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青年海外協力隊物語 JOCV story

3. オリエンテーション(1999. 12)

「じゃ…えっと、こっちで入国の手続きやってください」

S藤さんの指示のとおり、イミグレに並んで入国手続を行なう。何でも、ここでは予め許可を受けた人であれば空港の奥深くまで入ることができるとのこと。それにしてもオープンというかフレンドリーというかドメスティックというか、なぜ突然カタカナ英語が出てくるのかわからないけれども、ある意味で政府関係者とはいえJICAのスタッフが国際空港の奥深くまで立ち入ることができるなんて、普通の国では考えられないことだ。

それはともかくS藤さんのおかげでスムーズに入国手続を終えることができ、一同空港を出て車に乗り首都の事務所へ向かう。

車は1.5車線くらいの幅の舗装された山道を走っていく。渓流に沿って走る区間もあるけれども、山が禿げ山に近いため今ひとつ感動に欠ける。

1時間30分ほどで谷あいに町が広がるのが見えてくる。首都ティンプーだ。ほどなくしてJICA事務所に着く。
ティンプー全景
ブータンの首都・ティンプー


事務所に隣接した隊員連絡所(隊員のための各種備品・図書などのの保管や宿泊設備がある)に荷物を置くとちょうど昼飯時になったので、最初の食事ということで市中の高級(と思われる)ホテルに連れて行ってもらい、ご馳走していただく。ご馳走になっておきながら何だが、料理は特にうまくもまずくもない没個性的なカレー風料理。辛いと聞いていた割には辛くなかった。おそらく外国人向けの味付けなのだろう。

事務所に戻り、S藤さんや事務所長からいろいろ説明を聞く。 この事務所にいる日本人は、所長、コーディネーター(調整員)という肩書きのS藤さんと、やはりコーディネーターであるK村さんという男性の計3人。他には10人近くブータン人職員がおり、中には日本語が通じる人も一人いるとのこと。もっとも今後はあまり日本語ができる人ばかり頼りにするのもよろしくないだろう。 また、ブータン国内に派遣されている協力隊隊員は今日着いた我々5人を含めて総勢25人くらいで、活動(というか生活している)地域はほぼブータン全土に渡っている。しかしブータンの東西の距離は200km程度であるにも関わらず道路事情が悪いため、端から端まで移動するには車で3日かかるという。日本の距離感覚が全く通用しないことを思い知らされる。

という感じで話を聞くうち日も暮れてきて、初日のお勤めが終わる。

夕食は隊員連絡所に来ていた先輩隊員と共に再び街に出かけ、ローカルレストランでブータン料理の食事をとる。ローカルレストランといっても、日本の小汚い大衆食堂よりはきれいな店だった。

たしかにローカル料理はトウガラシをピーマンのように具としてふんだんに使っており(その分、日本のものに比べてここのトウガラシは辛さがほんの少し弱い)慣れない人にはつらく感じるだろうが、タイ料理などで場数を踏んでいる私には、それほどきつくはなかった。むしろビールを飲んだとき、酔いの回りが心なしか早いように感じた点が気になった。たぶん標高のせい(ティンプーはおよそ2,400m)だろう。

店を出て暗い夜道を、足元とあちこちにたむろする野犬に気をつけながら歩く。沖縄と同じ緯度且つ2,000m超の標高、という日本人には気候が想像しにくいところに位置するティンプーの夜は、雪こそないものの真冬の東京並みに冷える。

協力隊の派遣国というと何となく暑い地域がイメージされるけれども、ここは高い山に囲まれた冬の寒村だ。いや、一応ティンプーは首都なのだが、実はここの人口は3万人しかいないため(所詮全人口も60万人足らずの国なのだ)ショボい日本の田舎にいるようであまり異国情緒を感じない。おまけに周りにいるのは日本人ばかりだし(まとまってオリエンテーションを受けているのだから当たり前なんだけど)。てーわけで大した興奮や感動もなく、何だか長野で受けた事前訓練の延長戦のような気分で同期隊員と共に過ごしたブータン初夜であった。

で、翌日からは、朝から本格的な研修が始まる。 まずはブータン公用語であるゾンカ語の勉強。5日間、毎朝9時から15時頃まで、地元の学校で国語の先生をしているというブータン人を講師に呼んで講義が行なわれた。先生はプロ野球選手の谷繁(大洋・横浜→中日)のような顔立ちで親しみが持てた。 ゾンカ語はチベット語の流れにあるブータン特有の言語で、文字はチベット語と同じものを使う。 しかし今まで私が日本の「訓練」などを通して勉強してきたのは英語で、今後のブータンでの業務も英語でこなす予定になっている。ゆえにゾンカ語は、せいぜい買い物など日常生活で使う程度だ。そんなわけで英語でさえ大して自信がないのに、さらにあまり強い必要性を感じない新しい言語まで力を入れて勉強する気にもならなかったため、あまり成果もなく終了。

続いてティンプーの近くにあるRIM(Royal Institute of Management)という国営職業専門学校で、ブータン政府主催の外国人ボランティア向けオリエンテーションを2週間受講した。この間、ブータンの地理やら歴史やら文化などを、やはり外国から来た国連ボランティアの人たちといっしょに学んだ。もちろん使用言葉は英語。質疑応答では私を含め日本人からの質問はほとんど出てこない。ブータン人の話す英語は日本人にとって比較的聞きやすいと感じられるのだが、情けないことにこちらの英語能力に問題がある。

またこの間に並行して近くの村にあるブータン人家庭でホームステイが行なわれ、隊員一人ずつ別々の農家に寝泊りした。

90歳の婆さんは寝ていた
ホームステイ先の家族
今思い起こせば、それなりにおいしい思いはしていたのだな
母さんの妹の娘と、
そのお友達。
私がお世話になった家は、婆さん(90歳)、母さん(50歳くらい)、高校生の娘(18歳)と、中学に通うため同居している、母さんの妹の娘(16歳)という構成の女系家族で、ある意味、非常においしい家だった。しかし協力隊員が来るたびにホームステイ先としている家らしく、日本人馴れしているというか協力隊馴れしているというか、既に超・日本通であるため、いわゆる日本文化を紹介して盛り上がるなんていうことはほとんどなく、実際においしい経験というのも特になかった。

そんなホームステイで私が一番苦労したのは、ブータン家庭料理の一食当りの量が多いことだった。常に胃袋の限界まで食べ物を入れておかないと気がすまない国民性なのか、胃袋がもともとでかいのかよくわからなかったが(たぶん両方)。なにしろ90歳の婆さんと俺の食事の量が、大して変わらなかった(…)。

でもそのほかは、想像していた暮らしと大した違いを感じることもなく(ただ、私がお世話になった家は部屋数が10近くあり、裕福な家なんだなーとは思った。もっとも日本でも外国人をホームステイさせて国際交流をしゃれ込むことができるのは、それなりに豊かな家が多いんだけど)、さすがに日本並みに快適というわけにはいかなかったが、あまり苦もなく滞在することができた。

そんな中、1999年の年越しもブータン人の家で過ごした。 大晦日…といっても独自の暦を使っているブータンではごく普通の日である12月31日、短波ラジオでNHKの紅白歌合戦を聞くことができた。ノイズに混じって聞こえてくる演歌が、ブータンの風景に妙にフィットしていたことが今でも印象に残っている。

農家
山の斜面に独特な建築様式の家が点在する、
ブータンの平均的農村の光景。

 
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