隼人が生まれてくる物語(目次)     あゆみ(歩)

隼人神話 俘囚神話 〜熊襲(肥人⇒隼人)激動の世紀〜

謹製〔造籍⇒班田〕関連年表で見分ける蝦夷(毛人⇒俘囚)との違い
     
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〜初めて大縄跳びの輪の中に跳び入った時が最後で、その大縄は次の回にはもう廻って来ないのだから。〜


造籍と班田

戸籍は、律令公民制の身分支配の根幹をなす台帳である。また、口分田班給の台帳ともなった。

口分田班給の基礎台帳ともされた戸籍については、持統天皇4年(690)の庚寅年籍が最初となった。

中国では、毎年作っていた。しかし、日本では6年に1度造る。11月上旬から作り始め、2年目の5月30日までに里ごとに一巻にし、各三通作成して、そのうちの二通を国単位で政府に献上した。その冬から三年目の春にかけて、校田と言われる、班田できる土地の確認作業に着手した。11月から4年目の2月にかけて、班給される人の名を記入した班田図を作りつつ、班田していった。その際は、個人単位ではなくて、戸主に一括を支給した。 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E6%88%B8%E7%B1%8D

〔例〕 714●造籍 11月上旬から作り始め、
元正 霊亀 715 | 2年目の5月30日までに里ごとに一巻にし、各三通作成して、二通を国単位で政府に献上した。その冬から
    716■班田 三年目の春にかけて、校田と言われる、班田できる土地の確認作業に着手した。11月から
養老 717 4年目の2月にかけて、班給される人の名を記入した班田図を作りつつ、班田していった。

律令の規定では、六歳以上の良男には二段(一段は360歩)、良女にはその三分の二(一段120歩)、家人・私奴婢は良民の三分の一を支給するとある。 同上

 

班田収授制がまさに崩壊期に入る延暦19年(800)、大隅・薩摩二国で初めて班田が実施された。

〔造籍−班田〕サイクルの消長の研究 虎尾俊哉 班田収授法の研究 p286〜287 第三篇 班田収授法の施行と崩壊

要するに、奈良時代前期までは造籍の二年後、後期には造籍の三年後に班田が行われ、延暦期に入っては造籍の四年後に班田が行われているのであって、このように、漸時造籍と班田との間隔が拡がっていく傾向にあった。造籍と班田との密接な関係から言えば、造籍四年後班田ということは、既に相当アブノーマルな状態であるが、もし、この造籍と班田との間隔が更に延びて、六年となると、遂に班年は次回の籍年と一致して了う。(そしてこれ以上間隔の開くことは遂に造籍と班田との密接な関係を破壊する)。延暦十九年は、正にこの事態の現実化した年であったのである。
 延暦十九年には、おそらく全国的な規模で班田が行われたであろうことは、この年に班田の明証のある国として、尾張・大隅薩摩を指摘できるし、またその前年の八月に畿内に校田使が派遣されている事実によって、恐らく疑いあるまい。そして、この延暦十九年が籍年と推定されることは前述の通りである。...。即ち、此処に班年が遅延して次の籍年と合致するという事態を惹起するに至ったのである。

 従って、この後六年一班の原則が破れ、一紀(12年)一行が令せられてからは、班田制が崩壊への途を辿ることになったのは誠に止むを得ないことであったと言わなければならない。そのことは、この後、全国一斉同時班田という原則もまた蹂躪されたことに現れていると言えよう。即ち、弘仁五年七月廿四日の勅によれば、「大同以来、疾疫間発、諸国班田、零畳者多」という状況であるという。従って、大同以前、即ち、延暦十九年の班田施行を最後として、全国一斉班田ということは行われなくなったと解して差支えない。

(右) 〔造籍−班田〕サイクル表(虎尾俊哉編) 同上 p314〜315

 以上の班田法施行期における班田と造籍との実施状況の探求に当っては、僅か一・二の国に造籍の証があれば、それを以てその年を籍年とし(即ち全国的に造籍が行われたとし)、また、同じ程度の班田の証があれば、同様その年を班田として全国的な班田の施行を推定して来た。これは実はすこし大胆なやり方であって、慎重を期し厳密を求めれば、四証図のある場合などを除いては、その施行の範囲は不明として置くべきだとされる向もあろう。......。これはたしかに尤もなことであるが、しかし、私は上来述べ来ったようにむしろ楽観的に考える考える方がよいと思う。というのは、某年に造籍の証ある国と、それに近い某年に班田の証ある国とは、毎回殆ど一致しない。.....。にもかかわらず、両者の間には、天平十四以前は二年。以後は三年というように年代的に統一のとれた全く錯乱のない年次関係が存在するのである。

(注) 〈    〉は推定によるもの

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天平

天平

〈 〃〃

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.  〈

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  籍 年

持統 4(690)

〃〃10(696)

大宝 2(702)

和銅 1(708)

〃〃 7(714)

養老 5(721)

神亀 7(727)

天平 5(733)

〃〃12(740)

〃〃18(746)

勝宝 4(752)

宝字 2(758)

〃〃 8(764)〉

宝亀 1(770)〉

〃〃 7(776)〉

延暦 1(782)

〃〃 7(788)

〃〃13(794)〉

〃〃19(800)
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.  〈

.  〈

.  〈

.  〈

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.  〈

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天平

天平

神護

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.  〈

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  班 年
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持統 6(692)

文武 2(698)〉

慶雲 1(704)〉

和銅 3(710)〉

霊亀 2(716)〉

養老 7(723)

天平 1(729)

〃〃 7(735)〉

〃〃14(742)

〃〃21(749)
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勝宝 7(755)

宝字 5(761)

景雲 1(767)

宝亀 4(773)

〃〃10(779)〉

延暦 5(786)

〃〃11(792)


〃〃19(800)

 

本土(南九州)に原住していた肥人


    賦役令 凡辺遠国。有夷人雑類之所。応輸調役者。髄事斟量。不必同華夏。

(令集解)釈云「古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類」。つぎに「隼人。毛人。本土謂夷人也。此等雑居華夏謂之雑類也。」

 未だ大和朝廷の支配が及ばざる辺境の民が「夷人雑類」なる概念に捕捉される中、南九州に居住していた民族の名称が「肥人」から「隼人」に変ったという。私は、次に見る万葉集(巻11)の相聞歌?二首にしても、このことを基調にしていると理解したい。

  2496   肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉  (人麻呂歌集)
        肥人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結へる染(しめ)木綿(ゆふ)の染(し)みにし心我れ忘れめや
  2497  早人 名負夜音 灼然 吾名謂 麗恃  (人麻呂歌集)
       早人(はやひと)の 名に負(お)ふ夜声(よこゑ) いちしろく 吾(わ)が名は告(の)りつ 妻と恃(さもら)ふ

 同じことはまだあります。文武四年(700)覓国使を剽劫して朝敵となった「肥人」が、討伐された後(702)「薩摩隼人」に変っていた

○薩末比売・久売・波豆、衣(そ)評督衣(そ)君縣、助督衣(そ)君弖自美、又肝衝難波、→○討薩摩隼人軍士授勲各有差。
 従肥人等、持兵、剽却覓國使刑部真木等。於是勅竺志惣領、准氾決罰。

 以上の類例を3点確保して、私は、合点 承知之助。 昨日の「肥人」こそ今日の「隼人」であるに違いない。
 しかも、この流れは、なにぶん
●〔造籍〕との関連において、明白であるとします。
 「いちしろく吾が名は告りつ」も、「我れ忘れめや」も、戸籍に名前を控えておけば、忘れる心配がないからです。

 〔律令撰定〕 700 ....、従肥人等、持兵、剽却覓國使刑部真木等。於是勅竺志惣領、准氾決罰。
大宝 701 薩摩・多ね、隔化逆命。於是発兵征討。  〔第1次はやと肥人戦争〕
    702●造籍    遂、校戸置吏焉。
 ついに、へをしらべ りをおく
 肥人の 額髪結へる 染木綿の 染みにし心 我れ忘れめや
 早人の 名に負ふ夜声 いちしろく 吾が名は告りつ 妻と恃ふ
    703 | 唱更国司言「於国内要害之地、建柵置戍、守之。」 討薩摩隼人軍士授勲各有差。

 それであれば、「肥人」という人達の人定についても、それほど怪しげに思い悩むことはない。上野(上毛)・下野(下毛)国⇒東北地方の夷人が「毛人」であるように、肥前・肥後国⇒南九州の夷人は「肥人」であると理解すればなんでもないことだ。

 南九州では、そこに原住していた「肥人」を一斉に「隼人」に改称するという政治的な策動がおこなわれたに違いあるまい。
また、一方の、
 東北地方では、そこに原住していた「蝦夷(毛人)」を一斉に「俘囚」に改称するという政治的な策動がおこなわれたに違いあるまい。

719 ●遷東海・東山・北陸三道民二百戸、配出羽柵焉。
藤原不比等没 720〔第3次はやと戦争〕 ○隼人反、殺大隅国守陽侯史麻呂。(二月) ○蝦夷反乱、殺按察使正五位上上毛野朝臣広人。
    721●造籍  
良田百万町開 722政策 ○征討陸奥蝦夷、大隅薩摩隼人等、将軍已下及有功蝦夷併訳語人、授勲位各有差。(四月)
〔三世一身法〕 723■班田◎ ◎大隅・薩摩二国隼人六百廿四人朝貢。(五月)
聖武 神亀 724 俘囚百四十四人配于伊予国、五百七十八人配于筑紫、十五人配于和泉監焉。閏正月。
725 〔多賀城碑〕↑此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勳四等大野朝臣東人之所置也

華夏に雑居していた隼人

 この時、華夏に雑居していた隼人は、もとより火照命の倅(せがれ)であった。昔々、潮満玉津波に攫われて溺れた兄火照命が、弟(火遠理命)に許しを乞い願って、孫子の代までと約束したボディガード業務を忠実に続けて来たという(宮垣を護る隼人)。しかし、天孫の血筋確かな華夏隼人と違って、本土に原住していた肥人は、時にすれ違い、空にかけ離れているので、火照命という貴き祖先に辿り着くことは出来そうにない。それでも諦めずに古代日本の歴史地理を紐解いて、「野暮な貴方がたこそ今の天皇陛下の兄貴分にも当る隼人なんですよ」と親切に説明されると、(天孫降臨から神武東征に至るまでの間)皇室の一員であった過去が本当みたいで、悪い気はしない。遥か神代の昔話に耳を傾けても「夷人雑類」の境遇はすこしも変らず、幾度も戦火を交えたけれども、嗅がされた鼻薬はじんわりと効いてきて、倭人への敵対意識を緩め闘争心を和らげる作用は確かにあったと思われます。
 比するに東北の辺境においては、「蝦夷に囚われていた倭の民(俘囚)が、倭族の血筋に目覚めて朝廷に帰順する」という神話的な同化構想が用意されていながら、倭人への敵対意識を緩め闘争心を和らげることは少なく、かえって僅かな気持の行き違いから半端な憎悪感情を生じることが多かったようです。結局、東北の俘囚神話は、(朝廷が望むように)素直には育たず、親の手を焼かせる不良少年になっていったといえます。
 ときに南九州にも、固有の俘囚神話〜熊襲に囚われていた倭の民(肥人)が朝廷に帰順する〜がありそうなものですが、朝廷は、
文武四年(700)、そのありがちな俘囚神話に持出し禁止の封印を押した上で、今後は、一に隼人神話を活用して、肥人を適度におだてながら夷人雑類として差別的に処遇する政策に専念することにした。つまり、「隼人=火照命が、朝廷=火遠理命のあくなき水責めに降参して、渋々服従するのは構わないが、肥人が(忠義を気取って)進んで帰順する真似をするのは二度と許さないよ。」というわけ。さしづめ覓国使剽却事件は、「我ら肥人は既に朝廷に帰順しております。これこのように。」と言って開き直ったところ、(奥方は)「開き直るその態度が気にいらないのよ」と言ってつむじを曲げたのが揉め事の真相ではないかと思う次第です。

隼人司(衛門府 管司一)  令集解巻五 職員令

正一人 掌検校隼人 謂。隼人者。分番上下。一年為限。其下番在家者。差科課役。及簡点兵士。一如凡人。釈
云。畿内及諸国 有附貫者。課調役。及簡点兵士。古記亦同之。朱云。凡此隼人者良人也。
古辞云。薩摩大隅等國人。初捍。後服也。諾 及名帳。教-習歌舞 穴云。隼人之職是也。朱云。教-習歌舞。謂隼人之
請云。已為犬。奉仕人君者。此則名隼人耳。 中。可有師也。其歌舞。不在常人之歌舞。可別也。
造-作竹笠事 朱云。一端耳。竹扇等。 佑一人。令史一人。使部十人。直丁一人。隼人。
亦可作者。私所不見文。

 (畿内の)隼人が律令制度化された当初、今来隼人は物の数に入っていなかった。

隼人の民 と 柵戸の民

713● 〔第2次はやと戦争〕 ●割日向国肝坏贈於大隅姶羅四郡。始置大隅国。○今討隼賊将軍併士卒等戦陣有功者1280余人。
714●造籍 ●隼人昏荒野心未習憲法。因移豊前国民二百戸。令相勧導也。●割尾張・上野・信濃・越後等國民二百戸、配出羽柵戸。
元正 霊亀 715 |  
 ↓郷里制 716■班田  
養老 717 ●(右に同じく完了したか?「焉」は終焉の意。) ●以信濃・上野・越前・越後四國百姓各一百戸配出羽柵戸焉。

 714年の造籍において、朝廷は、七道諸国の人口と口分田数のバランスを見計り、2年後の班田収授のとき人口が超過することが確実な豊前国の民の内の200戸を、大隅・薩摩の二国に移しておくことにした。
 生まれて間もない大隅・薩摩の二国は、「辺遠の国」にして、「夷人雑類が有るところ」ですが、それに加えて、寛郷(人口が乏少で口分田に余剰のある地域)を贅沢に抱えていたので、豊前の国で人口が急激に増加して狭郷(人口過剰で口分田が不足する地域)が生じたとき、その過剰な人口を、やすやすと受け入れることが出来た。もっとも、この件については、口でいえない苦労があったのは勿論です。
 「隼人昏荒野心、未習憲法。(隼人は、野獣の如き荒くれ者で、まだ憲法を習っていない)」ので、戸籍に名前が載っても口分田の恩恵は受けていない。従って、水田はすべて「墾田」というのが実情です。移民たちも、「柵戸」の民という特殊な地位に置かれ、城柵の内で生活しながら、同様に「墾田」を耕していたようです。

 「夷人雑類が有る所」で「民に負担させる調庸や兵役は事情に随って斟量する。取り扱い方は内国(華夏)と同じにしなくてもよい。」
 ですが、その「夷人雑類」である肥人(隼人)が原住しているところに、「柵戸の民」が混じり住むときには、肥人(隼人)の調役と柵戸の民のそれは、おのづから内容を異にしていたと考えるのが普通でしょう。


肥人(隼人)の民は、隼人の調庸を納め、今来隼人に就いていたこと。

 延喜式によると、調・庸・中男作物として綿・布・塩・紙・席などを大宰府に納めた内、布は隼人調布として朝廷に進上されている。
 (凡大宰府毎年調絹三千疋附貢綿使進之。叉隼人調布、除府家三箇年雑用料之外、付使進上。)
 京における今来隼人の専門職は「候時、吠」。
  凡大衣者、択譜第内、置左右各一人。大隅為左。阿多為右。教導隼人、催造雑物、候時令吠

     卯の花のにおう垣根に ホトトギス早も来鳴きて 忍び音もらす夏は来ぬ

 ホトトギスが夏の到来を告げ知らせるように、時節の変り目(元日、即位、蕃客入朝等)になる儀式において啼き吠えることであった。
  今来隼人、令大衣習吠。左発本声。右発末声。惣大声十遍。小声一遍。訖一人更発細声二遍。
 ただ、元日、即位の儀式に関していえば、「夜明けのスキャット」という感覚かもしれない。ちなみに、天照大神が天の岩戸にお隠れになったとき、再びお出ましの前祝いに「常世長鳴鳥」を鳴かせたことがあった。

 大宰府においても少数の今来隼人が奉仕していた。これは、天平十一年(740)太宰少弐・藤原広嗣兵乱の時のことです。
  時、隼人三人、直従河中泳来降服。則朝庭所遣隼人等扶救、遂得着岸。仍降伏隼人二十人、広嗣之衆十許騎、来帰。
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柵戸の民は、柵戸調庸を納め、兵役に就いていたこと。

 調庸で納める品は主に絹や麻布ですが、柵戸の民も同様であった。(766日向・大隅・薩摩三国大風、桑麻損尽。勿収柵戸調庸。)
 柵戸の正男が点呼を受けて兵役に就いたことは、大隅国と薩摩国の軍隊が藤原広嗣に付き従っていたことを以って証としたい。
(叉降伏隼人贈於君多理志佐申云「逆賊広嗣謀云。従三道往。
広嗣自率大隅・薩摩・筑前・豊後等国軍合五千人、従鞍手道往。...

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肥人⇒隼人制度の終り

 平安時代の末、奥州平泉に栄華を誇った安陪藤原氏はなおもって「俘囚の長」を称していた。心得違いも甚だしくてあきれますが、ケジメのない俘囚神話の生き残りといえます。ところが、南九州においては、危うげな俘囚神話の発行は早々に停止され、一斉にコントロールが効く隼人神話に切り替えられていた。それで、後々の始末も手際よく進めることが出来る。肥人⇒隼人制度はどうせ一過性のものなので、早々にマスターして、次の課題に進む見通しも開けていたと思われます。
 「斬首・獲虜合千四百余人」の戦果を挙げて、肥人(隼人)をコテンパンにやっつけたのが養老五年(721)。彼らの必死の抵抗も「もはやこれまで」という感じではあるし、同時に、(高い授業料を払って)憲法の崇高な精神を学んだことになります。

726
    727●造籍  
  728 |  
  天平 729■班田◎ 〔悉収更斑〕 斑口分田、依令収授、於事不便。請悉収更斑。(三月)
(大宰府言) 大隅・薩摩両国百姓、建国以来、未曽班田。其所有田、悉是墾田。相承為佃、不願改動。
        若従班授、恐多喧訴。於是、随旧不動。各令自佃焉。(三月)
◎薩摩隼人等貢朝物。(六月)
730

 早速、大隅・薩摩両国には、班田という新たな課題が与えられていますが、いざ実施となって大宰府当局は及び腰である。回避する理由は表面的ですが、大隅・薩摩両国の内情を見ても、全国一斉同時班田というのは、だいぶ敷居が高かったと思われます。
 それで、今来隼人の上京奉仕はほぼ1世紀の間休みなく続けられたわけですが、班田図の代りに大勢の人員を差し向けるようなことが長続きしたのはもう一つ理由があって、いつの日にか蝦夷(毛人)をコテンパンにやっつけた東北地方に、俘囚神話を後片なく清算した東北地方に、この良き慣習(ならわし)を招致する楽しみがあったからではないか。

 そのときには、東北地方に原住している「蝦夷(毛人)」を一斉に「隼人」に改称する策動をなすのがてっとりばやい。
 しかるに、広大で懐の深い東北地方においては、蝦夷(毛人)をコテンパンにやっつけるのが容易ではなかった。

769   ◎ 陸奥国牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押入言。伝聞。押入等、是紀伊国名草郡片岡里人也。昔者、先祖大伴部直征夷之時、到小田郡嶋田村而居焉。其後子孫為夷被虜、歴代為俘。幸頼聖朝撫運神武威辺、抜彼虜庭、為久化民。
●望請、除俘囚名、為調庸民。許之。(十一月)
光仁 宝亀 770●造籍 陸奥国黒川・賀美等十一郡俘囚三千九百二十人言日。己等父祖本是王民。而為夷所略、遂為賤隷。今既殺敵帰降、子孫蕃息。
●伏願、除俘囚之名、輸調庸之貢。許之。
    771 |  
    772 |  
    773■班田  
774 ○饗出羽蝦夷俘囚於朝堂。○詔、停蝦夷俘囚入朝。 ○海道蝦夷....侵桃生城、敗其西郭。鎮守之兵勢不能支。
775     〜以後弘仁3年(812年)まで38年間〔対蝦夷戦争〕が続く。〜

 なにか「俘囚入籍神話」というものがあるような気がしますが、とにかく「蝦夷(毛人)⇒隼人制度」の夢が遠のいたところで、一過性の「肥人⇒隼人制度」を持続する意義も失われたのではないか?

願わくば、隼人の名を除きて、口分田の民となることを。

793    ◎ ◎大隅国曾於郡大領外正六位上曾乃君牛養授外従五位下。以率隼人入朝。(類聚国史)
    794●造籍  
    795 |  
    796 |  
    797 |  
    798 |  
    799 |  
    800■斑●籍 ■十二月辛未。収大隅・薩摩両国百姓墾田、便授口分。(日本後紀逸文;類聚国史) はじめて班田を実施
(20) 801   −− ◎停大宰府進隼人。(類聚国史) 

 大隅・薩摩両国において、班田が開始されれば、「肥人⇒隼人制度」が廃止されることは、既にわかっていたことですが、延暦十九年(800)ついにそのときが来ました。しかし、この班年が次の籍年に当っていたのが「渡りに舟」の幸便であったことは、隠すべくもない。
 〜初めて大縄跳びの輪の中にとび込んだ時が最後で、その大縄は次の回にはもう廻って来ないのだから。〜
 大隅・薩摩両国では、延暦十九年(800)冬に、これまで全て墾田であったところを国が接収して、あらためて口分田にして授与したという。その言葉は信じるにしても、心の片隅には、実際には「墾田」を「口分田」と呼び変えただけのことではないか?という疑念が残ります。欲をいえば、闇雲な墾田の寄進による庄園の増大を未然に防止すべく、国府側が先手を打ったような気配も感じられます。
 ただとにかく南九州の「隼人」はこれをもって御役御免となったのは間違いない。

2010.10.23.     隼人が生まれてくる物語(目次)     あゆみ(歩)