城外にある祠の前まで来て、耿雍はようやく足を止めた。
「ここまでくりゃ、追って来ねえよな」
 酒代を賭けた博打でいかさまをやったやらないで始まった喧嘩に巻き込まれ、ここまで逃げてきたのだ。
 腰を下ろし、水筒に口を付けようとした時、背後から低い声が響く。
「け~ん~わ~~~!!」
 ボロボロになった青年が、こっちを睨んでいた。
「い、いやぁ、無事で良かったな。劉大哥(ダークー)」
「この野郎! また俺を囮にしやがって!!」
「大哥のその、長い腕と足の速さなら窮地を脱すると信じてたんだぜ!」
「調子のいいこと、並べやがって」
 そこまで言うと、痛みがぶり返したのか、劉大哥こと劉備は殴られた頬を抑えた。
「全部のしちまったのか?」
「んなわけねえだろ。頭らしい奴の顔ぶん殴って、怯んだ隙にとんずらよ」
 水筒を受け取り、水をがぶ飲みした。
「まあ、話の分かりそうな奴らだったから、後で話を付けるとしても……いつまで持つかどうか」
 世の中が荒れているのは昨日今日のことではない。暗愚な帝を尻目に、政治は外戚と宦官に牛耳られている。
 悪政による搾取と天災に苦しむ庶民たちの間では、太平道という新興宗教に縋る者が多くなっていた。都から遠く離れた、ここ幽州涿郡にも信者がいる。
「物騒な分、俺たちの食い扶持も困らねえから、複雑だが……しっかし、つくづく肩につきそうな耳朶だな」
 ごろんと寝そべって言う耿雍。どうやら生来の癖らしく、まともに立つか座るかして喋る方が珍しいのだ。
「遠いご先祖様もこんな耳だったというぞ」
 耳朶を引っ張りながら、劉備は答えた。
「またその話か? 四百年も前の皇帝の人相なんか、分かるもんか」
「まあ、この祠と一緒だな」
 もはや何を祀っているのかを誰も知らない祠を眺めながら、劉備は己の家系の不確かさを、あっさり認めた。
 確かなのは、皇家と姓が一緒ということだけだ。
「いつか羽葆蓋車(うほがいしゃ)に乗ってやるんだ。使えるもんはなんでも使ってやるさ」
 田舎の一平民が、皇帝のみ乗ることが許される蓋車に乗る夢を語るとは、不敬もいいところだ。……治世であれば。
「そん時は、末席に加えてくれるか?」
「端っから大将軍や三公じゃないとこが、お前らしいな」
 へへへと、鼻を擦る耿雍。
「立身出世ってのは、柄じゃねえや」
「酒池肉林がお前の夢だろう」
「それのどこがおかしい?」
 耿雍は堂々と言ってのける。
「そりゃあ、美味いもん食って、きれいなねーちゃんとよろしくやるのもいいけどよ、男に生まれたからにはでっかい夢を叶えたいじゃねえか」
「俺は大哥たちと酒池肉林するのが夢なんだ」
 その言葉を聞き、『お前も物好きな奴だな』と言いたげな顔をする劉備に、耿雍はこう続けた。
「居心地がいいんだよ。大哥の傍は」


 耿雍の『耿(こう)』は、簡雍(字・憲和)の元々の姓です。
 幽州の方言(?)では『耿』と『簡』の発音が同じだったので、「それなら姓も『簡』に変えちゃえ」と、本当に変えてしまいました。一族の繋がりや姓を重んじる中国人には珍しく、アバウトな人だったようで(^_^;)。
 こんな人でも荊州に流れるまでの劉備陣営にとっては、貴重な頭脳労働者だったんでしょうね。禁酒令のエピソードとか。蜀書の少ない記述の中で残されている傍若無人ぶりも『劉備の長年の戦友』という背景を鑑みれば微笑ましい……かどうかは、人それぞれでしょうね。

 時間軸としては、関羽・張飛と出会う直前をイメージしています。うちの劉備“一家”では、簡雍が一番の古株なんで。

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