丸山あつし読本

ダンサー

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 目つぶしの砂塵が薫香を運ぶ。乾いた風が唇にとまり、花粉は鼻孔に忍ぶ。意識は回復した。というよりも忘却の実感がない。ただ大きな断層の亀裂に吸い込まれて重力を見失っていたようだ。網膜の中の繁みが微かに溶明し、沙幕のような董ごしに呟い裸体を観た。

 裸体は少年だった。風でエリカの花がうず巻くと、見えかくれする煩わしさを武器に、少年は、気付かれていない振りをしながら裸体を誇る。指を噛み、物憂げな表情は造りもので、造花の気を削ぐような斯瞞が漂う。健康すぎる少年は、薔薇の足柵が擬装であることを観破られはしないかと、いたいけな表情の墟を塗る。同情と蔑みを買いながら、少年は、紫のベールの中で汚れを渇望していた。

 白橡墨の柘布をまとって、彼はまだ酒を離さない。

 今夜、彼は長年の構想を成就すべき舞踏の舞台で、目まいを起して倒れるというアクシデントを起し、中断して幕を下してしまった。しかし彼は、この惨澹たる結果を憂慮して立ち上れないのではなく、目まいの余韻から醒めきれず、再び、恍惚として朽ちる肉体の中へもぐりこもうとしている。この疲れて横たわる肉体に何を頼もうとするのか。たかだか紙一枚の存在にすぎぬ肉体の中に何が記憶され、何を棲まわし、今さら何を獲得しようとするのか。それでも彼はねだる子供の執拗さで身動ぎもせず、酒ばかりを口に運んでいる。 

 紫野は可憐な白い花を敷きつめていた。少年は山吹色の下帯を締め、素肌に紫の矢絣の衣を羽織っていた。衣は風を胞食して翔び、或いは少年の肉を強く噛む。少年は熟してゆく予感を味わっている。毛細管に送る血液の熱を感じながら、膨れて痙攣するあの感覚に身をゆだねる。 

彼は朦朧としながらも座して、まだ酒を酌んでいる。微かに首を動かし、蒸れた気圏のゆらめきを払うと、蝶が飛び交っている。なめくじが描く銀色の軌跡を露と見聞違え、蝶たちが群がり、そこに白波が立つ。肥沃な土の放香で酔は培養し、衣の中に尿を放った。 

 古代紫の霧が立ちこめ、偽りに共鳴した陶酔を、優しくゆるしてくれるリラの薫りが降る。胡蝶花の図を型染めした帷子を頭から被り、霧に濡れた素肌は艶やかであった。読経する少年の肩が妖しくゆれている。とび色の瞳は、交尾を終えたばかりの雄の蜘蛛が、その雌蜘蛛に喰い殺されてゆく姿にそそがれている。少年の肌に色がさす。少年の肉はうずく。蜘蛛の嘔き出す銀の糸を用いて緊縛を夢みる。 

 自分の放った尿の温かさに誘われて、茜色の、昔日の夕映えがよみがえる。友人の家に遊びに行き、其処で友人の収集した自慢のレコードを聴いた。友人のお気に入りはエリック・サティで、吃語のようにひっかかる旋律がいいと云っていた。彼には音楽に対する造詣が全つたく無かったが、シエーンブルグの〈月に憑かれたピエロ〉を聴かされた時、何物かに圧倒され、動揺し、以来静まらぬ渕を心に抱いてしまった。少年の一時期に、見てはならぬものを見てしまった時のように、聴いてはならぬものを聴いてしまったような、後ろめたさと、秘めた快楽を味わった。紫色の静脈が凝固し、溢れる唾液を飲みこんだ。音楽というよりも、忽然と現われた花園に、何やらぬるりとした触角を持つ生物がうごめいていて、絡み、戯れている情景に驚愕した。 

 吃語の少年は自ずから無口となり、ただ受身であることしか考えなかつた。人々の関心を引き、同情を買うために思策をめぐらすが、花咲く野辺もまた優しすぎて、いたぶりを拾うことができず、仮病の腹痛に自ら慰みを送り、客にあふれた男娼のように、欲望を自ら摘みとる。せめて風をたのみ、この饐えた体臭を何処かに運び、嗅ぎつけて来る獣はいぬものかと。 

(月に憑かれたピエロ)の魔術のような旋律の流れは天鷲繊をすべる水滴のきらめきに似て、天界のことほぎの舞へいぎない、朗唱する蓮っ葉な女の声が懐しい欲望の古巣へ引き戻す。この奇妙な絡みを耳にしながら、恐れと、不安と、倦怠の甘い誘惑と、蔑みの嘲笑を同時に感じていた。嫌悪の感情がやがて懐しい感傷に変るように、最初に受けたこの曲の打撃を、鞭を乞うように熱く求めた。 

 雨上りの初夏一番の陽差しを浴びて、紫野はかげろうが燃え、ゆれていた。

 汗をかいた少年は、まだ濡れている叢に分け入った。乾いた陽の中で水滴にふれると、小虫の這うようなむず痔さだ。微少な刺激を増幅させながら、少年は旋回していた。時折り急激な速度をこころみては鼓動のみだれをたしかめている。錬金術師が攪拌した釜をのぞきこむように、新しい血脈を探している。待ち疲れた少年は、自らを見捨てねばならぬことの恐れをいだく。期待している少年の胸に操焦が宿る。姫沙羅の樹肌を抱き、薄紅色のいぬふぐりの花に目くばせをして、想いを分ち合うとするが、初夏の降るような陽差しの下では、冷笑しながら、樹木も花も共演を拒むのだ。 

 舞踊家になった彼は、何時の日か、シエーンブルグの(月に憑れたピエロ)に振りを付けて踊るのが夢となった。アルベール・ジローの詩に変えて自作の詩を考えた。詩の内容は、女が男を言葉で犯して行くというもの。語姦という言葉は無いが、そういうイメージだ。女が野卑な言語で男を罵ってゆく。侮辱の雨を降らせ、蔑みの鞭を打つ。卑猥な言葉を発しながら、たれ流しの汚物の聖水を振り播く。彼はその洗礼を受けながら踊ることを夢みた。 

 盛夏。君影草のかたわらで、少年は、暢を浴びながら何時しか寝入ってしまった。夢の中に三人の乙女が現われ、少年をとり囲んでいる。女たちは威張っていて、少年にあれこれと命令する。馬になることを命じて、少年の背中に三人の女が重なって乗る。犬になることを命じて、首輪を結んでひきずりまわす。少年は何を云われても素直に服従している。女たちが少年の体を大地に礫、草の葉のメスで医者さながらに解剖を開始した。少年は背を弓なりに張る。女たちは嬬声を発しながら少年の角笛を吹く。少年は歓喜にふるえながら肉声に戦き、目覚めた。 

 彼が(月に憑かれたピエロ)の公演を決定したのは、舞踊において、肉体が表現する無限性への挑戦でだった。また、今回の公演は彼の舞踊生活二十年の区切りでもあって、自己の舞踊に新しい思念をもり込み展開させたかった。肉体の壁をつき破り、時限を流出する肉の流れを彫塑し、器物化した肉体と、流出した精霊たちの二相形を演じるために、剥離する感覚を舞踊に求めた。だが、公演の日が近ずくにつれ、彼は今回の構想を後悔した。失敗を予感した。想念ばかりが迷走していた。 

 少年が恐る恐る薄目を開けてみると、白日夢さながらに三人の娘に囲まれ、見据えられていた。無防備な少年は、この突然の聞入者に対処するすべがなく、驚きのあまり体が硬直して逃げだすことも出来なかった。

 少年の怖気を見破った娘たちは快活に、大声で笑いころげた。

「なあんだ、眠っていたの? 裸で倒れていたから吃驚しちゃった!」

「気持ちよさそうね、わたしたちも裸になろうか」

「賛成!この辺は誰も来ないでしょう?」

 娘たちは都会の学生だった。紫根染の共同研究で、わざわざこの東北の片田舎の紫苑を訪ねて来たのだった。娘たちは野生のむらさき草の根を少年の肉体に見出し、菫色の化身と戯れ、少年の樹液を完璧に汲み尽くした。

 

(月に憑かれたピエロ)の公演を明日にひかえて、彼は、眠られぬ長い夜を過していた。今回の稽古を始めてゆくうちに、踊りながら、しばしば自失の状態に陥ることがあった。唾棄するような女声の朗唱に呪われながら、彼はエクスタシーに達し、一瞬静止した世界の、一つの風景の中へ陥没するのだった。すると彼の肉体は生け贅の供物のように空を仰いで凝固し、化石の眠りに入る。彼の観た風景は、何の変哲もない東北地方の片田舎の原野にすぎなかったが。 

 紫色の薄布を素肌に巻いて、少年は鏡の前に立っている。素肌を舐めるように薄布が滑る。少年は目を閉じ、焼けた糸が肌を旋回するような快感に陶酔する。薄布を透して、充血した彼の肉は、血管を通る瘤のような熱い血で波打った。少年は鏡の中の少年に合図を送る。覗き合う二人の少年は、爪先から背筋まで鋼となり、発条のように弾けた。

 この紫根染の紫の薄布は、或日、突然少年の元へ贈られて来た。送り主の名は無く、「夏の日の想い出に」とだけ記されてあった。 

 

 手にしていた酒の茶碗が床にころがり、彼は、脈絡の途絶えた意識が覚醒して、踊らなければと思う。彼は誰もいない舞台へ這い上る。客席には要を果せなかった花束が、そっと置かれてあった。静寂だけが彼を見つめている。

 彼の体は、揺れながら崩れてゆき、不気味な肉塊に変貌する。肉塊は振幅を重ねながら、水の詰った皮袋を転がすように、水平を保とうとする反動にひきずられながら、展開写真のモーションを形成してゆく。突如として、キリキリと裂かれる生木のように。肉塊は激しく軋み、割れたかと思えた。何かが生誕し、重心を喪失した肉魂は浮遊した。

 

 無慈悲な風が、コスモスの最後の花弁を奪い去ると、紫野は色槌せる。やがて薄の穂を低く寝かせるように木枯らし鳴き、東北の冬は早い。

 紫野に雪が降る。紫野は深い眠りに入った。

 宵。小さな停車場の裸電球の輪の中で雪が舞っている。ボストンバックを提げた少年の姿がシルエットで現われる。少年は、都会へ向う夜汽車に乗った。 

 

 彼は二度と踊らなかった。人々は彼の存在を忘れてしまった。

 彼はビルの掃除夫になっていた。薄い給料袋を懐に抱いて路地裏の安い酒を煽っている。一つ二つと赤い灯が落ちる頃、彼は家路を辿る。彼の泳ぐ体が突然何ものかに突き当たった。数人の若い男が彼をとり囲み、彼は一瞬のうちに打ちのめされ、若者たちは彼の給料袋を奪って遁走した。

 揺れる裸電球の下で、彼は鏡の前に立った。彼の給料を奪い去った若者たちの敏捷な四肢を想いながら、彼は被服を剥ぐ。あらわになった肉体が鏡の中に淀む。乾いて、弛緩した皮膚には、老いを示す灰色の滲みが浮き出て、呼吸を止めた毛穴には黴の華が咲いていた。彼は押し入れの奥から古いボストンバックを取り出し、中からうす汚れた布を引き出すと、体に巻き付けた。巻き付けた布は色禎せて、元の色すらとどめていない。彼が屈んだ拍手に、ぽろぽろ千切れて落ちた。                             (了)