てのひら一杯の
龠を合わして1合〕〔3合して1升説に向うわけ

 立方体は、その四角錐3個の集まりである。

右の模型から受ける印象は精々こんなものだと思いますが、
 2龠を合せて1合となし、3合を重ねて1升となす

というのが正式のコンセプトです。
 容積のこと、〔ます〕のことを思っていたので、材料にも考慮して、ジュースの紙パックに手を加えてみたわけです。
 身体論的に見た〔容積の測定〕は、「てのひら一杯」から始まります。
 これが「龠」で形は三角錐ですが、「2龠為合」、2龠を合せて四角錐になり、3合を重ねて1升になったのは大昔のことです。
 いっぽう、身体論的に見た〔数の計算〕は、左右の手指を駆使するので、10進法が便利ですが、
 升法もこれに迎合して、「10合為升」というようになると、取り残された「2龠為合」に対して、木に竹を接いだかっこうになっています。

    あゆみ(歩)


はじめに

  という漢字を知っていますか?

 この字はヤクと読みます。古典でも滅多に見かけない字なので、この字を引く機会も無いのですが、漢和辞典の部首欄を開くと、一番最後に、17画の部首(龠部)として掲載されているところから、その存在が知られます。

龠が意味する容量


 龠部
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 龠部(やくぶ)は、漢字部首により分類したグループの一つ。
 康熙字典214部首では最後の214番目に置かれる(17画、亥集の28番目)。

 しかるに、この部首を立てた「龠」という漢字には、「ふえ」という意味と、「ます」という意味があったようです。


 龠
  出典: 漢字源

 @{名}ふえ。ふえの一種。あなが三つで、合奏のときいろいろの楽器の音を調和させるのに使う。
  ▽あなが六つ、七つのもある。
 A{名}ふえ。ふえの総称。(同)籥。             原文のまま
 B{単位}容積の単位。一龠は、黍(きび)千二百粒の量。一合の十分の一。また、その量を入れるます。

〔解字〕会意。「口(穴)三つ+侖(そろえてあわせる)」。何本かの竹管をそろえてあわせたふえをあらわす。

参考(説文解字)
 品部: 品:眾庶也。从三口。凡品之屬皆从品。
 龠部:龠:樂之竹管,三孔,以和眾聲也。从品、侖。侖,理也。凡龠之屬皆从龠。

 私は「ふえ」という意味を疑問に思う者ですが、かりに「龠」の意味が「ふえ」にかかっていたとしても、それにはもっと意義を明確にする言葉(@「調律管」、A「管楽器」)があります。しかし、誓って「ます」の意味にしたところで、「龠」という単位が頻繁に用いられたためしは無いので、いずれにしても、持ち前の意味を疾うに喪失してしまった珍しい漢字であるという認識になります。ところが、無意味になったこの漢字が、現に存在して、意外なところで活躍しています。その目覚しい一例は新しい用途の開発で、もう一つの例は新しい意味の発見です。

〔用例1〕 出典: http://www.shtml.jp/mojibake/binew.html

・「美乳」で文字化けが直るって本当?

えっ?って聞きなおしたくなるようなタイトルですが、「この『美乳』という文字をヘッダー部分にコメントとして挿入しておくと、文字化けが直る」という話は確かに存在します。ただし、これは大前提としてEUC-JPのページを作成するならば、という話になります。
 ・・・・(中略)・・・・。 
理論的にはこれで良いのですが、さすがに「美乳」とソースに入れておくのは恥ずかしいということで、他の文字で代行する場合も多いです。例えば、2バイト目に0xEDを持つ漢字で『最大値』(機種依存文字を除く)ともいうべき「龜」(0xF3FD)や、0xEEバージョンの「龠」(0xF3FE)などです。特に後者の「龠」は、検索エンジンの「goo」でも利用されています。その他、「来」というのも使われているようです。また、Yahoo! Japanでも、メタタグを指定せずに、同様の対策を行っています。

〔用例2〕 出典: http://pc.myany.jp/diary/u/728467/entry/878465

  λλλλλ サザエサンハユカイダナ~♪ 


. という概念の輝かしい意義を探る。

 いまや本来の意義さえ顧みらなくなった「龠」という概念。時を経るにつれて、その光は薄れてゆく一方だったわけですが、なにもガッカリすることはない。というのは、時を遡るにつれて、その光は増してゆく一方なので、最も明るく輝いていたのは、おそらく「龠」という字が発明されたその時でしょう。したがって、この漢字が意味するものは、字が生まれたそのときに臨んで見定めるべきです。
 光が薄れてから、それらしい概念を見定めても仕方がない。本当の概念は、この字が誕生する輝かしい場面に居合わて、輝かしい光を浴びていた。私が心に思っているその概念というのは、「ます」とのかかわりにあります。ところが、『漢字源』を見ると、意味@Aによって「ふえ」のことを先に挙げて、〔字解〕では「口(穴)」と理解して「ふえを表す」としているので、『漢字源』の思いは、「ふえ」とのかかわりに向いているようです。

 

 

甲骨文

小篆 

という字は使い回されるので、〔字解〕はいくつもある。

 「龠」は、「A(屋根)+□□□(窓、扉、窓)+冊(高床と束柱)」で、バンガローを表す。「λλλλλ...」は、波平さんはじめサザエさん一家が一列になって歩いてゆく様子を表す。テレビを見て〔解字〕したというのは冗談ですが、「龠」という1個の漢字が突飛な事柄にまで使い回される。その突飛な事柄に即した〔解字〕もそれなりにできるという証明にはなっています。これを教訓にすると、「ふえ」にかかわる〔解字〕にしても、1個の漢字が使い回される、その突飛な事柄に即した〔字解〕ができたという場合に違いない。したがって、〔字解〕の有効範囲は「ふえ」のかかわりに限られ、いたずらに普遍的な意義を有することはない。したがって、「ます」にかかわるときにも、やはり「龠」という1個の漢字が使い回されているので、その突飛な事柄に即して〔解字〕がおこなわれなければいけないと私は言いたいのです。残念ながら『漢字源』はこれを怠っていたので、不肖私が代わってするだけのことです。

そこで慌てて、「ます」にかかわる〔字解〕をおこなう。


〔意味〕容積の単位。二龠で一合になる。また、その量を入れるます。

解字    (直角定規)
    (
     □□□ (サイコロの3つの面)
         (揃えて拡げた4本指)

左右の〔てのひら〕と、重ね合せた〔4手指のひら〕でもって、
直交する3平面をつくり、
サイコロの3つの面をした容器を保持するさまをあらわす。


が意味する容器

      龠が意味する容量


    展開図 

 

合が意味する容量

 この容器というのは、サイコロ(立方体)の1角に集まる3つの面で構成されていますが、この容器に水を注いでも、3つの角の高さまでしか水は溜まらないので、水面のかたちは「正三角形」になり、正方形の上半分は遊んでいます。

〔ます〕の歴史は「6龠為1升」から始まった。

 最も小さな計量器(ます)が、かくのごとく存在して、1個の単位をなしていた。
 しかるに、
 「龠」字は、そういう容器の持ち方を表していた。

 私がこのような考えに至ったのは、「升」という量がどのように定義されていたかということについて自分なりの意見を持つようになったからです。
 その「龠」という容量の定義は、漢書律暦志によると、

 合龠為合。十合為升。十升為斗。十斗為斛。而五量嘉矣。

 つまり「龠を合わして1合となしていた」ので、「龠」は、「合」を基準にして、2分の1になる量と定義されていた。また逆に、「合」は、「龠」を基準にして、〔2つぶん〕になる量と定義されていたわけです。しかし、これだけでは、その立方体が龠6つぶんの量になることはわからない。それがわかるためには、「2つぶんの素」は「合」があるからよいとして、これに輪を掛ける「3つぶんの素」の存在が必要です。
 この「3つぶんの素」の作用については、当らずといえども遠からず、似たような事例があるので、ひとつのヒントにして考えることにします。

 それは何かというと、「小量・大量」という大系的な区別の下に、大量といわれる単位の大きさを小量の3つぶんと定めておく仕組みがあったことです。

 「小量・大量」の運用の実際は、日本の養老律令を見るとわかります。

凡、度。十分為寸。十寸為尺。一尺二寸。為大尺一尺。十尺為丈。
  量。十合為升。
三升為大升一升。十升為斗。十斗為斛。
  権衡。廿四銖為両。
三両為大両一両。十六両為斤。

凡、度地。量銀銅穀者。皆用大。此外。官私悉用小者。

 量(容量)については「三升為大升一升」、権衡(重量)については「三両為大両一両」と定めてあります。大量を用いる例として「銀、銅、穀」が示されていますが、原則的には、公私ともに小量を用いることになっていました。

3升為大升1升

それで、
 小量の1升を基準にして、大量の1升ますの容量は、3つぶんに当たる。
逆に、
 大量の1升を基準にすると、小量の1升ますの容量は、3分の1に当たる。

 この平凡な数量的関係をことさらに図解して見せようとして、私は右の絵を描いています。すなわち、
 小量の1升ますの容量は、倒立した四角錐のボリュームで表され、
 大量の1升ますの容量は、四角錐を包む立方体のボリュームで表される。
という図です。

3分の1であるという根拠は、錐体の体積の公式;(底面×高さ)÷3=錐体の体積。 とりあえずこれによることにします。しかし、同じ四角錐が3つあります。その数が数えられる人には公式などは不必要です。この絵の裏に回って、四角錐あと2つを見つけてください。

 立方体はごく自然に3つの四角錐に分かれます。これによって、小量1に対して大量3とする比例が適切であったことがわかります。さらに進んで、小量・大量がこの比例になった理由を、この自然な分割性能に帰してもかまわないと思います。
 ただし、私にいわせれば、「三升為大升1升」という構想にはすこしもオリジナルなところはない。既に優良な原型(モデル)があったので、そっくり真似しただけのことに思えます。それで、その原型(モデル)を求めて、

3合為1升

「龠を合わして合にした、つぎには合3つを合せて升にしよう」というところに帰ります。

 1合を基準にして、1升ますの容量は、3つぶんに当たる。
 逆に、1升を基準にすると、1合ますの容量は、3分の1に当たる。
 これを図解するもなにも、
 1合ますの容量かたちは、倒立した四角錐をなしており、
 1升ますの容量かたちは、四角錐を包含する立方体によって示されている。

 〔ます〕の歴史は「6龠為1升」から始まった。
 おそらく「?合為升」に対する10進法の適用
(注)はだいぶ後のことになるとして、初めの頃、「龠」と「升」との関係は、「合」を介していながら、とても親密でした。どうしてかというと、「龠」に 1/6 を切り取られたその立方体が「升」であったからです。「六龠為升」がますの身体であることがはっきりしていた。そこへゆくと、「斗」とか「斛」という上位単位は、「升」が地面に落とした、長い影にすぎない。 合龠為合。三合為升。十升為斗。十斗為斛。......

(注) 「十合為升」とした。すなわち「合」と「升」の関係を10進法で律したときには、下位の単位にまで徹底して10進法を及ぼさないと気がすまないので、〔一合の十分の一〕になる「勺」という単位が定められ、さらには〔一勺の十分の一〕になる「撮」という単位が用意されることになります。いずれにせよ、「龠」と「合」との「合龠為合」という(2進の)関係は行き場を失って宙に浮いているように思われます。

あらためて龠とはどういうものか?

  〔解字〕

    (直角)

  +□□□(サイコロの3つの面)

  + (揃えて拡げた4本指)。

 

が意味する容器

 

 

 夢中で拾ったどんぐり
 てのひら一杯の秋

http://stream003.exblog.jp/tags/FM2/

サイコロの3面を支えるようなその持ち方

 「1龠は、1升の 1/6 の容積」というように定義されていた。
 しかし、「龠」字が表しているのは、その容器の持ち方でした。
 それで、実際にどういう持ち方をするかというと、

 (コブシをできる限り屈折して)
 左の〔てのひら〕と、〔指のひら〕の角度を、90°につくる。また、
 右の〔てのひら〕と、〔指のひら〕の角度を、90°につくる。
 つぎに、左の〔指のひら〕の背中に、右の〔指のひら〕の腹を付けて、
 左の〔指のひら〕と、右の〔てのひら〕の角度を、90°につくる。
 左の〔てのひら〕と、右の〔てのひら〕の角度を、90°につくる。
 
 要するに、両手を組み合せて、サイコロの3つの面をかたどります。

 上に向けていますが、左右の〔てのひら〕の縁側をぺったりと付けたところから始めるのなら、左手の4本指は真直ぐに伸ばしたままコブシをつくると、〔指のひら〕がひとつできます。右手の4本指も、やはり真直ぐに伸ばしたままコブシをつくって、その〔指のひら〕は、左手4本指の背中に添えます。(親指は自由に遊ばせます。)

 「コブシ」というのは指のつけ根の関節のことですが、一列に並んだこれらの関節の折り曲げの限界はだいたい90°になっているので、左右対称をなす両手を組み合せると、このかたちが自然につくられます。


基本的な概念(コンセプト)はてのひら一杯

 私が「持ち方」と言っているのは、このかたちをした容器があると思うから、そう言っているのですが、仮にそういう容器がなくても、このかたちは自然につくられます。そのときにはどう言えばよいのか。何も持たなくても、てのひら(指のひら)それ自体がその容器のかたちをしています。それどころか、そのまま容器にしても立派に役に立つ。その材質は素手という、身体を張ったいれものです。
 さて、徒手空拳のこの容器には2つの大きな特徴があります。
 ひとつは、単位になることです。
 「てのひら一杯」を基にして、「てのひら二杯」「てのひら三杯」と言うのは苦にならないと思います。
 あとひとつは、自体の寸法が言えることです。これは「4寸」になります。
 
(ここでは、指1本の太さ(幅)を「寸」という。その定義にしたがいます。)
 この場合、側面の縦・横の長さを言えばよいわけですが、〔指のひら〕は左右の指々が平面的垂直に交差しているので、その縦の長さは4寸、横の長さも4寸だといえます。〔てのひら〕の縦の長さには苦しみますが、左手指の付け根を右手の〔てのひら〕の脇に差し当てて、これも4寸と言うことにします。

 したがって、正方形1面の面積は「16寸」になります。ここまでくると、容積も幾つだと言えます。
1つの底面と4つの側面を備えた完全な容器(升)の容積は、64寸(縦4寸・横4寸・高さ4寸)になります。3つの側面を備えた不完全な容器(龠)の容積は、それを6で割るので、10寸 と 3分の2寸 になります。

身体そのものが容器であると、身体をものさしにして計測できる。これが、「6龠為1升」仮説のコンセプトです。

度量衡理論=黄鍾秬黍説の襲撃を受ける。

 私は「ます」という意味を大切にする者ですが、ごく少数派です。大々的には、「ふえ」という意味の方が信用されています。その話はうるさかったので、私が言いたいことを言い終るまでとっておきました。
 龠部:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 最初に
2行だけ見たものの続文です。

龠が意味する楽器

  

  甲骨文      小篆

「龠」字は竹製の管楽器、の一種を表す。後に「籥」に作る。今で言う排簫(パンパイプ)のことで、多くの管を束ねたものである。音階の調和すること、ハーモニーの象徴として扱われる。また音律と度量衡を理論的に関連させる古代中国の度量衡理論、黄鍾秬黍説において容量の単位ともなり、黍が1200粒入る黄鍾の音律を出す管の容積を1龠とし、2龠が1である。

小篆の字形について『説文解字』は「品」(3つの穴)と「侖」(秩序の意)の会意文字とするが、金文など古文字を見ると、むしろ「△」部分がなく、二三の穴と管の形に象っていることが分かる。「△」部分は後で付け加えられたもので、人の口あるいは管を束ねることを表していると考えられる。

偏旁の意符としては楽器音律和声に関することを示す。龠部はこのような意符を構成要素にもつ漢字を収める。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%A0%E9%83%A8 

 この説明によると、「龠」は本来「ふえ」に専従していた概念であったので、その「龠」が「ます」にも従うようになったのは、「ふえ」が「ます」になったとき、すなわち黄鍾管に黍1200粒が詰められたときからです。
 したがって、「龠」字の主体をなす。このつくりは「(ふえの)穴と管の形に象っていることが分かる。」

 そこまで断定された日には、私の「6龠為1升」説は成り立つ瀬が無いので、断固反対したいと思います。
 ひっかかるのは、その際「合」という概念も同時に誕生したのか?ということです。おそらく「合」という概念はずっと前からあって、何らかの単位2つを合せて1つにする便利さに任せて適用されていたのではないかと思います。しかして、その単位はやはり「龠」という字で表されていた。そうでなければ「合」にとっては迷惑な話です。

「ます」には柄がつきもの

 @

が意味する容器

 

 A

計量スプーン

柄杓(ひしゃく)  B

              が意味する容器

大きな柄杓のことを「斗」という。「北斗七星)」は星座が柄杓の形をしている。

 斗:         

       金文(bronze.svg)    小篆(seal.svg)      漢字


 大小を問わず「ます」には柄(え)がついていることが多い。
 ちなみに、「てのひら一杯」という「ます」は人の手でしたが、この手は必ずその人の腕につながっているので、「てのひら一杯にも柄がついている」と言えないこともない。しかし、これでは話があべこべになっていないか。というのは、
 よく見かける「一合ます」や「一升ます」には柄はついていません。
 これは(柄を経ずに)本体がじかに手持たれる仕組みです。したがって、
 「ますには必ず手と腕がついている」というのが本当だと思います。
 「ます」というものは、それなり器量を備えていても、やはり人の手に持たれ、人の腕に動かされないと、量るという役目は果たせない。

○ 広口の器 は 人の手腕を得て 「ます」として活動する。そうした計量という概念を は表している。

 なお、音符(♪)が「オタマジャクシ(お玉杓子)」と呼ばれることも気になりますが、これは記号の形から連想されたことなので、「ますには柄がつきもの」の件とは一緒にしないでください。

@ http://www.mensmen.jp/cocktail/cocktail-glass.html
A http://item.rakuten.co.jp/merci-p/studio_m17513/#studio_m17513
B http://store.shopping.yahoo.co.jp/shioken/sd-2.html

進境著しく、一皮むけて、ハジけます。

 当座の釈明はできたようですが、これで終らないのが私のよいところ。計量という包括的な概念のもとにの意味をさらに深めたいので、続いて〔算数的な解字〕をおこないます。

○ ますは、空間に浮動して定まらない物量を、こつこつ量り 数えて、直線的な数量に変えてゆく。

 こつこつ量り数えるとき、の数は相等しいので、「算数」つまり愚直な数合わせが適用されます。

小篆(seal.svg)

 〔意味〕容積の単位。2つ合せて1合。6つ合せて1升になる。その量を入れるます。

解字      直角定規(原本とそのコピーを合せて、1つのことに成す作用)
    (
         満たされた3つのます(1つのますで3回
量ったのと同じ。)
           指( に応じて6本ある。真ん中の2本は重なっている。)

6本ある指の内、真ん中の1本だけが につながっている。(6分の1)

 合!合!合! 合(合龠為合)の3連発!(三合為升)。 まとめて 「六龠為升」といえる。

 ただし、この字は、1升(=3合、=6龠)の6分の1に引き下がって、1龠を表しています。

終わりに 「6龠1升説」は水物です。

毎朝両手で水をすくって顔を洗っていても、それが「ます」であるとは夢にも思わなかった。水が「てのひらの窪み」にあるのはほんの束の間のことだからです。ところが、量られる水が「ます」の室内にあるのも束の間のことだから、「容器としてはますの仲間です」と言ってすぐにも名乗り出る資格があるものでした。
 もっとも、洗面器の水をパシャパシャしていたのでは駄目で、清らな水を静かに掬いとる「かたち」を学ぶ必要がありますが、私の場合は、「角錐の体積」のことが先にあり、体積が量感(容積感?)を伴って理解される場所として「てのひら」を発見したのが始まりでした。ついでながら、手掌には立体の「かたち」を理解する道具立てが一式備わっている。そのことも発見して、本当に感心しました。「ます」を「てのひら」に乗せたのはその後です。
 本文では、そういう背景をよく説明しなかったので、「6龠1升説」に陥った道筋がわかりにくかったと思います。
 いずれにせよ、人が最初に「ます」という仕組みを思いついたところは「てのひら」です。それしか考えられない。


備考 ☆古事記(原文)拾い読み スクナヒコ神が毛皮のコートを裏返しにして着ていたこと。 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/kojiki1.txt

故大國主神坐出雲之御大之御前時。
自波穗乘天之羅摩船@而。
内剥鵝皮剥爲衣服。有歸來神。
爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白「不知。」

 スクナヒコの神が乗って来た「天之羅摩船」。その船体はガガイモの実のパックリ割れた半身で出来ていたという。その浮船のどこが異様であったのか?というとき、私は左の写真を見て、繊細な毛糸がまるで綿菓子のように船内の空洞を埋めていることに驚かねばならない。しかも、この船に乗っていたスクナヒコは、つぎに言われるように、「内剥ぎに剥いだ鵝(ヒムシ)の皮を衣服にして着ていた」という。つまり毛皮のコートをわざと裏返しにして着ていた。何を思ってそうしていたのか?その心意はまだわからないけれども、とにかくスクナヒコの関心の糸筋は、ひたすら内に向い、またその内に向っていたことを伺わせます。
 それで、すぐに「稲葉之素兎A」のことが思い出されるのは、場面が前後して互いに見知らぬ両者の間にも濃厚な「衣服」つながりがあるからです。

 ワニ族の人口を数えてやると偽って、実は海上のみちのりを数えながら渡って来た神様はイナバノシロウサギでしたが、

 今將下地時。吾云「汝者我見欺。」
 言竟。即伏最端和迩捕我。悉剥我衣服。

A 

 このときシロウサギ神が着ていた「衣服」です。もちろん総々とした毛を外に向けて着ていたので、シロウサギ神の関心の糸筋がひたすら外に向っていたことは確実ですが、おそらく、何万本という毛の数をもって、何万人というワニ族の人口に逐一対応していたので、賢い最端ワニが水際でおこなった仕事は、その「衣服」を没収して、海の機密情報の漏洩を防止することであった。
 この経過をおぼろげに見て、私は「神のファッションが或る数的な真実を指し示した一つの例である」という。

 さて、この小さな来訪神は何者なのか?何しに来たのか?というお尋ねは、私は誰でしょう?と挨拶がわりのクイズ問題になって返って来たのですが、正解はひとまず〔多迩具久〕が知っているようです。その〔多迩具久〕は名前からしてヒキガエルの姿をした神様ですが、漢字で「蛙」の旁になっている「圭」とは、三角形や角錐が鋭く尖った形のことです(ただヒキガエルの場合は末広がりの末端から足が出ています)。人の手に乗る程度の大きさですから、目下の話題に引き寄せて、「龠」や「合」をかたどるものと見てもよい。

 ところで、スクナヒコの異様なファッションにしても、或る数的な真実を指し示していそうなものですが、ひたすらに内向的な関心の糸筋がガガイモの鞘の内に閉じこもって、どういう数的な真実を見ようというのか? ここに数的な真実があるとしても、空洞の大きさ(容積)くらいなので、退屈でつまらないと思うところですが、しかし、このひねくれた形を隅々まで精密に測定してから全体的な大きさ(容積)を得て「これが数的な真実です」と答えるまでになるのは大変な事業です。たいていの人が匙を投げてしまいますが、スクナヒコには取り付きやすい課題であるらしい。後に語られたところによれば、彼は、粟の茎の徐々に鋭くなるへさき(舳先)を登攀して、遂にその頂上に至ったとき、極端に小さくなった身体を弾かれて常世の国に渡ったという。

  至淡嶋而縁粟莖者。則彈渡而至常世郷矣。()

 そんな彼のことを一言でいえば、圭の先端にあるようなミクロの探求者です。その探究心は尋常ではなく、"無限小"という域にまで到達していたので、彼の名前とともに彼の本性を表す解答者には、かたちが蛙の一族の中で最も体がでかいピラミッドの「久延毘古」が適任であったというのは、「百分の一よりも百万分の一がほうが小さい」といえばよくわかるはなしです。

 そういうスクナヒコだからミクロな測定には自信があります。そうでなければ、四角なマッチ箱の船にでも乗って来たでしょう。ただ、後半の課題であるガガイモ船の空洞の大きさ(容積)を得ることについては考えが及ばず、餅は餅屋でオオナムチの協力を求めたのではないかと思います。
 オオナムチには「マクロな測定はあなたにお任せします」と頼まれるほどの器量が確かにあったのですが、これがファッションにも現れているので、よく知られているように、オオナムチは大きな布袋を背負っている神様です。あざとく言うと「代りの衣」。この「衣服」は、∫インテグラルとして期待が持てそうな気がします。

 @ 
 

爾〔多迩具久B〕白言【自多下四字以音】
「此者〔久延毘古〕必知之。」

 B 

即召久延毘古問時。答白
「此者神産巣日神之御子。少名毘古那神。」
【自毘下三字以音】
故爾白上於神産巣日御祖命者。答告
「此者實我子也。於子之中自我手俣久岐斯子也。」
【自久下三字以音】
故與汝葦原色許男命爲兄弟而。作堅其國。
故自爾大穴牟遲與少名毘古那。
二柱神相並作堅此國。
然後者。其少名毘古那神者度于常世國也。
故顯白其少名毘古那神。所謂久延毘古者。
於今者 山田之曾富騰者也。
此神者足雖不行。盡知天下之事神也。

 

其八十神各有下欲婚稻羽之八上比賣之心。
共行稻羽時。於大穴牟遲神負. 。爲從者率往。

故其菟白大穴牟遲神。「此八十神者必不得
八上比賣。雖負. 汝命獲之。」

@ http://eco.goo.ne.jp/nature/unno/diary/200211/1037716271.html
A http://www.wbsj.org/blog/ms.cgi?t=day&blogid=7&ShowDiary_date=2009/05/08
B http://sizengaido.ti-da.net/d2006-11.html

☆古事記(原文)拾い読み 

三身の綱(エジプトひも)と遠呂智の謎々  ()又食物乞大氣都比賣神。〜
青年シロウサギ会心の個数走査法発見! ()大國主神。亦名謂大穴牟遲神。〜
天才ライプニッツと一反木綿(∫ )と〔分数の概念〕 ()故爲如教、其身如本也。〜
四角錐を切り分けてわかる 3で割る3つの理由  ()故大國主神坐出雲之御大之御前時。〜
龠を合わして1合〕〔3合して1升説に向うわけ(当ページ)  (5)  同上

 折に触れて心当たるところを拾い読みしています。といっても、いろんな字が並んでいるのを見ているだけなので、読むというのには当たらないかもしれない。
 「古事記」という書物の内容については、太安萬侶(おおのやすまろ)という朝廷の木っ端役人が濫りに空想したところの神代の有様が思いきり描かれている。そんなものだと考えています。


 

あゆみ(歩)