一町歩の面積は3000歩。 田んぼの面積です。            あゆみ(歩)

 あぜまめ ぶぎょう みちのきみ おびとな     ちてき  こうけん
畔豆奉行 道君 首名の 知的貢献

元正天皇 養老二年(718)夏四月 ○乙亥 筑後守正五位下道君首名卒。首名、少治律令、
暁習吏職。和銅末(六年 713 八月)、出為筑後守、兼治肥後国。勧人生業、為制条、教耕営。

頃畝菓菜
、下及鶏豚、皆有章程、曲尽事宜。既而時案行、如有不遵教者、随加勘当。
始者老少窃怨罵之。
及収其実、莫不悦服。一両年間、国中化之。又興築坡池、以広灌漑。肥
後味生池、及筑後往々坡池皆是也。由是、人蒙其利、于今温給、皆首名之力焉。故言吏事
者、咸以為称首。及卒百姓祠之。(続日本紀)

 頃畝 頃(ころ)と畝(せ)。古代中国では、耕地を囲う土垣のことで、耕地面積の単位にした。しかし、水田耕作を宗にした日本
       の国においては、水田を囲む畦畔(あぜ)のこと。水田面積の単位としては、大きさを変えて町段(反)畝のことになる。
 菓菜 「野菜」の3分類(根菜・葉菜・菓菜)の一つ。実の成る野菜のこと。大豆は穀類で苦しいけれども「枝豆」の内は野菜です。
        また大豆のことを「畔豆」という地方も多く、畦畔(あぜ)には大豆がよく似合うので菓菜の品目はこれに限ります。
     間違って「果樹と野菜」でも果樹は植えない。果樹を植えても1、2年で実を結ばないので、「及収其実、莫不悦服。」にしても
       「一両年間、国中化之。」には間に合わない。いま筑後では果樹栽培が盛んですが、そこに話が向かないように願います。

はじめに
 筑後平野の水田地帯をのろのろと走る汽車の窓から、(右の写真のように)農家の人が水車を踏んで溝から田圃に水を汲み揚げている光景を見たことがあります。
 昭和30年頃、エネルギー転換が始まり、炭鉱の閉山が相次ぎますが、まだ蒸気機関車が活躍し、いくつかの炭鉱が細々と操業していたときのことです。
 あたり一面に水田がひろがる中、ところどころの畔上には大豆が一列に植えられていて、その颯爽とした緑色が目をひいたことも覚えています。

 旧日本の労働集約的農業が形成した水田の景観をちょっと見ただけでしたが、最初は筑後守道君首名に勧められて植えた(頃畝樹菓菜)という畔豆をしっかり現地で見たことは、今になって貴重な体験になりました。恐れながら、屈指の律令官僚であった道君首名にしても、彼の若かりし大宝律令(少治律令)と再び向き合う幸せを感じていたのではないか。
 凡吏が古い職務を引き継いでいるとき、能吏は新たな職務を創り出す。
 いま私は首名のことを畔豆奉行と呼びたいのですが、彼が自らの発意によって畔豆奉行に任じた裏には、(彼の若かりし)大宝律令を(老成の今)思う存分に実践に移して、目を見張る成果を得ようとする意図が隠されていたのではないか。
 もっとも首名の経歴を見ただけでもこの程度の憶測は言えるので、彼が覚悟した課題を見定めてその原因に迫る勢いが更に必要です。彼は「畔に豆を植える」という課題を肝に命じたので、私はこれに関連する大宝令の条文を3つ挙げたい。
(田令第1条)
○凡田長30歩広12歩為段。
段租稲2束2把。10段為町。町租稲22束。
  ただし、○〔令前租法〕 熟田100代租稲3束。町租稲15束。
(田令第3条)
○凡給口分田者男2段。
女減3分の1。5年以下不給。其地有寛狭者従郷土法。
 易田倍給。給訖、具録町段及四至。
(賦役令第7条)
○凡田有水旱蟲霜不熟之処。国司検実具録申官。十分、損5分以上免租。
 損7分免租調。損八分以上課役倶免。若桑麻損損尽者各免調。其已役
 已輸者聴折来年。

 「田んぼ一町歩の面積はなぜ(3600歩ではなくて)3000歩なのか?」というシンプルで素敵な問掛けを見て、畔豆のことを直ちに思い、提起された問題の率直な解明に向けて、大いに貢献しなくてはいけないと思いました。ついでに、
 
普通水車を1台、盛夏になって水位が下ると2段。旱魃の時は3段に致しました。
 
梅にウグイス。畔豆に足踏水車というわけで、これも同行に加えたい。

普通水車ヲ一台、盛夏ニナッテ水位ガ下ルト二段。旱バツノ時ハ三段ニイタシマンタ。三段ニ水車ヲカケマスト普通夫婦二人ノトコロデハモウ一人誰力来ナケレバヤッティケマセン。二段ノ場合デモ下ノ車ガ水イッパイニツカッテ居レバ楽デスガ、羽根ガ半分位シカツカッティナイ時ハ大変重イノデ、学校二行ッテイル子供ガ帰ルトコレヲ前ニノセテ踏マセマス。ソウスルト大分楽ニナルノデヨク子供ヲノセタモノデス。処ガコレガ毎日ツヅクノデソノ骨折りハ並大抵ノコトデハナク、平坦部ノ農家ニハ嫁ニハヤラヌトマデイワレマシタ。ソレハ傘ヲサシテ子供マデ水車ヲ踏マセナケレバヤッティケナイカラトイウワケデス。本当に水車踏ミハ大変ニキツイ仕事デ、ソノタメ冬中二身体ヲツクッテオカナケレバ水車踏ミハデキマセンデシタ。コノタメ薬モ沢山用意シテオキマンタ。烏犀圓ノヨウナ精分強メノ薬ガナイト身体ガモタヌノデス
足踏水車!さがの歴史・文化お宝帳

 ですが、知的に貢献したいという願いは、それが困難な現状と裏腹の関係にあります。
 ○畔に大豆を植えました。.......... それがどうして、田積は?という課題の解明に寄与するのか?
 ○田圃に水を張りました。.......... それがどうして、田積は?という課題の解明に寄与するのか?
 わかっていても、言葉が不自由で説明が難しい。しかし、説明を求められれば、なんとかして意を伝えたい。出来は相手次第、賢明な質問者に恵まれることが肝要ですが、ま、やってみます。

 

これは、或る日の "教えてgoo"

Q. 
一町歩の面積は?
田んぼの面積です。一町歩は、3000歩? 3600歩?
60間が一町と聞きました。で、一町×一町が一町歩と聞きました。
なら3600歩となるのですが、一町歩は、3000歩とも聞きました。
これは、どう考えるのが正解なのでしょう?

A.
1町=10反
1反=10畝
1畝=30坪 です。

Q.
ありがとうございました。

1町=10反(=3000歩)
1反=10畝(=300歩)
1畝=30坪
は理解しているつもりです。
しかし、別の所で、60間=1町と聞いた瞬間、これは変だぞ、と思いました。
60間四方は、3600となるからです。
もとは、3600だったのが、どういうことで3000へと変更になったか、
それはいつか。という事を聞きたかったのでした。(たぶん)

A.
条里制においては、一辺の長さが1町の正方形の面積を1町(町歩)としていた。
(1町が60歩なので3600歩)
太閤検地の際に3000歩(坪)を1町とした。
長さの単位の町との区別のために町歩(ちょうぶ)と呼ぶこともある。
とのことでありますので、
条里制における1町歩(3600坪)と太閤見地の後(3000坪)の違いですね。

Q.
ありがとうございます。
太閤検地とは思いもよりませんでした。
せいぜい、尺貫法からメートル法に変わったときに
何かあったのかな?くらいでした。
長さの単位の町は分かるのですが、
それの平方が町歩というのも理解できるのですが、
なぜ、3600だったのが3000になったのか、
そのいきさつが知りたかったのでした。
ありがとうございました。

A.
1町=10反
1反=300坪
1坪=3.3㎥
以上より3.3×300×10=9900㎥です。
単位が違うところをみると何か質問の趣旨(回答の仕方)がちがいますか?

Q.
ありがとうございます。

何故かは分かりませんが、
>1町=10反
>1反=300坪
>1坪=3.3㎥
>以上より3.3×300×10=9900㎥です。
のように文字化けしております。
何故なのかな?

文字化けはどうでもよく、
回答頂けてありがとうございました。

A.
結果的には、お上の都合?増税(増年貢)?
検索キー:太閤検地 3000 3600
Random Memorandum 2004Q3:http://hondou.homedns.org/pukiwiki/pukiwiki.php? …
20041113 面積を見て下さい。

  • 1反=360歩から1反=300歩になったのは太閤検地で、
    • 功臣を封建するのに領地の面積を大きくするため
    • 領土に応じた軍役を大きくするため

派生して、じいちゃんの blogより、「覚書 幕末の水戸藩」 山川菊栄著 を読み終える
http://pub.ne.jp/niiya/?entry_id=905884

水戸藩の台所事情

年貢の基礎となる検地は秀吉の前までは360坪を1反としたが、秀吉以後300坪を1反とし、反当りの収量見積は旧法のままとしたので約3割(2割が正しい)の増税となった。
徳川幕府になった1641年にも検地が行なわれた。このとき、
豊臣時代には「6尺5寸を一歩とし300歩1反」としたが、徳川になって、「6尺を1歩、300坪を1反とする」となり農民には厳しい収量見積となった。

水戸藩は25万石の領主だったが3代藩主綱條(つなえだ)の時一石の加増も無いのに、35万石を主張して承認を得た。これは検地によって増税した分を基礎に藩の所得を大きく見せ、御三家の威を張るためだった。
このため他藩に比して水戸藩の農民は重税にあえぎ苦労を背負わされたと菊栄は言う。

その他
http://www.emukae.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/gaisetsu …
http://www.pat.hi-ho.ne.jp/hirosilk/o14.htm

Q.
大変よくまとまっており、わかりやすかったです。
有難うございました。

>田んぼの面積です。一町歩は、3000歩? 3600歩?
>これは、どう〔考える〕のが正解なのでしょう?

 どう〔考える〕。しかしあなたは考えている場合でしょうか?
しかし、別の所で、60間=1町と聞いた瞬間、
>これは変だぞ、と思いました。
 これは(イメージが)変だぞと思った。「
正解」というよりも、正直なところ、腑に落ちるイメージを求めていたのではないか。 
これは、どう〔思う(想う)〕のが正しいでしょう?
というのがQさんの偽らざる問い掛けであった筈です。

ひとまず私はこう思う(想う)。

 ■■■■■■ ■■■■■
 ■■■■■■ ■■■■■■ 6
 ■■■■■■ ■■■■■■ 0  (ブロック1つが100歩)
 ■■■■■■ ■■■■■■歩
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 ■■■■■■ ■■■■■
            
50歩  10歩

 田んぼは3000歩です。畔と溝が合せて600歩です。

 これが田んぼ1町を含む地割1町のイメージであり、地割1町に含まれたす。そこでつぎに、田んぼの1町を3600歩より少なく定めることには、どんな意味があるかというアイデアを考えますと、まず「畔や溝のひろさを課税面積から除外する」という意味が考えられます。

 税を賦課するために水田の面積を測るとき、畦畔地まで課税面積に算入されるかどうか。当事者にとって切実な問題ですが、太閤秀吉が南九州を検地したときの斗代定書に「五間六拾間壱反事。但、あせ・井・ミそ除之。」という一項があるので、畔や溝のひろさは課税面積から除外されていたいたことがわかります。(当事者間では言う必要のない常識ですが、言ってもらうと、部外者には非常に有難いものです。)

 要するに、田んぼは、畔や溝によって、狭められています。田んぼ1町が3000歩なることを(その典型をイメージして)思うときには、この事実を思い起こすのが得策です。

 地割の1町(3600歩)がまるまる耕地になっていても、
  その6分の1(600歩)は畦畔地(畔や溝)に占められて、 
   田んぼの1町(3000歩)なる本地に留まる。

しかし、これは考えものだ。想うものではない。

 いまの説明によって、Qさんの「これは変だぞ」という思いはだいぶ軽減されたと思います。
 そのかわり、これは変だぞ
条里制においては、一辺の長さが1町の正方形の面積を
>1町(町歩)としていた。(1町が60歩なので3600歩)

 ■■■■■■ ■■■■■■
 ■■■■■■ ■■■■■■ 6
 ■■■■■■ ■■■■■■ 0  (ブロック1つが100歩)
 ■■■■■■ ■■■■■■歩
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 ■■■■■■ ■■■■■■
              60歩

 田んぼ1町は3600歩でした。

 もちろん「田んぼの面積です」。田んぼ1町が3600歩ですが、「畦畔地(畔や溝)はひとつも見えない」という図です。
 私は、これではいけない。
>田んぼの面積です。一町歩は、3600歩。
>これは、どう〔考える〕のが正解なのでしょう?

 どう〔考える〕。まったく、あなたは考えている場合です。
しかし、別の所で、60間=1町と聞いた瞬間、
>これは変だぞ、
と思わなかった。
(田令第1条)
○凡田長30歩広12歩為段。 10段為町。
   〔令内租法〕  
段租稲2束2把。  町租稲22束。

 律令を後ろ楯にして権威はあるけれども、私にいわせれば、これは「考えもの」です。
結果的には、お上の都合?増税(増年貢)?
 ひいては「田んぼ1町は3000歩」まで「考え物」一筋にしてしまう「考えもの」です。
  律令に「田んぼ1町は3600歩」と定めているけれども、「想うもの」はやはり「想うもの」と比べてほしいとき、
○ 〔令前租法〕  熟田100代租稲3束。町租稲15束。
一方ではこの格式があります。町租稲の〔令内租法〕22束と〔令前租法〕15束を比較してみて、後者は2500歩です。これを贔屓にして、「それが2500歩なんだよ」といってみたい。

 条里制における田んぼの1町は2500歩。
これは、どう〔思う(想う)〕のが正しいでしょう?

ひとまず私はこう思う(想う)。

      ←60歩→
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 ■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■  
 ■■■■■■■■■■■↑
 ■■■■■■■■■■■ 6
 ■■■■■■■■■■■ 0
 ■■■■■■■■■■■歩
 ■■■■■■■■■■■↓
 ■■■■■■■■■■
 ■■■■■■■■■■■  (ブロック1つが25歩)
 ■■■■■■■■■■
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 田んぼは2500歩です。畔と溝が合せて1100歩です。
 即ち、田んぼ1町は2500歩だったと思うのが正しい。

(田令第3条)
○凡給口分田者男2段。
女減3分の1。5年以下不給。其地有寛狭者従郷土法。易田倍給。給訖具録町段及四至。

 これがそれです。口分田の田んぼ2段は500歩。すなわち、その「租稲3束」なる「熟田百代」です。

田んぼ1町(3000歩)の品格

 Q and A の議論の趨勢は、「1町歩(3600坪)」に限って、町地割に適した品格(格調の高さ)を、認めることになり、そこから堕落したのが「田んぼ1町(3000歩)」であるかのような感想に流れて行きました。これは横綱審議会の議論が不完全燃焼で、Qさん本来の厳しい問い掛けに答えきれていない。私は、あとからでも酸素を補給しなければいけないと思い、筑後守道君首名が畔豆を植えたこと、検地奉行、石田三成・細川忠興(幽斎)らが「あせ・井・ミそ」を「除」いたことを、ここに報告しました。
 要するに、田んぼ1町(3000歩)は畔や溝のために切りよく600歩を余しているのだから、地割1町(3600歩)に適合した品格を、これにも無条件で認めてもよい。それがわかれば、べつに調子が変だなと思うことはない。
 また、これがいつから始まった?
 下に千年の経過を描きましたが、近世の形式には奈良時代の「折衷租法輸租田」の面影がありそうです。

 〔食べる升〕
  減大升
米1斛 2240寸
〔運ぶ升〕 租穀
 不減大升
米1斛 2800寸

  宣旨升
米1斛 3240寸

  京升
米1斛  6482.7寸

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 ■  2400歩   2500歩  3000歩   3600歩 3000歩
 ■ 〔熟田500代〕  〔520代余〕 〔良田625代〕    〔750代〕  〔625代〕

 

あゆみ(歩)