とおせんぼ と 影法師  2011.5.17.

はじめに

 西 と書いてあるとおりに 西 を向いていたのは、なによりも確かな真実の証しだと思う。

多賀城碑 多賀城碑は、宮城県多賀城市の多賀城跡にある石碑。江戸の昔から、「壺のいしぶみ」と称された、有名な古碑であったのに、平成10年(1999)にようやく重要文化財に指定された。指定が遅れたのは、碑文の内容に偽りがある⇒後代の偽作と決めつける説が学界において優勢であったためである。発掘調査の結果などにより、現在は碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と判断されている。


1.多賀城碑里程論の批判的継承に必要な、検認という手続きについて

 おそらく、多賀城碑を真碑とした説にしても、辻によれば、やはり内容上からの研究であり、かなり本質的な批判を加えられていたに違いない。

伊勢は先の論文で、歴史学者辻善之助の論を引用しているのが注目される。すなわち、辻によれば、田中・喜田両氏の剝偽説は内容上からの研究で、これは外形真偽の判断が定まった上で行なうことであるとして、かなり本質的な批判を加えている。(P.58
 阿倍辰夫・平川南編 『多賀城碑 その謎を解く 〔増補版〕』 第2章 碑の真偽論争 平川南

 『歩日50里』の波紋     あゆみ(歩)

 外形の(外形による、外形のための)真偽判断.......内容に触れず外形的な事実のみを判断します。判断は、真か、偽か、どちらか1つに落着きます。
 内容の真偽の判断は後回しにして、外形の真偽を判断したまえ。これは歴史研究の鉄則なのか。歴史学者を唸らせる話にはついてゆけませんが、幸いなことに、同様の指導が世俗の遺産相続の場合に行なわれていました。「検認」という手続きです。相続人に遺言書の外形に限って真偽の判断を求めます。

  自筆証書遺言の場合は検認手続きが必要です。
  検認の手続きは、家庭裁判所に相続人が集まって、裁判官の前で遺言書を開封します。
  遺言の内容などには触れず、

  外形的な確認(筆跡が遺言者のものであるか、印影が遺言者が使用していた印鑑のものかどうか)を相続人が行います。
  
http://www.bright-shiho.jp/article/13573752.html

 多賀城碑(重要文化財)に「この財産を君にあげる」という言葉はないけれども、故人の遺言書には相違ないので、うっかり見学にゆくと「検認」を求められるかもしれません。「石の遺言書」の異様なところは、石体そのものが大きな印鑑になって大地を衝いて立ち、印影は地面に映る影法師で、印鑑証明は要らない。碑面が平らで、西の字のとおり西に向いているのは、土地の方向を指示する準器として据え置かれたことを伺わせます。この垂直平面はもともと「去京千五百里はここまで」という基準面を表していたところ、その空白を利用して141文字が刻まれた。ただ碑文を刻みたいのとは異なる用向きがあって、多賀城碑の大きな外形的特徴がかたちづくられていたと思う。
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 とおせんぼ(重要文化財)

内容上からの研究(疑問) 多賀城碑の「まちがい」はいくつか指摘されていますが、核心をなしているのは、常陸国から来る道のりと下野国から来る道のりの相違が甚だしいということです。

  「(多賀城)去常陸国界412里」  当時の常陸・陸奥国境は、現在の茨城・福島県境に受け継がれている。
  「(多賀城)去下野国界274里」  当時の下野・陸奥国境は、現在の栃木・福島県境に受け継がれている。

 当時の東山道筋は現在の中通りであり、当時の東海道筋は現在の浜通りであることも間違いなくて、2道のみちのりは誰が見ても大差ない。山海の道のりを具実に記したとしても、山道が274里で海道が(2倍に近い)412里というような里数にはなりえない。 ⇒ 碑はずっと後の時代になって作られた偽物と判定される。

以上のように、明治〜大正にかけて、活発に行われた真偽論争も、喜田が語るように、「学会の趨勢が、其の偽物なることを黙認するに一致せんとするの傾向あるを見るのみ」という結果に落ち着いたようである。しかし、真偽論は辻の指摘したように碑の外形上の検討を先行させるべきで、田中らの内容上の疑問に引きずられて、その論拠を超えられなかったところに偽作に対する反対論者の側に大きな問題があったと考えられる。(P.59)

このように、従来の真偽論には多くの問題点がある。そこで、碑の真偽を決定するにはこの問題点を克服するとともに、碑の形態、体裁および書体などについて、当時の金石文などの類例との比較検討が必要となるであろう。(P.59)

 しかし、辻はもっと大胆なことを考えていたのではないか。
 平川氏は辻説法の要点を聞き漏らしていると思うので、私が感じたことを言いますが、
 その碑(いしぶみ)に
「文体の外形」というような外形もあるけれども、辻が外形というときには、その大きな石体のことを考えていたのではないか。

 素寒貧な絵柄で、ものたりない感じですが、
 辻に、この街道図を見せたら、
 「内容はあるけれど、外形がないね」と、
 かなり本質的な批判を浴びたと思う。

平安朝仏教史上に於ける中尊寺の地位 文学博士 辻 善之助  (当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。)
 経文を瓦に書きまして埋めました瓦経と云う物があります。あるいは石に経文を書く経石と云う物もある。石に御経の文句を一字宛書きまして、何萬何億と云う石を埋めたと云う事もある。夫から清盛が経石の信仰に伴ふ道楽を利用して、それを以て兵庫の港を築いたと云う話もあります。清盛は余程悪く言われますけれども、そういう智慧は偉いもので、その時代の思想を超越している。そういう時代の思想を利用して石に字を書かして、これをやれば功徳になるからと言って、その石を運ばして、そうしてそれを築港の土台に使ったのであります。  http://www.st.rim.or.jp/~success/chuusonji_gen.html

 手頃な大きさの石体にその141文字を彫りつけたとしたら、その石体の大きさも「文体の外形」に過ぎない。(内容が道楽なら外形も道楽です。) 願わくば、その石体が何か役に立つ道具としてあるとき、文の内容を優しく包み込む大きな外形があるといえます。辻は、そこに智慧があるという。その時代の思想(道楽)を超越している。そういう智慧は偉いものだという。
 私は「物は嘘をつかない」という話を思い出しました。

女性の視点鑑識指揮に 府警初の班長・久原警部補 現場人員配置にこだわり (2008年3月18日 読売新聞)
 意気込みを語る久原警部補(府警本部で)
 殺人や強盗など様々な事件現場に真っ先に駆けつける府警鑑識課機動鑑識の班長に、府警の女性警察官として初めて久原昭子警部補(48)が着任した。全国初の女性鑑識課員として注目されて以来、17年。刑事などの経験を積み、現場指揮官としてスタートを切り、府警幹部らも「第2、第3の班長を目指す女性たちの励みになる」と期待する。
 「人から感謝される仕事がしたい」と1978年に警察官に。当時、女性刑事はおらず、「刑事になりたい」と口にするたび、周囲から白い目で見られた。浪速署勤務の巡査部長時代、交通事件捜査に加わり、事情を聞いた男児から言われるまま報告書を作成したが、ウソだったことが判明。「物はウソをつかない」と鑑識課員を志したという。
 91年、全国で女性初の機動鑑識に配属、多くのマスコミに取り上げられた。現場でも“やじ馬”に物珍しそうに見られたが、女性や子どもが被害者の事件では事情聴取も行い、「女性にしかできないこと」に積極的にかかわった。
 昨夏、大阪市内で白骨遺体が見つかった事件では丸2日間、部屋にこもって経験と知識を駆使して照合可能な指紋を採取、行方不明の外国人留学生と判明した。「まさに、鑑識が身元を割り出したケース。鑑識課員の醍醐(だいご)味です」と振り返る。
 今月4日、班長に着任。複数の班長の一人として男性の部下を率いる。すでに数回、現場に出動したが指揮能力が求められ、「いつも、班員の配置に頭を痛める。現場を後にしてから『まだ、やるべきことがあったのでは』と考えてしまう」とのこだわりも。2男1女の母親。再び注目されるが、目指すは「女性の目と、男性の目を生かした混合部隊」。車などの構造に強い目、性犯罪被害者を優しく見守る目……。「1足す1を、2以上にしたい」と話す。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/lite/read.cgi/travel/6501/1197691929/260-359

 「童女胸鉏(鋤)」という測量器械が出雲の国引き説話に出てきますが、多賀城碑は、いしぶみ(碑)である前に、大地に衝き立てた鋤(すき)で測量器械だったのではないか。「(多賀城)去常陸国界412里」を9日9歩と理解するには、出雲国風土記の里程記事が参考になる、ということは既に申し述べていますが、碑(いしぶみ)の本体が大地に衝き立てた鋤で測量器械だとあからさまに言うことはタブーでした。辻善之助がいう「外形の真偽」とは何のことやらで煩悶しているときに、「人はウソをつくが、物はウソつかへん」という久原警部補の話を思い出したとたんに、心のタガが外れたようです。

2.街かどに立つ 多賀城碑の外形は とおせんぼ

 牛乳瓶に牛乳が入っているとき、瓶(外形)はガラスでできていて、牛乳(内容)とは、材質が違います。どういうわけか、この牛乳瓶が一通の遺言書であったことから、相続人全員を家庭裁判所に集めて、検認の手続きが進められることになった。この検認においては「内容には触れず外形的な確認を行ないます」というので、蓋を開けて中身の牛乳を別の容器に移し空にして、製造元のマークが印されたガラス瓶が何不自由なく存在していることを確認します。

碑の位置 多賀城碑は特別史跡多賀城跡の南部、多賀城南門が築かれた標高約17mほどの小高い丘陵の北斜面に位置する。現在は西面して建てられているが、真西ではなく、垂直よりやや後ろに傾いた状態で建っている。その場所は南門を城内に入り、政庁への道路を35mほどすすんだ右手で、当初からそこに碑が建てられていたとすれば、
(碑直下の位置で地山面から発見された据え穴によって、碑は古代にほぼ現在の位置に建てられた可能性が極めて高い。)
天平宝字年間の道路幅は約13mであるので、道路の東端から約9m離れていたことになる。(ふるきいしぶみ 多賀城碑と日本古代の碑 P.46)

 どういうわけか、多賀城碑が一通の遺言書であったことから、相続人全員を現場に集めて、検認の手続きが進められることになりました。
 本日は、遺言書を開封するに先立って、封筒の確認を行ないます。

形状と材質 碑は高さ196cm、幅は最大で92cm、厚さは最大で70cmである。長大な自然石を半分に割り、その一面を削り平坦にし、磨き仕上げの加工を施して、その面に文字が彫り込まれている。背面は自然石のままである。碑の縦断面は半月状、横断面は、三角形状をなす。
 碑の材質はアルコース(花崗岩)砂岩とよばれる粒子の細かいもので、砂岩のなかでも比較的硬い。同質と思われる砂岩が碑の周辺にもみられるので、それほど遠くない場所から運び込まれたと思われる。(ふるきいしぶみ 多賀城碑と日本古代の碑 P.46)

 この封筒には、(牛乳瓶に印された製造元のマークみたいに)、〔西〕という字がぽつんと印されているだけです。
 飾り気の無い石壁が〔西〕を向いている。
西 と書いてあるとおりに 西 を向いて、西も東もわからない旅人を導く。これは有益なことに違いない。
 西の方には何があるか。西の彼方には極楽浄土があるというがそれはさておき、多賀城には陸奥国府があるが、陸奥の国は〔東〕山道に属する国だから、西の方には京都(平城京)があるに違いない。多賀城の南門は、東山道(中路)「去京千五百里」のみちのりが遂に途絶えるところです。いわば東山道の往生際ですが、この大いなる道は大いなる道として有終の美を飾らなくてもよいのだろうか?......素朴な疑問がふと湧いて来ました......
この道がめでたくも端を結ぶ地点に、この道を顕彰するモニュメントがひとつ置いてあってもよいのではないか。

 南門に最寄の十字の街(ちまた)。そこに立ち竦んでいて、東山道(東海道)をなおも東へと向かおうとする旅人を「とおせんぼ」をしていた。
 

碑は高さ196cm....これは地面からの高さで、埋没部を含めた石体の全長としては248cmになる。重さは推定2800kg。 (同上P.79)
長大な自然石を半分に割り、その一面を削り平坦にし
、....磨き仕上げの加工を施して、その面に
....(四界線を刻み)....文字が彫り込まれている。

○石高6尺5寸、幅3尺4寸内、四方卦(高)4尺5寸、幅2尺6寸3分 (東遊雑記 古河古松軒)

 地面を2cmほど堀下げて、石高6尺6寸(卦幅の2倍半)を測り取るならば、この6尺6寸という高さが外形的に1という長さを示唆している。私の胸算用ですが、そうだとすれば楽しい。 

碑の縦断面は半月状、....但し多賀城碑の3次元測量図(同上P.79)を見ると、埋没部分は裏側から大きく穿って厚さ30cmほどの矢板(L)状にしてあるようです。僅かな部分を地下に埋めて立石したときに自然石の丸いままでは滑って倒れる恐れがあるので、丸みを削り取って、(土の)抗力を最大に受ける形にしていると考えられます。

里程 常陸国までの距離に対し、下野国までの里程が近すぎることが、古くから指摘されてきた。しかし、碑にある里程の算出基準が明確にされない限り、真偽を決める根拠にならない。むしろ、偽作とすれば一見して疑義をもたせる数値をあえて記すことはかえって不可解である。
(ふるきいしぶみ 多賀城碑の再検討 P.76)

 立石(とおせんぼ)が「通行止め看板」の厳粛荘重な一例であるなら、碑文は東山道はじめ鎮守府に通じている街道(街と道)を顕彰することに専念すべきです。多賀城がここに顕彰されたのは、その趣旨に殉じて、全ての道が通じている「街」である多賀城が顕彰されたということだと思います。

 漢字でいえば の真ん中に居る 圭(△)とおせんぼ です。   

 ついては、「此城」以下5行81文字をもって、多賀城創建の事跡を回顧し最近修造の事実を述べていますが、
 この城(街)のことを顕し彰めた記述はこれで全部でしょうか?

 前の5行にも目をこらして、岩陰に隠れている秘密の記述をあぶり出せ!

  去常陸國界412里 |(城南壁)⇒北へ 半里 〔政庁〕
  = 412里半 = ×(137里半)

  去下野國界274里 |(城西壁)⇒東へ  1里 〔政庁〕
  = 275里   = ×(137里半)

 南門「街」から政庁まで(北へ)半里、西門から南門「街」まで(東へ)1里。合せて1里半のみちのりが天引きされていたことが判明しました。わかる人にはわかるように、わからない人にはわからないように、白抜きでもって城の規模(方1里半)を顕して多賀城を彰めています。古くから理解の難しさが指摘されていた2つの里程には、多賀城の陰が影法師のように付き纏っていたわけです。
 ここで、古典的な真偽問題を蒸し返します。

 常陸國界(福島・茨城県境)また下野國界(福島・栃木県境)よりの道のりは、誰が見ても大差なく、近世の街道においても里程はほぼ同じなのに、多賀城碑の両里程は大きく相違している。

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天平寶字六年十二月一日


将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也

節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守

也天平寶字六年歳次壬寅参議東海東山

軍従四位上勲四等大野朝臣東人之所置

此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将
     


 
去靺鞨国界三千里 去下野国界二百七十四里 去常陸国界四百十二里 去蝦夷国界一百廿里

 

 

去京
一千五百里

 碑にある里程の算出基準が明確にされない限り、真偽を決める根拠にならない。

 5町1里か6町1里かはともかくとして、両者の里単位が同じ大きさであることは、半里・1里という多賀城の影法師が保証しています。もはや碑にある里程の算出基準は明確にされているので、真偽を決める根拠になっていると言わなくてはならない。どうしましょうか? 

 ですが、この真偽判断はいつまでたっても内容上からの研究です。そんな古池に跳び込むのはやめておいた方がよいでしょう。辻によれば、「これは外形真偽の判断が定まった上で行なう」ことでしたが、外形を見るというのはどういうことか?ようやくわかりかけてきたところです。

 「内容を調べた」と「外形を検認した」の違い。これを牛乳に例えて言えば、

多賀城 全体は一辺900mほどのゆがんだ方形をなしている

○牛乳が4斗1升2合というのを4斗1升2合半になおした.......内容を調べた。 ○牛乳缶が9つあるのを確認した.......外形を検認した。
○牛乳が2斗7升4合というのを 2斗7升5合 になおした.......内容を調べた。 ○牛乳缶が6つあるのを確認した........外形を検認した。

 とおせんぼの願いは街道(街と道)を顕彰することでしたが、
○去常陸國界412里というのを412里半になおした.......内容を調べた。   
_菊多_石城_標葉_行方_宇太(_伊具)_亘理_名取_宮城郡
  412里半÷3=137里半(3つに割れた) 137里半÷3 =45里5町(3つに割れた)  ○街が9つ、道が9つあるのを確認した........外形を検認した。
○去下野國界274里というのを275里 になおした.......内容を調べた。    
_白河_安積_信夫_苅田_柴田_宮城郡
  412里半÷2=137里半(2つに割れた) 137里半÷3 =45里5町(3つに割れた)  ○街が6つ、道が6つあるのを確認した.........外形を検認した。

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3.外形を真とする調書

 凡行程。馬70里。歩50里。車30里。(公式令)
 その当時は官公用の交通機関として、@驛(駅)が整備され、A傳(伝)が整備されていました。

@「去京1500里」「去蝦夷國界120里」 この2つは驛による旅になります。
 各驛を街とする街道の外形は「1日1車」を一人として、「50日50車」「4日4車」とされていたところ、一人前に30里が数えられたので、「1500里」「120里」が街道の内容になっているとします。

A「去常陸國界412里|⇒3町」「去下野國界274里|⇒1里」 この2つは傳による旅です。
 各郡を街とする街道の外形は「1日1歩」を一人として、「9日9歩」「6日6歩」とされていたところ、一人前に45里5町(注)が数えられたので、「412里半」「275里」が街道の内容になっているとします。 (注)45里300歩 360歩を1里とする、すなわち 6町1里制に基づいています。

多賀城には、A傳の街として、宮城郡がありました。
 常陸國多珂郡よりこの街に至るまで海道沿いに9つの郡があったので街も9つ数えられます。
 下野國那須郡よりこの街に至るまで山道沿いに6つの郡があったので街も6つ数えられます。

 街道として道も9つ数えられるので、1歩毎に45里5町の例により、「412里半」といえます。
 街道として道も6つ数えられるので、1歩毎に45里5町の例により、「412里半」といえます。


〔補足〕 旅人は、1日に8里を、6町1里になおすと48里を歩き行く。1日8里(ひしてはちり)、近世の『1日1歩』は、「45里5町」によほど近いので、古代の伝街道を近世の街道と同日に論じたい気安さがあります。しかし、(前者は)『1日1歩』の内に郡街が1つしかないのに対して、(後者は)8里の内に2つも3つも宿場街がある。この違いは大きいので、一里塚の数を数えて里程を知るような感覚は古代には通じないとしなければならない。

終わりに

 「西と書いてあり西を向いていた」のが「真実の証し」だと(はじめに)言いましたが、平凡な言葉と平凡な外形を見比べる限りにおいては、言動の不一致はひとつも指摘できない。
 これが多賀城碑検認の最大のポイントだとして、特に地理に関する記述については、碑の真偽論争に拘わらず、ひとまず信じてかかるのが良いという私の判断はこれによります。
 その里数については「誰が見ても誤りだとわかる」といわれるけれども、里数が割り合って指し示す⇒街道たちの様子を見たら、うまい具合に辻褄が合せられている。内容において死を宣告された里数が、外形において生かされていたのでした。

(内容) 1直線と、1直線。これでは、悲観してしまうが、
(外形) 6つに、9つに切れていれば、明日につながる。

あとがき

 「一人前に45里5町が数えられた」というところが私の持ち味です。鑑識課員の醍醐(だいご)味ですが、
 
この「45里5町」の元は 50 なので、「去常陸國界450 」「去下野國界300 」ということも必要でしたが、そこまで遡るのも厄介なので省略しました。元をたどりたい方は 『歩日50里』の波紋 を見てください。  あゆみ(歩)

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追伸 (2011.6.28.) トップページにあった多賀城碑関連記事です。おおかた削除したものを残しておきたいので、ここに移し置きます。

 

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『去海数十百里』という文を現代語訳して「海より数十から百里まで達した」と言うのは不可解です。(1里は、650mくらい)
案A. ■■■■■■■■■■
去海数は〔10×100里〕。「私が高台から一望した津波の広がりを、〔幅10里、長さ100里〕として、その面積を見積ってください」ということではないか。(1000里は、420平方Kmくらい)
案B. −−−− VVVVVVV
去海数は「十里、いや百里でしょうか」。陸に上がった海水は、寄せては返し、右往左往したので、十里を遡るまでに優に百里を移動していただろう。
〔例文〕事情は違いますが、こんなとき「数十百里」と言うのか!異説争論の際に事物の真理を求むるは、なお逆風に向かって舟を行るが如し。その舟路を右にしまたこれを左にし、浪に激し風に逆らい、数十百里の海を経過するも、その直達の路を計れば進むこと僅に三、五里に過ぎず。航海にはしばしば順風の便ありと雖ども、人事においては決してこれなし。人事の進歩して真理に達するの路は、ただ異説争論の際にまぎるの一法あるのみ。(福沢諭吉;学問のすすめ)
去海数十百里 ⇒ 乘船不遑登山(乗船 不遑にして 山に登る)


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 多賀城 去京一千五百(1500)里
       去蝦夷國界一百廿(120)里
       去常陸國界四百十二(412)里
       去下野國界二百七十四(274)里
       去靺鞨國界三千(3000)里
 此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守将(724)
 軍従四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字6年歳次壬寅参議東海東山 (762)
 節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守
 将軍藤原恵美朝臣朝狩修造也
   天平寶字6年12月1日

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「里数は常陸の方がほとんど下野の2倍であって、疑わしきこと甚だしいものだ」といいますが、控え目に「ほとんど1倍半」といえないものか?

 去常陸国界412里−去下野国界274里=138里
      これは「ほとんど2倍」にあらず
 去下野国界274里−138里=136里
      これが「ほとんど2倍」というものです
 去常陸国界412里−138里−136里=138里
      これは「ほとんど3倍」というものです

 「ほとんど2倍」に対して「ほとんど3倍」。
 これを何というか? 「1倍半」ということができます。

「里数は常陸の方がほとんど下野の1倍半であって、疑わしきこと甚だしいものだ(とまではいえない)」というのが真相です。

 

最新 とおせんぼ(△)と影法師.  2011.5.21.

多賀城 去常陸国界412里
多賀城 去下野国界274里 問題を解決するのに必要な 検認 という手続き

 漢字でいえば の真ん中に居る 圭(△)とおせんぼ です。

日本三代實録

巻第十六

.......... 難及溺死者千許

資産苗稼殆無孑遺焉

道路惣爲滄溟

乘船不遑登山

 

去海數十百里


々不弁其涯俟矣

原野

海口哮吼声似雷霆

驚涛涌潮泝徊漲長忽至城

奔或相昇踏

城倉庫門櫓墻壁落顛覆不知其數

呼伏不能起

或屋仆壓死或地裂埋殪

馬牛駭

陸奧國地大震動

流光如晝隱映

頃之

人民







廿



貞観十一年(869)五月廿六日癸未。
陸奧国地大震動。流光如昼隱映。頃之、人民呼伏不能起。或屋倒圧死。或地裂埋殪。馬牛駭奔或相昇踏。城倉庫門櫓墻、壁落顛覆、不知其数。海口哮吼聲似雷霆。驚涛涌潮、泝徊漲長、忽至城下。去海数十・百里。浩々不弁其涯俟矣。原野道路、惣為滄溟。乘船不逞登山。 (10里×100里 ≒ 6.5km×65km)
難及溺死者千許。資産苗稼、殆無孑遺焉。

去海数十・百里。 去海 海岸線を基準にして、波打ち際が退去したという。は、津波に浸された陸地の面積です。あらためて言うと、去←海が10里で、海岸線の長さが100里。百里を掛けると条里地割の1000里になります。
ただとにかく、その津波は、広大な平野を襲い、忽(たちま)ち 多賀の城下にまで到達した。
最近地質調査で確認されたことが、今度の大津波により早々と実証されました。
 まなびの杜 no.16 特集 津波災害は繰り返す
 http://web.bureau.tohoku.ac.jp/manabi/manabi16/mm16-45.html
おそらく人類の面積計算はこのようにして始まったというひとつの例にしたい。

  『歩日50里』の波紋 〜 しあわせは 歩いてこない 多賀城碑 〜

 (たがじょう)  (ひたちのくに)                            
 多賀城 去 常陸國 界 四 百 十 二里 |(137.5)|(137.5)|(137.5)|
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E・・・・・・・D・・・・・・・C・・・・・・・B・・・・・・・A・・・・・・・@・・・・・・・0

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H・・・・・・・G・・・・・・・F・・・・・・・
 歩8日の行程(400里)だが、9郡家(9泊)により、歩9日(412里半)を数えた。

        (しもつけのくに)                      
 多賀城 去 下野國 界 二百七十四里 |(137.5)|(137.5)|
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E・・・・・・・D・・・・・・・C・・・・・・・B・・・・・・・A・・・・・・・@・・・・・・・0

 歩6日の行程(300里) 6郡家(6泊)により、歩6日(275里)を数えた。

海道 と 山道。今でいえば、浜通り(412里) と 中通(274里)です。偽碑説が尾を引いて、「誤った距離が記されている」といわれていましたが、決してそんなことはないと思う。 まず、2つの距離数に 3:2 という比を見てから、旅行日程が、海道(9日)、山道(6日)であったとします。これは、海道に9つの宿場が、山道に6つの宿場が置かれていた(左上地図)という事情をあてにしています。

 あとは 本文 を見てください。⇒ 5. 1. 見てくれる人がいなくなったので、案内口上をもうひとつ追加します。

 古代常磐道の設計思想は、巨大津波の襲来を想定していた。
 (これは、もちろん3.11.津波以降に考えたことです。)

『東遊雑記』は、古川古松軒(地理学者)が天明七年(1787)幕府の東国巡見使に随行して東北・北海道を遍歴した旅日記です。
 巡見使一行は、十月朔日仙台城下を出立して、-白石-中村(相馬)-平(磐城)-棚倉(いずれも城下町)−を経由して、十五日昼に水戸城下を通過しています。
 この内、次の記事は、3.11.巨大津波関連のニュースになると思います。

八日富岡発駕、七里半磐城郡四つ倉、平城下止宿。磐城郡と楢葉郡の界は四つ倉の北二町に有。此日の街道は東方大海にて、海濱は山のごとき大波打よせて危き故に坂道を通行す

 浜道は太平洋の荒波にもまれる危険があるので、非常に安全な山沿いに脇道が用意されていたというわけです。また、次の日には、
九日平の城下発駕。( 山道五里/濱道四里 )小名濱、□里植田止宿。

巡見使一行は、山道と浜道がある内、山道のほうを選んで通行したようです。
 こういう用心は、巡見使が通過した常磐道の全てにおいて必要な感じですが、とくに阿武隈川の渡りを「非常に安全に」渡ったか否かが問われます。

三日白石城発足、六里角田、二里金山止宿。....。角田という言所は....。白石より小道一里余、御巡見道曲道にて阿武隈川を渡り行也。名所記に載し稲葉の渡り此川下に有とばかりいふてその跡定かならず。....。此辺より六里落て海に入なり

刈田郡方面の視察を終えた巡見使が(近道をして)常磐道の浜道に戻る途中に角田の渡し場があったのですが、怪我の功名にせよ、巨大津波にも翻弄されない高みを選んでルビコン河を渡ったのはさすがです。また、古代の常磐道に安全な脇道が通してあるならば、それが阿武隈川を渡るのは当然このあたりになると思います。ところで、この道は、柴田郡から伊具郡に渡っていたと見られるので、それから山を越えて宇太郡に向かう1日(=45里5町)だけが古代常磐道9日程(412里半)のメンバーに入れられていたと思います。