帳 田 圖 國 摩 薩 年 貳 久 建

式 喜 延
804

益山庄二十五町

加世田別符内下司塩田太郎光澄

日置庄三十町


同北郷内下司小野太郎家綱


同宮領市比野十五町

入来院内没官領地頭千葉介


八幡新田宮三十五町


々在散下司僧経宗


五大院九十一町一段


々散在下司僧安静

弥勒寺御領百九十六町一段内

領家即別當

 


温田浦十八町

・高城郡内没官御領地頭千葉介


老松庄廿四町四段

山門院内

 

 


天満宮七町五段


・宮里郷内下司在廰道友

(民)分寺百四町五段


々散在下司僧安静

安楽寺御領百五十四町四段内領家即別當 寺社領六百五十五町内



傳馬

市来

英祢

網津

田後

各五疋

薩摩國

驛馬

市来

英祢

網津

田後

櫟野

高来

各五疋

大隅國

驛馬

蒲生

大水

各五疋

諸国驛傳馬 相去遥遠逓送艱苦

伏望

於薩摩郡櫟野村

以息民苦

許之

大宰府言

大隅國桑原郡

蒲生驛

薩摩國薩摩郡

田尻驛

日本後記

延暦廿三年三月庚子

○高来驛 ◎市来驛 ○櫟野驛 ○田後驛 ◎網津驛 ◎英祢驛
田後驛

 

.          海よ 海に流れがあるならば 届けてほしい 星の砂

延喜式(建久図田帳)による薩摩6驛(7宮)の展開

 延暦23年(804)、薩摩郡の櫟野村に驛が新設されました。延喜式の櫟野驛ですが、入来院文書75『入来院 建長貳年の村々のちもくろく、又りやうけこくしの御米のはいふんの事』に記された「いちゐのゝとくてん16町2反十中」を見て、「これは櫟野驛の驛田の跡だ。」といわずにはおれない。
 しかるに、この得田は、先の『建久弐年薩摩国図田帳』には、「同(八幡新田)宮領市比野15町」と記されています。
 櫟野驛が衰えて後、かっての驛稲は、高城郡の弥勒寺に寄贈されるに至り、八幡新田(にいた)神社
(注1)の固定的な財源をなしているようです。
 鈴が鳴る早馬の駅の堤井(つつみい)も、かっての栄光を失って、「一圓的な納税組合」のひとつに過ぎなくなっていたわけです。

(注1) 日隈 正守氏 研究発表「薩摩国一宮制に関する諸問題−一宮と国分寺の関係−」
 薩摩国衙との関わりが深く一宮を称した八幡新田宮と、薩摩国国分寺は、人的組織が同族である点、神事の共同・契約関係・神人役の負担などが見られる点、
 訴訟の雑務を共同して行っている点などから、密接な関係を持っていたという論を展開した。
 http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=42

 1◎英祢驛 2◎網津驛 3◎田後驛 4○櫟野驛 5◎市来驛 6○高来驛 ; ◎驛馬(はやま)5疋、伝馬(てんま)5疋。○驛馬(はやま)5疋。

 延喜式の驛は、薩摩国内に6つありましたが、薩摩国の貧乏な財政事情により、どの驛も櫟野驛同様の歴史経過をたどるのではないかという気がして、あらためて建久図田帳を見ると、そんな6つの驛の末路にふさわしい「庄園(一圓的な納税組合)」が7つ(6+1つ)用意されていました。

 @老松庄(山門院) A湯田浦(高城郡) B〔八幡新田宮(高城郡内に社領30町)+ 天満宮(宮里郷)〕
延喜式の 出水郡内      高城郡内    高城郡内、但し宮地だけは薩摩郡に属していた  薩摩郡内
 C市比野(入来院) D日置庄(日置北郷) E益山庄(加世田別符)
       薩摩郡内        伊作郡内        阿多郡内         

 「これらの物件は延喜式の驛田の跡に違いない。」という先入観を排除して、虚心に考えたいところですが、図田帳は國分寺を「囗(民)分寺」と書いて、人民を包み囲う形象を表している。その意気を買って、「一般の郡郷民から浮いていた6+1つの集団(結社)があって、それぞれが6+1つの「庄園」に囲われたのだ」と言いますと、
驛家の人々は、戸籍の上でも「驛家里」に属していて、一般の郡郷民から浮いた集団であったことは確かです。
貧乏な薩摩の国に、そのように浮いた集団が、6つの驛家の他に、まだいくつも考えられるでしょうか。
たとえば、〔○天満宮〕ですが、薩摩郡に、田尻驛家の人々が浮いた集団として居たことは確かです。
宮里郷に、菅原天神の熱狂的信徒が群をなして居たと想像するよりは、ずっと確かです。
そこで、「ひとつの庄の前には、必ずひとつの驛があった。」と言うと、6つの驛と6+1つの庄園はつぎのように配偶されます。

安楽寺御領 24町4段 ↓↑ 薩摩国(13郡)と大隅国(6郡)
 老松庄・ 山門院内 ◎英祢驛

安楽寺御領 18町 ↓↑
 温田浦・高城郡内 ◎網津驛
八幡新田宮(30町高城郡内) ↓↑
八幡新田宮(薩摩郡人) ○田後驛

国府

安楽寺御領 7町5段   ↓↑

 

 天満宮 ・宮里郷内 ○.田後驛 →← ○櫟野驛 →← ○蒲生驛
弥勒寺御領 30町 ↓↑ 八幡新田宮領 15町
 日置庄・日置北郷内 ◎市来驛 市比野・入来院内
弥勒寺御領 25町 ↓↑
 益山庄・加世田別符内 ○高来驛
↓↑
     天長元年(824)、多褹国を廃して、大隅国に属させる (紀略)

◎、◎、○、○、◎、○. 薩摩国図田帳は、古式ゆかしき延喜式驛傳路の荒筋を、臆面も無く語っているというわけです。
 延喜式6驛と図田帳7庄園との間に確かな関係が認められるとすれば,八幡新田宮あるいは天満宮を「宮」という最初は、驛亭すなわちステイションホテルですが、その客筋が勅使・詔使クラスのVIPであるところから「宮」と称したに違いない。すなわち迎賓館ですが、他の5つの庄園についても、同様の「宮」があるものと期待されます。それで、「宮」をして、庄園を代表する名辞と見込んで、「ひと宮、ふた宮、、、、、なな宮」と、無くて七宮を数え上げた上で、(古代薩摩驛道の壮観を)あらためて「6驛7宮」と数え上げたいものです。
 その内、1駅2宮なる驛は田後驛で、本来は薩摩郡の驛でありながら、2宮の内の1宮を川内川北岸の高城郡に置いていた。
 南岸(薩摩郡)に残った「天満宮」が「伝使のステイションホテル」だとすれば、北岸(高城郡)の八幡新田宮は「驛使のステイションホテル」という感じですが、薩摩国府のターミナルを自認して「高城千臺の宮」とも称していた。(注1) しかし、その本籍は、延暦23年「薩摩郡田尻驛」以来の薩摩郡を離れることはなくて、江戸時代に至っても 「今の八幡宮地ハ薩摩郡宮内村に属す(麑藩名勝考)」というふうに認識されていた。(注2)

 薩州6驛と7宮  

○驛馬5疋、伝馬5疋

◎莫祢驛(出水郡)
  紫尾天満宮
◎網津驛(高城郡)
  湯田浦
◎田後驛(薩摩郡)     ○櫟野驛(薩摩郡)
○八幡新田宮(高城千臺宮)  市比野
 .天満宮
◎市来驛(伊作郡)
  神の川  
○高来驛(阿多郡)
  鷹屋大明神
  益山八幡大菩薩・天満大自在天

海よ ....... 届けてほしい 星の砂


(注1) 謹按旧貫、天孫亨瓊々杵尊圓寂砌、可愛陵高城千台宮者、今新田八幡宮是也 (建長八年 1256 四月の文書)
(注2) 慶長年間の新田宮再興工事では、三陵の修築もその一環として行われた。棟札には〈水引新田八幡 可愛陵 小松葺竪四尺 横五尺 陵宮 竪四尺 横五尺五寸 軒口七尺五寸・七尺三寸 奉造立新田八幡大菩薩宝殿一宇 大壇主藤原少将忠恒朝臣 前太守義久併大願主侍従息災〉とある(神社調)。可愛陵社や陵宮社の修造工事が、新田宮同様に再興なのか、従前にはまったく実績のないまま、その際に新しく修築されたものなのかはわからない。
 この棟札には当時の関係役員の人名が記録されている。その中で地頭を見ると、隈之城・百次・山田・入来清敷の各地頭の指名が記されているが、なぜか新田宮が鎮座し五代村可愛陵の地元である高城郡や水引の地頭は出ない。またかつて新田神社が鎮座していたという宮里地頭も出ない。理由は不明である。
 因みに新田宮神亀山の地は歴史的には高城郡に帰属するが、江戸時代には〈宮内村ハ薩摩郡に属す水引ハ薩摩高城両属の地なり〉(薩藩名勝志)という。可愛陵修築のころは薩摩郡域に属していたために薩摩郡内の四地頭の名前があり、高城郡内の地頭は関与していないのだろうか。今後機会があれば調査してみたい。
〔可愛(かあいのみささぎ)から可愛山陵(えのさんりょう)へ 江之口 汎生  千台38号〕

 従来、薩摩国府のターミナルとしては、○高来驛があるといわれていました。しかし、◎田後驛のホームが国府・高城郡家の近辺にあったのだから、驛馬5疋を別に置いておく必要はなかったといえます。
 いずれにせよ、青森駅は雪の中。川内駅は川の中。最初からそうこなくては、川内ガラッパ(河童)の名がすたるというものです。
 そこで、○高来驛の驛馬5疋は、図田帳が案内している益山庄に連れてゆくとして、「高城」また「高来」という名称の交錯する意味を、お互いにハッキリさせて別れようというと、高城は「天空の城ラピュータ」になれ、高来は「星の子チョピン」であればよいということになるのではないか。

@高城 これは、肥人を征伐した唱更国のお城ですが、すぐに東北の仙台に移されて、蝦夷を征伐する「多賀城(たがのき)」になったという話です。

A高来 高天原の土=高砂(笠沙)が黒潮の流れに、運ばれて来る。この砂は、天孫族にとって宝石よりも価値があるという話です。(注1)

(注1)甲子園球児が砂をもって帰る理由 http://okwave.jp/qa/q2333388.html

Q.甲子園球児はなぜ砂をもってかえるのですか?
  どのような由来からですか?
A.
元高校球児です。
  記念ですね。
  甲子園は高校球児にとって特別なものです。球児にとって甲子園の土は宝石より価値があるかもしれません。
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〔古事記〕
 故、爾詔天津日子番能邇邇藝命而、 天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流(くすぶる?)多氣。
 於是詔之、
 「此地者、向韓、國眞來通笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」

 韓(から)は、宇宙を包んでいる卵の殻(から)のことです。
 笠沙の笠(かさ)も、その殻(から)のことですが、唐傘さして天空を覆い包んでいるので、「かさ」と言うだけです。
 ◎市来驛(日置庄)より○高来驛(益山庄)に至る海辺の道(吹上濱)を。「真来通笠沙之御前」というか。
 そこで、「益山」というのは、不思議な増える山。風に吹き上げられた砂がうず高く積もる砂丘のことでしょう。

 於是天津日高日子番能邇邇藝能命、於笠紗御前遇麗美人。爾問誰女、
 答白之、「大山津見神之女、名神阿多都比賣亦名謂木花之佐久夜毘賣。」

 大山津見神の「津見」は〔積み〕。花咲か爺さんの本性は山積の神ゆえに、高砂や、吹上濱の真砂を撒き散らして、益山の砂の丘を営々と築き上げていたわけです。
 このように奇怪な自然現象を通してすがたを顕わす神様を「明神」と言うので、中世の文書(注2)に見える「鷹屋大明神」に大山津見神の残影を見てもよいのではないかと思います。

(注2) 町田成久契状 (町田家文書133)

『志布志阿多新之丞藏、今在本宗』
  契約
 右意趣者、縱三ケ國雖轉變候、貴方様はなれ申、身持別持ましき事、

一和讒仁候ハゝ何程廣説被聞食候共承候、以面直可申承事、又今まてハ廣説不承候、縱何様事出來候 共、用申ましく候、
御大綱之時者、御用可立申候、身大綱之時者、可被見継申候、
若此条〃僞申候者、日本國中大小神祇、殊者伊勢天照大神宮、別而者
當所鷹屋大明神 益山八幡大菩薩 天満大自在天神 諏方上下大明神御
罸お可罷蒙候、
  應永廿七年(1420)霜月廿八日
              五郎丸
    阿多殿  

 鷹屋(郷)とは、阿多郡4郷の1つです(和名類聚抄によると、鷹屋郷、田永郷、葛例郷、阿多郷があった)
鷹屋といえば、唐僧鑑真を乗せた遣唐使第二船が著いた港は「阿多郡秋妻屋浦」でした。(唐大和上東征伝)
その浦は〔南さつま市坊津町秋目〕ですが、「秋妻屋」とは、すなわち鷹屋のことではないか?
益山八幡大菩薩天満大自在天神。そのお宮が、弥勒寺御領益山庄の内に、あったことは確実だといえます。

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つぎは○龍宮城

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鷹の眼

http://hkusumi9.blogspot.com/2009/07/03-01.html

アキメ(明目)といわないだろうか?


天孫降臨譚は、ほんの20年前のできごとを語る。

〔続日本紀〕 文武天皇四年(700)六月三日
 薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君縣、助督衣君弖自美、又肝衝難波、
 従肥人等、持兵剽却覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領、准氾決罰。

 薩末の国が日本に併合される直前には、南島覓國使がこの道を盛んに行き来していたようです。
 「覓国」はなんと読むのか。
 日本書紀によれば、覓國は「矩弐磨儀(くにまぎ)」と読むのだという。

 〔日本書紀〕
 而天降於日向襲之高千穂峰矣。既而皇孫遊行之状也者。則自[木患]日二上天浮橋。立於浮渚在平処。
 〈立於浮渚在平処。此云羽企爾磨梨陀毘邏而陀陀志。〉
 而膂宍之空国、自頓丘覓国行去。〈頓丘。此云毘陀烏。覓国。此云矩弐磨儀。行去。此云騰褒屡。〉
 到於吾田長屋笠狭之碕矣。

 覓國行去 矩弐磨儀(くにまぎ)騰褒屡(とほる)

 〔されば古事記も〕 國(くに)眞來(まぎ)通(とほる)笠紗之御前にして、

 

 〔これは続日本紀で実現される〕 南島覓國使刑部眞木(まぎ)たちが國(くに)眞來(まぎ)通る笠紗之御前にして、

 (覓國の)行使は古事記の編年外ですが、作者(太の安麻呂)は、天孫降臨の場を借りて早々と祝詞を述べておくことにした。
 また、国が併合されるときには、建国神話も併合されなければならない。「笠紗之御前」の原型は、海の中道(博多)か?虹の松原(唐津)か?
 いずれにしても、南島覓國使の報告に誘われるようにして、薩摩半島に移し替えられたことだろう。

〔続日本紀〕 大宝二年(702)八月朔日 薩摩・多ね、隔化逆命。於是発兵征討。遂校戸置吏焉。

〔続日本紀〕 大宝二年(702)十月三日 唱更国司言「於国内要害之地、建柵、置戍、守之。」 許

 そこで、その要害之地はどこか? それはもう、天然ハイウエイ(笠沙)吹上濱の南端にあり、重要な外港(秋妻屋浦)を押さえるところに限ります。
 
建柵、置戍、守之。その城塞の名はさだかではないが、ひよっとして「笠田(かせだ)城」と呼ばれていたのではないか。

 ○高来驛は、薩摩驛路の南端に位置して臨海驛の任務に就いていたという。
  秀起てる浪穂の上に八尋殿を起て手玉もゆらに織経る少女 〔日本書紀 第九段一書第六〕 
 あまり馴染みのなかった南薩の驛傳路ですが、その驛馬(
○高来驛、○市来驛)は、7世紀末、南嶋覓国使の送迎に始まり、8世紀に入って、多褹國が設置されると 伊作郡に傳馬が置かれて◎市来驛になった。天長元年(824)多褹國の廃止は致命的でしたが、遣唐使の漂着や、海賊の襲来に備えて、無事是名馬ということで、驛馬・傳馬とも存続されたのでしょう。

渚のバルコニー(高来驛のコンセプト)

 渚のバルコニーで待ってて ラベンダーの 夜明けの海が見たいの そして秘密・・・・ (渚のバルコニー ;作詞 松本 隆)

 早馬という地名が薩摩半島に多く見られます。それはなぜか? 市来驛と高来驛という2つの驛が吹上濱にあったからです。
 建久弐年薩摩国図田帳に、薩摩国の6驛を1セットにして売っているのを見つけて、一思いに買いました。

  老松庄(莫祢驛)・湯田浦(網津驛)・天満宮(田後驛)・市比野(櫟野驛)・日置庄(市来驛)・益山庄(高来驛)

 これが間違っていれば私の考え違いですが、もし正しければ図田帳が言っていることになるので、そうであることを気楽に願うだけです。

 

入来院の租稲    あゆみ(歩)