丸山あつし読本

紅い花の幻想

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 ヤマメを追ってつり人は山の奥へ奥へともぐり込む。その谷底の村に迷い込んだつり客を相手に商う一軒の茶屋があった。

 キクチサヨコは老父と二人暮しで、父が中気で倒れ、一人で店番をしていた。十五歳になっていたけれど、暮しのために学校へ通うことが出来ず、村の小学校の六年生に在籍したまゝだ。同じ谷に住む同級のマサジはクラス一番の悪ガキで落第生のサヨコをいじめてばかりいたが、学校の教材などをサヨコに届けたりもしていた。マサジだけが知っているヤマメの穴場にはいつも紅い花が咲いていて、淀んだ水面ではその花を映し、水を染めていた。イワナが時折頭をを出して、水面に浮ぶ花びらを噛んだりしていた。

 サヨコが激しい腹痛にみまわれ、ころげるように谷へ下りて行き、川の中に下腹部を浸すと、水面は紅い花びらで染った。谷間の岩蔭から覗いていたマサジは、サヨコの流す真紅の花びらに、驚きと、初めて覚える新たな感情を得た。

 サヨコは腹痛をこらえながら岸辺に横たわっていたが、マサジが怖る怖る近ずいて来るのに気付くと、「寄るな!」と激しく叱った。 マサジがサヨコを背負って山を下りたのは、そんなことのあった年の暮だ。 

町に下た二人はパチンコ屋へ住込みで入り、マサジは使い走りの雑用に追われ、サヨコは台所の手伝い等をしていたが、一日働くとくたくたとなり、夜は疲れてただ寝むりこむだけの日が続いた。

 或る夜、マサジが目を覚すとサヨコの姿が無い。耳を澄ますと、すすり泣くサヨコの声が聴こえた。主人の部屋に明りが灯っていて、その寝床にサヨコがいた。サヨコの肉の聞から紅い花がこぼれていた。マサジが駈け寄ろうとすると、主人に足蹴にされ、そのまま店を追い出されてしまった。

 翌日、サヨコは店を抜け出し、停車場まで一目散に走り、最初に来た列車に飛び乗った。隣りに乗り合せた男がサヨコに弁当や菓子など買い与え、大きな街まで連れて行き、サヨコは売られて娼婦になった。 

 マサジは街を流れ渡り、三年の月日が立ち、少しは名の通るチンピラになった。部下を数人引き連れて、肩をゆらしながら街を闊歩し、カモを見つけてはユスリタカリに明け暮れた。心の片隅ではいつもサヨコのことが気がかりで、花屋のウィンドウに紅い花を見つけると胸が痛んだ。 

 サヨコの所へ通う客にテツがいた。テツはチチブの豪農の倅だったが、小説家を志して街へ出て来たのだった。気性の激しい人のようだったが表面は穏やかで、サヨコにも優しかった。いつも自分自身に反抗しているようで、沈黙しているのが恐ろしいのか、何やかやと話をしては身を守る風だった。誰れかと外で争いのあった日などは、隙間なく身をうずめるようにして強くサヨコを愛した。 

 ミキの場合は、自ら愛するよりも愛技を受けることを好み、ああしろこうしろと注文が多い。快楽の追求に熱心だったが、士族の末裔だと云う彼は、秘かに爆弾を抱て自決を夢みる青年でもあった。ミキは虚構においてのみ多弁だった。一時の快楽が去るとさめざめと泣いた。ミキはいわゆる愛など認めはしなかったけれど、恋歌などを創ってはサヨコに読んで聞かせていた。 

 ブンさんが来る時は必ず映画を観た帰えりで、コマゴマとストーリーを説明してくれた。登場する若い女優がお気に入りで、身をよじりながらその可憐さを示していた。ブンさんは映画館を造ることが夢で、頭の中に絵描れているその精緻な設計図を語るのが常だった。話しが興じて来ると、自らの夢の棲家で恍惚となり、サヨコの体にふれることなく帰えって行った 

 その点読書家のケンは肉体の存在を試めそうとでもするのか、徹底的に肉の交りを要求して来た。必ず栄養剤や精力剤などを持参して、「今日は三本勝負に挑戦だ」などと云いながら実行出来た試はなかった。サヨコはその無邪気さを可愛いいと思いながらも、疲れている時などはつらく思った。そんな時は、「ケンつて素敵よ」と云うと、彼は有頂天になって帰えって行った。 

 そんな明け暮れが続いて、或る日のこと。偶然、マサジがサヨコの部屋へ上った。マサジもサヨコも驚いて、しばらくはたゞ見つめ合うばかりだった。

「どうしてここへ?」
「たゞ……」
「たゞ?」
「入口の大きな花籠に……」
「花籠?」
「紅い花が沢山活けてあったものだから……」
「だから……?」
「うん!」
「そう……」
 

 マサジが「待ってろ!」と言って下に駆け下りて行き、戻ってくるなり「行こう!」と、サヨコを連れ出した。マサジはサヨコを買い戻したのだ。

マサジはサヨコと一緒に住む部屋を探した。とりあえず生活が出来るだけの家事用具と布団を買った。これにしようか、あれにしようかとはしゃいでいるのはマサジの方だ。サヨコは開放感に伴って不安を感じた.急変する身辺の展開にとまどった。

「山へ帰りたい」ふと、忘れていた想いが募ってサヨコが洩らす。「なぜ」
「分からない」
「出てきたんだから、前に進むしかない」
「前って、どこ」
「分からないけど先へ向かうしかないよ」
「先って、どこなの」
「それが分かってりゃ苦労しないよ」
「マサジは苦労してるの、辛いの」
「へへ、そんなことねえさ」
 

 マサジとサヨコの新しい生活が始まった。狭くて隙間だらけの部屋だけどマサジの優しさが部屋を暖めた。マサジはサヨコに献身的に愛を注いでいた。それでもサヨコの体の芯は寒かった。二人の間には、まだ肉体の交わりはなかった。双方でそれを強く求めながら実行出来ずにいた。 

それから早々の頃、マサジが恐喝事件の犯人として連行され、刑務所に入ってしまった。

マサジの子分の紹介で特殊浴場に出ることになったが、稼いでも稼いでも、マサジが出所するのに必要だからと言って、その男が金を巻き揚げて行った。騙されていたことに気付いたサヨコはその街を棄てた。 

サヨコにとって歳月とは紅い花の咲く周期を意味して、落ちる花弁の暦を眺めることが唯一の支えだった。港のあるこの街に流れてきて三年になる。サヨコも二十二歳になっていた。小さいけれど「サヨコの店」のママだ。店は繁盛していた。サヨコの素人っぽさと誠実さに惹かれて客が集まった。どこか遠くを眺めているような目が美しかった。

サヨコは丈夫な体質で、これといった病気をしたことがなかったが、生理が重く、その時期になると下腹が張るように痛かった。マサジのことを想うのはそんな時だった。痛みを紛らすために、店の門口に活けた紅い花に水を注いだ。 

出所したマサジはサヨコを探したが、見つけ出すことが出来なかった。マサジもニ十歳になっていた。出所を契機にヤクザの道から足を洗って、小さな貿易会社へ勤めた。サヨコの居る街へ来たのもその会社の配属によるものだった。

常に荒唐無稽な未来の生活設計を想い巡らしながら、現実とのギャップが冷たい風のように心を冷やした。マサジの仕事は、港に入る船荷の荷積みや荷下ろしの品物を、伝票と照合し、チェックするのが主な任務だった。単調な仕事ながら、慣れない内は一日が終わるとクタクタに疲れた。

仕事にも慣れてきて、時間に余裕ができると海を眺めた。一日の仕事が終わる頃、海が、一瞬夕陽に染まるのがたまらなく美しく思えた。

「この海の外へサヨコと一緒に出て行こう」何時の間にかそう想うようになっていた。 

サヨコの店へ通う客にアツオがいた。アツオはサヨコに惚れた。アツオは絵描きだが、もとよりその絵が売れるわけでなく、決まった職も持たずにいる風来坊だ。なんとか飲み代を工面してはサヨコの店に通っている。

小心なアツオはサヨコへの想いを口に出せずにいたけど、たまたま二人きりの時があって、
「サヨコには恋人がいるの?」
「いるわよ」
「……」
「どうしたの」
「どんな人」
「売れない絵描きさん」
「バカ」
「アツオに似てるわ」
「別れたの」
「待ってるの」
「何処にいるの」
「分からない」
「その人と結婚するの」
「どうかな、でも、その人ときっと旅にでるわ」
「何処へいくの」
「分からない、でも、ずっと先の方へ」
「先の方って」
「その人がそう言うの」
「お店は辞めてしまうの」
「もちろん」
「あの…」
「え」
「もし、その人が迎えに来なかったらどうするの」
「その時はアツオの嫁さんにしてもらおうかなあ…」
「ボ、ボクも、サ、サンセイだよ」
 

この年の秋も色付き始めた頃、マサジの勤めている会社が倒産した。最後の手当てを貰った日に、マサジは同僚たちと街を飲み歩いた。酒のあまり強くないマサジはかなり酩酊していた。

「オレ達は次の職場を決めたけど、マサジはまだだったよな」
「うん」
「どこか当てが有るのか」
「別にない」
「どうするんだ」
「分からない」
「オレ達の所へ頼んでやろうか」
「いいよ」
「へんな奴だなあ」
「有難いけど、ただ、もう少しこの街に居たいんだ」
「彼女でも出来たのか」
「そんな…」
「あやしいぞ、マサジは真面目だから女気はまるっきしと思っていたんだが…」
「ボクにはそんな人居ませんよ」

マサジは急速に酔いが深まった。

「…彼女なんて居ないけど…でも、ボクには憧れの人が居ます。…その人と海を渡ることに決めてるんです」
「オイオイ、何をくだらんこと言ってるんだ」
「…その人は紅い花の妖精で、名前はキクチ・サヨコと云います…」
「しょうがねえなあ、こいつ酔っぱらっちゃったよ。さあ、帰えろうぜ」
「ボク一人で帰えりますから」

 マサジはどこをどうほっつき歩いたのか分らない。 

 サヨコが最後のお客を送り出した時は、もう朝が近い時間になっていた。入口に活けておいた紅い花束を、かかえるようにしてうづくまり、寝込んでいるマサジを発見したのはその時だった。

 目を覚したマサジは、まだ酔いから醒めていないと思った。夢の中をまさぐつているように想った。サヨコがマサジの頬をつねって微笑んだ。

「迎えに来たのね」
「うん」
「どこへ行くの?」
「海の向うへ」
「そうね」
 

 マサジとサヨコは香港行きの貨物船に乗った。海は穏やかだった。沖縄の島影が見失うころ、マサジもサヨコも、かつて下りて来た渓谷への郷愁を強く感じた。

 香港の街は活気に溢れていて、街全体が旋回しているように思えた。溢れる人ごみの喧騒の中を、マサジとサヨコは手をつないで歩いた。見るもの、触れるものが珍しく、自由市場の人の洪水の中を泳ぎ回った。曲芸団の演技に拍手を送り、生きたまま売りに出されているブタをからかい、ヘビ屋の前では、その出来たての料理を試食した。肉屋では得体の知れない腸詰めを頬張り、そのあまりの辛さに咳込んだ。笑いころげるサヨコの顔が光っていた。マサジはサヨコのために、純白の絹のチャイナドレスを買った。マサジとサヨコは観たり食べたり飲んだりして遊び、夜遅くホテルヘたどり着き、手をつなぎ合ったまま眠った。熱い涙がとまらなかった。

 翌日。マサジとサヨコは広州行きの列車へ乗り込んだ。肥沃で広大な土地を分け入るように列車は走った。途中に点在する町は決まって川沿い建ち並び、風化されたレンガの壁が水面を彩り、水路には荷を積んだ小舟を、竿一本であやつる姿が見えた。家畜を追う少年に、サヨコが大きく手を振った。

「素的だわ」
「うん」
「予感してたの」
「ん?」
「きっと、こんな旅が出来ると想っていた」
「うん」
「ずうっと、先まで行くんでしょう」
「そうだよ」
「…熱いわ」
「…この辺は中国でもだいぶ南の方だから」
「ううん、体の芯が熱いの…」

 マサジは自分の肉芯の充血を見破られたと思い、頬を染めた。マサジのまだ幼さが残っている陽焼けした顔がまぶしかった。 

 マサジとサヨコの座席の向い側に、やはり日本からの観光客で、イネとモリコが乗り合せていた。

「浮世を忘れて、命の洗濯に来たのよ」

と笑いながら、歳上のイネがマサジたちに話しかけて来た。

「あなたたち、どちらまで?」

「とりあえず終点の広州まで行く予定です」

「わたしたちは広州で食事をして、だって食は広州に在りって言うでしょう、美味しいものを食べて、すぐ桂林へ向うことになっているの、あの山水画の世界を船で下るのが夢だったのよ…」

 と、話しを続けながらも、イネは別なことを考えていた。かつて映画女優だったイネは、その過ぎ去った日々の想い出を少しずつ引き出しながら、長い年月を、一人で過して来た。健康を害して寝込み、重くたれた心を巡って、今新たに生きることをめざした。

「わたしは滴江の水に過去を流す」イネはそう誓って旅へ出たのだった。

 供のモリコもイネの付添いのかたわら、今回の旅の副題を考えていた。「きっと角度の問題だわ」、潔癖な彼女は、生きることの正当性を歪みの係数で按分しながら座標の形成に熱中していた。
 それぞれの想いを内に秘めて、買い物や食事の話しに打ち興じて、まもなく列車は広州へと辿り着いた。
 

 マサジとサヨコは広州の街に降り立った。空気が甘い蜜の香りだ。刹那、二人は同時に郷の渓谷の匂いを嗅ぎ取っていた。香りに引き寄せられるように、マサジとサヨコは街の中心部に向って走った。

息が切れても、転んでも、歩を止めることは出来なかった。

街の通り一面に紅いジユータンが引きつめられていた。それは「木綿の木」の街路樹の花だった。

マサジとサヨコは紅い花の真只中にいた。木綿の木の紅い花は散りやむことなく、立ちつくす二人の足元を埋めてゆくようだった。

マサジもサヨコも押さえることの出来ない熱いしぶきを感じていた。
サヨコが花びらの上に横たわり、自然の力に導びかれでもするように、マサジがその上に重った。
サヨコの純白なチャイナドレスが紅く染り、降りやまぬ花弁は、二人を埋めつくした。
 

数日が過ぎて、ここに登場したテツ、ミキ、ブン、ケン、そしてアツオとイネとモリコたちは、それぞれの街で、それぞれのスタイルで生活という風景の中に溶け込んでいた。彼らについては今後また記す機会もあるだろう。

マサジとサヨコの消息は知らない。
                                                  (了)