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一町歩の面積は3000歩。 田んぼの面積です。 あゆみ(歩) あぜまめ ぶぎょう みちのきみ
おびとな ちてき こうけん 元正天皇 養老二年(718)夏四月 ○乙亥 筑後守正五位下道君首名卒。首名、少治律令、 〔頃畝〕 頃(ころ)と畝(せ)。古代中国では、耕地を囲う土垣のことで、耕地面積の単位にした。しかし、水田耕作を宗にした日本 |
| はじめに 筑後平野の水田地帯をのろのろと走る汽車の窓から、(右の写真のように)農家の人が水車を踏んで溝から田圃に水を汲み揚げている光景を見たことがあります。 昭和30年頃、エネルギー転換が始まり、炭鉱の閉山が相次ぎますが、まだ蒸気機関車が活躍し、いくつかの炭鉱が細々と操業していたときのことです。 あたり一面に水田がひろがる中、ところどころの畔上には大豆が一列に植えられていて、その颯爽とした緑色が目をひいたことも覚えています。 旧日本の労働集約的農業が形成した水田の景観をちょっと見ただけでしたが、最初は筑後守道君首名に勧められて植えた(頃畝樹菓菜)という〔畔豆〕をしっかり現地で見たことは、今になって貴重な体験になりました。恐れながら、屈指の律令官僚であった道君首名にしても、彼の若かりし大宝律令(少治律令)と再び向き合う幸せを感じていたのではないか。 「田んぼ一町歩の面積はなぜ(3600歩ではなくて)3000歩なのか?」というシンプルで素敵な問掛けを見て、畔豆のことを直ちに思い、提起された問題の率直な解明に向けて、大いに貢献しなくてはいけないと思いました。ついでに、 |
普通水車ヲ一台、盛夏ニナッテ水位ガ下ルト二段。旱バツノ時ハ三段ニイタシマンタ。三段ニ水車ヲカケマスト普通夫婦二人ノトコロデハモウ一人誰力来ナケレバヤッティケマセン。二段ノ場合デモ下ノ車ガ水イッパイニツカッテ居レバ楽デスガ、羽根ガ半分位シカツカッティナイ時ハ大変重イノデ、学校二行ッテイル子供ガ帰ルトコレヲ前ニノセテ踏マセマス。ソウスルト大分楽ニナルノデヨク子供ヲノセタモノデス。処ガコレガ毎日ツヅクノデソノ骨折りハ並大抵ノコトデハナク、平坦部ノ農家ニハ嫁ニハヤラヌトマデイワレマシタ。ソレハ傘ヲサシテ子供マデ水車ヲ踏マセナケレバヤッティケナイカラトイウワケデス。本当に水車踏ミハ大変ニキツイ仕事デ、ソノタメ冬中二身体ヲツクッテオカナケレバ水車踏ミハデキマセンデシタ。コノタメ薬モ沢山用意シテオキマンタ。烏犀圓ノヨウナ精分強メノ薬ガナイト身体ガモタヌノデス |
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ですが、知的に貢献したいという願いは、それが困難な現状と裏腹の関係にあります。 |
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これは、或る日の "教えてgoo" Q. A. Q. A. Q. A. Q. 何故かは分かりませんが、 A.
派生して、じいちゃんの blogより、「覚書 幕末の水戸藩」
山川菊栄著 を読み終える 水戸藩の台所事情 年貢の基礎となる検地は秀吉の前までは360坪を1反としたが、秀吉以後300坪を1反とし、反当りの収量見積は旧法のままとしたので約3割(2割が正しい)の増税となった。 水戸藩は25万石の領主だったが3代藩主綱條(つなえだ)の時一石の加増も無いのに、35万石を主張して承認を得た。これは検地によって増税した分を基礎に藩の所得を大きく見せ、御三家の威を張るためだった。
その他 Q. |
>田んぼの面積です。一町歩は、3000歩? 3600歩?
ひとまず私はこう思う(想う)。 ■■■■■■ ■■■■■■ 田んぼは3000歩です。畔と溝が合せて600歩です。 これが田んぼ1町を含む地割1町のイメージであり、地割1町に含まれたす。そこでつぎに、田んぼの1町を3600歩より少なく定めることには、どんな意味があるかというアイデアを考えますと、まず「畔や溝のひろさを課税面積から除外する」という意味が考えられます。 税を賦課するために水田の面積を測るとき、畦畔地まで課税面積に算入されるかどうか。当事者にとって切実な問題ですが、太閤秀吉が南九州を検地したときの斗代定書に「五間六拾間壱反事。但、あせ・井・ミそ除之。」という一項があるので、畔や溝のひろさは課税面積から除外されていたいたことがわかります。(当事者間では言う必要のない常識ですが、言ってもらうと、部外者には非常に有難いものです。) 要するに、田んぼは、畔や溝によって、狭められています。田んぼ1町が3000歩なることを(その典型をイメージして)思うときには、この事実を思い起こすのが得策です。 地割の1町(3600歩)がまるまる耕地になっていても、 しかし、これは考えものだ。想うものではない。 いまの説明によって、Qさんの「これは変だぞ」という思いはだいぶ軽減されたと思います。 ■■■■■■ ■■■■■■ 田んぼ1町は3600歩でした。 もちろん「田んぼの面積です」。田んぼ1町が3600歩ですが、「畦畔地(畔や溝)はひとつも見えない」という図です。 条里制における田んぼの1町は2500歩。 ひとまず私はこう思う(想う)。 ←60歩→ 田んぼは2500歩です。畔と溝が合せて1100歩です。 |
(田令第3条)
○凡給口分田者男2段。女減3分の1。5年以下不給。其地有寛狭者従郷土法。易田倍給。給訖具録町段及四至。これがそれです。口分田の田んぼ2段は500歩。すなわち、その「租稲3束」なる「熟田百代」です。
田んぼ1町(3000歩)の品格
Q and A の議論の趨勢は、「1町歩(3600坪)」に限って、町地割に適した品格(格調の高さ)を、認めることになり、そこから堕落したのが「田んぼ1町(3000歩)」であるかのような感想に流れて行きました。これは横綱審議会の議論が不完全燃焼で、Qさん本来の厳しい問い掛けに答えきれていない。私は、あとからでも酸素を補給しなければいけないと思い、筑後守道君首名が畔豆を植えたこと、検地奉行、石田三成・細川忠興(幽斎)らが「あせ・井・ミそ」を「除」いたことを、ここに報告しました。
要するに、田んぼ1町(3000歩)は畔や溝のために切りよく600歩を余しているのだから、地割1町(3600歩)に適合した品格を、これにも無条件で認めてもよい。それがわかれば、べつに調子が変だなと思うことはない。
また、これがいつから始まった?
下に千年の経過を描きましたが、近世の形式には奈良時代の「折衷租法輸租田」の面影がありそうです。
| 〔食べる升〕 減大升 米1斛 2240寸 |
〔運ぶ升〕 租穀 不減大升 米1斛 2800寸 |
宣旨升 米1斛 3240寸 |
京升 米1斛 6482.7寸 |
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| ■ | 2400歩 | 2500歩 | 3000歩 | 3600歩 | 3000歩 |
| ■ | 〔熟田500代〕 | 〔520代余〕 | 〔良田625代〕 | 〔750代〕 | 〔625代〕 |