『歩日50里』の波紋 〜幸せは歩いてこない多賀城碑〜     とおせんぼ(△)と影法師.      あゆみ(歩)  

 

西

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 (たがじょう)  (ひたちのくに)
 多賀城 去 常陸國 界 四百十二(412)里
 |(137.5)|(137.5)|(137.5)|
        (しもつけのくに) 
 多賀城 去 下野國 界 二百七十四(274)里
 |(137.5)|(137.5)|

 と 掛けて、なんと解く? / ........ と 掛けまして、

  しあわせは歩いてこない
     だから歩いてゆくんだよ
 

 と 解く。 / して、その意(こころ)は?

 / 整(ととの)いました。

  1日 1歩
  3日で3歩
      3歩進んで 2歩下がる

去常陸国界412里は〔多珂郡家〕より 3・3が 9日
去下野国界274里は〔那須郡家〕より 3・2が 6日

「1日1歩。それぞれの日にちをかけて歩いておいで。」と多賀城碑は言っている。
藤村新一氏のゴッドハンドは嘘ッパチでしたが、星野哲郎氏の予言はおそらく本当です。

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       はじめに(多賀城碑、未解決の難題。) 

 多賀城 去京一千五百(1500)里
       去蝦夷國界一百廿(120)里
       去常陸國界四百十二(412)里
       去下野國界二百七十四(274)里
       去靺鞨國界三千(3000)里
 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
 軍従四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字6年歳次壬寅参議東海東山
 節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
 将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也
   天平寶字6年12月1日


 多賀城は、現在の宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵で、奈良時代に陸奥(むつ)国府・按察使(あぜち)・鎮守府が置かれ、東北経営の拠点であった。
 城跡に、天平宝字六年(762)の日付のある多賀城碑がある。

 江戸時代初期に草叢の中に発見されたあと、歌枕「壷の碑(つぼのいしぶみ)」の実物と信じられるようになり、俳聖松尾芭蕉も参観に訪れ、古き碑文を拝読して非常に感激している。(おくのほそ道)

  行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也。

 内容は、都(平城京)・蝦夷国境・常陸国境・下野国境・靺鞨国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724)に設置され、天平宝字六年(762)恵美朝狩によって修築されたと記す後段部分に分かれる。

. この碑は、書風、書体、彫刻法などが奈良の時代には合わないと言われて、後の世に作られたものではないかと疑われて来ました。偽作の疑惑が晴れたのは最近のことで、多賀城跡の発掘調査が進むにつれて、その創建と修造の時期などが碑文の歴史記述(後段)と矛盾しないことが判明したことによります。碑文の作者は事件の真相を誰よりもよく知っていた。碑文の全文が100%真作に間違いないといえます。

 ただ、碑文の地理記述(前段)には、天然にボケて理解困難なところがありました。その弁明には今なお難儀されているようで、多賀城市観光協会|歴史ファンの皆様によると、里程については、偽作であればあえて誤りとわかる距離を記さないであろう。
 偽作説の論筋を逆手にとったつもりが、ここぞとばかりに邪説に染まろうとする、まことに奇妙な説明がなされているようです。

 誤りとわかる距離は記さず、ただみちのりを歩いておいでと。

 その距離誤りとわかるのは、下野と常陸の国境からの程(みちのり)を比較したときだという。

  下野国境を(東山道に)去る、274里。 常陸国境を(東海道に)去る、412里。
  (白河の関)                 (勿来の関)

 現代地図で見たとき、2つの道の長さは互角で、どちらが勝るとも判定しがたいのですが、
 (JR線路での比較は、陸前山王駅〜白坂駅 180.2km 陸前山王駅〜勿来駅 187.9km)
 しかし、碑文で見たとき、412−274=差は138里にもなっている。

 274÷2=137里 海道は、半分強の差をつけて、山道を大きく引き離している。

 ここが天然にボケていて人に迷惑をかけるところですが、間違い(誤りとわかる距離)を記したというのは失礼千万です。私はそういうことは決していいません。
 おかしいけれども間違いではない。(誤りとわかる距離というが、現代人好みの"距離"が記されているとは限らない。)多賀城碑は、ただ「このみちのりを歩いておいで。」と言っている。

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とにかく「じっとしてはいられない」という気持になりました。

 る;  常陸の国界から、この412里を歩いておいで。

 そこで、ひとつ海道を選んで出発進行したいと思いますが、
             不慣れな道ゆえ、やはり一日一歩の達人に道案内をお願いしました。

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塩屋崎(福島県いわき市)

突端の断崖上に塩屋崎灯台が見える

http://yayoi0309.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13

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 みだれ髪  作詞;星野哲郎

 髪のみだれに 手をやれば
 赤い蹴出しが 風に舞う
 憎くや 恋しや 塩屋の岬
 投げて届かぬ 想いの糸が
 胸にからんで 涙をしぼる  

 すてたお方の しあわせを
 祈る女の 性(さが)かなし
 辛や 重たや わが恋ながら
 沖の瀬をゆく 底引き網の
 舟にのせたい この片情け

Wikipedia


謎の
激!やせ女 浜通りに出没。

春は二重に 巻いた帯
三重に巻いても 余る秋
暗や 涯
てなや 塩屋の岬
見えぬ心を 照らしておくれ
ひとりぼっちに しないでおくれ

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 春は二重に 巻いた帯 三重に巻いても 余る秋 ....... 謎の 激やせ女 浜通りに出没。

 福島県は東に阿武隈高地、西に奥羽山脈が南北に走り、東から浜通り、中通り、会津、に3つにわけられます。3つの地域には単に地形的な違いだけでなく、気候的、経済的、文化的な相違が見られます。(福島県のプロフィール

 季節(とき)は廻り また春が来て、
 秋は三重に 巻いた帯 二重に巻いても 足りぬ春 ....... 謎の リバウンド女 中通りに出没。(多賀城、去下野国界274里)
 季節(とき)は廻り また秋が来て、 
 春は二重に 巻いた帯 三重に巻いても 余る秋  ....... 謎の 激やせ女 浜通りに出没。(多賀城、去常陸国界412里)
 (繰り返し)

 秋は浜通りに出没し、春は中通りに出没するという、謎の 激やせ・リバウンド女 ですが、帯が伸び縮みしているわけではなさそうです。
 帯が伸び縮みすることはありませんが、帯とウエストの関係を、道と〔なにか〕の関係に置き換えたときには、一定不変の道のりを、長く伸ばしたり、
短く縮める性質があるということです。このとき、1里(=360歩)という単位の長さは650メートルくらいに決まっているというのも悪くはない。(注1)
 しかし、春は2重に、秋は3重に帯を巻くのは、女の性(さが)だという。すてたお方の しあわせを 祈る女の 性(さが)かなし 
 恋やつれは単に不摂生の言い訳だとしても、海道〔412里〕に、山道〔274里〕というのは、〔なにか〕に課せられたノルマ(業)の表現と見られなくもない。

 変わらぬ帯と変わるウエストの関係が2:3の比例をなしている。ここまで来ると、このプロポーションが羨ましくなります。ただ、「三重に巻いても余る」という。
よっぽどきつく締めたときでしょうが、はっきり「何寸余る」と明示されていないのがウイークポイントです。
 一方、山道〔274里〕と海道〔412里〕が2:3の比例を目指そうとするときには、山道(中通り)の現状が:2に対して何歩余り(足りず)、海道(浜通り)の現状が
:3に対して何歩余っている(足りない)ということは必ず明示されます。その気になりさえすれば、謎の 激やせ・リバウンド女 をしのぐことは間違いないです。 

 海道〔412里〕と山道〔274里〕が、ともに(塩屋崎灯台の)比例の光に照らされるのと、照らされないのでは、やはり雲泥の差があります。

(注1)
「東奥紀行」の著者長久保赤水は、同書の中で天平時代の常陸国境が今の那珂湊(茨城県)で、六町を一里とすれば、そこから
多賀城までほぼ412里になる、としている。http://www.bashouan.com/piTubohi.htm

然らば天平の時の常奥の界は蓋し今の那珂湊ならむ。六町を以て一里とせば多賀城を去ること四百十二里なり。
此時、仲・久自・高の三縣奥州に属せしこと知るべし。後世或は之を奥郡と謂うも亦此に由るか。(東奥紀行)

この説は筋が良い。412里の起点が水戸附近まで南下しているのはどうかと思うが、筋が良いので、あまり気にならない。

異説(⇒多賀城碑偽作説)の代表者は、田中義成、喜田貞吉。
明治二十五年十月十五日の『史学会雑誌』に掲載された田中義成の「多賀城碑考」は、明治以降の偽作説の濫觴となった。
大正二年、『歴史地理二一巻五号』に発表された喜田貞吉の論文は、「陸奥海道駅家の廃置を論じて多賀城碑に及ぶ」。
当時は、衆人の関心が駅路に偏り、「官道」と言えばただちに駅路のことになるほどに、伝路は見捨てられていた。
郡家に泊り伝路を歩く「官道」は喜田氏に望むべくもないが、もし彼が「陸奥海道伝馬の停止を論じて多賀城碑に及」んだ
ならば、結論は断然異なっていたに違いない。

 馬鹿の一念 岩をも 砕く

 この412里〕〔274里は、距離を、旅の里程を表していることは否定できないけれども、並々ならぬ切りの良さからして、本当は天然に切りのよい数をカウントしているのではないか。すなわち、日にちを、旅の日程をカウントしたという疑いがもたれます。
 いきおい希望をいえば、この旅の日程は、|3日〕 〔3日3日|となっていた。
 そうしたとき、|137里〕 〔137里138里|というのは、比例がぼやけている憾みがありますが、私が見て、石文は、1里(360歩)未満の歩数を切り捨てているといいます。
 切り捨てた歩数がいくつかであったかは、石文が固く口を閉ざして語ることを避けてきた○秘情報、"山寺や石にしミつく蝉の聲"ですが、馬鹿の一念岩をも砕く。石に刻まれている2つの数が簡単な比例(A:B=3:2)をなしているとすれば、それぞれの歩数の存在範囲をぎりぎりまで狭めて限るのは朝飯前です。

  412里≦ A <412里180歩(412.5)  274里240歩(274.6666)≦ B <275里

 この範囲内でも、最小限に甘んじるより、最大限に迫る意欲が買われそうです。それで右表のように〔例〕を示しましたが、もっと切りよく数えられるなら、これに越したことはない。
 ちなみに、律令制の昔は、(公式令)「凡行程。馬日七十里。歩五十里。車卅里。」により、歩人(かちびと)は日に50里 を進み行くことになっており、450里〕〔300里によって、9日9歩〕〔6日6歩という日程を表すことが可能でした。

里程(例)   里程  日程
1/9 45里300歩   (45.833) 50里 歩1日
2/9 91里240歩   (91.666) 100里 歩2日
3/9 137里180歩  (137.5  ) 150里 歩3日
4/9 183里120歩  (183.333) 200里 歩4日
5/9 229里 60歩  (229.166) 250里 歩5日
6/9 275里      (275.0  ) 300里 歩6日
7/9 320里300歩  (320.833) 350里 歩7日
8/9 366里240歩  (366.666) 400里 歩8日
9/9 412里180歩  (412.333) 450里 歩9日

 そこで参考にしたいのが、『出雲國風土記』天平五年(733) です。

   出雲國風土記。國之大體、首震尾坤。東南西山。北属海。

 国の中心地から東・西・南・北堺への里程を数えると(右→)、合せて ≒ 350里
 〔東西150里〕〔南北200里〕というおぼろげな輪郭が浮かび上がりますが、これについては、通道沿いにある「郡家の数」がものを言っている事実が隠せません。

 〔西 −神門郡−出雲郡−意宇郡− 東〕       沿郡3 (3日)150里
 〔南 −飯石郡−大原郡−意宇郡−嶋根郡− 北〕 沿郡4 (4日)200里


〔東国界〕  41里180歩 (自国庁意宇郡家)
〔西国界〕 106里244歩 (自十字街)
〔南国界〕 166里257歩 (自十字街)
〔北国界〕  34里140歩 (自国庁意宇郡家)

 合せて  349里221歩  

    東西137里 19歩。南北183里193歩。

 しかし、東西150里、南北200里によって、3日3歩〕〔4日4歩という日程を表していたのも束の間、1里300歩12里 ⇒11里によって1里(360歩)に換算されています。
 旅はみちづれ。世は情け。ここは出雲国風土記の例に習いたい。
 ただ、それでは300里 ⇒275里になって、いしぶみの274里1里オーバーしますが、へんな意地を張って、他所様の親切な申し出を断るのも情けないので、譲歩するというか、去下野国界275里が、(多賀城に)1里を譲っていたことにしましょう。
 しかし、「陸奥国庁・宮城郡家」をつつむ「多賀城」は方1里半の國郭と見られます。

.多賀城の外郭は、一辺 900m ほどの不整方形で、南・東・西に門を、中央に政庁、その周囲に官衛(かんが)ブロックを配し、8世紀から10世紀半ばまでこの地域の政治と軍事の中心施設として機能していた。 郷土歴史倶楽部 <古代都市多賀城>

 赤穂浪士がようやく吉良邸の絵図面を入手したところです。
 
多賀城の外郭は、一辺 900m ほど。
 
これを 1里半 と数え直したところで、外郭の築地塀を囲む(あぜち)を見ます。
 多賀城の外縁は、一辺 1000m ほど。
 これ(外縁)は 1里半、すなわち 1里180歩 になります。

 各々方、討入りで御座る。多賀城の以上のごとき見取り図にしたがって、
○去下野国界275里が、(多賀城に)1里を譲っていたのは勿論のこと、
○去常陸国界412里180歩も、(多賀城に)180歩を譲っていたことにしましょう。

 多賀城 去常陸國界(450里 ⇒)412里180歩
                           |137.5|137.5|137.5|

 多賀城 去下野國界(300里 ⇒)275里      |137.5|137.5|
.

出雲國風土記。
國之大體、首震尾坤。東南西山。北属海。

149里154歩 ⇒)東西137里 19歩。
200里 67歩 ⇒) 南北183里193歩。
(総説)

前件一郡、即 國郭 也。 (意宇郡)

又西21里、至 国庁・意宇郡家。
北 十字街。即分為二道。1正西道、1枉北道。
(巻末通度)

 〔意宇郡家−十字街〕 1里 30歩 = (1里)
  (差引計算すると、検出されます。)

多賀城

行程の不在(1里半)は、「多賀城の規模」を黙示していた。
               (方1里180歩)

  365歩のマーチ ようやく 整(ととの)いました。↑

"1日1歩 3日で3歩 3歩進んで 2歩さがる"

 Oh! my God. よりによって、の細道は、

 東海道を9日で9歩進み

 東山道を6日で6歩下る(くだる)なのだ

365歩のマーチ (星野哲郎 作詞 米山正夫 作曲 1968 )
しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね
1日1歩 3日で3歩 3歩進んで 2歩さがる
人生は ワン・ツー・パンチ 汗かき べそかき 歩こうよ
あなたのつけた 足あとにゃ きれいな花が 咲くでしょう
腕を振って 足をあげて ワン・ツー ワン・ツー 休まないで歩け


           (訂正;2010/12/02) 137里180歩                     275里                     412里180歩

.
 およげ!たいやきくん

 歩き旅の実際上、450里〕〔300里というのは、9泊する〕〔6泊することに当る。
 すなわち、9日9歩〕〔6日6歩の道中には、9つの宿場〕〔6つの宿場があるはずです。
 さしずめ海道には9つの郡家がある。山道には6つの郡家がある。そこが宿場です。

東海道(浜通り) 450里日)=412里180歩       ・伊具・
 沿郡9 (常陸国多珂郡より)
菊多石城・標葉・行方・宇太・曰理・名取・宮城郡

東山道(中通り) 300里日)=275里
 
沿郡6 (下野国那須郡より)白河・安積・信夫・苅田・柴田・宮城郡

(延喜式により)沿道の郡家を数えてみたところ、要求された個数を満たしています。(注1)(注2)
 ただし、阿武隈川を渡るところで、海道の本筋は〔宇太−理−名取〕と続いており、伊具郡家は〔宇太−伊具−名取〕と続く脇道(バイパス)の宿場になっていたと思います。だから、石文は「去常陸國界412里」と言っているけれども、実際の海道筋は、どちらを経由したとしても、400里(8日)による366里240歩の道中であったと考えられます。(注3)
 ところで、伊具郡家はだいぶ山あいにあり、信夫(しのぶ)郡家に近いので、これと結んで信夫−伊具−名取−宮城と続く、山道のバイパスができそうです。延喜式に見られる「栖屋」「玉前」「名取」の3驛(各驛馬5疋)は、このバイパスの道筋に置かれていたのではないでしょうか。(注3)
 それにしても海道の驛馬と伝馬が(平安時代に入り)廃止の憂き目を見たことを考えるならば、伊具郡の1日1歩は、さっさと東山道に付け替えて、「去常陸國界三百六十六里」「去下野國界三百廿里」と刻んでおいてもよかったわけです。(注4)

(注1) 延喜式(民部省)
陸奥國 大 管。 白河、磐瀬、會津、耶麻、安積、安達、信夫刈田柴田名取
            菊多磐城標葉行方宇多伊具曰理宮城、黒川、賀美、
            色麻、玉造、志太、栗原、磐井、江刺、膽澤、長岡、新田、小田、
            遠田、登米、桃生、気仙、牡鹿、

(注2) 養老2年(718)、常陸国に接して石城、下野国に接して石背の2国が置かれたが、まもなく廃止され、陸奥国に復帰した。

 養老2年(718)5月乙未(02)
  割陸奥国之石城・標葉・行方・宇太・曰理、常陸国之菊田6郡、置石城国。割常陸国多珂郡郷220烟、名曰菊多郡、属石城国焉。
  割白河・石背・会津・安積・信夫5郡、置石背国。

(注3) 石城国の6郡を通る「海道」には驛馬及び傳馬が置かれたが、平安時代の初めに廃止された。

  養老3年(719)閏7月丁丑。  石城国始置駅家10処。
  延暦24年(805)11月戊寅。 停陸奥国部内海道諸郡傳馬。以不要也。
  弘仁2年(811)4月乙酉。   廃陸奥国海道10驛。更於通常陸道。置長有。高野2驛。為告機急也。

 石城国の大体が南北300里 と信じられていたことは、海道に「駅家10処」が置かれたことからも察しが付きます。
 これは、厩牧令の規定(凡諸道須置驛者、毎30里置1驛。)により、「30里」毎に駅家1処を置いたので、みちのりがたしかに
300里 はあると信じられていたからこそ、「駅家10処」を置いたのだと考えられます。
 なお、こうして沿道郡家がやや過密に置かれていた海道ですが、軍糧などを継ぎ運ぶには便利な道になっていた。

  宝亀11年(780)7月甲申。征東使請襖四千領。仰東海東山諸国。便造送之。
  勅曰。今為討逆虜。調発坂東軍士。限来九月五日。並赴集陸奥国多賀城。其所須軍糧。宜申官送。兵集有期。糧餽難継。
  仍量路便近。割下総国糒六千斛。常陸国一万斛。限来八月廿日以前。運輸軍所。

(注4) 延喜式(兵部省)
陸奥國 驛馬 雄野、松田、磐瀬、葦屋、安達、湯日、岑越、伊達、篤借、柴田、小野各10疋、
           名取玉前栖屋黒川、色麻、玉造栗原磐井、白鳥、膽澤、磐基各5疋、
           長有、高野各2疋
     . 傳馬 白河、安積、信夫、刈田、柴田、宮城郡各5疋

 そこで、「去蝦夷国界120里」という道筋には、つぎの4驛、すなわち黒川玉造栗原磐井があることになります。
 (色麻驛は、出羽国に向かう道筋にあり、最上(もがみ)盆地の避翼驛と結ばれているので、勘定に入れない。)
 この場合、「去蝦夷国界120里」という根拠を、「毎30里置1驛」に託して、「だから4驛が置かれているのですよ」というわけです。
 (後で考察するD⇒Dというケースに当るわけですが、都合よくこのようになった経緯は考える必要がないので考えない。)

(注5) 多賀城勤番を終えた安積軍団の兵士が、阿武隈川を渡って、郷土に帰還した事例。(奈良文化財研究所 木簡データベース

・『□度問見』安積団解○□〔申ヵ〕□番《》事○「□廿伎長□□〔二ヵ〕□□□卅伎 □□二□□」『上等申申』\
畢番度玉前戔リ還本土安積団会津郡番度還「長□十六伎○ 木若十六束」 (後略)
         〔せき〕関所の意

 『歩日50里』の波紋  1日1歩地図を使って比例のお勉強です。

問題 次のともなって変わる2つの量が、比例していれば 1 を、
    比例していなければ 2 を書きましょう。            [    ]

6日275里9日412.5里を進む旅人の日にちみちのり

ヒント 〔日にち〕と〔里の数〕があって、〔日にち〕が2倍、3倍、・・・になると、〔里の数〕も2倍、3倍、・・・になるとき、この〔日にち〕と〔里の数〕は比例しているという。
ポイント 1日1歩 旅人は、1日45.833里を進む。
解説 ともなって変わる〔日にち〕と〔里の数〕を、表(グラフ)にかいて考える。

 山道を進む旅人は、海道を進む旅人とともに、日にちを携えている。
 海道を進む旅人は、山道を進む旅人とともに、みちのりを携えている。
 互いに道を異にするとき、みちのりを別々に(方を違えて)置くのは当然の処置ですが、日にちはどこにあるというのか? それはどこにでもあるものなので、日にちの経過は、一体的に、多賀城を中心に1つの波紋で、表しました。

 山道は下野國(栃木県)那須郡家が、海道は常陸國(茨城県)多珂郡家が、歩き旅の出発地点であり、事実上の國界になっています。

間違いとわかる距離が記されている?

 表(グラフ)に見る各地点の位置関係は、地図に見たそれとは、相違しています。一般に間違いとわかる距離ですが、これにどう対処しましょうか。
 まだのんきに「誰が見ても間違いだ」と考えている人には、警告しておきますが、敵は気違いだけど切れ味鋭い刃物を隠し持っています。
 

郵亭余五十、程里半三千。(程3000里を大宰府と多賀城で分けあう。)

  多賀城 去京1500里       50×(30)
  多賀城 去蝦夷国界120里      4×(30)
  多賀城 去靺鞨国界3000里     100×(30)

 3つの道程には共通点があります。1500、120、3000里がいずれも30の倍数であることです。
 ところで、(公式令)「凡行程。馬日七十里。歩五十里。車卅里。」により、車(くるま)は日に30里 を進み行くことになっていた。つまり1日1車です。このとき、駅路には、(厩牧令)「凡諸道須置驛者、毎30里置1驛。」により、駅が「30里」毎に置かれていたので、駅路が車旅の道になり、駅館が車旅の宿になります。したがって、駅路においては、1日1車を単位にして、程1500里を50日50車、程120里を4日4車、程3000里を100日100車と数えることが出来ます。

 多賀城碑の京は奈良の平城京ですが、『菅家文章』『菅家後集』によれば、平安京遷都の後も相変わらず「去京1500里」とされていたようです。面白いことに、菅原道真が左遷された大宰府も「去京1500里」です。大宰府と京を結ぶ山陽道は大路(驛馬20疋)でしたが、「50余りの駅があり、道程は3000里(大宰府〜(京)〜多賀城)の半分(1500里)である。(郵亭余五十/程里半三千)」(注1)
 天神様も50日50車という考えをお好みのようで、ほっとしました。
 これに対して、京と多賀城を結ぶ東山道は中路(10疋)でしたが、50日50車と言われるだけの実力を備えています。(注2)
 およそ「1500里」なる認識が多賀城碑の昔にまで遡ることは間違いない情勢です。
 しかるに、東西2つの程1500里を地図の上で比較すれば、道の中心(京)はだいぶ西に偏っていて、この距離もまた間違いとわかることになりそうですが、西海道は、海外賓客が往来することもあって、その1日1車(30里)は格別に短かったようです。

 50日50車なる「多賀城、去京1500里」は、京より下る東山道の駅路を経るものとします。
 ここにまた6日6歩なる「去下野国界274里」は、東山道伝路の末端にあります。(注3)
 1日1車それに1日1歩。2つの原理にまたがって説明しているようで気がひけますが、
 その実は、驛傳路の構成原理に基づいた、統一的な説明を目指していたのだと思います。
 春は二重に巻いた帯 三重に巻いても余る秋
 また、謎の"激やせリバウンド女"の性情に基づいた、情緒的な説明を目指していたようです。

      京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり
.

 
秋日、陪源亞相第、餞安鎮西
・藤陸州、各分一字。(探得紅)

相送別西又別
千五百里程中 (2×1500)
秋情念々無他計
只仰樽前面暫紅

左金吾相公、於宣風坊臨水亭、餞別奥州刺史、同賦親字。(古調十四韻)

相公送君君知不
為我君聞説本因
里一千五百
星霜四十六廻人
・・・・・・・・・・・・・

叙意一百韻。(五言)
・・・・・・・・・
傳送蹄傷馬
江迎尾損船
郵亭余五十
程里半三千

・・・・・・・・・

哭奥州藤使君。
(九月廿二日。四十韻)

・・・・・・・・・・
葬来十五旬
程去三千里
廻環多日月
重複幾山水
・・・・・・・・・・
.

京都大原三千院
恋疲労女是一人
結城塩瀬素描帯
動揺水面弁天池

京都大原三千院
恋疲労女是一人

 

多賀城

 

去 京
去 蝦夷国界
去 常陸国界
去 下野国界
靺鞨国界

原文

1500里
120里
412里
274里
3000里

補正里数

1500里
120里
450里 
300里 
3000里

 

 

日車程・日歩程

 50日 50車
  4日  4車
  9日  9歩
  6日  6歩
100日100車

 道の性格

車道(駅路)
車道(駅路)
歩道(伝路)
歩道(伝路)
海上(海路)
.

 結城に塩瀬の素描(すがき)の帯が 池の水面(みなも)に揺れていた
 京都大原三千院 恋に疲れた女がひとり                    (女ひとり ; 作詞 永 六輔)

 みちのくの壺のいしぶみありと聞く いづれか戀のさかひ成るらん     (寂蓮法師)

 

(注1)
陽道


と驛馬

(山城国)山埼驛20疋
(摂津国)草野13、須磨13、葦屋驛12疋   ..........ここまでは畿内
(播磨国)明石30、賀古40、草上30、大市20、布勢20、高田20、野磨驛20疋
(備前国)坂長20、珂磨20、高月20、津高驛14疋
(備中国)津見20、河邊20、小田20、後月驛20疋
(備後国)安那20、品治20、看度驛20疋
(安藝国)眞良20、梨葉20、都宇20、鹿附20、木綿20、大山20、荒山20、安藝20、伴部20、大町20、種箆20、
      濃於20、遠管驛20疋、
(周防国)石国20、野口20、周防20、生屋20、平野20、勝間20、八千20、賀宝驛20疋
(長門国)阿潭20、厚狭20、植生20、宅賀20、臨門驛20疋
(豊前国)社埼15、到津驛15疋   ..........ここからは西海道
(筑前国)獨見15、夜久15、嶋門23、津日22疋、席内15、夷守15、美野驛15疋

(延喜式巻第28 兵部省 諸国驛傳馬より沿驛を抜粋)                      

1駅
3駅
7駅
4駅
4駅
3駅

13駅
8駅
5駅
2駅
7駅

57駅

20疋
38疋
180疋
74疋
80疋
60疋

260疋
160疋
100疋
30疋
120疋

1122疋

平安京〜大宰府  

57日

56車

(注2)

 





と驛馬

(近江国)勢多30(15)、篠原15、清水15、鳥籠15、横川驛15疋
(美濃国)不破13、大野6、方縣6、各務6、可児8、土岐10、大井10、坂本驛30疋
(信濃国)阿知30、育良10、賢錐10、宮田10、深澤10、覚志10、錦織15、浦野15、曰理10、清水10、長倉驛15疋
(上野国)坂本15、野後10、群馬10、佐位10、新田驛10疋
(下野国)足利10、三鴨10、田部10、衣川10、新田10、磐上10、黒川驛10疋
(陸奥国)雄野10、松田10、磐瀬10、葦屋10、安達10、湯日10、岑越10、伊達10、篤借10、柴田10、小野驛10疋

(延喜式巻第28 兵部省 諸国驛傳馬より沿驛を抜粋)                        

5駅
8駅
11駅
5駅
7駅
11駅

47駅

75疋
89疋
145疋
55疋
70疋
110疋

544疋

平安京〜多賀城  

47日

54車

(注3)


郡と傳馬

(近江国)栗太10(5)、野洲 5、神埼 5、犬上 5、坂田 5疋
(美濃国)不破10、方縣 4、各務 4、可児 4、武義 4、土岐 5、恵奈郡10疋
(信濃国)伊那10、諏訪 5、筑摩 5、小縣 5、佐久郡 5疋
(上野国)碓氷 5、群馬 5、佐位 5、新田郡 5疋
(下野国)安蘇 5、都賀 5、芳賀 5、塩屋 5、那須郡 5疋
(陸奥国)白河 5、安積 5、信夫 5、刈田 5、柴田 5、宮城郡 5疋

(延喜式巻第28 兵部省 諸国驛傳馬より沿郡を抜粋)                      

5郡
7郡
5郡
4郡
5郡
6郡

32郡

25疋
41疋
30疋
20疋
25疋
30疋

171疋

平安京〜宮城郡(多賀城)  

32日

34歩


〔追伸〕
 洒落ではないが412里を常道に戻すために、本文はまだまだ続きますが、多賀城碑なる物体の検討を怠っていたので、別に一文をもうけました。
 とおせんぼ(△)と影法師. 多賀城 去常陸国界412里 去下野国界274里 問題を解決するのに必要な 検認 という手続き
 多賀城碑の見せ物としての機能は、この先通行禁止の道路標識を基本にして、それが道案内板を兼ねていた。
 その当時の人向けの説明の真偽について、洒落ではないが今現在の常識に訴えて、賛否を問うのはどうかしている。


中入り(休憩)

 11月22日現在、ここまでは書き直しました。↑思考を整理したので、だいぶ読みやすくなっていると思います。
(星野哲郎作詞を大いに引用したのは、多賀城碑の西面に1日1歩を再発見したといえる人だからです。「間違いとわかる距離が記され」ている現状において、ことの本質を説明できる人は他には見当たらない。)

 さて、いよいよ9日9歩(450里 ⇒412.5里)の、とくに括弧( )内の事情に迫ってゆくわけですが、
以降↓の書き直しは、いずれにせよ容易ではないので、書き直すに先立って、努めて要点を整理しておきたい。

○ 去常陸・下野国界程の成り立ちを考えるのに、数の/12を減じた換算の跡が、出雲国風土記(天平五年;733)に見られます。
   12里 ⇒11里。 また、10歩 ⇒11歩。 (1里 は、300歩。 ⇒1里は、360歩。すなわち条理地割の6町1里です。)
  いずれにせよ、条里地割に基づく条里田図・田籍の整備は、天平時代に始まっているので、
  東人の神亀元年(724)当時は、まだ9日9歩(450里でもよかったが、
                 ⇒   朝狩の天平宝字六歳(762)建碑の時には、9日9歩(412.5里)をもってした。

○ (山下達郎風に)、
  大宝令制の1里は(1里=300歩)ですが、雨は夜更け過ぎに雪へと、条里地割の6町1里(1里=360歩)へと、変わるだろう。
  1歩(6尺)は変わらなくても、「1里」は変わる空模様( 6里 ⇒ 5里)ですが、出雲国風土記はこの経過を〔みぞれ〕混じりに述べています。
  大宝令制の1里は(1里=300歩;6尺)でしたが、
     雨は夜更け前に〔みぞれ〕へと、折衷租法好みの1里(1里300歩 ;6尺6寸 ) へと、変わった。(11里 10里
        〔みぞれ〕は夜更け過ぎに雪へと、条里地割の6町1里(1里=360歩;6尺) へと、変わった。(12里 ⇒ 11里 )
  〔令制1里〕より〔折衷租法1里〕より〔条里地割6町1里〕。通して見ると、132里 120里 ⇒110里。

  〔100歩。73里32歩。得。〕 23920 100 24020  26312 110 26422
  出雲国風土記に「而難可誤」と注記された厳密換算率はいっそう繁雑ですが、2乗して比較すると、(26312)2 : (24020)2 = 6 : 5
  非常に簡単な比が見られます。とりあえず(田6町 ⇒ 田5町)と捉えますが、これはもちろん田んぼのひろさの現れです。
  大宝令前の田1町(租稲15束)は(1町=2500歩)でしたが、雨は夜更け過ぎに雪へと、地割の1坪(1町=3600歩)へと、変わるだろう。
  田1歩(36尺2)は変わらなくても、「田1町」は変わる空模様( 3町 ⇒ 2町)ですが、同じく〔みぞれ〕混じりに述べています。
  大宝令前の田1町(租稲15束)は(1町=2500歩;34.56尺2)でしたが、@
    雨は夜更け前に〔みぞれ〕へと、田1町(租稲18束7把半)(1町2500歩 ;43.2尺2 ) へと、変わった。(5町 4町 )A
        〔みぞれ〕は夜更け過ぎに雪へと、条里地割の1坪(1町=3600歩;36尺2)へと、変わった。(6町  ⇒ 5町 )B


 @ :25      A :30     B :36

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2500歩(36尺2)   2500歩(43.2尺2)  3600歩(36尺2
 米1升(減) 22.4寸   米1升(不減) 28寸  
(歩之内得米1升)   (歩之内得米1升)
    ↓↓          ↓↓
  租穀1斛5斗(減)  租穀1斛5斗(不減)
  租稲15束(不成斤) 租稲15束(成斤)   租稲22束(不成斤)


@田1町は「2500歩」。先ず本地()のひろさを押さえている。
  班田1町の規格。当初は租田1町(租稲15束)の規格でもあった。
  本地()2500歩(36尺2)。畦畔()1100歩(36尺2)。

A田1町 は「2500歩 」。先ず本地()のひろさを押さえている。
  慶雲三年(706)以降、租田1町(租稲18束7把半)の規格。
  本地()3000歩(36尺2)。畦畔()600歩(36尺2)。

B坪1町は「3600歩」。耕地()のひろさを押さえている。
  条里地割の区画で「坪」という。
(田令)凡田長30歩広12歩為段。10段為町。その多義性に注意!
  耕地()3600歩(36尺2)。

○ 〔令前租法〕町租稲15束。〔令内租法〕町租稲22束。......。望請、輸租之式、折衷聴勅者。.........
   (2400+3600)÷2=3000(歩)、 (15+22.5)÷2=18.75(束)、(1+1.5)÷2=1.25(升) 
 『慶雲三年九月十日格』が「折衷」と言うのは、相違する2つの数量を合せた後真2つに割る、まったく「折中」のことであったとすると、その様子が、ひとつは多賀城のいしぶみ「去常陸国界412里。去下野国界274里。」によって、忠実に再現されていることになります。
 〔折衷租法〕町租稲15束」なる田1町が抱える本地()は、2500歩(36尺2)でも、3600歩(36尺2)でもなく、折中するところ3000歩(36尺2)が本地()になり、坪1町・耕地()に対する比は 6:5 になっています(図、中)。 去常陸・下野国界程の新旧換算比率は、この様子を忠実に再現しているというわけです。 

 (慶雲3年9月15日)
○丙辰、使を七道に遣して、始めて田租の法を定む。町ごとに15束。及、役丁を点さしむ。(続日本紀)

 多賀城碑に向き合って、いま目が覚めました。 折中(相加平均)。それが『慶雲三年九月十日格』のコンセプト。
 単純に足して2で割って、問題を単純に解決した。それでこそ君は「折衷租法」なのだ。
.

『令集解』 古記云。慶雲三年九月十日格云。

 准令田租、1段租稲2束2把。以方5尺為歩。歩之内得米1升。 町租稲22束。
 令前租法、熟田100代租稲3束。
以方6尺為歩。歩之内得米1升。 町租稲15束。
                     
(但し、方6尺の内に方5尺の歩を為す)
(1)右件2種租法、束数雖多少輸実猶不異。
(2)而令前方6尺升漸差地実。
(3)遂其差升亦差束実。
(4)是以取令前束擬令内把、令条段租其実猶益。
(5)今斗升既平、望請輸租之式折衷聴勅者。

 勅、朕念。百姓有食萬条即成、民之豊饒猶同充倉、
(6)宜段租稲1束5把、町租稲15束、主者施行。


(田令第1条)
凡田長30歩広12歩為段。段租稲2束2把。
          10段為町。
町租稲22束。
 したがって、
 田1段は360歩。田1町は3600歩。
 (租稲2束2把)   (租稲22束)
 租稲を言うときには、もちろん本地()率100%のものであり、畦畔()を排除しなければならない。

〔令前租法〕
熟田100代租稲3束。...... 町租稲15束。
(こなた) (しろ)

  〔令前〕田1町(2500歩)の本地()が500代になるか? これは〔図解〕を見てのお楽しみです。

  ただし、〔令内〕田1町(3600歩)の本地()100%は、最も簡単な比(2:3)に殉じて、必ず 750代 になるものと仮定しています。


〔図解〕                        (2)而令前方6尺升漸差地実。...........           地実; 代のこととして説明します。
                              (3)遂其差升亦差束実。...........               束実;1代の内に穫稲1束。
(1)右件2種租法、束数雖多少輸実猶不異。  (4)是以取令前束擬令内把、令条段租其実猶益。

 |  ■■■■■■  ■■■■■■  |  ■■■■■■  ■■■■■■  | (2)
 |  ■■■■■■  ■■■■■■  |  ■■■■■  ■■■■■■  |
班田1町(2500歩)の地実は、
 |  ■■■■■■  ■■■■■■  |  ■■■■■ 
 ■■■■■■  | 500代を上回り、520代余りになる。 
 |  ■■■■■■  ■■■■■■  |  ■■■■■ 
 ■■■■■■  | (3)
 |  ■■■■■■  ■■■■■■  |  ■■■■■ 
 ■■■■■■  | 班田1町(2500歩)の地稲は、 
 |  ■■■■■■  ■■■■■■  |  ■■■■■ 
 ■■■■■■  | 500束を上回り、520束余りになる。

    町租稲15束  ⇒  22束5把         町租稲15束  ⇒  21束6把
       (2:3)       > 町租稲22束     (25:36)       < 町租稲22束


(5)今斗升既平。
                   いま斗升..... ■■■■(減) ■■■■■(不減) ■■■■■■(増) .....既に平らかなり。
           望請輸租之式折衷聴勅者。   

 |  ■■■■■  ■■■■■■  | 斗升の比例(4:5:6)をお手本にして、租稲また本地を折中(相加平均)する。
 |  ■■■■■  ■■■■■■  |
 |  ■■■■■  ■■■■■■  |  
租稲束数の〔折中〕 (15束+22束5把)÷2=18束7把半
 |  ■■■■■  ■■■■■■  |
 |  ■■■■■  ■■■■■■  |  
本地面積の〔折中〕 (2400歩+3600歩)÷2=3000歩
 |  ■■■■■  ■■■■■■  |
                500代   750代     625代

  町租稲18束7把半 ⇒  22束5把)>
       (5:6)     ( 町租稲22束 )

 上の図解は、格文が赴(おもむ)くところに応じて、よく接待できました。適当と評価して「仮定」をはずします。

 (注意!田1町 即 720代、ではなかった。 〔令内〕田1町(方5尺、3600歩)の本地()100%は、750代。
 (注意!班田1町 即 500代、ではなかった。   ⇒ 〔令前〕田1町(方6尺、2500歩)の本地()は、520代余。

〔算解〕
(1)右件2種租法、束数雖多少輸実猶不異。熟田100代租稲3束により、熟田500代租稲15束。この限りでは輸実に不足はありません。
  しかし、おこなわれているのは町(520代余)租稲15束のほうです。これはどうか?
(2).而令前方6尺升漸差地実。  〔歩〕 750/3600(代) > 750/3750(束)  〔升〕
(3)遂其差升亦差束実。     
 〔地稲〕 520束余   >   500束    〔穫稲〕
(4)是以取令前束擬令内把、令条段租其実猶益。  (360/250)×1束5把=2束1把6分 < 22束

 令前租法がけしからんと言うわけではないが、律令を頂点とする法律構成上の欠陥が指摘されるところです。
 そこで、この不具合(バグ)を修正すべく、いくつかの「折中」操作がおこなわれます。
(5)
 今斗升既平。10合の升(減)15合の升(増)を折中(相加平均)したかのごとき12合半の升(不減)に倣い、
 望請輸租之式折衷聴勅者。
 熟田500代租稲15束熟田750代租稲22束5把を折中(相加平均)。=熟田625代租稲18束7把半
 これに伴って、2500歩3600歩もどうかしなければ。こちらは(相乗平均)します。=3000歩本地()です。
(6)宜段租稲1束5把、町租稲15束、主者施行。
 ここでも令前租法の「町租稲15束」というしくみを継続するので、3000歩本地()を 2500歩 に分けて、
 12合半の升(不減)を歩内升に迎えて、町租稲15束(成斤) これを主法と定めて実施する。

  折衷租法、田1段( )租稲1束5把 。方6尺為歩。歩之内得米1升1町( )租稲15束
                          (但し、方6尺の内に方5尺4寸8分の歩を為す)

 今はじめて見る〔成斤の束〕。但先束者不成斤。今十五束者成斤耳。(令集解) 私達はそれとともに 5:6 の〔みぞれ〕模様を見る。


.,
 東北のスフインクス、1日1歩の変遷を語る。

 ここまでのまとめ 

 道程を粗略に累計したにしても、容易ならぬ大差を見るにおいて、多賀城が「去常陸國界412里」とは、「去下野國界274里」とはどういうことか?
 もっぱら算数的な興味にひかれながら解明を進めました。

 多賀城は、常陸国界より412里、下野国界より274里を去るという。
 そのわけはなんでもない。
 1日1歩、3日で3歩。3歩進んで、2歩下がる。よりによって、
 奥の細道は、海道を3歩進むとき、山道を2歩下だる細道であった。
 東海の奥道は9日9歩、東山の奥道は6日6歩
 海道は歩9日450里 、山道は歩6日300里 みちのりでした。
 もっとも、こんなに簡単な表数であったのは一昔前、東人の頃です。その後1日1歩みちのりの数え方が改められ、朝狩の頃になる碑(いしぶみ)には、12里 ⇒11里による換算を受けた乱雑な里数が刻まれていますが、これも要するに、

 歩き旅1日1歩の泊りに、45里300歩毎に郡家がある。

 相変わらず1日1歩をモットーにして、石文はただひとつの事実をあけすけに語っていると思われます。

 海道9日には9郡があり、山道6日には6郡がある。

  .

.

.

.

天平寶字六年十二月一日


将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也

節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守

也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山

軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置

此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
     


 
去靺鞨国界三千里 去下野国界二百七十四里 去常陸国界四百十二里 去蝦夷国界一百廿里

 

 

去京
一千五百里

 たしかに、
 3歩進んでの、海道には、                              2歩下がるの、山道には
    多珂・〔
菊多・石城・標葉・行方・宇太・(伊具)・曰理・名取・宮城郡が、   那須・〔白河・安積・信夫・苅田・柴田・宮城郡がありました。

 田一枚 植えて立ち去る 柳かな 芭蕉 〜街道を往来した折衷

 「蘆野の里」は、那須町芦野。かつて、奥州街道の宿駅。
  松尾芭蕉の旅 おくのほそ道(11)

 〔多賀城碑〕                   はせう
 多賀城、下野国界274里。←→ 田一枚 植て立去る 柳かな

 ここ那須の地において、左右2つの〔去る〕は、激しく同意!火花が散ります。
 今時こういう感想を述べるのは私だけですが、すこしも淋しいとは思わない。
  多賀城、常陸国界412里。 9日9歩・原点は、多珂郡。
  多賀城、下野国界274里。 6日6歩・原点は、那須郡。
 一富士、二多珂、三那須びですが、こういうことに決まっているからです。

 それにしてもこの句は、私が言いたいことを短く言い尽くしているような。

 「歩」という単位の本領は田畑にある。「歩」がたまに道を往くことがあるが、それは遊び気分のアルバイトみたいなもので、だから「遊行」と言うのか。そうでなくても、かの折衷は田んぼで生まれたことがわかっています。その産みの検討は、田植え・刈入れの演習に近く、早苗のかわりに代を植え、稲のかわりに歩を刈り取った。それからして、
  多賀城、下野国界300里
 昔こうして街道にあったものは、←→ 田一枚 植て立る 那須こおり。
 ここ那須の地において、左右2つの〔去る〕は、激しく同意!火花が散ります。


田一枚

植て立去る

柳かな

今日此の柳のかげにこそ立ちより侍つれ 給ふを

いづくのほどにやと思ひしを
此の柳みせばやなど折をりにの給ひ聞え 田の畔にのこる

此の所の郡守戸部某の


清水ながるの柳は蘆野の里にありて
遊行柳

元禄二年四月二十日

 


 ダブル・セミダブル・スタンダードか。折衷 法 は。

 ただ里程だけが記されたスケジュール表。しかし、これを見た人は歩き旅の日程を知ることになる。 

  神亀元年(724)三月庚申 (続日本紀)
  定諸流配遠近之程。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左6国為遠。諏方・伊豫為中。、
  越前・安藝為近。

.

 凡流移人者、省定配所申官、具録犯状下符所在併配所。良人請内印、賎隷請外印。
 其路程者、従京為計。
  伊豆 去京770里(歩22日)安房 1190里(34日)常陸 1575里(45日)
  佐渡 1325里(37日+30里)隠岐 910里(26日)土佐等国 1225里(35日) 為遠流。
  信濃 560里(16日)伊豫等国 560里(16日) 為中流。
  越前 315里(9日)安藝等国 490里(14日) 為近流。  〈 延喜式巻第29 刑部省 〉

 流刑法関係の説明は抜きにして、要するに35里で割ると〔歩日程〕がわかるしくみだといえます。  50×(/×(/)=34.722
 歩き旅1日1歩の泊りに35里毎に宿があることになっていた。
 歩人は日に「50里」を進み行く。その1里の長さを、短く300歩(5尺)と解釈しています。本当かと疑いたくなりますが、人の歩幅に近い1歩の長さはおそらく本当でしょう。
 
ここで重要なのは、35里と数えている単位が、神亀元年(724)にして、既に6町1里(条里地割)だということです。
 ところが、多賀城碑は、同じ「歩日50里」をもっと長めに見て、45.833里にして数えています。私としては、この間の事情を説明して、両雄がいつでも並び立つようにしておきたいのですが、そこでまず、「歩日50里」の長さに関してダブル・スタンダードの必要性が叫ばれます。
 人口が密なところでは、5尺、300歩、50里でもって、宿を22.5キロ間隔に置くことは容易です。しかし、人口が疎らなところにまで
5尺、300歩、50里を及ぼすと、小さな郡がいくつも乱立するわけです。
 そこで、末端の人通り少ない街道には、6尺、300歩、50里が及ぼされて、27キロ間隔であるとよい。
 しかし、公式令の「歩日50里」の真意が、当初から6尺、300歩、50里に存したかのように思っている人が多い。私はその傾向には耐えられないので、元を正しますと、公式令が5尺、300歩、50里をテーゼとしているところに、6尺、300歩、50里は、アンチテーゼとして、しゃしゃり出て来たものです。両雄並び立つ構図のはじまりですが、それがまた6尺6寸、300歩、50里 30キロ間隔へと変わるだろう。
 この意味で、折衷 は、ダブル・セミダブル・スタンダードですね。おそらく。


みちのりの単位なる里・歩の変遷
 1里 300歩(453m)→ 300歩(595m)  → 360歩(652m) 
 1歩  5尺(1.51m) → 6尺5寸8(1.98m) → 6尺(1.81m)
                慶雲3年格(706)    6町1里(条里地割)
    A (50里)          ⇒      D (35里)


度地の単位なる里・歩の変遷
 1里 300歩(543m)= 300歩(543m)→ 360歩(652m)
 1歩 「大5尺」(1.81m)=  6尺(1.81m) =  6尺(1.81m)
    大宝令(701)    和銅六年格(713)  6町1里(条里地割)

6町1里(条里地割)

 〔歩1日50里 みちのり45里300歩と数えている単位の長さは6尺(およそ1.81m)で、当時の度地の単位なると共通しています。
 また、360歩を以てをなす。このの長さは、条里地割の正方1里区画の幅にぴったり一致しています。

 条里地割は、天平時代(729-748)に入って本格的に開始された、正方1里の内に36町を収める均一的な土地区画ですが、このような様式による班田図と田籍の整備が進められたために、条里地割の景観も見られるようになったので、班田図が造られた国々には、必ず条里地割があると思えばよいわけです。

折衷輸租田の形成過程

 方1里の内に36個が隙間なく納まっている
 幅が1町(60歩)という正方形の地面をといいますが、
 この内に、班田1町(10段)が、ピッタリと納まってあるとき、
 地面の70%が本地()です。30%が畦畔()です。厳密に言うと、
 地面の25/36 が本地です。11/36 が畦畔です。すなわち、

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 ■■■■■■  ■■■■■ ブロック1個が100歩
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 3600歩の内、2500歩が本地です。1100歩が畦畔です。

 田んぼの神様でもないのに、どうしてこんなことがわかるのでしょうか?
 なにげない絵模様に、ちょっとした秘密が隠されています。
 その秘密が最初に明かされたのは慶雲三年(AC706)秋、九月十日。
 新しい租法を定めたときでした。

額田寺伽藍並条里図(復原複製)国立歴史民俗博物館
天平宝字年間〔757 - 765〕頃   


 (折衷租法については、中入り休憩中に下調べしたので、重ねての説明は省きます。)

 古記云。慶雲三年九月十日格云。      (令集解)


 准令田租、段租稲2束2把
以方5尺為歩。歩之内得米1升。 町租稲22束
 
 令前租法、熟田100代租稲3束町租稲15束
以方6尺為歩。歩之内得米1升。
                             
(内に方5尺の歩を為す)

(1)右件2種租法、束数雖多少輸実猶不異。

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ブロック1個が 20.833...代
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 輸実 15束 7束5把 ⇒ 22束5把 > 町租稲22束
 地実 
500代 250代   750代

(2)而令前方6尺升漸差地実。
(3)遂其差升亦差束実。
(4)是以取令前束擬令内把、令条段租其実猶益。

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ブロック1個が 100歩
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 輸実 15束 6束6把 ⇒ 21束6把 < 町租稲22束
 地実
2500歩 1100歩  3600歩
取 令前1束5把 擬 令内2束1把6分、令条段租稲2束2把 其実猶益。〕 違憲判決!
〔改善策は〕

 @班田1町をサイズダウンする。........給男2段(女減3分之1)の絶対量を減らすのは酷。
 A「町租稲15束3把」に改める。........見苦しい。品格が無い。といわれそう。
 いったいどうするのでしょうか?

(5)今斗升既平、望請輸租之式折衷聴勅者。

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ブロック1個が 20.833...代
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      ↓ 折衷(折中) ↓

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ブロック1個が 20.833...代
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    輸実 18束7把半 3束7把半 ⇒ 22束5把 > 町租稲22束
    地実  625代   
125代     750代
        (3000歩) 
(600歩)   (3600歩)

 勅、朕念。百姓有食萬条即成、民之豊饒猶同充倉。
        
口分田はいじりませんよ。
(6)宜段租稲1束5把、町租稲15束、主者施行。

   ■■■■■■■■■■■■ 
   ■■■■■■■■■■■  5 をなすべきところ
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   ■■■■■■■■■■■ 12123144 左図はすこし変です。
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   |    50歩(25代)   |


   |      60歩       |

(田令第1条)
凡田長30歩広12歩為段。段租稲2束2把。
          10段為町。
町租稲22束。
 したがって、令内田1町は3600歩だとわかりますが、これをで数えるといくつになるでしょうか?

(1)右件2種租法、束数雖多少輸実猶不異。
 ここでは、何と何とが比較されているのかというと、
 熟田100代租稲3束町租稲22束この取組ですが、
わかりやすくして、
 熟田500代租稲15束町租稲22束ここで比べます。このとき、前者は500代を以って固有のひろさを表明しています。されば後者は、3600歩ではあるけれども、かさねてそのの数を明らかにするのが筋です。
 「輸実猶不異」つまり比較した結果は満足だというので、
前者の500代に対して、後者を仮に750代につくると、満足>する結果を招きます。この比は2:3で、かたちよい。

(4)是以取令前束擬令内把、令条段租其実猶益。
 格文は「段租(稲)」といっていますが、断然わかりやすいのは、 町租稲15束町租稲22束。 ここで比べます。
 このとき、令前という前者は2500歩を以って固有のひろさを表明しています。令内なる後者のひろさは勿論3600歩です。
 25:11:36 = 租稲15束 : 6束6把 : 21束6把
 これはどうしようもなく、不満足<な結果を招いています。

 ここまでのところ、熟田500代班田1町は、同一ではなくて、1個ぶん相違していることがわかりました。
(1) 熟田500代   租稲15束 > 2400歩 500代
(4)班田1町(10段) 租稲15束 < 2500歩 520代余
 100歩の過剰が班田1町租稲15束を危うくしています。

 


(5)
今斗升既平、望請輸租之式折衷聴勅者。

いま斗升は.....
 ■■■■(減) ■■■■■(不減) ■■■■■■(増)
 10合の升   12合半の升      15合の升
       .....既に平均されている。 

 折衷という言葉が登場しましたが、その意味は簡単で、
折中。相加平均する。たして2で割るようなことです。
 4+6=10、10÷2=5。
 〔12合半の升〕が、小さな升(減)と大きな升(増)を平均して、(不減不増)の境地にあり、4:5:6 の階比をなしているので、ぜひ模範にして、おおいに見習いたいというわけです。
 そこで、何と何を折衷したかというと、
 輸実も地実も揃って 2:3 の比をなしているところ、
 熟田500代租稲15束 町租稲22束5把 を、
 まるごと折中(相加平均)した模様です。

            熟田625代租稲18束7把半
      (3000歩)


(6)宜段租稲1束5把、町租稲15束、主者施行。

 新しいまとまりは、不減升にリードされて出来た経緯もあって、やはり「町租稲15束」といわざるをえない。

折衷租法、

 段租稲1束5把(成斤)
   
以方6尺為歩。 
  (内に、方5尺4寸8分を以て を為す)
          歩之内得米1升
(不減)

                   町租稲15束(成斤)

   折衷租田1町は、2500歩(2500歩 )にして、熟田625代になります。4歩 は1代に等しい。
   そこで、25代×25代=625代 だといえば、2歩 は、平方化された1代の幅長に等しい。

 

 「歩之内得米1升」とは

  慶雲三年九月十日格の文中に、「歩之内得米1升」という言葉が、繰り返し見られます。

  (1)方5尺為歩。歩之内得米1升。
  (2)方6尺為歩(内に方5尺の歩を為す)。歩之内得米1升。

  ただし(2)には私の(説明)を付け加えています。これはお節介ですが、文意を安定させるために余計なことをしています。
  こうしておかないと、文章の簡潔さが新米の読者を惑わせて、「方5尺」が、「方6尺」が、それぞれ「米1升」に直結してしまう。
  同じく「米1升」と言っていても、(1)1升 と (2)1升4合4勺 との間に、4合4勺の開きがある。それでよいのだということになります。
  しかれども、その了見はよろしからず。
  一に「方5尺」が直結しているのであり、まったく、(1)1升  (2)1升 であり、右に同じ、左に同じだというわけです。

 (1)以方5尺(方5尺)為歩(歩)。歩(歩)之内得米1升。
 (2)以方6尺(方5尺)為歩(歩)。歩(歩)之内得米1升。

 「米1升」は、外向きの歩を避けて、内在する(方5尺歩)に感応しています。
 くどく説明するのもしんどいので、あとの説明は右の問題文に代えます。

ヒント1
 現代の1合(180cc)に直せば、通常の米マスの1升は3合3勺ほど、租穀マスの1升は4合1勺ほど。米1升は「人一人の1日ぶんの食糧」に相当していたので、歩と同様にパーソナリティを有した言葉だといえます。

ヒント2
〔続日本紀〕 元正天皇 養老七年(AC723)四月辛亥
太政官奏、頃者、百姓漸多、田池窄狭。望請、勧課天下、開闢田疇。其有新造溝池、営開墾者、不限多少、給伝三世。若逐旧溝池、給其一身。奏可之。

 有名な 三世一身法 ですが、田池という言葉は、ここから拾っています。
 しかし、田池をなにげなく「溝池」の意味にとりなすのは問題外です。
 このときには、一所の田地の中に、いくつもの狭苦しい田池が閑かに散らばっている景観が思い浮かべられていた。したがって、「田池窄狭」というのは、盛大な畔地によって田池が搾り狭められていることです。

解説 散在する〔田池〕は、一所に寄せ集めて、〔田地〕のひろさと比べる。

.
 問題

  次のともなって変わる2つの量が、比例していれば 1 を、
  比例していなければ 2 を書きましょう。  [    ]

    「歩之内得米1升」における、
        田池1歩のひろさと、1升ますの容積。

 

        http://isimu.co.jp/gallery/scenery/
,

.
解答
  不完全な問題でしたが、[ 1 ]を正解とします。      そうしたときには、

 (1)以方5尺(方5尺)為歩(歩)。歩(歩)之内得米1升(減)
 (2)以方6尺(方5尺)為歩(歩)。歩(歩)之内得米1升(減)。       (歩)は変わらない。ともなっても変わらない。

 (3)以方6尺(方5尺4寸8分)為歩(歩)。歩(歩)之内得米1升(不減)。 (歩)が変わる。ともなっても変わるだろう。

 ただとにかく、一帯の畔地によって多数の田池が包囲されている。この事実を(数量的に)再認識する必要があります。

 額田寺伽藍並条里図 天平宝字年間〔757 - 765〕頃

西南の条里域、11から14をピックアップしています。
 まず14を見てください。栗林7段72歩〕〔寺田2段288歩
 朱線で境された白地の内に、これも朱線で描かれた円(まる)3つと勾玉の形1つが目に入ります。これらの形は、まだ何枚もある田池を代表して描かれているのですが、ここで重要だと思うのは、域と域を境したのと同等の朱線で、田池畦地が境されていることです。
 これはもちろん寺田2段288歩の内でなされていることですから、わけて田池は何歩のものか、わけて畔地は何歩のものか、それくらいのことは当然わかっていたのではないか。
 律令格式に明記された手順に従って分析してみましょう。

14坪 寺田 2段288歩  (ブロック1個が10歩)

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 内、田池 700歩なり。畔地308歩のつもり。

 次に11を見てください。寺院9段274歩〕〔寺田86歩
 (右→)

 

 〔11坪 河原田 寺田 86歩  (ブロック1個が1歩)

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  内、田池 60歩なり。畔地26歩のつもり。

折衷租田のひろさ

 「歩之内得米1升」において、1升ますの容積は、標準的な田池1歩のひろさに、比例していた。
 慶雲三年九月十日格について言えば、
 いままでは、「方6尺(方5尺)」なる「歩の内得米1升(減)」に基づいて、「町租稲15束(不成斤)」を収めていたのですが、
 これからは、「方6尺(方5尺4寸8分)」の「歩の内得米1升(不減)」に基づいて、「町租稲15束(成斤)」を収める。
 その宣伝がみちのりの歩単位にまで及んでいる感じですが、
 新しい租稲(租穀)収納制度のしくみを、こうして万民に知らしめる必要があったのではないかと思います。
.

井の中の蛙、折衷租田のひろきを知る。

「町租稲15束」に代わる租穀1石5斗を製するのに、料稲18束7把半を要した。

 藤原宮遺跡の井戸の底から掘り出されたという出納簿木簡(奈良文化財研究所 木簡データベース で見られます)には、
 弘仁元年(810)十二月二十五日、正倉に租穀を納めたときの支出が記録されています。

 (更十二月廿五日下)
 元年佃 3町6段120歩
 
  自庄造 2町6段120歩
   福万呂作 4段 又 地子 6段
同租上
     二不得八定田 3町120歩
 可上租穀 4石5斗4升 料 穎 56束8把
別束籾得8升

〔色分け〕 ややこしいので、税理士さんにお願いしました。

 (更十二月廿五日下)
 元年佃 3町6段120歩
 
  自庄造 2町6段120歩
   福万呂作 4段 又 地子 6段
同租上
    
〔戸内 3町120歩〕     〔戸外 6段〕 
 不二 6段 得八 2町4段120歩 +全得 6段
          定田 3町120歩
 可上租穀 4石5斗4升 料 穎 56束8把
別束籾得8升

120歩 /15 段。便宜的に1段を450歩としている。) 
〔不二 24歩〕〔得八 96歩〕は、把数に反映しないので、見せなかった。

二不得八  戸別に、租田の2割が控除される。残る8割にかかる。
         天下田租、戸別立率、常免二分、令輸八分。
従来「不三得七」を限度とした検見取りが行われていたが、延暦21年に、風水損田に対する手当を削減し、2分を戸別の常免に振り向けた。
   ( 太政官符「応令依法処分損田事」 弘仁七年十一月四日)

 初めに『弘仁元年十月廿日収納稲事』と大書きされた出納簿には、庄倉に保管された頴稲の支出明細が半年にわたって記録されており、初期庄園の経営実態を知るには教科書的な価値がありますが、ピックアップした左の記事は折衷租法の実施状況を明らかにしているので、とりわけ貴重です。

 税務会計の難解さは今も昔も変わらないので、色分け(仕分け)は税理士さんにお願いして、最終行から読み解くと、これは要するに、

 ひろい田1町(625代)租稲15束(成斤) により
   輸租田 3町120歩(1891代余)
にかかる
      租稲 45束4把(成斤) 
       穀 4斛5斗4升(不減) に代えて上納した。
    これを造る原料に、頴稲 56束8把(不成斤) を支出した。

 注記して「別束籾得八升」という意味は、穎稲1束(不成斤)当りの収穀(籾)は8升(不減)になるということです。
 通常、穎稲1束を扱いて、籾1斗、搗くと、玄米5升を得るときは、
[ 驛子委文マ豊足十束代稲籾一石 ] 柴遺跡木簡(兵庫県朝来市)
 頴稲束把(不成斤)→籾・米升(減) 頴稲束把(成斤)→籾・米升(不減)
のどちらかなので、段違い平行棒の段差を知るには至りませんが、この出会いは「不成斤1束・減升1升は、成斤8把・不減升8合に等しい」ことを明らかにして、折衷租法の折中(相加平均)比(4:5:6)に照合しています。

折衷租法による、輸租田 3町120歩 (1891代余)。ひろい
ところが、税理士さんの
   説明によると、 定田 3町120歩(1576代余)。せまい 

 租稲 45束4把(成斤) は、まい田1町(520代余)なる、輸租田 3町120歩(1576代余)にかかっていた。

 もっとも、二不得八は、これを見越してのこと。十分な減税措置が施されているので、不平はいえない。それで方式が違うとはいわないけれども、折衷租法が開始されて間もない頃は、こんなに行儀の悪いやりかたは採用していなかったと思う。

 折衷租法が開始されて間もない頃は、
 班田1町(502代)による見田は、輸租田1町(625代)にして幾らになるかと、再評価した上で、成斤の租稲をかけていたと思います。 
.

班田2段(500歩=104代余)は、

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  ■■■■■  ■■■■■ 
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ブロック1個が 10歩
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  ■■■■■  ■■■■■■ 
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輸租田1段240歩(416歩 したがって 租稲2束5把(成斤)

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  ■■■■■■  ■■■■■■ 
ブロック1個が 8.33
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  ■■■■■■  ■■■■■■
  5把・5把・5把  5把・5把 

 

 ただ再評価という作業は、町段歩の数を一挙に減らせばそれで済むというものでもなさそうです。
 例えば、「班田2段」を「輸租田1段240歩」に言い換えたときに、(500歩が(416歩になっている。これは「歩の内得米1升」が減升から不減升に変わることに関連しているので見逃せない。
 折衷租法を定着させるためには、この機微が大衆的に理解されることが望ましいので、折衷 は、班田では見ないけれども、よそではよく見かけるという環境造りがおこなわれてもよい。

 よそではよく見かけたという例、
 宮城の仙台で、折衷 程を見たという。

 終わり。

  あゆみ(歩)

 

 

 

 ☆ 古事記拾い読み

原文 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kojiki1.txt

自其入幸。渡走水海之時。其渡神興浪廻船。不得進渡。爾其后。
名弟橘比賣命白之。妾易御子而入海。御子者所遣之政遂。應覆
奏。將入海時。以菅疊八重、皮疊八重、[糸施]疊八重敷于波上
而。下坐其上。於是其暴浪自伏。御船得進。爾其后歌曰。

 佐泥佐斯。佐賀牟能袁怒迩。毛由流肥能。本那迦迩多知弖。
 斗比斯岐美波母
 (さねさし さがむのをどに もゆるひの ほなかにたちて
  とひしきみはも)

七日之後。其后御櫛依于海邊。乃取其櫛。作御陵而治置也。

自其入幸。悉言向荒夫琉蝦夷等。亦平和山河荒神等而。還上
幸時。到足柄之坂本。於食御粮處。其坂神化白鹿而來立。爾
即以其咋遺之蒜片端。待打者。中其目乃打殺也。故登立其坂。
三歎。詔云阿豆麻波夜【自阿下五字以音】故號其國謂阿豆麻也。

即自其國越出甲斐。坐酒折宮之時。歌曰。

 迩比婆理。都久波袁須疑弖。伊久用加泥都流爾。
 (にいはり、つくばをすぎて、いくよかねつる)

其御火燒之老人續御歌以歌曰。

 迦賀那倍弖。用迩波許許能用。比迩波登袁加袁
 (かがなべて よにはここのよ ひにはとをかを)

是以擧其老人。即給東國造也。

 

オトタチバナ姫の髪櫛がたどり着くまでの7日とは?

 倭建命を乗せた船は、(相模の国から)対岸の上総の国に向うが、東京湾を周回する沿岸流の荒波に阻まれて、先に進めない。

            (下総国)葛飾郡B
            /          \
  (武蔵国)豊島郡A          C千葉郡(下総国)
         /                /
 (武蔵国)荏原郡@           D海上郡(上総国)   
        /                /
(相模国)橘樹郡(0)〜〜       E望陀郡(上総国)
                〜〜     /
                   〜〜F周准郡(上総国)

 東海道沿いの郡家を列挙して、七日を数える。行程は7日。

.

「1人で眠る2つの夜」をめぐる謎掛け歌

  新治、筑波をすぎて、幾用加寝つる
  新治、筑波をすぎて、幾夜か寝つる

  日々並べて、用には9用、比には10日を
  かがなべて、夜には九夜、日には十日を

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  比用比用比用比用比用比用比用比用比用比
  日夜日夜日夜日夜日夜日夜日夜日夜日夜日  但し日程は9日。

 「用(よ)」は、〔世、代〕に同じで、時間(ときのま)のことです。
 「加(か)」は、〔箇、個〕に同じで、個数のことです。
 しかし、どうも昼と夜が逆転している上に、夜の眠りが2倍増しに勘定されているようですが、これは間違いなのか。
 旅先で宿泊する1夜の眠りには2つの意味がありました。
 ひとつは、「歩日50里」なる移動のはてに、1日という時空の隔たりを埋め合わせ落ち着かせるために眠る。これは非日常的な行為です。
 あとひとつは、また新しい1日を迎えるために眠る。こちらは日常的な眠りといえます。
 したがって、旅人は2つの夜をひとりで眠ることになります。

  足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 長永夜乎 一(獨)鴨将宿
  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む

 長永夜乎、長い夜と永い夜を、やはり、2つの夜をひとりで眠るという。

 〔備考〕 書きかけ

 1里(360歩)という長さは変らない。

 奈良時代の土地標準尺は「天平尺(29.7cmほど)」だという。これはよく聴く説明でご存知の方も多いと思います。
 これに対して、近世の土地標準尺は「曲尺(30.3cmほど)」だという。これは常識といってよいことだと思います。
 そうすると、昔々の古いものさし(天平尺)が、新しく興った曲尺に追われて席を譲ったみたいですが、この外観は嘘。
 実は、新しそうに見える土地尺も、昔々から古い土地尺の裏に隠れていた。それが表面に出ただけです。

寄留法の説明
条里の間にあるスペースを阡陌(センハク)という。これは大道や大溝を通すための除地(畸)です。

剰余法の説明
土地を効率的に利用するために除地(畸)をやめて田地にまわし、1里の間隙に必要な公共地を余すようにした。

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〔500代〕租稲15束 〔520代余〕租稲15束
慶雲3格  お手本にしなさい  懲らしめてやりなさい
天7検税  以2700寸為斛法  以2800寸為斛法

 

  あゆみ(歩)