>>プロローグ/FakeHeart

 

第0話「或る日の出来事。それぞれ」

 
朝―。
 
「ねぇーねぇー、どうするつもりなのよ、美月ってば」
 
どうって言われても、困る。
 
「まだ羽村くんと仲直りしてないんでしょ。せっかくゴールデンウィークにみんなでうちの別荘行くって決まったのに、せーっかくの旅行なのに、ケンカしたままじゃつまらないでしょ」
「そーそー、ハナもね、心配してるんだよー。美月、最近なぁんか元気ないしー」
「…仲直りって、別にケンカした訳じゃないもの。それに、その、…つ、付き合ったりとか、してる訳でもないし」
「あぁ、もうっ」
両手を上にして、やってられないわ、というジェスチャー。亜衣ちゃんがため息をついた。ショートカットでボーイッシュ。背が高くて、気品があってキレイでクラスの人気者。私とは正反対…。
「そうなんだー。分かった、じゃあ、付き合っちゃえばいいんだよ。羽村くんと付き合えば、きっと元気になれるよー。いいアイデアっしょ」
自慢げに「えっへん」と腕を組んで自信満々。ハナちゃんが笑顔を浮かべた。くりんとした大きな瞳が特徴的。ちょっと子供っぽいけど、華やかで可愛い男子のアイドル。私とは正反対…。
 
例えるなら、凛々しい百合のような亜衣ちゃん、周囲を明るくするスイートピーのようなハナちゃん。そして、私。カスミソウにもなれない、私。でも、3人でいるのは苦痛じゃなかった。2人の光が眩しすぎて、地味すぎる私は比べられることもない。一緒にいれば目立たない。何かを主張する必要もない。他の人の目が恐い私、他の人にどう思われているのか、いつも気になる私にとって、それは、とても気が楽で穏やかな関係だった。
 
「ハナちゃん、あーんもう、あなたちょっと黙ってて」
「むむー、なんでよー。ひどいよー」
 
2人とも、私の大切な友達。
 
「ね、ほんと、どうしちゃったの? 羽村くんと何があったの?」
 
分からないの。彰介くんのこと、彰介くんが言ったこと。私のことも、私の気持ちも。今まで、考えたこともなかった。どうすればいいかなんて、全然、分からない。全然、分からないよ。
 
「いつも美月、困るとそうやって俯いて、黙っちゃうよね。でも、それじゃ私たちには伝わらないんだよ」
「そうそう、ハナも分からなーい」
「…ごめんね」
 
亜衣ちゃんもハナちゃんも、でも、決して俯いた私の顔を覗き込んだりはしない。
 
「まっ、いっか。そのうち気が向いたら話してよ。いつでも相談に乗るから」
 
私には、ほどよい距離感。
 
亜衣ちゃんは壁掛け時計にチラリと視線をくべた。
「やばやば。そろそろ行かないと1時間目に遅れちゃう」
 
私たちの通っている学校は「国立国防大学付属汐入高校」といって、海軍横須賀基地の敷地内にある。中高一貫の全寮制。もちろん、軍人さんの育成を主目的にしていて、実際、B組とC組はそのためのカリキュラムが中心。ほとんどの生徒が士官候補生として国防大に進む。でも、A組の方はごく普通の進学コースなのでよその大学を受験する人の方が圧倒的に多い。かくいう私もその1人。事故で両親を早くに亡くした私は、小学校のとき担任の先生が推薦してくれたおかげで、学費が一切かからないこの学校に入ることができた。
 
「一応、ルームメートだから聞いておくけど、新山さんも一緒に行く? 今度のゴールデンウィークにクラスの友達をパパの別荘に招待するの」
「ありがとう。でも、遠慮しておくわ」
きっぱりと即答した。
 
10畳ほどの広さの寮。部屋を入って右側に、亜衣ちゃんのベッドとクローゼット、机がある。鏡映しのように左側が、学級委員の新山一葉さんの場所。汐入高校の制服で最大のトレードマーク、赤い大きな蝶のリボンを結び終えると、「悪いけれど、人の部屋で朝から恋愛ごっこの話なんてしないで。耳障りなの」。透き通るほど白い肌に、キツい切れ長の瞳。典型的な美人タイプ。クールで笑わない学級委員は、冷めた口調でそう言い残すとさっさと出て行った。
 
「むむー。なによー学級委員だからってえばっちゃってさー。べーだ」
「ハナちゃん、いいってば。私は気にしてないし。新山さん、いつもあんな感じなのよね」
がるるるーとばかりに鼻息の荒いハナちゃんを、2人でなだめた。
「亜衣ちゃん、ハナちゃん、私たちも行こ」
 
私には、いつもと変わらない朝だった。
 
  ◇  ◇
 
朝―。
 
黒塗りのメルセデスが青山通りを赤坂見附から西へ。城塞のようなカナダ大使館の脇で左折。猛スピードで細い路地を駆け下りていく。
 
「スカウト・ワン、目標を現認。カウント開始します…」
 
速度を緩めない『ヤバそう』な車に、路肩を歩いていた通勤途中のサラリーマンが顔をしかめた。
 
「少年、聞こえるか」
「はい」
「君に許可されている発砲は1発だけだ。それで目標の足を止めろ。できるか?」
なぜそんなことを聞くのか、といった風に「はい…」。無線はクリアだった。
 
レンガ張りの瀟洒なマンションの地下駐車場にメルセデスが吸い込まれていく。すぐさま宅配便のトラックが横付けして出入り口を塞いだ。すべては計画通り。段ボール箱を小脇に抱えたドライバーがオートロックの玄関を入っていった。
 
「大丈夫でしょうか」
指揮官とおぼしき男に、傍らの男が指定回線で話しかけた。2人とも黒づくめ。コンクリート壁の無機質な駐車場で、車の影に身を隠している。
「あの少年か」
「えぇ、いきなりフロントのアタッカーを、それも1人でやらせろなんて」
「自信がなければ国防省も送り込んでこないだろう」
 
深紅のスポーツカーが駐車場に入れないと、わざとらしく、けたたましいクラクションを鳴らしている。
 
「スカウト・ツーより各員。現場周辺の封鎖を完了」
 
「しかし、正式採用のための試験なら自分たちの庭でやればいいじゃないですか。あんなものを創り出しておいて、それをわざとらしく。うちに対する意図的な示威行為なんじゃないですか」
「そんなに苛立つな。せっかくの機会だ、国防省の最新型とやらの性能を見せてもらうさ。失態をさらしたところで責任をとるのは連中だしな。…きたぞ、集中しろ」
 
地下駐車場の一番奥に、メルセデスが静かに停車した。右側は壁、左側には2台分の空きがある。濃いブラックフィルムに覆われ、車内の様子は肉眼では視認できない。
 
「…あの、本当にこんな高価なもの、頂いていいのですか」
上品な声色。助手席の女が尋ねた。
膝の上に置いた海外高級ブランドの真新しいバッグに手を添えている。
「気にすることはない。少し気が早いが、おまえの誕生日プレゼントだ」
低く落ち着いた声色。運転席の男が答える。
「ありがとうございます…」
「そんなことより」
女の肩に腕を回して抱き寄せると、覆いかぶさった。
「あっ、ん、んんぅ、ん、ちゅ、んはぁ、んんっ」
荒々しく乱暴に舌をねじり込むいつもの口づけ。赤いスーツの胸元から手を入れ、下着をつけることが許されていない乳房をブラウス越しに揉みしだく。
「あふぅ…ら、らめぇ、んぐ、んじゅ、らめれ、すぅ…、あむ」
男の広い胸板に手を添えて、形ばかりの抵抗。男は、女が抗い、恥らう姿を好んだ。愛人として生きていくための術。流し込まれる唾液は素直に飲み干していく。濃い化粧に派手なアクセサリー、茶髪にソバージュ。連れ添って10年になる。望まれた通りの、愛人としての装いも板についている。
 
「ちょっといいですか…」
「どうした、少年?」
身を潜めたまま、声を潜めて答えた。
「助手席にもう1人いるようです。どうしますか…」
薄暗い地下駐車場で、濃いフィルム越し。肉眼で見えるはずがない。
「見えるのか?」
「見えるというより、赤外線反応があります。…そういう機能も『装備』してますから」
ただの改造ではないという訳か。黒づくめの指揮官は顔をしかめた。
「ほかに何か分かるか」
「おそらく、女です…」
「なぜだ?」
「このまま車内でやりそうだから…。あっ、目標が同性愛者だったら謝ります」
暗号無線のやり取りを聞いていた移動指揮車内のサポート・スタッフが思わず吹き出した。
「そういう情報はない。分かった、予定通り仕留めろ。女の処遇は保護対象者リストを確認してからだ」
「はい…」
 
「あっ、あん、あぁん、いっ、あふ、あ…そこぉ」
タイトミニをずり上げ、太ももを割り開いた先で指が掻き回す。湿った音を立てた。その度に女はくねくねと身を捩り、「恥ずかしい…」。上目遣いに甘く媚びてみせる。
「すっかり熱くなっているぞ」
「それはあなたがあぁっ、あぁぁぁん」
「続きは部屋に戻ってからだ。今日は俺を楽しませろ。できるな?」
「…はい、あなた」
年の頃は30も半ば過ぎか、成熟した色香を漂わす女の身体に火をつけておいて、男が離れた。キーを抜き、ドアノブに手を掛ける。女は涎で濡れた口元をハンカチで拭い、乱れた服を直した。
 
「きます…」
 
最初に左側のドアが開き、大柄な体躯が姿を見せた。右側も開き、女の赤いピンヒールが地面に触れた、その瞬間、パスッ。気の抜けた音が1回だけして、男が仁王立ちのまま、動きを止めた。
「う、お…」
短い呻き。
 
パンッ、パンッ、パンッ。背中に向け、続けざまに3回鳴らした。その発砲音を合図に、傍らからさっと黒い影が飛び出す。
 
「ぐ…」
 
男はかろうじてジャケットの下のグリップを握った。しかし、そこまでだった。背後から伸びた腕が、首のあたりで左から右へ。ナイフでぱっくりと切り裂かれた喉元から、すざまじい血飛沫を撒き散らす。噴水のように血を吹き流しながら、ゆっくり、男が仰向けに崩れ落ちた。わずか数秒間の出来事。数カ月に及ぶ情報収集、尾行、内偵…。多数の人員と予算を費やした暗殺作戦は無事終了した。
 
白目を剥いた男の、眉間の中心にある正確な弾着。死体から顔を上げた男の、視線の先には少年。刺々し過ぎる殺気を全身にまとい、ゾッとするほど鋭い目つきをした少年はしかし、紺のブレザーにグレーのズボンという高校の制服姿だった。
 
「まったく最新型とはよく言ったものだ…」
 
皮肉ともつかない指揮官の言葉に構うことなく、無表情で軍用の旧式エアガンをブレザーの懐に戻す。茶髪で長身の少年はぷいっと踵を返した。
 
「あっ、あなた! あなたーっ」
メルセデスの影から女が駆け寄り、血だまりに沈んでいた男の身体を抱き起こす。
「ねぇあなた、起きてぇっ、いやぁ、1人にしないでっ、あなた、あなた、いやぁーっ、起きて、あなた死んじゃいやぁー」
血まみれの身体を懸命に揺さぶった。
 
「課長、どうします、この女?」
人殺しの現場にはあまり似つかわしくない言葉。刃先まで真っ黒なチタンナイフをホルダーに戻した傍らの男が、指揮官の「課長」に尋ねた。
いつの間にか、ほかにも数人の男が加わり、取り囲むように立って見下ろしている。防刃強化仕様の近接戦闘服、ブーツ、目出し帽にグローブまで、すべて黒づくめ。しかも、所属や階級などを示す隊章や徽章の類は一切ない。
男は電子戦ゴーグルを外し、目出し帽を脱いだ。
 
「ひ、人殺しっ!」
振り向いた女の美貌が凍りついた。まるで亡霊でも見たかのように、目を見開き、真っ青になって、固まった。女にとっては、亡霊そのものだった。
「…あ、あなた? 生き、て…た、の!?」
「いつから、おまえはこの男の女だったんだ?」
「やっ、ち、違うの、これは…。だって10年前の事件で、まさか…。ごっ、ごめんなさい、許して、許して…、だって、こ、こうするしか、あなたがまさか生きてるなんて、思わないからっ、こっ、こうするしか、お願いっ、許してっ、まさか私まで!? ねっ、助けて、助けてくれるわよね」
這いずって男に近付いて両手を差し伸ばし、倒れた方の男に買い与えられた指輪を左手の薬指にしていることに気付き、女はハッとして手を背中に隠した。
「あ、あなた…、私を助けに…きてくれたのよね、ねっ、そうよね、お願い、助けてっ」
肩を落とし、怯え、すがるような目をした女を、見下す男の表情は対照的に一切の感情が伺えない。
「おまえに言い忘れたことがあってな、あの世から戻ってきたんだよ」
「え…」
手にしているのは、軍が暗殺用に開発した特殊なエアガン。女の額にピタリとあてがった。
「別れの言葉だ」
 
  ◇  ◇
 
昼―。
 
「あの、美月さ、ちょっといいかな」
「えっ…」
 
彰介くん!? どうしよう…。せっかくのお昼休みなのに。学食で亜衣ちゃんたちと3人で食事をして、午後の授業の宿題の答え合わせをしていたところ。いきなり、彰介くんが声を掛けてきた。
 
「じゃ、私たちは先に教室に戻ってるね」
俯いた私を置き去りにするように、亜衣ちゃんが立ち上がる。
「え、あ…待って」
「ほら、ハナ。行くよ」
「むー、今、オクスリ全部飲んじゃうから待ってよー」
ハナちゃんは身体が弱く、いつも多量のクスリを服用している。
「あ、亜衣ちゃん!? ちょっと」
助けを求める私に、亜衣ちゃんは「ちゃんと話をしなきゃだめだぞ」。そんな…。どうしよう。お話しろって言われても、自分の気持ちだって、よく分からないのに。亜衣ちゃんはスタスタと、ハナちゃんはふうわり柔らかな栗毛のツインテールを揺らしながら、そろって学食から出て行ってしまった。
 
「美月ごめん。少しでいいから」
 
お昼休み。男の子に誘われて2人で屋上に向かう。普通の女の子ならきっと、廊下を歩きながらドキドキ胸をときめかせるのだろうけど、今の私には…。同じドキドキでも胸が重苦しい感じ。どうしよう…。春のさわやかな潮風も、穏やかな日差しも、心の曇天までは吹き飛ばしてくれそうもない。
 
「この前の返事、聞かせて欲しいんだけど」
「え…その…あの…」
 
羽村彰介くん。私の幼馴染。大きなお屋敷に、お母さんとお手伝いさんと3人で住んでいた。彰介くんのお母さんは、亡くなった私のお母さんと親しい友人だったので、私も小学校時代はずっと彰介くんのお家で暮らしていた。彰介くんと一緒に育てられた。中学で私が今の学校に入り、いったんは離れ離れになったけど、彰介くんも高校から編入してきた。そのときは、素直に嬉しいと思えた。でも、今は…。
 
「美月の気持ちを聞かせてほしい」
「…」
「美月!?」
「…」
 
子供のころは分からなかったけれど、今思えば、彰介くんも複雑な家庭環境で育ってきたんだと思う。あんな大きなお家に住んでいて、でも、お母さんは時々外出するぐらいで働いていなかった。「お父さん」の話を聞いたことは一度もない。
 
「ね、どうして俯くの? 黙っちゃうの? 僕の顔を見てくれないの?」
 
そんなこと言われても、困る。どんな顔をしていいのか分からないし、なんて答えていいのかも分からない。
 
「もう一度言うよ。僕は美月のことが好きなんだ。美月、僕と付き合って欲しい」
 
彰介くんは結構、格好いいほうだと思う。勉強もすごくできる。実際、クラスには彰介くんのことを好きな子もいる。なのに、どうして私を? 何の取り柄もない、可愛くもない、こんな性格の私を、どうして「好き」だなんて言えるの? 分からない。信じられない。
 
「…返事もしてくれないってことは、それが答えだって、受け止めて、いいって…こと?」
 
彰介くんの声に、ちょっぴり苛立ちが混じったのが分かった。ねぇ、こんな私のどこがいいの? どこが好きなの?
 
「…美月、すっかり変わっちゃったよね。中学で、僕の知らないときに何かあったの?」
 
俯いた私には、グレーのズボンしか見えない。私、変わってなんかいない。これが、私。私は昔からこんな女の子だったでしょ。彰介くんに好きになってもらえるような、ふさわしい女の子じゃないんだよ。
 
「昔の美月は、こんなんじゃなかった。もっと元気で、明るくて、思ったことすぐ口にしちゃうような、すごく真っ直ぐで行動的な女の子だった。それなのに…」
 
彰介くんは、今、どんな顔をしているんだろう。こんな根暗な私のこと、きっと軽蔑しているに違いない。
 
「髪型だって、小学校の頃は髪を結ったりするのが嫌いで、三つ編みとか絶対しなかったのに、今は毎日三つ編みにしてるだろ。どうしてだよ?」
「…知らない」
「確かに美月なのに、でも、まるで別人みたい。本当は中学で何かあったんじゃないのか」
「…ほんと、ないの」
「なぁ、思い出してくれよ。昔はいつも、僕を連れまわすように遊んでたよな、いつも一緒に遊んだよな、覚えてるだろ」
「…分からない」
「え!?」
「…昔のことをね、…彰介くんとのこと、思い出そうとすると、なんか…頭の中に靄がかかったみたいで」
「美月、本当? 本当に覚えてないの、忘れちゃったの? 美月、黙ってちゃ分からないよ。なにか言ってくれないか」
 
私は何も変わっていない。私は変じゃない。何も変わってないの。
 
「…ね」
 
変わってない。変わりたくない。どうして、幼馴染のままじゃいけないんだろう。
 
「えっ、なに?」
懸命に声を振り絞った。
「…ごめんね」
 
返事はなく、小さなため息がして、それからしばらくして、彰介くんが立ち去る足音が聞こえた。私はずっと、俯いたままだった。傷つけちゃった。きっと彰介くんを傷つけた。どうしていいのか分からなくて、結局、傷つけてしまった。やっぱり、私はどうしようもない。私は誰よりも、私が嫌い。どうして、私はいつもこうなんだろう。1人が一番いい。誰とも関わらずに生きていけたら、きっとすごく楽だと思う。きっと、こんな私のせいで誰かを傷つけたりしないで済むし。
 
「美月」
「亜衣ちゃん…」
「授業、始まるよ。行こう」
「…うん」
「気になって迎えにきて、そしたら…。ごめんね、話、聞いちゃった」
「…うん」
「それで、言い難いんだけど、美月にその気がないんだったらさ、私、羽村くんに告白してもいいかな。今までずっと、美月も羽村くんのこと好きだって思ってたから黙ってたんだけど…。でも、美月はそうじゃなかったんだ。それなら私」
 
何も考えられない。何も考えたくない。
 
「私は羽村くんのことが好き。告白してもいいよね」
「…うん」
 
1週間後、亜衣ちゃんと彰介くんが付き合い始めた。そんな噂を耳にした。
 
  ◇  ◇
 
夕―。
 
国会内の民自党会議室。政府・与党連絡会議は予定時間を1時間近く過ぎて終了した。
ドアが開くたび、赤絨毯の壁際で人垣を作っていた番記者の視線が集中する。それぞれ担当する政治家が出てくると、張り付いての「ぶらさがり」取材。本来、広いはずの廊下はさながら朝のラッシュのよう。ただ、この場にいる人間のほとんどが、朝のラッシュなど経験したことはない。
 
「元総理、ちょっといいですか!」
「会長、ずいぶん時間がかかりましたが、法改正の党内調整に手間取ったんですよね」
 
一際多くの記者が、ようやく姿を現した1人の男に殺到した。元首相で、現・民自党顧問の中野。最大派閥の会長として党内外へ及ぼす影響力は計り知れない。その一言が時に政局を引き起こすこともある大物代議士だった。
 
「おいおい、今日はまたえらく人が多いな」
 
連れ歩く記者の数は政治力のバロメーター。政敵に対して権力を誇示するパフォーマンスという意味もあり、強面の顔を迷惑そうに顰めても拒否はしない。
 
「海洋資源保護法の改正は、原案通りですか、修正ですか」
「修正など必要ない。いつも言ってるだろ」
「それでは事実上、中国との合弁開発の破棄ですよね。中国の反発は必至では」
「知らん。そんなことは相手さんに聞いてくれ」
「野党は委員会審議に応じない方針のようですが」
「知らん。それこそ相手さんに聞くことだろ」
 
喧騒の中、矢継ぎ早のやり取り。ごった返す廊下は歩くこともままならない。
 
「今国会で成立できますか? 自信のほどは」
「バカなこと聞くな。成立だ、成立、当然だ。わが国の権益はきちんと守らねばならん」
 
前世紀末、米中が軍事衝突した「台湾紛争」後、日本政府は長く、中国重視外交を維持してきた。しかし、3年前の現・小柳政権誕生後は掲げた「中立外交」の名の下、親米路線に舵を切りつつあった。その後ろ盾が、中野だと囁かれている。
 
「しかし、最近の政府の一連の政策に対し、中国はかなり強い不快感を示していますが」
知らん、知らん。関係ない」
「すみませんっ、今日の薬事審議会でマイクロマシン療法の全面解禁を盛り込んだ答申が出る見通しですが、どう思われますか」
「ん? そんな報告は受けておらんな。しかしまぁ、悪いことではないだろ。認めてもいいんじゃないか」
国民的議論となっている問題で与党の有力幹部が一定の方向性を示したことに、取り囲んでいた記者団がざわめく。
「しかし、安全性や効果の面で疑問視する声も根強くありますが」
「それは厚労省の方できちんと対応すればいいだろ」
「ところで会長、総裁選前、最後の内閣改造を求める声が持ち上がっているようですが」
「おぉ、その話なら今夜の懇親会でしようじゃないか、なぁ。一杯やりながら話そう」
老獪な政治家が濁声で、古株の番記者に声を掛けた。
「おい、とりあえず、こんなところでいいだろ」
「じゃあ、あらためて今夜」
仕切り役のその記者の言葉で、歩きながらの会見は終了した。
 
翌日の朝刊は各紙とも、「今夏に内閣改造 主要閣僚大幅入れ替えも」という見出しが踊った。
 
  ◇  ◇
 
夜―。
 
「いらっしゃいませ」
曇りガラスの引き戸を開け、縄のれんをくぐる客の顔を見て、女将の愛美は親愛の笑みを浮かべた。
「大沢さん、先にいらしてますよ」
 
「おお、久しぶり。田上ちゃん、3年? 4年ぶりになるか」
「大沢さん、ごぶさたしてます。お元気そうで」
「しかし、驚いたよ。まさか、おまえがサッチョウ(警察庁)に出向とはな。出世コースだろ、やるじゃないか。どんなあくどい手を使ったんだ」
「勘弁してください。机の上は書類の山。毎日、事務仕事ばかりでどうもしょうに合わない」
 
肩幅の広いパリッとしたスーツ姿の、いかにも中央官僚らしい男と、ヨレヨレのジャケットに裾の汚れたシャツ姿の、無精ひげの男。一見、不釣合いな2人が旧交を温めながら言葉を交わす。和装で髪を結った愛美は、そんな2人をよく知っており、「田上さんは、最初は瓶ビールでしたね」。そう言って、お通しをカウンターに置いた。
 
「大沢さんこそ、まだ内政(内務省記者クラブ)ですか」
「いまは国会遊軍だ。参議院を回ってる。まったく、この年になっても楽させてもらえねぇとはなぁ」
「現場の方が好きなんでしょ。そんな軽口たたいてると本社にデスクで召し上げられちゃいますよ」
「バカ言え」
大沢は苦笑いを浮かべ、田上のグラスにビールを注いだ。
「俺みたいな地方の私大出じゃ、せいぜい定年間際に地方部デスクで上がりだよ。うちらの業界も結局、ものをいうのは学歴さ。まぁ、あんたら役人のところほどじゃないがな」
「そうなんですか?」
田上は不思議そうな顔で、大沢のお猪口に熱燗を注ぎ返した。
「うちなんかまだマシな方だ。朝陽はひでぇぞ、あそこは出身大学と入社試験の成績で入った瞬間にどこまで行けるか決まってるってぐらいだからな。ま、さすがに今はそれほどじゃねぇみたいだが、昔、俺が田舎の県警詰めだったとき、朝陽のキャップが『こんどくる新人はアレだから、よろしく頼む』って各社に頭下げて回っててよ、よくよく聞いたら、まだ一度も配属されてねぇのに将来の役員候補なんだと。あれには驚いた。アホかと、あきれ果てたもんだ」
 
互いに、愛美手作りの素材を生かしたつまみをつつきながら、他愛のない世間話を当たり障りなく重ねた。
 
「へぇー、意外ですね」。そこまで言って、声のトーンが一段落ちた。
「…で、大沢さん。そんな愚痴をこぼすためにわざわざ連絡をくれた訳ではないんでしょう」
「まぁな…。実は今日、ちょっとした事件があって、そのことでどうしても田上ちゃんの話を聞きたくてな」
「僕に? 今の自分の立場では、そうそう記事になりそうな話、できるとも思えませんが」
「そう予防線を張りなさんな。ちゃんと田上ちゃんの手土産になりそうな情報も仕入れてきたからよ」
「なんですか?」
 
話は途切れ、店内にはテレビの音声だけが流れている。作りは古いが小奇麗にしつらえた小料理屋の、カウンターで2人の男が黙り込む。
 
「何か、お食事でも召し上がりますか」
やかんから銚子を引き上げ、愛美が尋ねた。
「そうだな、頼む」
阿吽の呼吸。田上の返答に、「少しお時間を頂戴します」。愛美はそう言うといったんカウンターを潜り抜け、縄のれんを取り込んでから奥の調理場へと姿を消した。行き届いた心遣い。2人はこの店を重用していた。
 
「…今日の午後、お台場沖でマル変(変死体)が2体上がってな。状況から心中で事件性はないと発表されたんだが、聞いてないか」
「署轄の事件でしょう。いくら同じ警察でも、僕のところじゃ分からないですよ」
大沢はお猪口を飲み干し、田上はビールを手酌した。
「銃創があったようなんだが、どうして隠す? 隠さなければいけない理由は何だ?」
「…まさか。そんなことあるはずがない。どこで掴まされたネタか知らないですが、大沢さん、ガセですよ」
「女の方は、額に一発だったそうだ。本当に知らないと言い張る気か」
「くだらない。そんな用件なら、僕は失礼させてもらいます」
「おまえが殺ったんだろ、田上修平こと…、草影駿平。男は、ある非合法組織の幹部。そして女は…、おまえのかつての女房だな。違うか?」
突き付けた言葉に沈黙が返ってきたが、大沢は構わず言葉を続けた。
「ここまで調べるのに随分と苦労させられたぜ。…10年前、1人の公安警察官がテロ事件で殺された。しかし実際は死んでおらず、別人に生まれ変わった。表向きは内務省職員、本当は政府の特殊機関の工作員として。そうだな、草影駿平…。今は、課長と呼ばれているそうじゃないか」
「…大沢さん、あなたも組織の協力者なら分をわきまえた方がいい。余計なことまで首を突っ込むと命を落としますよ」
「さすが、俺の身辺なんかとっくに調査済みか。そうだ、俺もあんたと同じ、体制に飼われた身さ。それを踏まえた上で、あんたと話しがしたい。…とりあえず、その物騒なもの、なんとかしてくれないか」
田上こと、草影は背広の内側から、グリップを握っていた右手を引き抜いた。
「今日のことは話せないし、取引するつもりもない」
「そうじゃない」
 
「…次のニュースです。宇宙航空研究開発機構は今日、日米共同で先月打ち上げた大型の多目的情報通信衛星オリオンの本格運用を開始したと発表しました。オリオンの運用開始に伴い放送、通信用の帯域が大幅に拡大されるとのことです。一方、極東から東南アジアまで広範囲をカバーする静止衛星のオリオンには軍事利用の可能性が否定できないとして中国、欧州各国が運用開始にそろって反対の声明を発表、国連の趙事務総長もオリオンが原子炉を搭載していることを問題視する声明を出しました。これに対し、小柳首相は先ほど、記者団に対し…」
 
「知りたいだけだ」
「知りたい?」
「そうだ。あんたらは何をやらかそうとしている? 何を仕組んでいるんだ?」
「上の方のことは知らない。興味もない。ただ毎日、命令に従ってドブさらいをするだけだ」
2人とも、さっきまでとは声色ががらりと変わっている。
「…そうか。…最近、政府の一部に不穏な動きがあるのは知っているか」
大沢の問い掛けに、草影は無言で答えた。泡の消えたグラスに右手を戻し、そして、首を小さく左右に振った。
「新日本重工に潜っていた国防省の末端が先週から行方不明になってる。どうやら国防省情報本部の連中、あんたの課が追いかけている組織と大陸を結ぶ何らかの線をそこで引っ掛けたらしい。…田上ちゃんへの手土産だ。協力しろとは言わん。これから定期的に一杯やろうじゃないか」
草影は尚も沈黙し、否定も肯定もしない。
大沢は「女将、熱燗もう1本」。調理場に向かって声を張り上げると、再び小声で「俺は知りたいんだよ、誰が、何の目的で、この国をどうしようとしているのか、それが知りたいだけだ」。独り言のように呟いた。
「特ダネ記事にでもするつもりか」
ようやく口を開き、苦笑した草影に、大沢は「バカ言え。ただの好奇心だ」。そう言い返し、空いたグラスにビールを注いだ。
 
「そろそろお食事の方、お出ししてよろしいかしら」
調理場から愛美が顔を出したときには、すでに張り詰めた雰囲気は消えていた。
「相変わらず美味そうだな」
その後、終電まで酒を酌み交わした。
 
  ◇  ◇
 
深夜―。
 
「どうした、何を見ている?」
「あ…竜介さま」
ふいに声を掛けられた。
「お帰りなさいませ」
すらりとした長身の美女が振り返り、背中まであるサラサラの黒髪がふっと宙を舞った。
 
背後の窓は、足元から高さ3メートルほどの天井まで全面ガラス張り。組織が全国各地に所有するセーフハウスの一つ。超高層マンションの最上階にある部屋からは、見渡す限り眩い湾岸の夜景が広がっている。
 
「物思いに耽っていた様だな、詩織」
「申し訳ありません」
いつの間にか、背の高い若い男が部屋に入ってきていた。自身の絶対なる主人である竜介に向け、詩織が長い睫を伏せた。
 
身に着けているのは肩紐の細いスリップドレス。足元まで覆っている。しかし、精緻なレース刺繍が散りばめられた純白の生地は極めて薄く、釣鐘型で張りのある豊潤な乳房、桃色のツンとしこった可憐な乳頭、一際細く引き締まったくびれ、ほどよい肉付きの腰周り、淡く控えめな茂み、滑らかで吸い付く肌触りの太ももからくるぶしまでの流麗なライン、目を見張るほどに美しい肢体を惜しげもなく透かしていた。絹衣のほかには首と、両手首、両足首に、お揃いのゴールドリングが嵌められている。
 
「昔の男のことでも思い出していたのか」
「まさか…」
化粧などせずとも、間接照明がもたらす光の陰影が整った目鼻立ちを引き立てている。上目遣いに妖艶な笑みを浮かべると、「私は竜介さまの忠実な人形…」。そう言って、まるで誘うように身体をくねらせながら広いリビングを横切った。
「私は竜介さまのために存在する人形…」
ソファにもたれた竜介の足の間に腰を落として横座り。膝の上に手を添え、男の太ももに頬を摺り寄せた。
「…あの、夕食のときに紫さんから聞いたのですが」
「なんだ?」
見上げてすがる仔犬のような視線を向けた詩織の頭を、竜介はいつものように優しく撫でてやる。
「今朝、幹部の方がお一人、政府側に殺されたとか」
「あぁ、理想を持った優秀な男だった。残念だ」
「それで、竜介さまのお帰りがいつもより遅かったので、もしやと、外を眺めながら案じておりました…。もし竜介さまの身に危害が及ぶようなことがありましたら、私が身代わりになってでも必ずお守りいたします」
語尾に力を込め、強い光を宿した大きな瞳。じっと見詰め返していた竜介がしばしの躊躇のあと、ゆっくりと口を開いた。
「詩織、射撃の腕は落ちていないか?」
即答だった。
「私とて、1課時代はアタッカーまで務めた女。わずかの時間で構いません、訓練させて頂ければすぐに取り戻してみせます」
「敵はかつての仲間だぞ。詩織に撃てるのか? 躊躇わないと言えるのか?」
「竜介さまの邪魔をする者は、誰であれ、私が残らず殺して差し上げます」
囚われてからすでに1年近い。強靭な意志と理性が折れるまで3カ月に及んだ拷問と洗脳による精神的、肉体的改造を経て、詩織は今では身も心も竜介の虜。穴という穴、心という心、すべて残らず捧げ切っている。
「詩織、その言葉は本当か。もし戦場で」
 
竜介にとっては、飼い慣らした詩織の至高の肉体を堪能し尽くすだけでなく、聡明な頭脳と優秀な戦闘技術を組織のために生かしてこそ。それこそが拉致し調教した最終的な狙いだった。
 
「おまえの婚約者だった男と鉢合わせても、迷わず殺れると誓えるか」
「お誓いします」
いつの間にか、詩織はジッパーを下げて男性器を取り出していた。
「竜介さまのために生きることが私にとって何よりの幸せ…。あんな男と結婚の約束をしていた忌々しい過去など自分の手で消し去ってみせます」
そう言って、愛しそうに細く長い指で包み込んでいた男性器の竿の部分に、差し伸ばした舌をべたっと張り付かせた。
「ふぁ…」
たくましい牡臭を嗅ぎ取り、鼻にかかった甘声が漏れる。舌腹でたっぷりと熱さと固さを感じ、20秒近くかけてようやく1回舐め上げた。一舐め一舐めたっぷりと時間を掛けてゆっくりと舐め上げる。
「竜介さま…」
うっとりとした表情を浮かべながらたっぷりと唾液をまぶしつつ舐め上げる。舌先で掬い上げた先走り汁の苦味をたっぷりと味わいながら舐め上げる。
 
気の強さを反映した男勝りな言葉遣いも乱暴な態度も、すっかり磨かれしとやかで仕草も上品になった。筋肉質で鍛え上げられた固い身体つきも、適度に脂肪がついて色艶と柔らか味を増した。いつも洗いざらしで肩揃えだった髪も、長く伸ばしてトリートメントを欠かさなくなった。内務省幹部としての将来を嘱望され、凛々しく厳しく、いつも肩を怒らせていた頃の、かつてキャリア官僚だった頃の面影は何一つ残っていない。すべてが竜介好みの『女』に染め直されていた。
 
「竜介さまぁ…。今夜もご奉仕、させて頂いてよろしいでしょうか」
下腹部はキュンと痺れて、湧き上がる欲情は抑えられない。返事を待たず、詩織は唇を尖らせて鈴口に吸い付いた。