持ちと、こびない整備工の丁々発止が無類に笑えるのだ。
難病モノでありながら、これほどユーモア満点で、しかも同じ境遇にある人々へ
の敬意を失わない作品を、私はほかに知らない。
ニコルソンとフリーマンも、持ち味にピタリとはまった役柄を、ユーモアとペ
ーソスをもって好演している。エドワードの秘書を演じたショーン・ヘイズも然
り。ボスにズケズケときついことを言う皮肉屋の秘書は、ストーリーの中で終盤、
極めて大きな役割を果たすことになる。
エドワードのありあまる金を使い、2人の病人はパリ、アフリカ、エジプト、
タージマハール、万里の長城と世界を歴訪。リストの項目を1つ1つクリアして
いく。
カーターが「荘厳な景色を見る」「赤の他人に親切にする」「涙が出るほど笑
う」といった、どちらかといえば精神的・抽象的な願いを記したのに対し、エド
ワードの願いは「スカイダイビングをする」「マスタングに乗る」と即物的・具
体的だ。
最後にリストに残された数項目は、いずれもカーターが書いた精神的な願いだ
ったのだが、面白いのは、(最初はバカにしていた)それらの願いを、エドワー
ドが意外な形で実現に導くこと。その意外性はまた、観客の涙腺を激しく刺激す
ることにもなる。
実のところ本作の作り手は、オープニングのシーンにあるワナを仕掛けている。
ぜひ素直にだまされてみてほしい。やがてその真相が明かされた時、驚きに動揺
するはずだから。そして命のはかなさを実感し、限りある生を少しだけ大切にし
ようと思うはずだから。
アウェイ・フロム・ハー 君を想う AWAY FROM HER
(2006年、カナダ、字幕:古田由紀子)

日本映画の『明日の記憶』は、渡辺謙の演じる広告代理店の部長が、四十代に
してアルツハイマー病に罹患する物語だった。物忘れや仕事のポカが目立つよう
になった主人公は、病院で恐怖の宣告を受け、傷つき、悩む。娘の結婚式を乗り
切るために苦闘し、職場では閑職に追いやられ、やむなく働きはじめた妻(樋口
可南子)の不貞さえ疑う始末。しかし、やがては傷つき、悩むことすらできなく
なって・・・。
『明日の記憶』は、主人公が妻を見分けられなくなったところで終わっていたが、
現実はそう白黒はっきりしたものではないらしい。「まだらボケ」という言葉が
あるように、患者は時に記憶や正常な判断力を失い、時に正常に復する。周囲の
人間はそのたびに振り回され、心の傷を倍加させていく。
そんな事情を如実に表現していたのが、カナダ映画の『アウェイ・フロム・ハ
ー 君を想う』だ。こちらではジュリー・クリスティ演じる妻のフィオーナがア
ルツハイマー病に冒され、ゴードン・ピンセント演じる夫のグラントが現実の中
に置き去りにされる。
『明日の記憶』と『アウェイ〜』を比べた時に最も違いが際立つのが、両者の性
の扱い方だろう。あれだけ献身的な夫婦愛を描いていながら、『明日の記憶』に
は、渡辺謙と樋口可南子が同衾するシーンはまったくゼロだった。
ところが『アウェイ〜』では、老人ホームに入居し、個室に荷物を運び込んだ
フィオーナは、ひとまず(そう、ひとまず、だ)夫にセックスを求めるのである。
もちろん、この時点では彼女の意識はまったく正常だ。「世界で最もセックスを
しない国民」と言われる日本人としては、唖然とするしかない展開。単に「フィ
オーナがそこでセックスを求めたこと」ではなく、「そういう映画が作られるこ
と」に、彼我の大きな差を感じますよね。
最近、読売新聞には「夫婦別寝の勧め」とも呼ぶべき記事が載り、数日後には
それを称揚する読者からの投書を載せていた。西洋人は、逆にそのことに驚くだ
ろう。一緒に寝たいとすら思わない相手と、なぜ結婚生活を維持する意義がある
のかと。
フィオーナが、夫の顔も、清楚な服の好みも忘れ、入居者仲間のオーブリーに
好意を寄せはじめた時、この夫婦愛の物語は微妙にねじれ出す。オーブリーが自
宅に引き取られると、フィオーナは消沈。痴呆の進行を恐れるグラントは、オー
ブリーの自宅を訪ね、オリンピア・デュカキス演じるその妻マリアンと、あろう
ことか情を通じてしまうのだ。
マリアンはグラントとの新たな人生に賭け、自宅を売った金でオーブリーをホ
ームに再入居させる。配偶者を難病に冒された者同士が、同じ傷をいたわり合っ
て、新たな人生を歩む・・・という展開なら、それはそれでありかと思うのだ。
ところが・・・。
グラントはマリアンの名前さえ呼び間違え、フィオーナの状態がいい時は、た
ちまち妻に心をなびかせる。これを「夫婦愛」と称えたい奴は称えればいい。だ
が自宅を売って帰る場所をなくしたマリオンにしてみれば、たまったものではな
い。監督・脚本のサラ・ポーリーは、日本人の感性にはない毒を盛り、ひとりの
痴呆症患者が不幸の連鎖を広げる様子を冷徹に描きだす。
エンディングが印象的だ。グラントがホームを訪ねると、フィオーナはかつて
のような清楚な服を着て、夫を待っている。まだらボケと知りつつも、観客は少
し救われた思いを抱き、伸びなどをしながら帰路に思いを馳せ始める。だが、ポ
ーリーはまたここで毒を盛り、観る者に冷や水を浴びせるのだ。フィオーナは言
う。「ここの職員は入居者の服をまぜこぜにするのよ。私は黄色は着ないのに」
だが、そう語るフィオーナが身につけたワンピースの色は・・・。
そういえば冒頭、黄色い花を愛でながら、フィオーナは「いずれ黄色という言
葉の意味もわからなくなる」と言っていたっけ。苦い、苦い伏線である。
譜めくりの女 LA TOURNEUSE DE PAGES
(2006年、仏、字幕:?)

名門音楽院の入学試験に失敗した少女が、別の受験者の弾くピアノのふたを力
任せに閉じる時、観客は「えっ?」と思うのだ。ひたむきにピアニストになる夢
を追っていた、つましい労働者家庭の少女メラニーに、このまま好感を持ち続け
ていいものかと。やがて成長したメラニーは、入試の際に心ない行動をとった人
気ピアニストのアリアーヌに接近し……。夢を断たれた少女の、文字通り生涯を
かけた復讐譚。演奏会の譜めくり役を(意外にも)忠実にこなすかと思えば、ア
リアーヌの幼い息子に毒牙を伸ばすメラニーに、観客はその意図をつかみかねて
固唾をのむ。D・デルクール監督が国立音楽院教授も務めるヴィオラ奏者だと聞
けば、あんなシーンやこんなシーンも思わず深読みしたくなるというもの。全編
に漂うのは、フランソワ・オゾンの初期作品にも似た不穏さだ。メラニーとアリ
アーヌが禁断のキスを交わすシーンの映像処理には一瞬、息をのんだ。
(初出:「FLIX」2008年6月号)
ジェイン・オースティンの読書会 THE JANE AUSTEN BOOK CLUB
(2007年、米、字幕:杉山緑)

19世紀初頭に活躍したジェイン・オースティンは、200年後の今も多くの女
性ファンに読み継がれている作家。本作はそのオースティン作品の読書会を立ち
上げた6人組(♀5、♂1)の交流を、女の本音満載のユーモラスな会話で綴っ
た一編だ。
夫に捨てられた主婦、恋に深入りできないシングル、教え子に心引かれる女教
師…。それなりに人生経験のある登場人物を、地味だが演技力のある役者陣がリ
アルに造形しているのが素晴らしい。
オースティンの長編を毎月1本ずつ読んでいくというのが読書会の趣向だが、
メンバーの交わす読後感は――スピード感のある編集も相まって――極めて知的
で刺激的。時にはオースティンを初めて読むメンバーが破天荒な意見を開陳する
が、そうした会話を聞いていると、本なんてその人なりの読み方をすればいいも
のなんだと、肯定的に思えてくる。
面白いのは、その時々のメンバーの状況と、お題となった恋愛小説の内容が微
妙にリンクするところ。そのリンクはまた、客席にいる何割かの女性の昨日/今
日/明日とも、確実につながっていると思われる。もちろん、「私の昨日/今日
とは関係ないわ」と言うあなたでも、愛を求めて悩んだり舞い上がったりする登
場人物の姿には、容易に我が身を重ねられるだろう。
女性監督のロビン・スウィコードは、時に辛辣に女の性をえぐるが、根本のと
ころで同性に向けた視線は温かだ。すったもんだはあるけれど(なければ映画に
なりませんね)、ラストはきれいに大団円。リチャード・カーティス監督(♂)
の『ラブ・アクチュアリー』で、女性キャラの多くが幸せをつかめなかったのと
は好対照だ。
しゃれたセリフが次々飛び出すのも本作の売り。ヒュー・ダンシーが「女はワ
ルに惹かれるからな」とボヤけば、マリア・ベロは「そう愚痴る男にしたって、
たいして善人じゃないものよ」と混ぜっ返す。そんなこと言われたら、俺、立つ
瀬ないじゃん。
(「FLIX」2008年5月号掲載原稿に加筆)
いつか眠りにつく前に EVENING
(2007年、米=独、字幕:松浦美奈)
若き日にただ1度だけ愛を交わした男が忘れられないまま、ババアになってし
まった女の映画である。バカじゃなかろうかと思うけど、近年、これを主題にした
映画がけっこうたくさん作られる。『きみに読む物語』然り、この夏公開の『あ
の日の指輪を待つきみへ』然り。あなたのその後の長い人生はいったい何だった
のよと聞いてみたくなりますよね。仮にその男と結婚していたら、そいつの欠点
がわんさと見えてきて、早々に離婚していたかもしれないのに。あるいは、あな
たに対するそいつの愛が2〜3年で冷めていたかもしれないのに。
ジュリー・デルピーが監督・脚本・主演などをこなした『パリ、恋人たちの2
日間』を見ていたら、「つき合って2年、いい時も悪い時もあった。でもほとん
どはその中間だ」というモノローグが出てきて、思わず膝を打った。人間、こう
いう諦念が必要でしょ。そこを基準におけばこそ、赤の他人を欠点もろとも受け
入れ、愛し、あるいは後腐れなく別れたり、次の出会いを待ったりできる。人生
はまさに山あり谷あり。一番最初に登った山に精神的にしがみつき、2度と登山
はしませんよということでは、豊かな人生を送ったとは言えないと思うけどな。
という主題はともかく、女優陣の顔ぶれはことのほか豪華な作品だ。くだんの
愚かなバアさん、アンがバネッサ・レッドグレーブで、その娘役に実の娘のナタ
ーシャ・リチャードソンと、トニ・コレット。アンの親友のライラを演じるのが
メリル・ストリープで、若き日のライラを演じるのがストリープの娘のエイミー
・ガマー(ああ、ややこしい)。若き日のアンはクレア・デーンズで、エイミー
・ガマーの母親がグレン・クローズ。
『デブラ・ウィンガーを探して』では、中年過ぎた女優の働き口がいかに減るか
が切々と訴えられていたけれど、本作のラホス・コルタイ監督は「まとめて面倒
見まっせ」と言わんばかりですね。
上流階級の娘アンは、ライラの結婚式のためにその屋敷を訪れ、使用人の息子
ハリスと出会う。披露宴でハリス(パトリック・ウィルソン)とデュエットした
あと、聞かれもしないのに自分の夢を語ってしまうクレア・デーンズがいい。そ
うせずにはいられなかったのだ。すでに恋に落ちていたから。
身分違いの恋ながら、2人は惹かれ合い、一夜をともにする。とはいえ、あれ
これあって結ばれず、その後は不幸な人生で・・・というあたりは省略。ハリス
でないなら誰でもいいわとばかりにろくでもない男と結婚したバカな女の物語な
ど特に語るに値しない。
・・・と文句を言いつつ、わざわざ本作について書いているのは、終盤に面白
いひとひねりがあったから。不幸な結婚生活で生まれた2人の娘のうち、ナター
シャ・リチャードソンの方は普通に結婚してやはり二児を設けたのだが、トニ・
コレットの方は仕事も恋も長続きしない根無し草。恋人はいるが、結婚する踏ん
切りの付かないまま、予定外の妊娠をして悩んでいる。
そのコレットがまだらボケした母親と語るなかで、勇気を持って新たな(つま
りは胎児の父親との)人生に踏み出そうと決意する過程がなかなか感動的なのだ。
「間違いは素晴らしい。人生を豊かにする」とか、「人間は謎めいた生き物。で
も最後は多くのものがどうでもよくなる」なんてセリフは、バネッサ・レッドグ
レーブが口にすると、ボケてても含蓄がありますね。
要するにこの作品、“もうひとつの『きみに読む物語』”として観るよりも、
“もうひとつの『イン・ハー・シューズ』”として観るのが正解なのだと思う。
つぐない ATONEMENT
(2007年、英、字幕:関美冬)
愛する妻が病床で事切れた時、思わずその死に顔をキャンバスに描いてしまっ
たのはモネだった。これが画家の性(さが)。してみると作家の性を持つ者たち
は、日常生活で家族や友人と話す時にさえも、我知らず創作を交えてしまうのだ
ろうか・・・。
惹かれ合う上流階級の娘と、使用人の息子。当主の援助で青年は医学を学び・
・・と、なんだか『いつか眠りにつく前に』のコピーを見るようで最初は鼻白ん
だが、似ているのはそこまでだった。
セシーリア(キーラ・ナイトレイ)とロビー(ジェームズ・マカボイ)が激し
く愛を交わすのを、セシーリアの妹のブライオニーが目撃してしまうのが物語の
始まり。ロビーを憎からず思っていたブライオニーは、少女らしい性的な潔癖さ
も相まって、ロビーを無関係な婦女暴行事件の犯人だと名指ししてしまう。かわ
いさ余って憎さ百倍というやつですね。
各映画賞ではキーラ・ナイトレイが主演女優賞に、ブライトニーの少女時代を
演じたシアーシャ・ローナンが助演女優賞にノミネートされていたが、これはい
ささか罪作り。本作におけるセシーリアは、いわばミュージカル版『レ・ミゼ』
におけるコデット程度の役柄で、エポニーヌは紛れもなくブライオニーだ。いや、
ジャン・バルジャンだと言ってもいいな。
13歳のローナンは、早熟な文学少女の、早熟なるがゆえの孤独やいやらしさ
を、荒い鼻息まで駆使して見事に演じていた。18歳、老年と年齢に応じて3人
の女優がブライオニーを演じ分けたために、一人一人の役柄上のウエートが軽く
なるのは致し方のないところではあったが。
ブライオニーの嘘によって引き裂かれたあと、ロビーは戦地に送られ、有名な
ダンケルクの戦いを経験する。一方、セシーリアは、ロビーを弁護しなかった家
族と絶縁し、彼の復員を待った。手紙がつなぐ愛。やがて2人は再会し、ブライ
オニーは2人に許しを請う。その時、ロビーがブライオニーに言い放つ言葉が印
象的だ。「本当のことを書面に記せ。韻も装飾も抜きに」。
作家気取りの文学少女に対するこれほど手厳しいひと言があるだろうか。綿谷
りさや三浦しおんが本作を見たら、恥ずかしさのあまり自分の背中を蹴りたくな
るのではないかしらん。
ダンケルクのシーンにもうならされた。ストーリーの展開上は必ずしも重要性
の高い場面ではないのだが、撮影にやたらと手間と気合いが入っているのだ。起
伏のある海岸を長々と歩くロビーを、カメラはノーカットで延々と移動撮影する。
周囲には無数の兵士や車両や馬が配置されており、つまりはその全員がノーカッ
トの撮影に合わせて、一糸乱れず舞台劇のように動いたわけだ。
本作でもう1つ注目すべきは音楽。タイプライターの音を生かしたスコアに、
ハチの羽音や、傘で車を叩く音などの効果音を巧みに取り込んだ。担当のダリオ
・マリアネッリは、アカデミー賞とゴールデン・グローブ賞を共に受けている。
ここからは結末のネタを明かす。未見の方はご注意ください。
77歳になった作家のブライオニーは、あの一連のできごとを題材にした最新
作「つぐない」を上梓する。だが、テレビのインタビューで、彼女は意外な告白
をするのだ。それはテレビの視聴者に対する告白であると同時に、本作を観てい
る私たちへの告白でもある。
ロビーとブライオニーは再会していなかった。私たちが先ほど見たシーンは、
あくまで彼女の小説「つぐない」の中で起きたこと。本当の2人は、より悲惨な
運命に命を絶たれていて・・・。私たちは、この虚構の二重性に、しばし大地の
底が抜けたような感覚を味わうことになる。
「せめて小説の中だけでもハッピーエンドにしてあげたかった。それが2人に対
する私のつぐないです」と語る老ブライオニー(演じるは、嗚呼、またしてもバ
ネッサ・レッドグレーブだ)の独善性が、悲しくも胸に響く。“韻も装飾も抜き
で”書かねばならない告白を、作家はやはり虚構を交えずには書けなかった。
仮にブライオニーを作家という設定にしなくても、この物語は成立し得たはず
だ。種明かしは老境を迎えたブライオニーの回想という形にすればいい。だが、
ブライオニーを文学少女=作家という設定にしたことで、物書きの性に対する辛
辣な視線が生まれ、本作はより複雑な陰影を持つものとなった。
あなたはここで、はたと気づくかもしれない。この映画がオリジナルの脚本を
もとに撮られたものではなく、イアン・マキューアンの小説の脚色作であること
を。作家であるマキューアンは、独善的な作家の性を、自虐するかのように書い
ていた。まったく作家という人種は食えない連中だ。
時間軸の並べ替え、虚と実の交錯、多重視点のリワインドが多用され、一見取
っつきにくい映画ではある。だが最後までつき合えば、深い感慨が押し寄せる。
作り手の企みに満ちた一編である。
再会の街で REIGN OVER ME
(2007年、米、字幕:戸田奈津子)
この春は9.11テロ前後のアフガニスタン問題、イラク問題を取りあげたア
メリカ映画が続々と公開されている。『大いなる陰謀』『チャーリー・ウィルソ
ンズ・ウォー』『告発のとき』、ドキュメンタリーの『闇へ』ETC。どうやら
アメリカの国家や国民にとって、アフガニスタンやイラクはすでに生々しい「事
件」ではなく、客観視すべき「歴史」の領域に移行しているらしい。映画化作品
が続出しているのは、それらの落とし前が(少なくとも精神的には)つけられた
ことの何よりの証左だ。
その一方、アメリカ本土を襲った9.11テロ自体については、シリアスなも
のであれエンターテイニングなものであれ、映画の題材となった例は数えるほど
しかない。2006年には『ワールド・トレード・センター』と『ユナイテッド
93』が相次いで作られたが、前者はテロ現場で1人の人命も救うことなく被災
した警察官の話、後者は無名の役者を使った実録作品と、いずれも正統派のヒー
ローものとしては作られていなかった。アメリカがこの傷を癒し、9.11を題
材とする「娯楽映画」を作れるようになるには、いったいあとどれほどの年月が
必要なのか。
グラウンド・ゼロで八面六臂の人助けに奔走する消防士、犯人グループを内偵
していたCIAエージェント、ワールド・トレード・センターで9.11とは無
関係に進行していた犯罪計画など、その気になれば面白い映画のネタはありそう
なのだが、国民全体の傷が癒えるまで、こうした「娯楽映画」の製作は無理なん
だろうね。
『再会の街で』もまた、9.11を背景にしながらも、事件のことにはストレー
トに触れず、まるで腫れ物に触るように扱っている映画の1つである。アダム・
サンドラー演じる登場人物のチャーリーは、働きもせず、人と交わることもなく
「社会的廃人」といった感じで生きている。物語が進むに連れて、彼の妻が9.
11の犠牲となったらしいことはおいおいわかってくるのだが、それがセリフな
どで明示されることはない。どことなく『フィッシャー・キング』のロビン・ウ
ィリアムスを想起させる人物ですね。
チャーリーと歯科大学で同窓だったアラン(ドン・チードル)は、そんな彼と
たまたま再会し、再び交友を持つようになる。だが亡くなった妻に関することに
なると、チャーリーは固く心を閉ざしたままで・・・。
愛する人が死んだ時、残された者が受ける傷の深さは様々だ。悲しみ方も人そ
れぞれ。泣こうが泣くまいが、うちひしがれようが気丈にふるまおうが、端から
女々しいだの冷たいだのと、とやかく言われる筋合いはない。
ないのだけれど、こういう映画を見せられると、あえて問いたくなるのである。
こんなふうに廃人でいることは、果たして「正しい」ことなのかと。
多くの日本人は「痛い」「苦しい」「つらい」なんて泣き言を他人に(あるい
は家族にも)言わないことを美徳として育てられてきた(はずだ)。道ばたで転
んだ子供に大丈夫かと尋ねれば、膝小僧から血を流していても、とりあえず「大
丈夫です」という答えが返ってくる(はずだ)。
愛する家族が死んだら、そりゃ悲しいだろうけど、喪が明けたらとりあえず平
常の生活に復して見せるのが大人の振る舞いというものではないのか。それが周
囲に対する気配りだし、また自分に対する鼓舞でもある。ところがチャーリーは
それをせず、喪失感に溺れ、自己憐憫に浸っている。一方で妻の死を知る者たち
とのつながりを断ち、あたかも妻の死がなかったものであるかのように自分を偽
っている。星飛雄馬は、初めて愛した女性が死んだ時、「(遺体を)見たくない。
見たら信じなければならない」とゴネたけど、人間、事実は事実として受けとめ、
そこから一歩でも先に進むべきではないのかな。たとえそれがどれほどつらい事
実であっても。
亡き妻の両親は、チャーリーとは対照的に、娘の死を正面から受けとめ、それ
を乗り越えようと努力してきた。そしてチャーリーの生き方を案じ、折に触れて
連絡を取ろうとしてきた。ところがこの映画の作り手は、そんな妻の両親を「冷
たく押しつけがましい、繊細なチャーリーにとってハタ迷惑な人物」として描い
ているんだよね。私はその点に、どうにも違和感をぬぐえなかった。
『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』や、ギリシャ映画の『パパにさよな
らできるまで』も、家族の一員の死後、残された家族がとっぷり自己憐憫に浸る
映画で、私は見ながら吐きそうになった。ジョン・K・ケネディの長兄が若くし
て戦死した時、JFKの父親は妻をこう元気づけたという。「涙を拭こう。生き
てる者の面倒を見よう」。こうあるべきだ。
2007年(私の)ベスト10!
2008年も4分の1が終わろうとしているのに、今さらこんな記事を書く俺
っていったい・・・(だって忙しかったんだもん)。
本場のアカデミー賞授賞式は、直前に脚本家組合のストが終結し、どうにか無
事に開催された。だけどプレゼンターとして出てくる俳優たちの「芝居」がどこ
かぎこちなく、ギャグも滑り気味に見えたのは、台本の準備期間が(書く方にと
っても、読む方にとっても)短かったせいなのか、はたまた脚本家組合に対する
俳優陣のシラケが自然と態度に出てしまったのか。私自身は「物書き」の側にい
る人間だから(どう間違っても「スター側」ではない)、俳優たちには脚本家の
味方をしてあげてほしいけどね。
2度目の司会となるジョン・スチュワートは、どうやら頭の良さで笑わせるタ
イプのコメディアンであるらしく、人柄の暖かさを感じさせないところが難点。
でも、そんな彼が歌曲賞の発表の際、思わぬ一面を見せてくれた。
受賞者は『ONCE ダブリンの街角で』のグレン・ハンサードとマルケタ・
イルグロヴァのコンビだったが、スピーチに立ったハンサードが自分の言いたい
ことばかりをダラダラとしゃべっていたために、イルグロヴァが何か言いかけた
時には、もう追い出しメロディが開始。それを見たスチュワートは、CM後にわ
ざわざイルグロヴァを呼び戻し、用意したスピーチを言わせてあげたのだ。なか
なかやりますね。
追い出しメロディに急き立てられて2人がいったん退場したあとに、スチュア
ートが言ったひとこと。「なんてarrogantな男だ」。ふ〜ん、arrogantって、そ
ういう意味でも使うのか。
今年話題になったのは、俳優部門の賞を4部門ともヨーロッパ人が取ったこと。
スピーチにスペイン語をまじえたハビエル・バルデム(助男)、共演のジョージ
・クルーニーを持ち上げまくったティルダ・スウィントン(助女)、「ロサンゼ
ルスは本当に天使の町なのね」とはしゃいだマリオン・コティヤール(主女)、
爵位の授与式よろしくプレゼンターのヘレン・ミレン女王の前にひざまずいたダ
ニエル・デイ・ルイス(主男)と、演壇での表情もそれぞれに個性的だった。
おかしかったのは作品、監督、脚色賞を独り占めならぬ、ふたり占めしたコー
エン兄弟だ。最初の脚色賞のスピーチで言いたいことは言ってしまったからと、
あとの2つの賞ではスピーチもおざなり。彼らの「受賞しましたが、何か」と言
わんばかりの態度はけっこう笑えたけど、アカデミー会員たちは「こいつらには
2度と賞はやるまい」と思ったのではないかしらん?
さて、いよいよ私のベスト10。例年どおり、優劣ではなく、見た日付順に並
べております。
1 パヒューム ある人殺しの物語 PERFUME:THE STORY OF A MURDERER
「ある人殺しの物語」という副題こそついているが、本作の主人公には人を殺し
ているという意識さえないのではないか。モラルも損得勘定もなく、ただひたす
らに嗅覚のターミネーターと化していく主人公のキャラがなんとも強烈な一作。
2 恋愛睡眠のすすめ THE SCIENCE OF SLEEP
最初に惹かれた女の子じゃなくて、その友達を好きになっちゃうこと、男の子
にはよくあるもんね。「僕と結婚してくれる? 70歳になったらさ。それなら
もう失うものはないでしょ?」なんてセリフにも共感できちゃうんです、私。
3 ロッキー・ザ・ファイナル ROCKY BALBOA
往時のファンにたっぷりサービスしつつも、感傷に溺れることなく主人公(と
自分自身)を客観視するスタローンが好感度絶大。ボクサーのロッキーと、映画
シリーズの『ロッキー』は、ともに晩節を汚さずにキャリアの幕を閉じた。
4 ブラッド・ダイヤモンド BLOOD DIAMOND
アフリカの惨状を伝える社会派タッチの前半部と、冒険物に転じた後半部がい
ずれも一級品。骨太なズウィック作品の中でも会心のデキだ。レオの屈折とフン
スーの家族愛はオスカー候補の名に恥じず、コネリーも近年になく美しかった。
5 クイーン THE QUEEN
イギリス王室のメンバーとブレア夫妻が、いずれも魅力たっぷりに造形されて
いる。モデルになった本人たちの人柄がこの通りだとは思わないけど、これは映
画なのだから、ドラマとして面白ければそれでOKだ。
6 プレステージ THE PRESTIGE
全編のほとんどすべてが伏線というおっそろしい作品。ドラマとしての完成度
が高いから、トリック面での反則技も気にならない。ヒュー・ジャックマン演じ
る魔術師が見せる一世一代の大技の、その副産物の処理法が衝撃だった。
7 夕凪の街 桜の国
珍しく日本映画がランクイン。今なお続く原爆の惨禍に、重い問題提起を試み
た意欲作だ。地味な昭和顔でヒロインを演じた麻生久美子が秀逸。彼女が「生き
延びた罪悪感」を吐露するシーンには思わず襟を正し、組んでいた脚を解いた。
8 オフサイド・ガールズ OFFSIDE
女性がサッカー観戦を許されないイランで、競技場に潜り込もうとして捕まっ
た女子たちの物語。歓声は聞こえど試合が見られない隔靴掻痒の描写がうまい。
女性を排除する男たちも、意外に(古い意味での)フェミニストなんですね。
9 4分間のピアニスト VIER MINUTEN
ピアノの師弟となった老女と女囚の、緊張感を孕んだ交流が見もの。皮肉なユ
ーモアをたたえたセリフの応酬は、コメディでもないのに上質な笑いを誘う。自
分らしく生きようと茨の道を行くヒロインは、見ているこちらにもイタい。
10 ダーウィン・アワード THE DARWIN AWARDS
慎重居士のジョセフ・ファインズと、タフなウィノナ・ライダーの丁々発止は
往年のスクリューボール・コメディの趣き。ドリフふうのドタバタギャグにも腹
を抱えた。アクション、サスペンス、ロマンスも盛り込まれた極上の一作だ。
おまけのワースト3
日本映画って、どうしてこんなに長いんだろう? しかもつまらない映画ほど
長いよね。
『蟲師』131分、『遠くの空に消えた』144分、『人のセックスを笑うな』
137分。こういう長ったらしい愚作を見せられると、試写室でほとんど厭世的
な気分になってしまう私であった。
ピアニスト映画の三重奏
私のちいさなピアニスト FOR HOROWITZ (2006年、韓、字幕:根本理恵)
僕のピアノコンチェルト VITUS (2006年、スイス、字幕:?)
4分間のピアニスト VIER MINUTEN (2006年、独、字幕:松岡葉子)
昨年、テレビドラマの「のだめカンタービレ」がヒットした影響でもないだろ
うが、2007年はピアニスト映画の公開が相次いだ。ここに取り上げる3本は
製作国も切り口もまったく違うのだけれど、それぞれに良作で、時間的にも金銭
的にも観て損はない映画だったと言える(試写で観たから料金は払っていないの
だけれど)。
韓国映画の『私のちいさなピアニスト』は、いわばオーソドックスな芸術家も
の。「やる気はないが本当は善人」の師匠がいて、「見込みなさそうだが実は天
才」の弟子がいて、反発し合い、共感し合い、最後は師匠を踏み台に弟子が世界
へと羽ばたく・・・。とまあ、筋立てに新味はないだけに、オカズの部分をいか
に見せるかが勝負となる。
この作品ではコンサートピアニストになりきれずにピアノ教師に「身を落とし
た」師匠の屈折ぶりがリアル。まだ三十代半ばのオム・ジョンファが演じている
だけに、「弟子を売り出して自分ももう一花」という野心にも説得力がある。
ところが孤児である弟子を(不本意ながらも)公私ともに面倒を見ているうち
に、両者に母子のような感情が芽生えるのだ。このあたりのエピソードの積み重
ねが丁寧であるために、弟子を世界的なピアノ教師に預けるためにあえて身を引
く師匠の心情が涙を誘い、2度捨てられた思いを味わう弟子の切なさがさらに涙
腺を刺激する。
一方、スイス映画の『僕のピアノコンチェルト』は、師弟の愛憎物語という定
番ではなく、天才児とその家族の関係にフォーカスを当てた点がユニークだ。と
りわけ天才児を持った母親の誇らしさや気負い、当惑や無力感が生き生きと表現
されているのが収穫。
主人公のヴィトスはピアノの技量だけではなく、人並み外れたIQを持つ神童
だ。その彼が、IQだけではどうにもならないことがあるという現実を突きつけ
られながら、結局はそのIQを生かして人生を切り開いていくあたりは痛快と見
るべきか、やっぱり天才は得だよねとひがむべきか。彼が祖父にハイリスクの投
資を勧めて、「飛行機は地上にあれば安全だけど、飛ぶためにあるんでしょ」と
語るセリフは、バカと天才にしか言えない上々の人生訓ではある。
主演のテオ・ゲオルギューは自身が気鋭のピアニストで、劇中の演奏も自ら手
がけている。不敵さともろさが交錯する彼の演技は、少なくとも一部は地であっ
たのか。
上記の2本は、いずれも最後に主人公がピアニストとして大成する。当然と言
えば当然だ。主役が最後に挫折して終わるような映画では客が入らない。『フラ
ッシュダンス』のジェニファー・ビールスも、『リトル・ダンサー』のジェイミ
ー・ベルも、最後はちゃんとバレエダンサーになった。娯楽映画では主人公が成
功して終わるのが大原則だ。だが時として、映画界には『4分間のピアニスト』
のような至高の例外も誕生する。
この作品、大筋は型どおりの師弟物語として進むが、両者のキャラクター設定
が独特だ。弟子は粗暴な女囚ジェニー。師匠はあまり温かみを感じさせず、性別
さえよくわからない老ピアノ教師モニカ。この食えない女2人の緊張感あふれる
交流(いや、攻防)がまず見もの。「この楽譜を食べなさい。絶対服従が規則1
よ」「規則2では何を食べさせるの?」といった皮肉なユーモアをたたえたセリ
フの応酬は、まるで舞台劇のように濃密だ。
ジェニーの人を食った言動が、コメディでもないのに上質な笑いを誘う。たと
えば初めて塀の外に演奏に出かけた日の別れ際、愛情を態度で示すのがヘタなモ
ニカが不器用に別れの手を挙げると、ジェニーはその不器用な手の挙げ方をそっ
くり真似してみせるのだ。半分は年長の師匠をからかっているのだが、もう半分
は師匠への好意と感謝の表現であり(けしてジェニー自身が不器用だから、こう
いう手の挙げ方をしたのではない)、同房の受刑者が首を吊っても顔色ひとつ変
えなかったジェニーを知る観客は、ここで彼女の隠された一面を知ることになる。
クライマックスとなるピアノコンテストで、幾多の障害を乗り越えて出場した
ジェニーは、しかしモニカに対するある裏切りを犯し、コンサートピアニストへ
の道を自ら閉ざす。魂を解き放つようなその演奏は音楽へのパッションに満ちて
圧巻だが、反面どこか痛ましい。むき出しの傷口をさらし、それでも自分らしく
生きようと茨の道を行くヒロインを見ていると、何やらこちらの古傷までうずき
出す。イタい映画である。
(「FLIX」2007年12月号の掲載原稿を大幅に加筆、改稿)
アンジョリ三変化
グッド・シェパード THE GOOD SHEPHERD (2006年、米、字幕:松浦美奈)
ベオウルフ/呪われし勇者 BEOWULF (2007年、米、字幕:太田直子)
マイティ・ハート 愛と絆 A MIGHTY HEART (2007年、米、字幕:?)
2007年はアンジェリーナ・ジョリーの顔ばかり見ていた印象がある。前半
は相も変わらぬ国際的慈善活動と、3人目の養子の話題。後半になると(昨年出
産した実子の産休も明けたようで)出演作3本の公開が相次いだ。ああいう濃い
顔は、たとえば麻生久美子さんと同じ回数だけ目にしても、3倍ぐらい強く印象
に残るんだよね。
10月に公開された『グッド・シェパード』は久々に東西冷戦を描いた作品。
ベルリンの壁の崩壊から17年が経過し、ようやく冷戦を映画の「素材」として
とらえ直す気運が高まった来たのかと思えば、さにあらずで、製作・監督のロバ
ート・デ・ニーロは、資金集めにずいぶんと苦労したらしい。ピッグス湾事件な
どの現実の出来事と、架空のCIA幹部の家族の物語をうまくからめた、よくで
きたスパイ映画だったのだが。
ジョリーがこの作品で演じたのは、主演のマット・デイモンの妻役だ。結婚す
る前、純朴なデイモンをさんざん誘い、たぶらかし、焚きつけておいて、相手の
心(と下半身)に火がついた瞬間、「愛してる?」と氷のような問いを投げかけ
るアンジョリの計算高さ、怖すぎます。
だけど彼女はちゃあんと報い(そう、あれは報いだ)を受けるんだよね。要は
子供ができたってだけの理由で、子供ができなければ結婚しなかったであろうよ
うな相手と結婚しちゃダメってこと。「妊娠したから責任とって」と結婚を迫る
女性の気が知れない。いや、予防線を張っているわけではなく。
『ベオウルフ』はパフォーマンス・キャプチャーという技法を使用したCGアニ
メ。登場人物の顔立ちは元の俳優の面影をかなり残していて、ちょうどそっくり
さんタレントを見ているような違和感を覚えさせられる。一見架空のアニメキャ
ラに見えた顔から、アンソニー・ホプキンスなりロビン・ライト・ペンなりの表
情が浮かび上がってくる感覚は何とも微妙。ジョン・マルコビッチ特有の、どこ
か宙をさまようような視線まで忠実に再現されていたのには驚嘆した。
もっとも、本人にどこまで似せるかは作り手の裁量次第のようだ。たとえば主
演のレイ・ウィンストンは明らかにその「声」が起用の理由だったらしく、顔は
現物よりも精悍かつ若作り。逆にアンジョリの顔は実写と見まがうほどにそっく
りだ。問題はヌードも同然の彼女のボディで、昨年子供を産んだばかりの母親に
してはあまりにもゴージャス。どこまで実物を正確にキャプチャーしたのかは、
関係者のみぞ知るというところか。
『マイティ・ハート』はイスラム原理主義者にジャーナリストである夫を誘拐、
殺害された女性の焦燥を描く、実話を元にしたドラマ。極めて今日的なテーマで
あり、虚心にお気の毒でしたとも思うのだが、必ずしも感動はない。想像するに、
映画の作り手がモデルの女性マリアンヌと「お友達」になってしまったのだろう。
それで彼らのプライオリティが1)マリアンヌを称えること。2)観客を楽しま
せること。という順番になってしまった。少なくとも商業映画なら、この順番は
逆でなきゃいけない。
マリアンヌ役のアンジョリは普段と違った地味なメイクに縮れっ毛。後で知っ
たことだが、実はモデルの女性はアフリカ系なのだとか。日本人は「だから縮れ
っ毛だったのね」と素直に納得してしまうが、欧米では差別的なメイクだという
批判が、(ユニセフ国連大使であらせられる)アンジョリに対して寄せられてい
るという。「チビ黒サンボ」の挿絵がどうして差別なのかわからない平均的日本
人には、なかなかこの種の問題は解しがたい。
メイクは地味だが、夫の死を知って慟哭するシーンや、夫の忘れ形見を出産す
るシーンのいきみ声は、アンジョリらしい迫力十分。ちなみにこの2つの叫びは
同じ「ダ」の音で発声されていた。ひとつの命を「ダー!」っと見送り、別の命
を「ダー!」っと迎える象徴性が、プライベートビデオを見せられたような印象
の本作で、唯一心に残っている。
ハリウッドの戦略と限界
アイ・アム・レジェンド I AM LEGEND (2007年、米、字幕:林完治)
28週後... 28 WEEKS LATER (2007年、英=西、字幕:松浦美奈)
見始めてすぐに「あれ?」と思った。『アイ・アム・レジェンド』の原作小説
のタイトルが「地球最後の男」だということは知っていたから、てっきり手塚治
虫の劇画「火の鳥」同様、文字通りの“地球最後の男”を描いた映画かと思って
いたのだ。
実際にはこの作品の主人公には、モンスター化しているとはいえ、他者との接
触があるし、彼らを「治療」しようという希望もある。“地球最後の男”という
言葉の印象とは、置かれた状況がかなり違っている。
この小説が映画化されるのは3度目になるそうで、それぞれの脚色の方向性を
比べてみると、ハリウッドの戦略と限界が明らかになって興味深い。64年のイ
タリア/アメリカ映画『地球最後の男』(ヴィンセント・プライス主演)では、
原作小説と同様、主人公が最後に「伝説の怪物」として殺されるとか。
だが純然たるハリウッドリメイクとなった71年の『地球最後の男 オメガマ
ン』(チャールトン・ヘストン主演)や、今回の『アイ・アム・レジェンド』で
は、主人公は病原体の治療法を開発中に犠牲になった「伝説の男」として、名誉
の死を遂げている。“伝説”の意味が前者と後者ではまったく違っているのであ
る。
ハッピーエンドでなければ客は入らない。客が入らなければハリウッドで映画
は作れない。あれだけ大勢の感染者を相手に手榴弾一発で何ができるんだよ、な
んて論議は後回し。とにかく主役は生き残らなければならず、仮に死ぬ場合でも
大義のために尊い犠牲とならなければならないのだ。この虚飾の都では。
これとよく似た設定を、まったく違った発想で映画化したのがイギリス/スペ
イン映画の『28週後...』だ。劇場公開日が後になるために、まるでこちらが
『アイ・アム・レジェンド』をパクったような印象を受ける人もいるだろうが、
実は本作は5年前に作られた『28日後...』の続編。もっとも小説「地球最後の
男」が書かれたのはその遥か前だから、どちらが本家かなんて議論にさほどの意
味はないか。
ハリウッド映画との違いを最も際立たせるのはロバート・カーライル演じる男
性ドンだ。前作で描かれたレイジ・ウィルスの蔓延時、ドンは感染者の群れの中
に妻を置き去りにした過去を持つ。心にトラウマを持つ男が、それに打ち勝ち、
真の男として生まれ変わるという設定はハードボイルド作品の常道。当然、本作
でも感染者となったドンが、意思の力でウィルスに打ち勝ち、娘や息子を守るの
かと思いきや・・・。守らないんだな。甘っちょろいヒロイズムなどどこ吹く風
と、彼は我が子を危険にさらしまくる。
感染の広がりを防ぐために米軍が全住民の殺害を命じると、ローズ・バーンや
ジェレミー・レナーの演じる米兵は、軍規を破って子供たちを守る。これまたハ
リウッド映画なら、彼らのヒューマニズムは確実に報われるところだが・・・。
報われないんだな。2人は感染の拡大も防げず、子供たちの命も守れず、クライ
マックスを待たずしてストーリーから消えていく。
せっかくの好感度キャラがもったいないと言うなかれ。リアリズムを追求すれ
ばどうしてもそうなる。絶体絶命の瞬間に助けが駆けつけるのは、脳天気なハリ
ウッド映画のみ。現実の世界では、寝坊してあわてている時に限って電車は遅延。
思う人には思われず、思わぬ人にはストーキングされ、サッカーくじは何度買っ
ても当たらない。「現実」に大団円は来ないのだ。
イギリス/スペイン映画である本作も、ハリウッド流のご都合主義は徹底排除
の姿勢を貫いている。ヒロイズムやヒューマニズムを蹴散らす、冷徹なリアリズ
ムに震撼せよ!
[おまけ]
『28週後...』にはサッカーファンの目を引くシーンもチラホラと。冒頭でスペ
イン旅行から帰国するドンの息子が着ているのは、レアル・マドリードのレプリ
カユニフォームだ。スペイン人監督のフアン・カルロス・フレスナディージョ
(『10億分の1の男』)がどこのチームのファンか一目瞭然ですね。
クライマックスの舞台となるのは新装なったサッカーの殿堂、ウェンブリー・
スタジアム。すでにいくつかのビッグマッチで使われているが、日本のサッカー
ファンの中には、この映画で初めてリニューアル後の姿を見たという人も多いだ
ろう。う〜ん、行きたい。
恋とスフレと娘とわたし BECAUSE I SAID SO
(2007年、米、字幕:佐藤恵子、字幕演出:川又勝利)
うむむむ、ダイアン・キートン、『幸せのポートレート』と同じキャラやない
か・・・というのがツッコミその1。泉ピン子みたいな独善ぶりやなあ・・・と
いうのがツッコミその2。
『恋愛適齢期』では(ボディダブルでなかったのだとしたら)ヌードまで披露し
ていた彼女だけど、3人の娘役との共演シーンの多い本作では、さすがに露出は
抑えたようだ。頻繁に出てくるパーティーシーンでは、娘3人が胸元や腕を惜し
げもなくさらしたドレスを着ているのに対し、キートンは襟元から手首まできっ
ちりと覆われたドレスを着用。同じフレームに入った4人を見ていると、その服
装の対比はいかにも残酷に映る。
でも、娘と同じ露出度のドレスを着たら、もっと残酷な画になってしまったの
だろうなあ。柴門ふみさんだったかな、「娘と一緒に出かける時は、若向きの服
装をすると娘との対比で老いが際立つので、意識的に年齢差を感じさせる服を選
んでいる」という趣旨のことを、以前何かに書いていましたっけ。
マンディ・ムーア演じるヒロイン(三女)が「2人の男性の間で揺れ動く」な
らともかく、「二股かける」という設定にしたのは作り手のミスだろう。コメデ
ィである以上、キャラの造形の仕方によってはそういうシチュエーションもあり
だろうが、奥手で真面目という性格付けをしておきながら二股かけさせてしまっ
たら、そりゃ大衆に受け入れられないって。
・・・と、まあ、ドラマ的にはさしたる感想もない1本だったが(キートンが
鬱積した思いをぶちまける山場なんて、本当に泉ピン子の2時間ドラマみたいだ
った)、わざわざここで取り上げたのは字幕担当者のクレジットの仕方に目を引
かれたから。
字幕:佐藤恵子、字幕演出:川又勝利・・・
現在世に出るほとんどの作品は、字幕翻訳者のみの単独クレジットだ。作業の
工程上は、翻訳者の作った字幕にチェックを入れる人物(「チェッカー」「演出
家」など呼び名は様々)がいるわけだが、その名がクレジットされることはほと
んどない。ところが本作では、「字幕」と「字幕演出」の名前が同列にクレジッ
トされているんですね。
本作の配給は東北新社だ。同社は言わずと知れた日本語版制作会社の大手。何
か独特の制作慣行ないしはシステムがあって、こういうクレジットの仕方を採用
しているのだろうか。そういえば同社が過去に配給した『敬愛なるベートーヴェ
ン』『ファースト・ディセント』では、「字幕監修」者の名前がわざわざクレジ
ットされていた。
ちなみに、このところ東北新社といいブロードメディア・スタジオといい、日
本語版制作会社が自ら映画配給に乗り出すケースがぐっと増えている。私がお世
話になったACクリエイトさんも数年前にはそういう動きをしていたのだが、こ
ちらはもうひとつ軌道に乗せきれなかったのだろか。
ところで一般の映画ファンは、この「字幕」「字幕演出」が併記されたクレジ
ットを見て、どのように感じるものだろうか(一般の観客はそんなクレジット、
見やしないという話もあるが)。
おそらく「字幕」の人が骨子、粗訳を作り、「字幕演出」が完成品にまで高め
る、あるいは「字幕」が癖のないニュートラルな訳を作り、「字幕演出」がそれ
ぞれのキャラクターらしさをセリフに加えていく・・・そんなイメージを持つ人
が多いのではないだろうか。垂直分業で1つの完成品を作る、あるいは1+1で
2を作るというイメージですね。
だが「字幕」の佐藤恵子さんとしては、これはいささか面白くないイメージで
あるはずだ。だって、佐藤さんが(あるいは佐藤さんに限らず、一定以上のレベ
ルの翻訳者であれば誰であろうと)納品した時点で、おそらくその字幕はそのま
ま完成品にしても差し支えないクオリティになっているはずだから。
「字幕演出」の川又勝利さんが具体的にどのようなお仕事をされたのかは知る由
もないが、佐藤さんの字幕にそれほどいじらねばならないところがあったのだろ
うか?
いや、あったのかもしれない。川又さんから見れば、いじらねばならない箇所
が。もしかしたら佐藤さんはその直しを承伏できなかったのかもしれない。しか
し、元に戻してくれと要求する力関係にもなかったのかもしれない。さりとて承
伏できない字幕を、さも自分が書いたかのようなクレジットで公開されるのは嫌
だったのかもしれない。そこで「私の名前だけではなく、川又さんの名前もクレ
ジットしてください」と要求したのかもしれない・・・。
もちろん、上記は想像であり、1つの可能性を提示したものに過ぎない。ただ、
あの勝新太郎も、自らが監督を務めた「座頭市」シリーズで、脚本をあまりに改
変してしまうものだから、見かねた周囲の人から「脚本家がかわいそうだから、
君の名前も脚本家としてクレジットしたまえ」とたしなめられたという。そんな
ことを念頭に置いて見ると、「字幕演出」という見慣れないクレジットもなかな
かに興味深い。
夕凪の街 桜の国
(2007年、日本)
久間防衛大臣が辞任に追い込まれた。“問題発言”の責任を取らされたものだ
が、彼の発言、本当にそれほど問題だっただろうか。
「原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が
終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」
という言葉を、久間氏は「終戦が長引けば北海道がソ連に占領されたかもしれな
い」という文脈の中で語っている。お説ごもっともである。
また、旧日本軍が沖縄でしたとされること(あるいは、一部の当事者がしてい
ないと言い張っていること)に鑑みれば、本土決戦に突入した場合、少なからぬ
民間人が集団自決を(有形無形の圧力をもって)強いられていたであろうことは
想像に難くない。その場合、生き残る日本人は、単なる腰抜けと、腰抜けとそし
られることをいとわない強靱な理性の持ち主だけになっていた可能性がある。そ
の意味で、原爆が戦争を早期終結に導いたという久間氏の認識は(誰もが内心で
は認めている通り)正しい。
もう1つ勘案すべきは、久間氏自身が原爆の被害に遭った長崎県人だというこ
と。当時4歳半だった彼が原爆投下そのものを記憶しているかどうかは微妙なと
ころだが、出身地の加津佐町は爆心地の長崎市から30キロほどの距離だ。彼の
親戚や知人にも少なからぬ数の被爆者がいただろうし、小中学校での平和教育な
ども通じ、久間氏の心にもしっかりと被害者意識や当事者意識が刻まれているは
ずだ。
人間、人智を越えた災難に見舞われると、どうにか理由をつけて「仕方のない
ことだったんだ」と自分を納得させようとするもの。広島の人も長崎の人も、誰
もが多かれ少なかれそう割り切って、過去を振り切り、未来へ進んできたのでは
なかったか。久間氏の「しょうがないなと思っている」という物言いは、このあ
たりの心理を如実に表現しているだけに、野党政治家やメディアばかりではなく、
長崎市長や被爆団体の方々までが久間氏批判の大合唱をしているのは、第三者で
ある私にはいささか意外だった。他県出身者が同じことを言ったのなら、そりゃ
反発もするだろうけど。
そんなことを考えたのも、『夕凪の街 桜の国』を見た記憶がまだ新しかった
からだ。この作品では、終戦から13年後の広島に生きる皆実と、その50年後
の東京で暮らす七波という、2人の若い女性の一見穏やかな日常が描かれる。だ
が、その日常を一皮むけば、原爆を「生き延びた」はずの人々が、なおも大きな
苦しみを背負っていることがわかってくる。
被爆者である皆実は、いつ原爆症が発症するかわからない恐怖におびえ、また
大勢の人の死を目にしたトラウマから、素直に自分の幸せをつかみとることがで
きずにいる。その姪である七波は、被爆者の肉親というだけで、「いつ死んでも
おかしくない人間」という目を世間から向けられている(そんな差別があること
を、私は不明にして知らなかった)。
原爆の惨禍に対する問題提起を試みた真面目な映画に、いきなり女湯のシーン
が挿入された時には面食らったが、それは入浴客のほぼ全員が、体のどこかしら
にケロイドを負っていることを示すためだった。このシーンを見た先輩映画ライ
ター(女性)の、「ほぼ全員がケロイドを負っていたからこそ、彼女たちは公衆
浴場で裸体をさらせたのだろう」との指摘には、目から鱗がハラリと落ちた。
原爆によって心と体に深い傷を負いながらも、広島や長崎の人々は、生き残っ
た者同士、支え合い、いたわり合って生きてきたのだろう。であればこそ、自身
も被爆者である皆実の母親が、「被爆者と結婚するつもりか」と息子を叱りつけ
るシーンには、重い澱のようなものを感じずにはいられなかった。
皆実と七波がともに明るい性格であるだけに、彼女らの抱えた悲しみが一層際
立つのは原作コミックと同様。七波役の田中麗奈は普段通りの溌剌たる魅力を振
りまいていたが、それ以上に目を引かれたのが、昨今の若い女優には珍しいくら
いの地味な顔だちをした皆実役の麻生久美子だ。その華のない「昭和顔」が、皆
実の持つはかなさにピッタリと調和。彼女が「生き延びた罪悪感」を吐露するシ
ーンには、試写室の椅子の上で思わず居住まいを正した。
佐々部清監督と脚本の国井桂は、原作コミックの珠玉のセリフを忠実に拾い、
その上に映画的な見せ場を付加して見る者の涙腺を刺激する。「恋人が難病で死
にました」とか「死んだ妻が生き返りました」といった陳腐なお涙ちょうだい劇
とは違う演出できっちりと泣かせるところは、『半落ち』の佐々部監督の面目躍
如というところ。
劇中には原爆の絵図や写真が挿入されるが、資料館などで見るとどうしても政
治臭を感じてしまうそれらも、この作品にあってはなぜか虚心に見ることができ
る。それこそがこの映画の、いや、映画という芸術の、1つの重要な意義である
のかもしれない。
ドキリとするほど反米的なセリフが引っかかるという指摘や、戦争の加害者と
しての視点が欠けているという指摘は確かにあろうが、1本の映画にすべてを期
待するのは無理というもの。戦争を知らない世代が社会の大半を占めつつある今、
その悲惨な記憶を風化させないためにも、できるだけ多くの人に見てもらいたい
傑作である。
プレステージ THE PRESTIGE
(2006年、米、字幕:菊地浩司)
これはやられた!
「結末を人に言わないでください」との注意書き付きで上映される映画の中に、
真にその注意書きに値する映画はまれなのだが、この『プレステージ』は数少な
い該当作。
なにしろ冒頭からのすべてのシーン、すべてのセリフが、結末に向けての伏線
だと言っても過言ではない。試写を見て数日後たってから、「おお、あの**は
あの**の伏線だったのか」と気づく箇所すらいくつかあった。
ヒュー・ジャックマンとクリスチャン・ベイルが演じる2人の奇術師が主人公。
ともに修行を積んだ2人だったが、ステージ上の事故でジャックマンの妻が死ん
だことからたもとを分かち、今では泥沼の妨害合戦を繰り広げる仲だ。
物語の核になるのは瞬間移動のマジックで、ジャックマンとベイルはそれぞれ
の秘策によって、この大技を成功させる。その秘策こそが、配給会社が「人に言
わないでください」と訴える「結末」というわけだ。
私が「やられた!」と書いたのは、そのうちのジャックマンの秘策の方。SF
映画にはありがちな設定ながら、本作でそういう展開になるとは思わなかったの
で心底、感嘆させられた。そう、これはあくまでもSFにだけ認められる設定で、
科学的には完全に破綻していると言わざるを得ない。それでも腹が立たないのは、
ジャックマンの用いた秘策自体ではなく、それによる“副産物”の処理法にこそ
驚きとドラマがあるからだ。
『メメント』のクリストファー・ノーランは、またしても「2度見ても損はな
い」映画を作りあげた。
ブラッド・ダイヤモンド BLOOD DIAMOND
(2006年、米、字幕:今泉恒子)
アフリカの惨状を伝える社会派タッチの前半部と、冒険譚に転じた後半部がい
ずれも一級品。骨太なエドワード・ズウィック作品の中でも会心の一作だ。アフ
リカ物がブームとなった感のあるハリウッド映画の中で、「人道派の欧米人」で
はなく「土着の不良白人」を主役に据えた点が異彩を放つ。
劇中で繰り返し語られるキーワードは「TIA(This is Africa)」。武装勢
力が罪もない村人を拉致してはダイヤモンド鉱山で強制労働を強い、少年は洗脳
された上で麻薬を打たれ、使い捨ての兵士にさせられる。政府にそれを正す力は
なく、欧米や国際機関は見て見ぬふり。どんな悲惨なことや理不尽なことが起こ
ろうと、「これがアフリカさ」とあきらめるしかないのである。
何人もの登場人物が「この内戦には政府も飽きている」「誰も気にしちゃいな
い」「神はこの地を見捨てている」と語るのを聞くと、日本で暮らす我々も、嫌
でも問題意識を持たずにはいられない。
主役のダニーを演じたレオナルド・ディカプリオの屈折ぶりがいい。ローデシ
アの軍人だったダニーは、大義のない戦闘の中で正義感や道徳感をすっかりなく
し、密売人稼業に身を落としている。レオは特異なアフリカ訛りで役に没入。序
盤に「ゴーヴメント」と何度も言うので首をひねりながら見ていたが、しばらく
すると「government(政府)」のことだと合点がいった。
オスカーにノミネートされたレオとジャイモン・フンスー(実直な漁師ソロモ
ン役)ばかりではなく、ジェニファー・コネリー(正義派ジャーナリストのマデ
ィー役)が久々に魅力的。ここ何年か『ダーク・ウォーター』『砂と霧の家』
『ビューティフル・マインド』など無職の役が目立っていたが、やはり働く女は
美しい。
後半はソロモンが命がけで隠した巨大ダイヤの原石をめぐり、アフリカ脱出の
資金源にしたいダニーと、引き離された家族を探す切り札にしたいソロモンとが、
奇妙な二人三脚の冒険を繰り広げる。犯罪の証拠品にしたいマディーの思惑も絡
み、ストーリーは実にダイナミックな展開をたどる。
当初はソロモンを虫けらのように見ていたダニーが、あるいはダニーを油断の
ならない悪党と見ていたソロモンが、互いを理解し、信頼していく過程は、(お
約束とはいいながら)自然に胸が熱くなる。
最後にソロモン1人を逃がすことにしたダニーの、「パイロットを信じるな」
というセリフが何とも印象的。それはもはや、“虫けら”に対する言葉ではなか
った。長年組んでいる白人パイロットでさえ利権次第で簡単に寝返るような世界
(TIA)で生きてきたダニーが、人生最初の友を得たのだ。そしてそれは、人
生最後の友でもあったのだが。
ロッキー・ザ・ファイナル ROCKY BALBOA
(2006年、米、字幕:林完治)
なぜ今さら、ロッキー?
そんな懐疑と冷笑が、開演前の試写室のよどんだ空気の中を、幾つもの固まり
となって浮かんでいた。だが冒頭、あの耳なじんだテーマ曲に乗せて、『ファイ
ナル』でも『リターンズ』でもない『ロッキー・バルボア』というシンプルなタ
イトル(原題)がババーン!と大写しにされた時、私たちはシリーズの作り手た
ちの、並々ならぬ決意を知った。
60歳に近くなったスタローンは――いや、ロッキーは、今ではレストラン経
営者に収まり、往時を知る客に昔話を語る日々を送っている。過去の栄光にすが
る抜け殻、それが本作のオープニングにおける主人公の立ち位置だ。
愛妻エイドリアンにはすでに先立たれ、命日にはあのペットショップやあのス
ケートリンクを彷徨する。この「想い出の落ち穂拾い」は、主人公のみならずシ
リーズのオールドファンにとっても必要なプロセスではあったのだが、あまりス
トレートに見せられたのでは感傷が鼻についてしらけるところ。しかし脚本家ス
タローンは聡明だった。ロッキーに付き添うバート・ヤング(エイドリアンの兄
役)に「過去を引きずるな」「いつまで悲嘆に暮れてるんだ?」と繰り返し語ら
せてバランスを取り、観客の反感を巧妙に抑え込んだ。
スタローンが感傷と自己満足に溺れないよう十分な配慮を払っていたことは、
他の様々な設定からも見てとれる。ロッキーがリングに復帰する理由として、金
や喝采への渇望ではなく、エイドリアンをなくした心の空虚さを持ってきたこと。
当初はローカルな試合への参加を考えていたこと。しかし現チャンピオンの側に
ロッキーと戦わねばならない理由が生じたこと。製作陣はこうした何段階ものエ
クスキューズを配することで、還暦の元チャンピオンが現役復帰するという荒唐
無稽な設定に、一定の説得力を持たせることに成功しているのだ。
復帰が決まってからのトレーニングシーンはお約束のモンタージュ。生卵の丸
飲み、肉塊のサンドバッグなどの名物シーンも当然挿入され、ファンサービスに
手抜かりはない。
その一方、フィラデルフィア図書館前の階段を駆けあがる名シーンでは、かつ
てのようにチビッ子ファンの大群が主人公を追うことはなく、付き従うのはしょ
ぼくれた犬1匹。スタローンはこんなところにも自己認識の確かさと、賢明さを
見せている。この落差はそのまま、かつてのドル箱映画からシネコン上映に身を
落としたシリーズの立ち位置をも反映しているとも言えるだろう。
終盤のボクシングシーンは圧巻。スタローンの年齢を感じさせる(感じさせな
い、ではない)ファイトが、見る者の胸を打つ。若きチャンプに「イカレたジジ
イ」と毒づかれたロッキーが、「お前もそうなる」と言い返すシーンには、オジ
サン世代は快哉を叫び、若者も「こいつは1本取られたね」と頭をかくだろう。
断言しよう。ボクサーのロッキーと、映画シリーズの『ロッキー』は、ともに
晩節を汚すことなく、誇りを持ってキャリアの幕を閉じた。
クイーン THE QUEEN
(2006年、英仏伊、字幕:?)
本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得したヘレン・ミレンは、受賞スピーチの
最後にオスカー像を掲げ、「Ladies and gentlemen, I give you the Queen」と
高らかに言い切った。
このコメント、中継したWOWOWでは「エリザベス女王にこの賞を捧げま
す」と訳していたけれど、本当かしら?
ミレンが呼びかけた相手(you)は、Ladies and gentlemenであって、女王じゃ
ありませんよね。となるとミレンは、「会場とテレビの前の紳士淑女の皆さん」
に対して「THE QUEENという映画を捧げます」あるいは「The Queen(エリザベス
2世)の実像をお見せします」と言ったのではないだろうか? 英語のお得意な
方はぜひ教えてください。
実話を元にした映画というのは、関係者への配慮のために意外につまらないも
のになりがちだ。あるいは実際の出来事をそのまま描写したがために観客の反感
を買うということも起こりえる。ウィル・スミスの『幸せのちから』などは成功
者の自己宣伝臭が感じられて素直に感情移入できなかったし、『輝く夜明けに向
かって』や『世界最速のインディアン』などは、主人公たちの下半身のユルさが
気になってどうにも好きになれなかったという方もいるだろう。
ところがどっこい、この『クイーン』では、王室の面々やブレア一家の一人一
人が、実に生き生きと魅力的に描写されている。自ら四駆のハンドルを握ること
もある(らしい)女王。日頃は存在すら忘れられているけれど、ちゃんと王室の
一員として機能している(らしい)クイーン・マザー。女王を「キャベツちゃ
ん」などと呼びながら、しっかりとサポートしている(らしい)フィリップ殿下。
王室不要論を隠さない(らしい)ブレア夫人…。
ほとんどのシーンは一般人がうかがい知ることのできない宮殿や官邸で展開さ
れるだけに、登場人物の発言や行動が現実通りのものであったかどうかは知る由
もないのだが、いや、現実通りのものであったはずは絶対にないのだが(たとえ
ば女王夫妻が本作のようにベッドをともにしていないことはずいぶん前から知ら
れている)、これは映画なのだからエンターテインメントとして面白ければそれ
でオーケーだ。
ダイアナ妃を除く関係者全員がいまだ存命である以上、キャラクターの造形に
は(相手がお偉いさんだからということは別にしても)一定の配慮は必要だろう。
脚本のピーター・モーガンと監督のスティーブン・フリアーズは、登場人物のほ
ぼ全員に温かい目を注ぎ(なぜかチャールズ皇太子だけは悪者にされていたが)、
それぞれを愛すべきキャラクターに仕立てている。少なくとも私にとっては、そ
れは見ていて心地のいいものだった。
ダイアナ妃の死後1週間に物語の時間軸を集中させたのも成功の一因。威厳あ
る女王と、就任直後とあって彼女に小物扱いされていたブレア首相との関係性が、
事件を境に大きく変化していく様子が興味深い。ダイアナ妃を特別扱いしたがら
ない女王に、ブレアは相応の対応をするよう粘り強く求め、結果として王室を救
うことになる。自身は王室廃止派だと推測されるブレアが、女王を不当に揶揄す
る側近に対して「彼女は国のために50年も尽くしてきた。今だって王室に後ろ
足で砂を引っかけた女(ダイアナ妃)のために葬儀の準備をしてるんだぞ!」と
激高するシーンは圧巻だ。
終盤、いつしかブレアの人間性と力量を認めるようになった女王は、しかし本
人の前ではそんな思いをおくびにも出さず、相変わらず小物同然の扱いをする。
そこがまたいい。
王政擁護派と廃止派、王族と平民、親ダイアナ派と反ダイアナ派。立場の違い
を善悪に結びつけない作り手の公平な姿勢が、この傑作を生み出した。とはいえ
フリアーズは、関係者全員に敬意を払いながらも、ただの「お偉いさん礼賛映
画」に陥ることなく、そこここで少しずつ「地雷を踏んで」みせる。さすがは
『モンティ・パイソン』の国の映画人というべきか。
パヒューム ある人殺しの物語 PERFUME:THE STORY OF A MUEDERER
(2006年、独、字幕:戸田奈津子)
この映画には、においがある。
時は18世紀。不潔な犯罪都市だったパリで、超人的な嗅覚を持つ私生児が誕
生する。やがて香水職人となった彼が究極の香りの創造に着手すると、その日か
ら若い娘の全裸殺人が相次ぎ…。
ドイツのベストセラーの映画化作品。関わる者を次々と死に追いやる、主人公
の怪物めいた存在感が圧倒的だ。彼の心にはモラルも愛もなく、においへの執着
だけがある。だから自分に体臭がないことに気づくと、「誰の記憶にも残らない
という恐怖」におびえる。女の体臭に惹かれると、脇目もふらずに相手を追いか
け、殺してもなお嗅ぎ続ける。
監督のティクヴァは隙のない世界観を構築し、この「嗅覚のターミネーター」
を信憑性あるものにした。たとえば18世紀に高さ2メートルを超えるガラスの
水槽が作れたとは思えないのだが、本作を冒頭から見ていけば、何らの違和感を
感じない。『どろろ』の医学用機器が噴飯物だったのとは対照的だ。日本の映画
人よ、もっとがんばろう。
においを映像で表現するための様々な工夫も凝らされている。においの源泉や
広がりを的確に表すカメラワーク。その強弱を音量で表現する音楽。ぜひご自分
の目と鼻で確かめてほしい。この映画には、確かににおいがある。
(「FLIX」2007年4月号の掲載原稿を改稿)
あなたになら言える秘密のこと THE SECRET LIFE OF WORDS
(2005年、スペイン、字幕:石田泰子)
ハンナが食べるのは白米とチキンとリンゴだけ。友達も作らず、趣味も持たず、
まるで自分に罰を与えるかのように、異国で無味乾燥な日々を送っている。その
ハンナが、孤島のような海底油田の掘削所で、事故で重傷を負ったジョゼフの介
護をすることになる。逆境にめげない彼の明るさに触れ、ハンナも次第に封印し
た過去を語るようになるが…。
身辺のドラマを描いた前作『死ぬまでにしたい10のこと』とは一転、イサベル
・コイシェ監督が欧州現代史の暗部をえぐり出す。ハンナが世捨て人のように生
きる理由を知った時、あなたはその壮絶な打ち明け話に息を呑むだろう。そして
彼女の痛みを共有し、涙するだろう。
実のところ、ハンナが直面したのはユーゴ内戦時の民族浄化だ。公開時、配給
会社はそれを「秘密」としてセールスしたがっていたようだが、これには理解に
苦しむ。なぜならそれは、観客の「終着点」ではなく、議論の「出発点」とすべ
きことだと思うから。
コイシェが本作で静かに告発するのは、単なる戦争ではなく、残虐性や暴力性
を抱えた人間の業そのものだ。「ハッピーエンド」などという浅薄な形容はあえ
てすまい。ただ、すべてを知ったジョゼフがハンナに注ぐ無私の愛が、巧みな伏
線もあって深い感動を誘う。
(「FLIX」2007年3月号の掲載原稿を改稿)
それでもボクはやってない
(2007年、日本)
昔から「痴漢にあっても恥ずかしくて訴えられない」という女子の気持ちがわ
からない。気持ちいいから黙って触らせておこうというならわかるけど、気持ち
悪いなら触るなと言えばいいのにね。満員電車のそこここで「この人、痴漢で
す!」コールが頻発するようになれば(ついでに周囲の乗客が犯人を袋だたきに
するという健全な社会慣習ができれば)、次第に痴漢をするような命知らずは減
っていくと思うのだが。
こんなことを言うのも、『それでもボクはやってない』のプロモーションでテ
レビの対談番組に出てきた周防正行監督が、恐ろしいことを言っていたからだ。
痴漢に間違われたくないからと、両手で吊革につかまっているという男性の存在
はよく聞くけれど、ホームに下りてから痴漢呼ばわりされるケースがあるので、
現実には電車の中でどんな姿勢を取っていようと冤罪を免れる保証はないのだと
いう(実際、加瀬亮演じる本作の主人公も、そのパターンで捕まっていた)。
困りますよね。痴漢被害者の皆さん、どうか怨恨はホームまで持ち越さず、触
られたその場で「この人、痴漢です」コールを上げてください。だって、その方
が身の安全も図れるでしょ。ホームに下りてから捕まえたのでは、相手にぶっ飛
ばされたり、刃物で刺されたりするかもしれません。
その点、満員電車の中で声を上げれば、相手は逃げようがないし、仮に危害を
加えられかけても回りの乗客が守ってくれるでしょ。気弱な犯人なら謝るかもし
れないし、謝られれば許す気になるかもしれません。痴漢の味方をするわけじゃ
ないけど、官憲に頼るばかりがトラブルの解決法じゃないとも思います。
それにしても取り調べに当たる警察官といい、検察官といい、裁判官といい、
本作に登場する官憲の偏向ぶりはひどいものだ。周防監督は、「痴漢の是非より、
無罪推定がなされない日本の裁判の現状を描きたかった」と言うけれど、その意
図は見事に映像化されている。日本の警察が優秀だからそうなってきたのだろう
が、最初に結論ありきで取り調べや審理をされたのではたまりませんよね。大森
南朋演じる刑事が、後輩の刑事に「相手がシロかもしれないと思って取り調べた
んじゃ、落ちるものも落ちねえぞ」という迷言を吐いているが、これ、犯罪と縁
のない私にも、いや、犯罪と縁のない私であればこそ、背筋が寒くなるようなセ
リフだった。
留置場での暮らしも、どう見てもおかしいよね。留置場に入っているのは有罪
とも無罪とも決まっていない、それどころか起訴されるかどうかも定かではない
市井の市民だ。鉄格子の中に監禁されるのは甘受するにしても、布団の上げ下ろ
しをさせられ、学生でさえ教室の掃除をしない時代に房の掃除もさせられるのは
どういうことか。無実の留置者にしてみれば、「俺はそっちの都合でここに泊ま
っているんだ。掃除や布団の上げ下ろしぐらい女中がしろ!」と言いたくもなる
だろう。
その上、留置場の係官は命令口調でああしろ、こうしろと急き立てる。相手を
虫けらのように扱い、屈辱感を与える拷問法は、米軍もイラク兵相手によく行っ
ていた(いる?)ようだ。「とっとと歯を磨け」と言われただけの、比較的虐待
度数の低い場面で加瀬亮が涙を見せていたのが印象的。留置場未経験の私も、そ
の気持ちはよくわかる。
実際の官憲がこの映画に描かれた通りなのかどうかはわからない。官権を身内
に持つ方々は、絵空事だと笑うのかもしれない。だが周防監督の描く官憲像が私
たち一般人に少なからぬ信憑性を感じさせるのは、私たちの中に「警察官や裁判
官とはこういうもの」という思いこみが(正誤は別にして)あるからだ。官憲の
皆さんは、そのことを知っておくのも無駄ではないだろう。
そんな日本の官憲も、世界基準から見ればずいぶんと文明的だと思わされた映
画が『バベル』だったのだが、それは別の話。
2006年(私の)ベスト10!
2006年は日本映画の興収が、21年ぶりに外国映画を上回ったのだという。
不思議だなあ。相変わらず日本映画の大半は、箸にも棒にもかからないくらい低
レベルなのに(映画ライターとして、公式なメディアではこんなこと言えないの
だけれど)。
さて、2006年は途中で試写室通いから一時離れた時期もあったのだが、そ
れでも鑑賞した総本数は156本に達した。以下が私のベスト10。ただし優劣
ではなく、見た日付順に並べている。
1 ホテル・ルワンダ HOTEL RWANDA
大人になってからほとんど泣いたことのない私が、試写室で初めて落涙した。
どうも私は、けなげな女の子が難病で死んだり、死人が生き返ったりしても、ま
ったく心を動かされないのだが、義憤には弱いみたいです。
2 ロード・オブ・ウォー LORD OF WAR
武器売買という「小説よりも奇なる事実」に取材した「事実よりも奇なる映
画」。社会派ドラマとして興味深いし、常軌を逸した商魂を見せる主人公像も秀
逸。犯罪行為で自己実現しちゃった男の苦悩がおかしくも哀しい。
3 ククーシュカ ラップランドの妖精 KUKUSHKA
奇妙な同居生活を始めたロシア兵と、フィンランド兵と、先住民の人妻。人間、
言葉なんか通じなくても仲良くやれるよという、アバウトな反戦メッセージが心
地よい。人妻の性的なおおらかさもユーモラスでいいわあ。
4 ブロークバック・マウンテン BROKEBACK MOUNTAIN
会えない苦悩、疑心、嫉妬、会えた時の弾けるような喜び。ヒース・レジャー
とジェイク・ギレンホールの名演で、一歩間違えば噴飯物のギャグになりかねな
い物語が、しっとりとしたラブストーリーに仕上がった。
5 戦場のアリア JOYUEX NOEL
第一次大戦中、敵味方が一緒になってクリスマスを祝ったという実話を翻案。
それはそれで感動的だけど、やっぱりこの状況で敵と仲良くなってしまうのはま
ずいよね・・・というところまで考えさせてくれる複層的な作りがよい。
6 レント RENT
日本のミュージカルと本場のミュージカルの最大の違いは、歌詞の言語ではな
く、出演者の歌唱力にあると思う。いやあ、みんな歌、うまいわあ。本作を見た
日本のミュージカル俳優は、きっとうらやましさに死にたくなっただろう。
7 ユナイテッド93 UNITED 93
ドキュメンタリータッチで事実を淡々と積み重ねていく手法なのに、その積み
重ねられた事実によって心がグラグラ揺さぶられる。国家の犠牲となって死ぬた
めではなく、自分たちが生き残るために命を賭けた乗客たちに、しばし黙祷。
8 敬愛なるベートーヴェン COPYING BEETHOVEN
私にとっては単なる「音楽室の肖像画」でしかなかったベートーベンが、生き
た人間としてスクリーンに現れた。ふ〜ん、こういう人だったのか。本作を見て、
ダイアン・クルーガーと、第9を、初めていいと思った。
9 イルマーレ THE LAKE HOUSE
独創的かつ秀逸な物語の基本構造はオリジナル(韓国)版のものを踏襲しつつ、
キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックという大人の出演者を得て、作品に新た
な魅力を付け加えた。リメイクの幸せな成功例。
10 unknown アンノウン UNKNOWN
廃工場で目覚めた5人の男。3人は誘拐犯、2人は人質だが、全員記憶を失っ
ている。各人が少しずつ記憶を取り戻していくたびに、観客に事件の違った面が
見えてくるという実験的な筋立て。ラストの複相的などんでん返しには脱帽した。
リトル・ミス・サンシャイン LITTLE MISS SUNSHINE
(2006年、米、字幕:古田由紀子)
「年収300万円の時代」が来るのだそうだ。なんたって日本で一番恵まれた人
(総理大臣)が、「格差があるのは悪いことではない」などとほざいても、自民
党が選挙で圧勝しちゃう今日この頃である。ホワイトカラー・エグゼンプション
という名の奴隷労働法が導入されようとしているのに、組合の弱体化にも歯止め
がかかる気配がない。きっとこれからの日本は、かつての野麦峠の時代のように、
一握りの金持ちと大多数の貧乏人が暮らす国になっていくのだろう。
そんな時代に備えての予習にもってこいなのがこの映画、『リトル・ミス・サ
ンシャイン』である。なにしろ主人公の一家が負け犬ぞろい。勝ち組だと思って
いるのは自分だけの鼻持ちならないお父さん、麻薬漬けの下品なお爺ちゃん、航
空学校入学の願かけで口を利かないお兄ちゃん、自殺未遂をしたゲイのおじさん。
寄ると触るといがみ合い、言い争っているこのデコボコ一家が、眼鏡デブの娘の
ちびっ子ミスコン出場のために、おんぼろバスで旅に出る。
一家のアリゾナからロスへの旅は、まるで「負け犬の転落」。バスは押しがけ
しなければエンジンがかからなくなり、お父さんの成功理論は出版代理人から見
放され、お兄ちゃんは色弱でパイロットになれないことが発覚し、お爺ちゃんは
倒れ・・・。
それでも、そんな事件を経験するたび、一家は結束を固めていく。彼らが成長
したとか、変わったとかいうのではない。思えばキモいお兄ちゃんも、偉ぶった
お父さんも、当初から食事の用意や後かたづけを手伝っていた。いがみ合う中で
も、誰かが言ってはいけないことを言いそうになればそれを止めようとする者が
いたし、言われた者を気遣う者もいた。昨今の学校のいじめとは大違いだ。一家
の面々はもともと人として大切なものを備えていたのであり、この旅はそれを再
確認するための旅だったのだ。
もっとも、彼らが変わっていないということは、勝ち組になることもないとい
うこと。クライマックスのミスコンでは、一家は結果的にコンテストをぶちこわ
す。このミスコンに出るために大小様々な犠牲を払い、遠路はるばるやって来た
にもかかわらずだ。だが、この時点に至れば、そのことを残念に思う観客はおそ
らく1人もいないだろう。
というのも、本作の作り手が作品の制作意図を正確に形にしているために、観
客の目には、お父さんをさげすむ出版代理人や、強圧的なミスコンの主催者や、
ロボットのように芸をする美少女たちといった「勝ち組」の姿が、なんとも哀れ
に映るのだ。「あんたたち、それで幸せなの?」と、ひがみ抜きで素直に思える
のだ。
ミスコン会場から追い出された一家は、負け犬状態を脱せないまま、やっぱり
バスを押しがけする。それでも、このかっこ悪いエンディングはどんなハッピー
エンドよりハッピーだと、負け犬仲間の僕らは思う。人間、本当に大切なのは勝
ち負けじゃないんだよね。
もっとも、支え合う家族もいない負け犬はどうすりゃいいのよと、ふと思わな
いでもないのだけれど。
硫黄島からの手紙 LETTERS FROM IWO JIMA
(2006年、米、字幕:戸田奈津子)
アメリカ資本の映画ではあるけれど、最後に戸田さんの名前が字幕翻訳者とし
てクレジットされはするけれど、本作のセリフは全編ほとんど日本語だ。イース
トウッドはいったいどんな演技指導をし、何をもって演技の良し悪しを判定した
のかと不思議に思わなくもないが、もともと彼はメガホンを取っても細かい指示
は出さないことで知られている。してみると、高い評価を得た『ミスティック・
リバー』も『ミリオンダラー・ベイビー』も、実質的にはほとんど俳優任せだっ
たのかもしれないね。
驚いたのは、ハリウッド映画にありがちな、怪しげな日本語を話す“日本人”
が1人も出てこなかったこと。主役、準主役級の(つまり私たちがよく知ってい
る)6〜7人ばかりか、脇役、端役に至るまで、日本人役を演じていたのは明ら
かに全員が日本語のネイティブ・スピーカーだ。ハリウッドがこれだけの日本人
俳優をそろえたことも意外だったが、それ以上に、これだけ多くの日本人俳優が
無名のままでいきなりハリウッド映画に出演しちゃったことに驚いた。彼らは普
段、どこでどんな仕事をして暮らしている人たちなのだろう。
本作の作り手は戦争を美化するでもなく、反戦的なメッセージを高らかに歌い
上げるでもなく、極めて中立的な立ち位置からプロットを積み重ねる。そこから
浮かび上がるのは、「時代」や「状況」に呑み込まれた個人の無力さだ。
「捕虜になるのは恥辱」「お国のために死ぬのは名誉」という価値観に支配され、
死ぬこと(いや、散ること)ばかり考えて生きている将校たちは言わずもがな。
進歩的な栗林中将(渡辺謙)にしたところで、最後の最後には「天皇陛下万
歳」と叫び、一片の疑いも差しはさまずに死地に赴くのだ。
観客の良心や批判精神の体現者たる西郷(二宮和也)にしても、集団自決をす
る仲間を前にまったく無力であるばかりか、自分が上官から理不尽な制裁を受け
そうになっても抗弁することさえしない。なぜなら、そういう時代だったから。
栗林が自決するのも止めない。なぜなら、(当時の常識に鑑みれば)それが栗林
にとって最良の道だから・・・。
昨今、憲法や教育基本法の改正を目論んでいる保守勢力の人々は、極言すれば
日本人の意識をこういう時代のそれに戻そうとしているのだ。「日本人の品格」
という美名のもとに彼らがしようとしていることの意味を、私たちはしっかりと
認識しておくべきだろう。
中立的と言えば、日米間の立ち位置に関してもそう。アメリカ映画でありなが
ら中立的だということは、印象としてはだいぶ日本寄りだという印象になる。
たとえば捕虜にした日本兵を、足手まといだと理由でアメリカ兵が射殺してし
まうシーンなど、イーストウッドが本国で恨みを買うのではないかと、他人事な
がら心配した。どうも本作は、アメリカでの興行収入は度外視して作られたよう
だ。
「お国のために死ぬなんてバカバカしい。命あっての物種。さっさと投降してし
まえばいいのに」と思いながら観ていたお気楽な観客は、頭から冷や水をぶっか
けられたように感じただろう。
平時に戦争反対と主張するのはたやすいが、突き詰めればこの問題は、決して
簡単に答えの出せる問いではない。
栗林の温情によって、西郷は集団玉砕の渦に巻き込まれずにすむ。だが、この
エンディングは作り手の仕掛けたトリッキーな罠だ。たしかに西郷は劇中では死
ななかった。それでも、現代の研究者が西郷の埋めた郵袋を掘り出すというスト
ーリー展開は、すなわち西郷が自らの手でそれを回収できなかったことを物語っ
ている。
西郷がいずれそれを掘り出すつもりで埋めたのか、自らの死を覚悟して運命の
手に委ねたのか、それはわからない。いずれにせよ、その硫黄島からの手紙は、
数十年を経て私たちの心に様々な思いを届けることになった。そのことだけは確
かだ。
氷の微笑2 BASIC INSTINCT 2
(2006年、米、字幕:小寺陽子)
前作『氷の微笑』(92)のヒロイン、キャサリン・トラメルは1つの衝撃だった。
美しく、知的で、デモーニッシュ。殺人容疑で事情聴取を受けながら、「いいえ、
彼とセックスするときは縛ったりしないわ。彼は指の使い方が上手だもの」なん
てセリフをシレっと口にしちゃうキャラクターは、実生活でも映画でも、それま
で1度もお目にかかったことがなかった。
このニンフォマニア同然の女流作家を、なぜか気品たっぷりに見せてしまった
のだから、演じたシャロン・ストーンもまたあっぱれ。同じ年に公開された『B
ODY/ボディ』のマドンナが、内面の品のなさをもろに露呈していたのとは好
対照だった。
その『氷の微笑』に14年ぶりの続編が作られたということで、当然ながら、
「ヘタなものを作ったら承知しないぞ」と、半分こぶしを振り上げたような状態
で見たわけだ、シネパトスで。ところがどっこい、冒頭のシークエンスから、た
ちまち前作の世界に引き戻された。スポーツカーを時速160キロでぶっ飛ばし
ながら、男の指を股間に導く。水没する車に男を置き去りにし、ひとりさっさと
脱出する。「助けようとは思ったけど、自分の命の方が大事だもの」と、シレっ
と言い放つ。これはキャサリンだ。間違いない。
前作のテーマ曲がそのまま使われていたこともあって、監督も脚本家も前作と
変わっているにもかかわらず、ほとんど同じ世界観が受け継がれているように感
じられる。
前作の舞台はサンフランシスコだったが、本作のキャサリンはロンドン暮らし
のようだ。イギリス訛りの英語を話す人々に囲まれて、我らが魔女キャサリンは
ひときわ、超然と周囲を睥睨して見える。
今回、キャサリンが「獲物」として選んだのは、自分の精神鑑定を担当した犯
罪心理学者のマイケル・グラス(デビッド・モリッシー)だ。前作と同様、キャ
サリンはゴシップ記者、刑事、グラスの同僚の女医など、周囲の「雑魚」を次々
と籠絡しては命を奪い、真綿で首を絞めるようにグラスを破滅に導いていく。
周囲の人間がキャサリンに操られるのをイヤというほど見ていながら、グラス
自身、キャサリンに吹き込まれることをあっさりと鵜呑みにしてしまうのが情け
ない。だがギリギリのところで違和感を感じさせないのは、世界観の構築の巧み
さゆえか。前作へのオマージュと見られるシーンも2〜3あり、ファンはクスリ
とさせられるだろう(続編のデキが悪いと「柳の下に2匹目のドジョウを探して
いる」ように見えるが、デキがよければ「オマージュ」に見えるのだ)。
このデビッド・モリッシーと、前作のマイケル・ダグラスとのネームバリュー
の差が、続編が単館公開になった理由だったとしたら、何とももったいない話で
ある。
48歳を迎えたシャロン・ストーンは、しかし驚くばかりの美貌を披露し、フ
ァンの懸念とアンチファンの懐疑を吹き飛ばした。実際、前作以降のどの作品よ
りも美しかったと言えるほどで、これには正直、驚かされた。それがハリウッド
の最新撮影技術と、ビバリーヒルズの高価な美容整形手術の成果であってもかま
わない。男は皆、美しい女性が好きだから。たとえそれが悪魔の化身であろうと
も。
レディ・イン・ザ・ウォーター LADY IN THE WATER
(2006年、米、字幕:古田由紀子)
M・ナイト・シャマランは、もう少し自分の提示しようとする世界観を信じた
方がいい。おとぎ話を作りたいなら、『ロード・オブ・ザ・リング』や『ナルニ
ア国物語』みたいに本気でおとぎ話の世界をでっち上げないと。「これはリアル
な話なんですよ。でもそこにおとぎ話みたいな出来事が起こるんです。変に思う
かもしれませんが、そういうことがあってもいいじゃないですか」という気弱な
態度で作られては、見る側は共感しようがない。
シャマランも『シックス・センス』では、成仏できないゴーストや、それを見
ることのできる少年がいる世界を自ら信じていた。だから同作は傑作になった。
ところが『アンブレイカブル』以降の作品では、どうにもその確信が中途半端に
なっている。スーパーヒーローや宇宙人の実在する世界をシャマラン自身が信じ
ていないから、それらのキャラが土台となる世界観から浮き、噴飯物になってし
まうのだ。
今回の『レディ・イン・ザ・ウォーター』にしても、登場人物に「ナーフやス
クラントなんておとぎ話の話だろ」と言わせる始末。これでは観客が映画の世界
に浸れるはずがない。
シャマランに関してもう1つ笑えるのは、モンスターの出し方があまりにもヘ
タなこと。今はCGもVFXもずいぶんと発達しているのに、造形といい見せ方
といい、なぜあんな稚拙なものばかり採用するのだろう?(これまた『アンブレ
イカブル』以降の作品について言えることなのだが)
たとえば『サイン』の宇宙人など、「着ぐるみ丸出しだ」と、さんざんバカに
されたはず。だからこそ『ヴィレッジ』では、それを逆手に取って、「着ぐるみ
丸出しのモンスターが実は本当に着ぐるみでした」という裏技を使ったのではな
かったか。
だが『レディ・イン・ザ・ウォーター』で『サイン』と同じ轍を踏んでいるの
を見ると、『ヴィレッジ』のあれも、シャマランは裏技のつもりで使ったのでは
なく、本当にあのモンスターが不自然だと思っていなかったのではないかと思え
てくる。
な〜んて酷評を、シャマランはこれまでさんざん批評家にされてきたんだろう
なあ。本作でボブ・バラバンの演じた映画評論家は、明らかにその意趣返しだ。
高慢な態度で「映画のストーリーやキャラクターはかくあるもの」と決めつけ
るが、言っていることは1つ残らず見当違い。最後は自己中心的な読みが外れて、
哀れ化け物の餌食・・・。これはシャマランの願望以外の何物でもないでしょ。
私も気をつけよっと。
イルマーレ THE LAKE HOUSE
(2006年、米、字幕:松浦美奈)
言わずと知れた2001年の同名韓国映画のリメイクだ。ある種のタイムトン
ネルとなった郵便受けを介して、2年間ずれた時を生きる男女が手紙のやりとり
を重ね、次第に真実の愛を育む。
オリジナルの脚本が非常に独創的かつ完成度が高かったため(独創性と完成度
はなかなか両立し得ないものだが)、リメイク版もその基本構造をほぼ忠実に踏
襲している。何と言っても時間軸の使い方が舌を巻くほどにうまい。
一般にタイムトラベル物のSFやファンタジーでは、未来に生きる(あるいは
未来から来た)登場人物の側が、すべてを知る神の立場に立つのが定番だ。とこ
ろが『イルマーレ』では、むしろ未来に生きる側の方が情報量が少ないのが面白
い。
2006年に暮らす女(サンドラ・ブロック)と2004年に暮らす男(キア
ヌ・リーブス)がいくら文通によって心を通わせたからといって、2004年の
サンドラはそのことをまるで知らないわけだから、キアヌがヘタに近づけば、相
手に変質者扱いされかねない。男はそれを踏まえて、「愛する他人」と素知らぬ
顔で(そう、すべてを知る神の立場で)接することになる。このもどかしさがた
まらなく切ない。
女の方も「どこそこに行けば2年前の私に会えるわよ」ということは伝えられ
ても、今の自分に会いに来てほしいと思うなら、男に「明日どこそこで待ってい
るから、あなたは2年と1日待ってそこに来て」という頼み方をするしかない。
男が2年間忠誠を尽くしてくれるかどうか、この恋が(男にとっての)2年後ま
で続いているかどうかは、ただ信じる意外に道はないわけだ。
2004年に生きる男にとっての今後の2年間というのは、2006年に生き
る女にとっては過去の出来事である。しかし同時に、文通によってそれを知るに
は2008年までかかってしまう未来の出来事でもある。神ならぬ身の女には、
それを事前に知り得ない。女の視点に立つ観客も、また同様。
この過去と未来の奇妙な重複とねじれがオリジナル版脚本の肝であり、そこか
ら生じる「未来人の不可知性」とでも言うべきものが、本作のストーリー展開に
絶妙のひねりを加えている。
それを思えば、2年という時間差は絶妙の設定だと言えるかもしれない。信じ
て待てないほど長い歳月ではないが、さりとて必ず愛が続くと確信できるほど短
い歳月ではありませんからね。
キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックという主演コンビは、韓国版より年齢
が高め。そのためしっとりと落ち着いた大人のラブ・ファンタジーに仕上がって
いる。韓国版ではチョン・ジヒョンの持ち味を生かしてか、ヒロインがいささか
身勝手なキャラクターになっていたが、リメイク版ではそこを回避したために、
男が女に会いに行く理由にも、より一層の説得力が出た。
オリジナル版の独創性には最大限の敬意を払うが、1本選べと言われたら私は
リメイク版を推す。まあ、そうでなけりゃ、リメイクする意味はないわけだが。
幸せのポートレート THE FAMILY STONE
(2005年、米、字幕:松浦美奈)
7月に地味に単館公開された作品を、9月になってから取り上げるのもなんな
のだが、時間がたつに連れて、この作品の作り方の面白さが気になりだしてきた。
言っておくが、この作品が面白いのではない。この作品の作り方が面白いのであ
る。
本作を見に劇場に足を運んだ方々は、おそらく全員が「サラ・ジェシカ・パー
カーの映画」を見るつもりで出かけたはずだ。テレビシリーズ『セックス・アン
ド・ザ・シティ』で一大ブームを巻き起こしたサラが、主演女優として映画界に
凱旋帰還・・・するのだろうと。
ところがオープニング・クレジットの段階から、「なんだかおかしいぞ」とい
う違和感が入道雲のように湧いてくる。なぜってトップにクレジットされている
のが、出演していることさえ知らなかったクレア・デーンズ。次がダイアン・キ
ートンで・・・と続き、ヒロインのはずのサラの名前は5〜6番目にようやくク
レジットされるのだ。
冒頭のシーンからサラが出突っ張りで主役を張っているのを見ても、胸の違和
感は収まらない。だってあの演技、あの演出、あのキャラ設定は、観客が彼女に
好意を感じるよう計算されたものではまったくないからだ。つまりサラは、出演
シーンの量から言えば明らかに主役であるにもかかわらず、質的には助演女優と
して扱われているのである。
サラの役柄は、フィアンセの家に招かれて、新しい家族に気に入られようと奮
闘するヒロインだ。その彼女に感情移入を促さなかったら、いったいこの作品の
製作意義はどこにあるのか?
そんな疑問が解けたのは、開始から30分ほどが過ぎて(つまり定石なら「重
要な脇役」が登場する頃合いに)、サラの妹役のクレア・デーンズが登場した時
だった。もう、一目瞭然。主役として描かれているのは彼女の方なのだ。出番の
量は、助演のそれであるにもかかわらず。
どこのシナリオ学校でも「主演と助演は明確に書き分けろ」と教えるはず。ハ
リウッドの企画検討会議だって、主演が主演らしく、助演が助演らしく書かれて
いないシナリオは、普通は採用されないだろう。その意味で本作の主演と助演の
ねじれ具合は興味深い。
と、同時に、アメリカにおける映画とテレビの格の違いを非常に痛感させられ
る。これは映画俳優とテレビタレントの間の垣根がないに等しい日本にいると、
なかなか実感しづらいことだ。
サラがテレビで一大ブームを巻き起こしたといっても、ハリウッドに戻ればこ
んなもの。世界中で大ヒットした『フ・レ・ン・ズ』の6人組も、大作映画の単
独主役というオファーとは今のところ無縁だ。『24』で好評を博したキーファ
ー・サザーランドも最近、『ザ・センチネル 陰謀の星条旗』で映画に戻ったが、
扱いとしてはマイケル・ダグラスにつぐ準主役。高視聴率を得たテレビドラマが、
同じキャストで次々と映画化される日本とは、ずいぶんと状況が違う。
日本と違うと言えば、ストーリーの作り方もそう。この作品、ストーリーの骨
子は、いわゆる「ボタンの掛け違い」ドラマである。大家族でのドタバタ、ケン
カ、和解の果てに、サラのフィアンセ(ダーモット・マローニー)はクレアと意
気投合し、サラ自身はフィアンセの弟(ルーク・ウィルソン)の方が、自分には
合っていることに気づく。
一方、日本映画の『海猫』では、佐藤浩市と結婚した伊東美咲が、義弟の仲村
トオルと引かれ合う。私なんぞはその辺、あっさりしているから、「掛け違った
ボタンは気楽に掛け替えりゃいいじゃないか」と思うのだが、おそらく日本人の
総体としての国民性はそれを許さないのだろう。
『幸せのポートレート』がハッピーエンドで終わるのに対し、『海猫』は悲劇。
私は恋愛の面でも、「再チャレンジできる社会」が好きだけどな。
X−MEN ファイナルディシジョン X-MEN THE LAST STAND
(2006年、米、字幕:林完治)
『エイリアン2』のファンは、デビッド・フィンチャーの『エイリアン3』が公
開された時、怒りにも似た失望を覚えたはずだ。
『2』で活躍させた愛すべきキャラクターのニュートとヒックスを、いきなり事
故で死んだことにしてしまうのである。初めから彼らに「戦力外扱い」を通告し
たわけだ。そんなことなら舞台となる年代を変えて、ニュートとヒックスにはま
ったく触れないでいてくれた方がまだ良かった。
『X−MEN ファイナルディシジョン』の作り手も、『エイリアン3』とまった
く同じ愚を犯している。この種の作品の勘所は、特殊な能力を持ったキャラをい
かに暴れさせるかだ。ところが暴れないんだな、これが。
原因は「自らも制御できない力に苦しむジーン・グレイ」「常人に戻れる薬の
登場に揺れるミュータントの心情」という2つのテーマを過度に重視し、それに
縛られたこと。別の映画として作れば、それはそれで掘り下げるべきテーマにな
ったとは思うが、『X−MEN』のファンが見たいのは、そういう映画じゃない
でしょ。
この判断ミスのおかげで、リーダーのサイクロップスと指導者のエグゼビアは
まるで端役のように死に、ローグはほとんど戦闘シーンに参加しなかった。ウル
バリンの最大の見せ場は、実戦ではなく冒頭の訓練シーンというチグハグさ。ビ
ースト、コロッサス、ジャガーノートといった(原作ではお馴染みの)新キャラ
を登場させながら、彼らのパワーも映画の面白さにつなげることができていない。
結局のところ、かろうじてファンの期待に応えたのはストームのみだったと言え
そうだ。
アニメ版『X−MEN』の翻訳に携わった者として、この作品にはそれ相応の
思い入れがあるだけに、こうした形でシリーズが幕を下ろすのをとても残念に思
う。
ユナイテッド93 UNITED 93
(2006年、米、字幕:戸田奈津子)
9.11テロでワールドトレードセンターが標的になったのは決して偶然では
なかったのだと、本作を見て、改めてそう思った。
9.11テロには最初からどこか腑に落ちないところがあった。大量殺戮を目
論んだにしては、サラリーマンが出勤途上の早朝のオフィスビルを選んでいる。
都市機能を混乱させることが目的ならテニスの全米オープン期間中に敢行した方
が効果的なのに、わざわざ大会終了直後を選んでいる。
数千人が亡くなっているのにこういう言い方をするのは不謹慎だけど、どうも
犯人たちの真の狙いは犠牲者数を最大化することではなく、一種のPR効果にあ
ったように思えてならない。
標的の選択に当たってもそのポリシーは貫かれている。ニューロークのような
メディアの集積地でツインタワーを狙えば、1発目で間違いなく各局のテレビカ
メラが殺到する。そこに2発目を見舞えば、何らの宣伝費をかけずとも、世界中
に自分たちの行為を衛星中継するとともに、「アメリカ人を震え上がらせる」こ
とができるのだ。エンパイアステートビルや自由の女神を単発で攻撃したのでは
こうはいかない。
『ユナイテッド93』とは、あの日、ハイジャックされた4機の旅客機のうち、
唯一、攻撃目標に到達することなく墜落した飛行機の便名だ。監督・脚本のポー
ル・グリーングラスは、遺族や関係者への綿密な取材に基づき、機内や関係する
管制センターでその時、何が起きていたのかを、迫真のドキュメンタリータッチ
で描き出す。登場する乗員乗客や主要な管制官は、架空の人物ではなく、すべて
実在の人物がモデルになっているという。
同便の乗員乗客やハイジャック犯は墜落時に全員死亡しているから、もとより
機内の様子を正確に知る道はない。だがグリーングラスが取材を下に再構築した
事実は、私にはちょっと意外なものだった。
というのも、断片的な報道から、私は乗客たちが愛国心や自己犠牲の精神に駆
られて「我が身を犠牲に」したものと思っていたからだ。自分の乗った飛行機が
ハイジャックされた。近親者に電話すると、別のハイジャック機がツインタワー
や国務省に突っ込んだと言っている。自分の飛行機もどこかアメリカの中枢に突
っ込むに違いない。そんなことはさせられないから、その前に我が身もろとも機
体を墜落させてしまおう・・・。
そうではなかった。乗客たちは犯人を制圧し、飛び続けるつもりだったのだ。
実際、乗客の中には飛行機の操縦ができる者もいて、「我々が犯人を操縦室から
追い出すから、君は操縦を頼む」といった相談もできていたようだ。つまり彼ら
はお国のために死のうとしたわけではなく、生きるためにできる限りのことをし
たのである。そのことにまず安堵した。
出演した役者に有名スターは1人もいない。エンドクレジットを見ると、管制
官の役には相当数の「as himself」が含まれている。要は事件に立ち会った本職
の管制官が本人の役で出演しているわけだ(それにしては皆さん、演技がお上手
だ)。
当然ながら、「自由の国アメリカを守るためなら、この命は惜しくない!」な
んてご大層な愛国演説をするキャラクターは出てこない。ハリソン・フォードや
ケビン・コスナーが主演するような映画とは違い、その手の感動シーンは一切、
排除され、客観描写が貫かれている。
44人の乗員乗客は極限状況に混乱し、一致団結もしていなかった。だが「こ
れでは死を待つだけだ」と言い出す者がいて、それに呼応する者がいた(呼応し
なかった者もいた)。その命ギリギリの行動を美化も批判もせずに追った映像の
畳みかけに、心が激しく揺さぶられる。
実は見終わった直後からずっと考えているのだが、鑑賞中にグラグラと心の底
から湧いてきたその感情の正体がわからない。一般的な映画鑑賞に伴う感動とは
どこか異質のものなのだ。かろうじて言えるのは、技巧を排したむき出しの映像
表現が、圧倒的な迫力をもって迫ってきたということか。
イギリス人のグリーングラスは宗教イデオロギーに関しても中立の立場を取り、
成功している。これは「宗教テロの犠牲者」の映画ではない。「アフガン空爆の
先駆けとしてイスラム教徒に反撃した戦士たち」の映画でもない。むしろこれは
「生命の危機に直面し、懸命に生きる道を探った市民」の、運命と選択を描いた
映画なのである。
ステイ STAY
(2005年、米、字幕:栗原とみ子)
「エンディングの秘密を明かさないでください」
・・・こんな注文付きのプレス試写を、たまたまこの春、2本続けて鑑賞した。
リュック・ベッソンの『アンジェラ』とマーク・フォースターの『ステイ』であ
る。
この種の「お知らせ」では、M・ナイト・シャマランの『シックス・センス』
の公開時に、本編に先立って挿入されたものがよく知られている。主演のブルー
ス・ウィリスのコメントによれば、あれは日本公開時のオリジナルだったそうだ
が、宣伝戦略としても大当たりしたのはご承知の通り。『シックス・センス』自
体、まさにエンディングの謎解きに向けて数多くの伏線を積み重ねていくタイプ
の傑作だっただけに、「エンディングの秘密を明かさないでください」という注
文は、極めて実質的な意味を持っていた。
以来、この種の宣伝手法をとる作品は急増したが、その大半は単なるコケおど
しに終わっている。エンディングの秘密が知られたってどうということのない作
品あり、そもそもエンディングの秘密など存在しない作品すらあり。「秘密を明
かさないでください」という言葉が、狡猾または無策な配給会社によって、便利
な客寄せの文句として使われるケースが後を絶たない。
シャマランのその後の作品にしたところで、毎度のように「エンディングの秘
密」を売りにしている割には、『シックス・センス』を超えるものは出ないもん
なあ。『ヴィレッジ』に至っては「秘密」と称されるものがあまりにチンケで、
恥ずかしながら私は作品紹介上のミスかと思ってしまったほどだ。
そういう意味では『アンジェラ』と『ステイ』も誇大広告。前者は配給会社が
どの部分を「秘密」と認識しているのかがよくわからないし、後者はストーリー
の整合性をはなから持たせようとしていない作品なので、最後の「秘密」が明か
されても『シックス・センス』ほどには途中の謎がきれいに解明されないんだよ
ね。そうなると当然、それによるカタルシスも薄まるわけだ。
「現実」と「特定の登場人物の幻想」がない交ぜになったような作品は少なくな
いけれど、(少なくとも私の好みからすれば)最後には現実と幻想をきっちり区
画してほしい。ああ、あのシーンは現実のように見えたけど、**の幻想だった
のね・・・という具合に納得させてほしい。それが映画の論理であり、観客に対
するフェアなサービスであり、映画製作のルールというものだろう。言ってみれ
ばヴァン・ダインの提唱した推理小説の20則のようなものだ。
従って、たとえば『アメリカン・サイコ』のように、主人公の幻想を描いたは
ずのシーンで、第三者の視点から見た客観描写が入っていたりする作品はどうに
もいただけない。そして『ステイ』もまた、これと同種の愚を延々と犯している
のである。ああいう結末にするのであれば、あくまでも登場人物Aの主観を貫く
べきであって、BやCの視点を差し挟んではいかんのですよ。あれではなぜBの
身にああいうことが起きたのか、なぜCがああいうものを見たのか、さっぱり得
心がいかないではないか。ルール違反もはなはだしいぞ。
だがルール違反だから面白くないかというと、それはまた別の問題なんだな、
困ったことに。アガサ・クリスティの傑作がことごとくヴァン・ダインの20則
に違反したものであったのと同様、『ステイ』の独特の映像世界も観客を強く引
きつける。
冒頭からライアン・ゴスリングの顔のアップがいつの間にかにユアン・マクレ
ガーのそれに入れ替わるというトリックで観客を幻惑。登場人物たちは通常の場
面転換の論理を無視して、A地点からB地点へと唐突に飛び移る。フォースター
監督自身、「物語の核にそもそも論理的な説明が存在しない」「物語を伝えるル
ールをある程度壊すことにした」と語っているくらいだから、いわば“確信犯的
何でもあり”の世界なのだ。
現実にはあり得ない場面転換を、映像上は破綻なくつなげてしまうCGの発達
なくして、この作品は生まれ得なかっただろう。そして多少なりとも脚本の知識
を持つ方なら、デビッド・ベニオフの手になるこの作品の脚本が、いったいどの
ように書かれていたのかと大いに気になるところだろう。だいたいこの理解困難
な脚本を見せられて、よくぞ映画会社のお偉方がゴーサインを出したものだ。
繰り返されるイメージ、不自然な色彩、現実味のないセット、神経症的なキャ
ラクター。すべてが不気味な異物となって、見る者の潜在意識をかき回す。その
漂泊感・放浪感を楽しめる方なら、この作品をポジティブに評価するのではない
か。エンディングに降臨する救いが、いかに弱々しいものであっても。
美しい人 9 LIVES
(2005年、米、字幕:不明)
過ぎた日の出来事って、どうして実際よりも美しく感じられるのだろう。学生
時代の級友は、なぜだかとても好漢ぞろいに感じられ、昔のアルバムをめくれば、
心は不思議に温かな思いで満たされる。
子供の頃にイジメられた恨みを大人になってから晴らしちゃったりする人もま
れには出るけれど、人間、普通は嫌なことをいつまでも思えていたくはないから、
ネガティブな思い出は無意識に脳から排出する。一方、ポジティブな思い出は長
めに残留するから、相対的に過去は美化されていくのだろう。たまにクラス会な
どに出かけていくと、学生時代を正確に思い出し、記憶との落差に「あれっ?」
と思うこともあるのだが・・・。
『美しい人』は『彼女を見ればわかること』『彼女の恋からわかること』のロド
リゴ・ガルシアが、三たび監督・脚本を手がけたオムニバス作品だ。前二作と同
様、本作でも女性を主人公に据え、短いエピソードの中に鮮やかな人生の機微を
切り取っている。
9つのエピソードを彩るヒロインに、苦労知らずのお嬢様や、自信に満ちたキ
ャリアウーマンは1人もいない。娘と引き離されて服役生活を送る母親、障害を
持つ夫の介護に疲れた母と娘、乳ガンの手術を前にいらだつ妻といった具合に、
年齢や環境は様々だが、それぞれに大きな悩みや傷を抱えた女性たちだ。
私にとってとりわけ印象深かったのは、過去に引きずられる女たちである。妊
娠中のダイアナ(ロビン・ライト・ペン)は、夜のスーパーマーケットで偶然、
昔の恋人ダミアン(ジェイソン・アイザックス)と再会する。それぞれに家庭を
持つ2人は、当たり障りのない近況報告を交わして別れるが、男は再び追いすが
り、「今でも君が一番好きだ」と告白する。ダイアナは心を乱しつつも、毅然と
してその場を去る・・・と、ここまでならよくある話で、わざわざご紹介するま
でのことはない。ロドリゴ・ガルシアが非凡なのはその後だ。
しばらくは平静に買い物を続けていたダイアナは、いつしかダミアンと立ち話
をした場所に舞い戻る。相手の姿がないと見るや、大きなお腹を抱えて店内を延
々と捜索。仕舞いにはカートを通路に放置して店外に飛び出すと、祈るような視
線を左右に走らせる・・・。この短いシーンが加わることで、ダイアナの失った
ものが、いや、失ったことを気づかずにいたものが、どれほど大きかったかが的
確に伝わってくる。
プレス資料には「しかし彼女の目線は、自らの身体に宿る、確かに鼓動してい
る、愛を見出す」なんてお為ごかしが書かれているが、賭けてもいい、店を飛び
出したあの瞬間、ダイアナの心には胎児の入り込む余地など毛ほどもなかった
(あるいは、本当にプレスに書かれたことを伝えたかったのだとすれば、ガルシ
アの演出ミスだと言わざるを得ない)。「2番目に好きな男」と暮らし、その男
の子供を育てるダイアナの前途は、けして平坦なものとはならないだろう。
ローナ(エイミー・ブレネマン)は逆に、別れた夫アンドリュー(ウィリアム
・フィクトナー)が自分を忘れてくれないことに当惑している。現在の妻に自殺
されたアンドリューは、その葬式に訪れたローナを別室に誘い、あろうことか体
を求める。「奥さんのお葬式でしょう?」とたしなめるローナに、「君が去った
から彼女と結婚したんだ」と答えるアンドリュー。人目を避けての背徳の交情。
聾唖者のアンドリューがあたりかまわず漏らすうめきが、ローナに感情移入をし
た観客にはあまりに気まずい。
美しい思い出を持つのはいいことだ。だが思い出が美しいのは、冒頭に述べた
心理的浄化作用の帰結であることを忘れてはなるまい。ダイアナにしろ、アンド
リューにしろ、たしかに元彼や元妻との間には楽しい出来事もあっただろうが、
それをまとめて引っ繰り返すほどの破綻があって、結果的に別離を選択したはず
だ。竹内まりあは名曲『駅』の中で、電車内で昔の恋人を見かけたヒロインに
「懐かしさの1歩手前で、こみ上げる苦い思い出に、言葉がとても見つからない
わ」と歌わせているが、それがあるべき感情というものではないだろうか。
だが昔の恋人が現に存在する以上、ダイアナもアンドリューも、時に苦い記憶
をよみがえらせて、過去に決別することもできるだろう。厄介なのは、愛情の対
象がすでにこの世にいないケースだ。『めぞん一刻』の五代くんが永遠に惣一郎
さんに勝てない理由はそこにある。
本作のエピローグとなるエピソードでは、グレン・クローズとダコタ・ファニ
ングが、年齢の離れた親子のはかない情愛を見せる。ストーリーはあえて書くま
い。ただ2人の交わすさりげない会話の1つ1つが、エンディングの深い悲しみ
に収れんするので、うかつに聞き逃さないことだ。
ジェームズ・ディーンが早世していなかったら、今頃は鳴かず飛ばずの老優に
(いや、ヘタをすれば犯罪者に)なっていたかもしれないとは、よく言われると
ころ。その意味で、現在という比較対象を持たない過去は、ほとんどアンタッチ
ャブルな存在となって、ある時には人の心に火をともし、またある時には人を深
い悲しみの淵に突き落とす。その2つは「よき思い出」というコインの両面だけ
に、心の浄化作用で洗い流すこともままならない。幼い娘の胸に顔を埋め、「疲
れた」とつぶやくグレン・クローズの言葉が、鋭く胸に迫る。
戦場のアリア JOYUEX NOEL
(2005年、仏=独=英、字幕:松浦美奈)
第1次大戦下の1914年、ノーマンズランドを挟んで対峙するフランス・ス
コットランド連合軍と、ドイツ軍とが、一夜限りのクリスマス休戦を結び、温か
な交流を行った・・・。『戦場のアリア』はそんな実話を元に作られた感動作だ。
その休戦がどれだけ奇跡的なものであるかを示すため、序盤はこれでもかとい
うくらい、凄惨な戦闘行為が描かれる。爆音、砂塵、銃弾、悲鳴、血、死体。
湾岸戦争を題材にした映画『ジャーヘッド』で描かれたのは、姿の見えない距
離にいる敵との神経戦だったが、この時代にはまだ、目に見える距離に敵がいた。
つまりは自分を殺そうとする相手の顔が見え、自分が殺した相手の悲鳴も聞きと
れたのだ。なまなかなことで休戦など結べるはずがない。
そんな彼らを結びつけたのは、音楽だ。クリスマスイブの晩、スコットランド
兵がバグパイプで美しいキャロルを奏でる。負けじと1人のドイツ兵(本業はオ
ペラ歌手)が、ハーモニカの演奏で自慢のノドを披露する。1人のスコットラン
ド兵(実は従軍司祭)がその伴奏に参加。次に別の曲を吹き始めると、ドイツ兵
が歌で応じ、ノーマンズランドに足を踏み出す・・・。
一方だけが手を差し出しても何も生まれない。だが双方から差し出せば、手を
握り合うことができる。そんな双方向的なプロットの進ませ方をしているから、
荒唐無稽なエピソードを描いた脚本にも説得力が出る。
これをきっかけに塹壕を出た英、仏、独の三軍は、互いの酒やタバコを持ち寄
り、言葉も通じない敵兵とささやかな交流を持つ。やがてスコットランドの従軍
司祭がクリスマスの礼拝を執り行うことになるのだが、英語で祈ってもドイツ兵
やフランス兵にはわからないだろうと思っていると・・・。
司祭はラテン語で祈りの言葉を唱えるのだ。そして3カ国の兵たちも皆、ラテ
ン語で唱和するのだ。国籍は違っても、彼らは共通の文化基盤の上にいる。こう
いうシーンを見ると、EUがイスラム国、トルコの加盟を渋る理由が(ことの善
し悪しは別にして)なんとなくわかりますね。
だがそんな私の感想がけっこう皮相なものであったことは、すぐに明らかにな
る。というのもダニエル・ブリュール演じるドイツ軍の将校が、こう言って司祭
をねぎらうのだ。「素晴らしい礼拝でした。もっともユダヤ人の私には、クリス
マスは無意味なのですが」
他人の宗教を尊重する彼の態度に打たれつつ、ナチスが台頭する20年後に彼
がどんな運命をたどるのかと思わずにいられないシーンである。
ちなみに3カ国の兵士たちは、夜が明けてからサッカーに興じている。「あの
ドイツ兵はバイエルン・ミュンヘンにいた」なんてセリフも。ラテン語、キリス
ト教、サッカーは、ヨーロッパの三大共通文化基盤ってことですかね。
実のところ、本作を見る前には、3カ国の兵士の交流シーンがクライマックス
になるのだとばかり思っていた。だが、それが実現したのは上映時間の半ば。監
督のクリスチャン・カリヨンが本当に描きたかったのは、実はその後の出来事だ
ったのだ。
1度、友情を取り結んでしまった兵士たちは、休戦が切れてからも、これまで
のようには殺し合うことができない。それどころか味方の砲兵が相手の塹壕を砲
撃するのがわかると、互いに塹壕を貸し合う始末。激しい砲撃の音と振動に、敵
兵はもちろん、味方の兵士も身を縮める。戦争の非人間性を象徴して秀逸なシー
ンである。
だが、この戦場での友情は、すぐに司令部の知るところとなる。兵士たちの手
紙は検閲され、ある者は軍紀違反を問われ、またある者はさらなる激戦地へと懲
罰的に送られる。一方、兄を殺されたスコットランド兵は、一夜の交流にも心の
結氷を解くことなく、ドイツ兵を憎み続けている。冒頭にこの映画は「感動作」
であると書いたが、実はかなり苦いものも含んだ作品なのだ。
最初にハーモニカでオペラ歌手の伴奏をしたドイツ兵は、交流に腹を立てた上
官に、大事なハーモニカを壊される。彼がそれにめげることなくハミングをし始
めたのは、希望を感じさせるエピソードだ。ただし繰り返すが、これは1914
年の物語。第1次世界大戦は、あの夜の交流などなかったかのように1918年
まで続く・・・。
県庁の星
(2006年、東宝)
ニンジンにカビが生えていた。買ったのは3日前。ジャガイモ2個、タマネギ
2個と共に詰め合わされ、「カレー用」として売られていたニンジンである。結
果、翌日作ったクリームシチューは、ニンジン抜きの、いささか彩りに欠けるも
のとなった(まったくの余談だが、この冬、私は自分がクリームシチューをとて
も上手に作れることを発見した。食べに来ます?)。
事態に気づいたのは、偶然にも『県庁の星』を見て帰った晩のこと。劇中に登
場したスーパーの社員が、古くなったジャガイモをポテトサラダに転用するのを
見た直後だけに、ニンジンの表面に生えた白いフワフワに、冷徹な企業の論理を
見た思いがしたものだ。「カレー用」にパックしたのを買っていくのは、すぐに
それを使う人だけだろうから、古くなったのを突っ込んじゃえということだった
のでしょうね。まったく!
本作で織田裕二の演じる主人公は、いわゆるエリート、キャリア組。出世への
野心も満々だし、仕事もなかなかよくできる。時折テレビドラマに登場する覇気
のない公務員像とは明らかに違ったタイプのキャラクターだ。
だが「仕事ができる」というのは、あくまで本業に関しての話。名ばかりの民
間交流事業で場末のスーパーマーケットに出向させられた主人公は、慣れない客
商売に戸惑い、経験則に頼る従業員にあきれ、やる気を見せては仲間の足を引っ
張り続ける。皮肉な話ではあるけれど、無能な人間でもできる仕事をやらせれば、
エリートより「無能」な人間の方がよほど「有能」なのである。
だが、この「陸に上がった魚」は、店に役所の監査が入る後半になると一転、
息を吹き返す。役所の論理は先刻ご承知だし、机上で計画を立てたり、マニュア
ルを作成したりするのはお手の物。このあたりは本作を鑑賞した全国の公務員が、
我が身に置き換えて快哉を叫んだのではないだろうか。要は適材適所が大事とい
うことなんですね(もちろん現実には、そういうことの不得意な公務員だってた
くさんいるし、そういうことに長けたスーパーの従業員さんだって大勢いるはず
なんだけど)。
かつて私が勤務していた区役所でも、「接遇研修」だか、「民間体験」だかと
称して、中堅職員を地域の商店などに派遣し始めたようだ。新人研修ならわから
なくもないが、40代を迎えようとする公務員に巣鴨の商店街で大福を売らせて
何になるのかね? 「民間のコスト意識を知る」とか「区民の生の声を聞く」と
か、もっともらしい大義名分はつけられているのだろうが、真意はイジメとしか
思えない。民間に行って、「公務員は楽でいいですねえ」なんてチクリと言われ
て、ちょっと風当たりの強さを感じてきなさいよというのが、この研修事業の真
の目的なのではあるまいか(まあ、本当にそういうお灸が必要な、アホな公務員
がいるのも事実ではあるのだが)。
県庁ならぬ区役所の星だった私としては、民間の映画人が公務員をどんなふう
に描いているかに興味津々だったのだが、描写は思いの外、フェアだった。公務
員の優れた点と至らない点を共に取り上げ、全面否定も全面肯定もすることなく、
うまくバランスを保っている。
唯一の欠点は(それがクライマックスだったのが惜しまれるのだが)、議会の
特別委員会で、一介の係長たる主人公が爆弾発言をしちゃうこと。県庁ともなれ
ば組織も大きいんだから、係長クラスまで議会に出席しませんよ。百歩譲って議
場に詰めていたとしても、議会の採決が済んだ後でそれを引っ繰り返すような発
言などするはずがない。
では、どうするか。利口な公務員なら、そこに至る前の段階で根回しをするだ
ろう。だって議会に逆らえば、つぶされるのは目に見えているのだから(本当の
話です)。保身を考えるにしても、理想を追求するにしても、あそこで爆弾発言
をするのは得策ではないのである。このあたりは映画の作り手が取材不足だった
のか、それとも一般の観客はどうせそんなことまで気にしないからと強行してし
まったのか・・・。
取材不足といえば、もう1つ。夢をかけていたプロジェクトから外された主人
公が、上司に「このプロジェクトが私なしで進むとでも思っているんですか?!」
と詰め寄るシーンがあった。
映画ではそこでカットがかかり、次のシーンへと移行しているのだが、仮に現
実だったら、上司は即座に「進む」と答えただろう。主人公自身にも、それはわ
かっている。公務員の仕事に、「余人をもって代え難い」仕事など1つもないの
である。そのことの善し悪しはおくとして・・・。
ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女
THE CHRONICLES OF NARNIA:THE LION,THE WITCH AND THE WARDROBE
(2005年、米、字幕:松浦美奈)
これ、面白いわ。
とだけ言っても何の説得力も生じないので、言い方を変えよう。これ、『ロー
ド・オブ・ザ・リング』より面白いわ。
映画の批評をする際に、よく「ストーリーは描けているが、人間が描けていな
い」なんて言い方をすることがあるが、『ロード・オブ・ザ・リング』はそんな
作品の典型だった。そもそも人間が主役ではないし、わずかに登場するローハン
人やゴンドール人にしても、現世とはまったく違う世界観や価値観の下で決断し、
行動しているから、強い感情移入を誘引する存在にはなり得なかった。
それに対して本作は、主人公が紛れもなく人間だ。しかも観客の分身たる4人
の兄弟のキャラクター設定がリアルであるため、単なる異世界でのアドベンチャ
ー・ストーリーには終わっていない。
そのキャラクターを紹介する手際がまた鮮やか。4兄弟がロンドンの生家で空
襲に遭うシーンから、疎開先で肩寄せ合って暮らすシーンへと移る頃には、「責
任感は強いがお山の大将的な長男」「そんな長男に是々非々の態度で接する現実
的な長女」「長男に疑似的なエディプス・コンプレックスを感じて屈折する次
男」「良くも悪くも天真爛漫な次女」という構図が見えてくる。こうしたキャラ
クターは、その後も様々なエピソードやセリフによって、一層強化されていくこ
とになる。
巻き込まれ型アドベンチャーという性格を持つ作品だけに、4兄弟がいかに異
世界(ナルニア国)に巻き込まれるかもポイントだ。そこがうまく描けているな
ら、成功は半ば保証されたようなもの。そして実写作品では初メガホンとなるア
ンドリュー・アダムソン監督と、『ロード・オブ・ザ・リング』を手がけた美術
スタッフは、その難関を実に巧みに突破して見せる。
初めてナルニア国に足を踏み入れた末っ子のルーシーが、フォーンのタムナス
の家に招かれたシーンは必見だ。ほのかな照明に浮かぶ落ち着いた色合いの部屋
と、華美ではないが心安らぐ調度品は、ヨーロッパ人のみならず、日本人の郷愁
をも誘う。そしてまた真意を隠し、ルーシーを横目でうかがいながら笛を吹くタ
ムナスの、得も言われぬ微妙な表情はどうだろう。演じるジェームズ・マカヴォ
イ、うま過ぎる!
だが本作で真に見るべきは、次男のエドマンドが運命に翻弄される姿。監督の
インタビューなどを読むと、原作のエドマンドは「ただの悪い子」キャラだった
ようだが、アダムソンはそのキャラクターを膨らませ、実に印象的なエピソード
の数々を創作した。
エドマンドは全編を通じ、善行と悪行、行為と結果、義務と責任の問題を突き
つけられる。そう、まともな家庭の子供が皆、そうであるように。そして時に人
を裏切り、結果的に自らを傷つける。
たとえば白い魔女の牢獄のシーンでは、エドマンドと親しくなりかけたタムナ
スに、魔女が昂然と言い放つ。「この人間はお菓子ほしさにお前を密告したの
だ」。これはキツいよね。人間、人を裏切ること自体も決して気持ちのいいもの
ではないけど、それを当の相手に知られるのはもっとヘコむ。できれば僕の知ら
ないところで石にされてほしかったというのが、エドマンドの(そして人を裏切
ったことのある私たちみんなの)本音だろう。
それがトラウマとなったエドマンドは、次には目の前で殺されようとするキツ
ネを見かねて、アスランの居場所を魔女に洩らす。個人的な感傷と罪悪感のため
に、多くの善良な者たちの希望を売り渡すのである。それでキツネは救えたか?
救えない。エドマンドには密告者の汚名だけが残る。こうして少年は、人生の不
条理を知るのである。大きな心の傷を代償にして・・・。
エドマンドが「ただの悪い子」になっていないのと同様、他の3兄弟もまた、
いかにも少年文学的な「ただのいい子」には造形されていない。皆、ありがちな
欠点や短所を持った、ありがちな子供である。
だが注目すべきは、彼らが人としての基本線を踏み外してはいないことだ。何
やかやと対立を重ねながらも、4兄弟は根本のところで互いを慈しみ、フェアな
態度を取ろうと努めている。だからこそ彼らは冒険を乗り切り、観客の寵愛を集
めることができた。我が子を虐待する親が頻出している昨今、本作に家族のある
べき姿を見出す必要があるのは、必ずしも子供たちばかりとは言えまい。
ブロークバック・マウンテン BROKEBACK MOUNTAIN
(2005年、米、字幕:松浦美奈)
ありふれた題材を特異な手法で描いた映画がある。そして一方には、特異な題
材を正攻法で描く作品もある。「ブロークバック・マウンテン」は、さしずめ後
者の好例だろう。
台湾出身のアン・リー監督が本作で取り上げたのは、2人のカウボーイの20
年に渡る友情ならぬ、愛情の物語だ。同性愛者への差別やリンチが横行していた
60年代の中西部で運命の出会いをしたイニスとジャック。だが彼らは、道なら
ぬ恋心を胸に秘めつつも、しょせんはなさぬ仲とあきらめて、別々の相手(つま
りは女性)と結婚し、子供さえ設ける。
この物語で興味深いのは、同性愛という特異なテーマを取り上げながら、それ
を少しも特別なものとして扱っていないことだ(「同性愛は取りたてて特異なも
のではない」というご意見もありましょうが、ここは私の価値観に従って書かせ
ていただくということで)。原作小説は未読だが、少なくともこの映画の作り手
は、同性愛を単にあまたある恋愛の一形態と見なしている。しかも、そういう扱
いをするに当たって、まったく何のエクスキューズも加えていない。劇中では同
性愛者への差別を描きながら、観客の中にそうした差別感情の持ち主がいること
は、まったく想定外と言わんばかりの態度なのだ。
実のところ、私は事前の予備知識などから「同性愛映画」を見るつもりで劇場
に赴いた。だが、そこで見たものは「しっとりした恋愛映画」だった。普通の恋
愛映画と違うのは、当事者が2人とも男性であるという点だけだ。
初めての出会いから4年後、ジャック(ジェイク・ギレンホール)と予期せぬ
再会をすることになったイニス(ヒース・レジャー)の、傍目にもわかる高揚感
はどうだろう。20年近い密会の歳月を過ごした後、イニスから次は半年たたな
ければ会えないと告げられた時のジャックのすね方はどうだろう。この作品で描
かれる2人の瑞々しい心の綾は、どちらかを女性に置き換えても、そのまま成立
するものばかりではないか。
繰り返すがアン・リーは、この恋愛劇を、(道ならぬ関係ではあるものの)ご
く普通の人間同士の物語として描いているのである。
仮にイニスとジェイクのどちらかが「ごく普通」ではない男性、たとえば女装
をしたり、女言葉を使ったりするキャラクターとして造形されていたなら、この
作品の印象はまったく違ったものになっていたに違いない。
だが劇中の2人は、むしろ異性愛者の男性と同等以上に男らしい性格だ。外向
的か内向的かの違いはあるが、ジャックもイニスもタフで力仕事をいとわない。
理不尽な相手には黙っちゃいないし、暴力によるトラブルの解決も辞さない、マ
ッチョな心身を持っている。
ジャックとイニスがそれぞれの家族と感謝祭の七面鳥を食べるシーンは印象的
だ。食卓にどっかと座り込み、妻が料理を並べるのを悠然と待つだけという日本
のお父さんとは違い、欧米では家族にローストビーフやローストターキーを切り
分けるのは一家の主の仕事。ジャックは妻の父親に1度はその役目を譲るが、子
育てを巡って舅と口論になった後は、実力でその地位を取り上げる。一方、イニ
スは別れた妻の新たな家庭に招かれるが、その家の主は電動式のナイフで七面鳥
をカットする軟弱男。それがかえってイニスの男らしさを引き立てる。
要するに、ジャックもイニスも「女として男性が好き」なのではなく、間違い
なく「男」なのだ。2人の主人公を特異な人物として描きたくなかったという作
り手の意図が、それらのエピソードから明白に読み取れる。
だが、それが物語を成功に導いていたかというと、私には必ずしもそうは思え
ない。登場人物を特異なものにしないようにとこだわったがために、かえって彼
らの人間関係が特異なものに見えてしまうのだ。早い話、あんな男らしい男性同
士が、(友情ならともかく)恋愛感情を抱き合うとは思えないのですよ、同性愛
の理解できない私には。テントの中で初めて体を交わしたあの夜、なぜああもす
んなりとイニスが男役でジャックが女役という役割分担ができたのか。あれだけ
マッチョな心身を持つ2人なら、まかり間違って肉体関係を結ぶことがあったに
せよ、両者が共に男役をやりたがるのではないか・・・。
イニスとジャックの一方、または両方が特異なオネエ・キャラであったなら、
かえって「こういう人たちなら男同士で愛し合うこともあるかもね」と納得でき
るのだ。場合によっては感情移入だってしてしまうかもしれない。それで「しっ
とりとした恋愛映画」ができるのかと聞かれれば、あえてイエスと答えよう。た
とえキャラクターは特異でも、愛情や人情の機微は人類共通。脚本さえしっかり
していれば、美しい恋愛映画にもなるはずだ。
だがイニスとジャックのようなマッチョな男たちが、久々の再会に胸を躍らせ
たり、嫉妬に身を焦がしたりしているのを見ると、それが「普通」のものとして
描かれているがゆえにかえって、男女の恋愛映画のパロディを見ているかのよう
に感じられてしまうのだ。
本作はアカデミー作品賞の本命と言われながら、土壇場で「クラッシュ」にオ
スカーをさらわれた(監督賞は受賞)。その理由を同性愛に対する偏見だけに求
めるのは、私には少々短絡に思えてならない。
クラッシュ CRASH
(2005年、米、字幕:林完治)
『ミリオンダラー・ベイビー』の製作・脚本で映画ファンをあっと言わせたポー
ル・ハギスの監督デビュー作は、特定の主人公を持たない。十数人に及ぶ登場人
物が、袖すり合い、ぶつかり合い、傷つけ合い、時には和解し合う36時間を描
いたアンサンブル劇だ。主役も張れるサンドラ・ブロックやブレンダン・フレイ
ザーが好感度のあまり高くない登場人物を演じ、テレンス・ハワードやマイケル
・ペーニャといった地味な(あるいはマット・ディロンのような落ち目の)俳優
が、非常に印象的な役柄をこなしているのも興味深い。
人種の坩堝と言われるアメリカでも、ロサンゼルスはとりわけ他民族の混交が
進んでいる。そして9.11テロ以降、人々は見知らぬ他人に対して強い不信感
や恐怖心を持つようになっているのだという。
映画の前半は、そんなアメリカの負の面がこれでもかと描写される。ペルシャ
人の雑貨屋は、度重なる強盗被害に業を煮やして銃を買いに行くものの、イラク
のテロリスト呼ばわりされて憤る。そしてヒスパニック系の鍵屋を逆恨みする。
神経症気味の地方検事夫人は、黒人やヒスパニックを見るたびに犯罪者だと偏見
を抱く。ベテラン警官は裕福な黒人を職務質問したついでにセクハラを働き、若
い警官はそれに対する嫌悪感を露わにする。
ポール・ハギスは巧妙な伏線を張り巡らせ、無関係に見えた登場人物同士の意
外なつながりを明かしたり、1人の人間に共存する多面性を描きだしたりする。
だが何よりうまいのは、そうした仕掛けを、ことごとく奇跡のような結末につな
げていることだ。ハギスのタイプライターが生み出したその奇跡によって、ある
者は命を拾い、ある者は殺人犯になることを免れる。セクハラ警官や車泥棒は、
思いがけない一面を見せる。
そうしたエピソードの1つ1つが、見る者の心にポジティブな感情を植え付け
ずにはおかない。9.11があろうと、あるまいと、人は信頼するに足る。世界
は希望をつなぐに足る。人生は生きるに足る。私たちは、いつしかそう確信して
劇場の席を立つ。登場人物の中で唯一、道を踏み外してしまった若い警官の行く
末を、秘かに案じながら。
ヒストリー・オブ・バイオレンス A HISTORY OF VIOLENCE
(2005年、米、字幕:風間綾平)
悲しい物語である。
ギャングの世界から足を洗い、田舎町で食堂を経営する1人の男。今ではコミ
ュニティにとけ込み、愛する妻子と共に静かな生活を送っている。ところが店に
入った強盗を倒したことから一躍、マスコミの注目を浴び、昔の仲間に所在が知
れてしまう・・・。
ギャングの挑発に耐えに耐えた主人公が、妻子の安全を脅かされて、ついに昔
取った杵柄を握り・・・という筋立ては、まるで高倉健主演の東映ヤクザ映画だ。
基本的には悪役顔のヴィゴ・モーテンセンが主人公のトムを演じるだけに、説得
力も十分。かたくなに暴力を拒否する彼が、追いつめられて突然、殺人者の本性
を激発させるシーンには、息をのむほどの迫力がある。ギャングのボスを演じた
ウィリアム・ハートと、その片腕を演じたエド・ハリスの悪党ぶりも、まことに
板に付いていてうまい。
原作は同名のグラフィック・ノベルで、同じシリーズからは『ロード・トゥ・
パーディション』の原作も出ているという。道理で本作を見ていると、『ロード
・トゥ・パーディション』のイメージがだぶる。あちらは、愛する息子を守ろう
として、自分の属するギャング団と対決する父親が主人公だった。
見ていてつらいのは、どちらの作品にも、主人公にとっての“落としどころ”
が存在しないことだ。事態を終わらせるには、自分が死ぬか、相手を皆殺しにす
るしかない。望まない殺しを続けなければならない主人公の境遇にも同情するが、
彼がそれに長けているという事実が、さらにその悲哀に輪をかけている。
ただし本作と『ロード・トゥ・パーディション』には決定的な違いもある。ど
ちらの作品にも、主人公の息子がギャングに銃を向けるシーンがあるのだが、ト
ム・ハンクスの演じたあちらの主人公は、決して息子に銃を撃たせなかった。息
子を自分のような人殺しにしないよう、命を捨てて守り抜いたのだ。
それに対して本作の作り手は、息子の方に父親の命を守らせてしまう。すなわ
ち息子にギャングを撃たせ、(正当防衛とはいえ)人殺しを経験させてしまうの
だ。その点で、鑑賞後の後味は本作の方が苦い。
冒頭に述べた通り、本作は悲しい物語である。
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