入来院(いりきいん)の租稲(そとう)    隼人が生まれてくる物語〔目次〕      あゆみ(歩) 

 租・調・庸の内なる租稲。男は3束にたばねた稲を、女は2束にたばねた稲を、正倉に運上します。
               (口分田2段)      (口分田1段120歩)
 「田1町租稲15束」というので、男3人と女3人でもって(例)、租稲15束を納めていました。(令前租法)
 しかし、「田1町租稲22束」といわれたら、どうしますか。
 大宝律令(701)がそういうときには、(例えば)男4人と女5人でもって、租稲22束5把を納めます。(令内租法)
 令前の束と令内の束の(1束の)大きさは変わらない。
 狭い町(令内8段)において租稲15束を納め、広い町(令前1町2段180歩)において租稲22束5把を納めます。
 このとき、租稲の性格はいかに? やや間接的とはいえ、れっきとした人税であり、すこしも地税ではなかったといえます。
 
 薩摩・多祢隔化逆命。(702) 辺境の国薩摩の人々は律令文化の履修に遅れたので、
 収大隅・薩摩両国百姓墾田、便授口分。(800) 口分田において租稲を納めることさへ100年余り遅れて始まったのですが、
 このとき接収された墾田は直ちに持ち主に返還されたと思われます。「便に授く」というところが変ですが、たとえ口分田は名ばかりのことであっても、
 「田1町租稲22束」といわれたからには、(例えば)男4人と女5人でもって、租稲22束5把を納めたい。
 停大宰府進隼人。(802) 貧しければ身体を献じて贖うごとき庸税の廃止と、無関係ではなかったことに鑑みて、
 田んぼの広さが同じければ、大きな15束を納めようが、小さな22束を納めようが、同じだけ納めればよいというような安易な課題にはしたくない。

 薩摩国は百年遅れの初班田から450年が過ぎた『建長貳年(1250)』。 『村々のちもくろく 又りやうけこくしの御米のはいふんの事』。
 『入来の院』の、遅蒔きの租稲帳。遅蒔きであれば、「田1町租稲22束5把」の刻印を今に見ることができないだろうか?
 

テキスト 写し 『入来院 建長貳年の村々のちもくろく 又りやうけこくしの御米のはいふんの事』

解読

一くにかたのそたう
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しん一しき七反卅中ふん米一石一斗五升五合

一りやうけのそたう
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しん一しき七反卅中ふん米一石九斗二升五合
一ちとうのそたう
.
.
しん一しき七反卅中ちとう御米七斗七升
田一町租稲五石

得田七反卅中

そたう三石八斗五升

 

鹿児島県薩摩郡 樋脇町・入来町 (旧)

 

 その1 田んぼに租稲。その〔分け前〕がいくつもあるときには、和をもって貴しとなす。

  1斗5升代〜2斗5升代(ただし国司方)というのは決して田品(下田、中田、上田)による格差ではない。
  それは、2斗5升代〜1斗5升代(ただし領家方)でもある。また、1斗代(ただし地頭方)でもある。つまり、
  3者で分け合う全体は5斗代である。こうして「得田1反の租稲5束」という全体が変わらないところに価値がある。

 その2 人々は御米を払う。その〔配分〕が等しからざるときにも、和をもって貴しとなす。

 その3 よりによって
     寄田弥太郎さんたちの給料が凍結されている。子供が心配することではないが。
 ○ 『たて申きしやうもんの事』
 ○ 『薩摩国入来院内塔原名主寄田弥太郎信忠与地頭渋谷五郎房定心相論名主職事』

 その4 参照資料 『永仁五年(1297)塔原請地目録』
     「請地目録」とはいえ、租調庸を一括して扱う税帳であるらしく、「桑代」という調庸の課税単位が見られます。
     おそらく、桑代(真綿)16文目が成男1人ぶんの調に当たるものと思われます。
     戸ごとに比べると、田んぼ(請地)が少ない割に人数(桑代)がやけに多い戸が目につきます。

 その5 参照資料 『建久二年(1191)薩摩国図田帳』   その6 薩摩國の驛(庄)
 その7 参照資料 『建久八年(1197)大隅国図田帳』
 その8 『入来院文書』より 租・調・庸に関する抜き書き