ホンダ・ミュージック
初めてF1レース観戦に行ったのが、1988年の鈴鹿での日本グランプリだった。その前年に
日本人として初めてF1にフル・エントリーしたドライバー・中嶋悟の登場によって、世界での
全てのレースが日本のテレビで中継されるようになり、全国的にF1人気が高まっていった。
初めて生でサーキットでのフリー走行を見学したとき、耳をつんざくようなエンジン音に驚き、
ホーム・ストレートをあっという間に走り抜けて行ってしまう色とりどりのマシン達を見て、
あっけにとられたものだ。おまけにそのマシンを駆るプレイヤー達はセナにプロスト、ピケ、ベルガー、
マンセルといったそうそうたるメンバーのオールスター・ライヴ。レース開催中の3日間、
サーキットに通って究極のドライビングとエンジン爆裂音に酔いしれた。
その頃は各チームの供給エンジンの中でもホンダが最強で、レギュレーションがターボからNAエンジンへと移行を始めて
いた時期だった。特徴のある独特のカン高いエンジン音は「ホンダ・ミュージック」などと呼ばれ、
1992年にF1界から一時撤退するまで他を寄せつけない黄金時代を築いていった。この88年の
鈴鹿でのレースでセナが初のワールド・
チャンピオンを決める勝利を収めた時は、本田宗一郎さんもまだお元気だったのだ。
中嶋悟サマ命!
F1人気が日本にも浸透していったのは、この人の功績なくしてはあり得なかった。1987年に
ロータス・ホンダよりF1デビュー、91年のティレル・ホンダで引退するまで、レースの魅力を
私達日本人にも身近に伝えてくれたのだ。デビュー年のシーズンでは全レース彼の車に
小型カメラが搭載され、幸運にもスリリングなドライビング映像を茶の間で見ることが出来た。が、
今でこそ車載カメラは一般的でありコンパクトで軽量なものだが、当時は総重量が15キログラム
ほどもあったらしい。スピードはおろかセッティングもままならないような
ハンデを中嶋が背負うことをわかっていながら、ロータス・
チームはテレビへのサービスと自らの宣伝を兼ねて、本人やホンダのサプライヤーの
断りもなしにFOCA(F1製造者協会)と契約を交わしたのだ。私は車載カメラに映る映像を単純に
楽しんでいたが、後でその事実を知って驚いた。他にもレース中に破損したウィングを、ピットで
大型バンソウコウを貼るだけの信じ難い応急処置をしたり、ヘルメットを拭くタオルを
「自分で拭け」とばかりに投げつけたりなど、チームメイトのセナやピケと比べて天と地ほどの
屈辱的な扱いを受けていた。(当時の監督のピーター・ウォー!私は今でも根に持っているぞ)
単身で世界の舞台に乗り込むのは並み大抵のことではないだろうに、このような不遇の時期も
通り抜けてきた彼は、鈴木亜久里や片山右京、佐藤琢磨といった後続の日本人ドライバー達に
道を開いていったのだ。戦歴は最高位4位と大きな結果は残せなかったものの、私達に素晴らしい
夢を見せてくれた偉大なレーシング・ドライバー、中嶋悟。91年の7月にホッケンハイムで発表された彼の引退とともに、私のF1ブームも終わった。
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