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| 青年海外協力隊物語 JOCV story | |||||||||
4-1. 配属 (2000.1) 年が明けてホームステイも終り、いよいよ配属。協力隊員としての活動が始まる時がきた。 試験から13ヶ月。合格から10ヶ月。会社を休職してから4ヶ月。日本を発ってから1ヶ月。思えばここに至るまでで、既に長い長い道のりであった。 しかし配属を数日後に控えたある日のこと。S藤さんが私に、慌てた様子で話した。 「実はあなたの配属先で、先日自動車事故が起こりまして、一人亡くなったそうです。職場も非常に今、暗い雰囲気だそうで…。で、あのー、配属されて挨拶するとき、あんまり明るくしないようにお願いします」 S藤さんの話によれば、山道に職場のトラックを止めていたところ、ハンドブレーキの引きがゆるかったため、ずるずると滑って崖から数十メートル転落してしまったらしい。トラックには十数人の人が乗っていたけれど(ということは荷台に多くの人がいたのだろう)、亡くなったのは2人で、うち一人が私の配属先の職員ということだった。運が悪かったとしか言いようがない。 この話を初めて聞いたときは、突然のことだったので「…おや、それはご愁傷様で」と感じた程度だった。しかし実は、このことが今後の自分の活動に対して大きく影響するのであった。 2000年1月9日。隊員各々の配属先から職員が迎えにきて、一人ずつ任地へ連れていかれる。気分はドナドナ。 私の配属先の人は、夕方頃にやって来た。職場の車であるトヨタ・ハイラックスの助手席に乗せてもらい、いざ、任地のボンデ村を目指す。 ボンデは、空港のあるパロの隣にある村なので、ブータン到着日に辿った道を戻る感じになる。車は途中で何度か停まりながら、知り合いとおぼしき人を拾っていく。後に、この国ではこのような車の乗り方、というか乗せ方がポピュラーであることを知る。 いつしか日が暮れ、18時過ぎにアパートのような所に到着。しかしながらそこは普通の世帯のほかに店舗も何軒か入居しており、アパートというよりむしろ雑居ビルに近い。
この中の一つが私の住まいとのこと。間取りは六畳程度の部屋が3部屋と台所、トイレ兼風呂場(浴槽がないので「ユニットバス」とは言えない)で、室内にはベッドと洋服ダンスが既に置かれていた。 いったん部屋に荷物を置いてから職場の人の家で夕食をいただく。そして一人、我が家となる家へ戻る。 日本を発って以来、初めて一人で過ごす夜だ。 寒い。 荷物の中から、とりあえずの必要性を感じた布団とファンヒーターを引っ張り出す。しかしファンヒーターは電話帳程度の大きさであり、暖房効果はあまり期待できない。そこで布団に入る。 その途端、眠気を覚えた。 明日からいよいよ協力隊活動が始まるというのにこんなに緊張感がなくていいのだろうか…。しかしこの眠気は、さっきブータン人の家で飲んだ酒のためだと、しばらくして気づく。 というわけで、あっさり寝る。 4-2. ドツボの中からのスタート (2000.1〜3) 翌日、朝8時過ぎに初出勤する。 私の配属先は日本のODAで建てられた「農業機械化センター」(Agriculture Machinery Centre)という、農機の普及活動や販売を行なっている職員70人ほどの施設だ。私の任務は、現在、手作業で行なわれている、ここで扱う農機やそのスペアパーツの在庫管理をコンピュータ化することだ。具体的には、手頃な市販在庫管理ソフトの選定をし、導入後、それを使って在庫管理方法の指導を行なうことである。もし適当な市販ソフトが見つからなかった場合には、現地でインド人システムエンジニア(SE)を雇ってオーダーメイドでプログラムを作らせるので、適宜彼らにアドバイスすることも任務のひとつになるらしい。 農業機械化センターは住まいから徒歩10分くらいの場所にあった。通勤で苦労することはなさそうだ。 最初に、この施設で一番偉いプログラム・マネージャーのところへ挨拶に伺う。この国の人も日本人と同じく何でも略すのが好きなようで、農業機械化センターは「AMC」、プログラム・マネージャーは「P.M.」と通称呼ばれている。 P.M.は人のよさそうな40歳くらいの男性で、わかりやすい英語でにこやかに施設の説明をしてくれた。AMCは、とある日本のJICA専門家の発想で設立されたこと、扱う農機の90%は日本製であること、協力隊の隊員もここに今まで10人くらい配属されていたこと、ここに勤めるブータン人職員のうち5〜6人は研修員として日本に行った経験があること、P.M.自身も研修や仕事などで日本に何度も行っていること、しかし日本語はほとんど話せないこと、でもカラオケでは『昴』がお気に入りであること、等々。どうやらP.M.をはじめ、職員達も日本に関する知識はかなり豊富なようだ。 しかし私の配属部署である、農機の販売・在庫管理を行なうストア部門に話が及んだとき、私は一気に不安になった。 何でも、ストア部門を統括するマネージャーはAMC勤続年数が数十年に及ぶベテランだが現在心臓病で倒れインドに入院中、そしてマネージャー不在中に業務をサポートすべきサブマネージャー的立場の人…もっとも私の身近にいて共に活動を行なう、カウンターパートと呼ばれる人…はというと、これが前週に事故で亡くなった、まさにその人だったと言うのだ。 そんな、マネージャーもサブマネージャーも不在というエラい状況で日常業務がまともに遂行されているのか、一瞬疑問に思った。
或いは、ひょっとしたらチベット仏教の輪廻転生を信じるブータン人だからこそ死に対して冷静に対処しているのではないかと一瞬思った(しかし後に、実際は、もともと単に仕事量の割に人が多すぎだったためだと気づいた)。 けれどもP.M.は、「…でも、そーいうわけで今は俺もストア部門の業務も見なきゃいけないんで、忙しくてなー」と山積みされた机上の決裁書類にサインを書きなぐりながら私にグチっぽく話した。 もっとも私の方でも、身近に指示をし、共に活動を進めていける人がいないというのでは、途方に暮れてしまう。 「…で、私はまず何をすべきなのか?」 私はP.M.に尋ねた。 すると彼は、 「慌てることはない。ゆっくり、ゆっくりプログラムを作ってくれ」 と答えた。 しかし、その答えを聞いて私は慌てた。 私の業務は、先に述べたように、「手頃な市販在庫管理ソフトの選定を行なうこと」と今まで聞いていた。もし市販ソフトの導入が無理ならば、インド人SEがプログラミングするのではなかったのか。私にプログラムを作れというのか?そもそも私は今まで日本で本格的にプログラミングをしたことはないのだが。 私はP.M.に問いただした。 「プログラムを作れ?プログラマーは、いないのか?インド人SEに依頼すると聞いていたが」 彼の答えはシンプルだった。 「いないよ。予算ないし」 P.M.によると、1995年頃、やはり私と同じ在庫管理コンピュータ化プロジェクト要員として男性協力隊員が1名活動していたらしい。その人は本職のSEだったらしく、プログラミングができるという意味では私より適役だった。しかし彼は「健康上の理由」で任期途中にして帰国し、それ以来このプロジェクトは頓挫、というか放置状態になってしまっているとのことだった。 それにしても、一緒に仕事をするカウンターパートはおらず、業務内容も今まで聞いていたことと違っているとは…スタートからいきなり、ドツボにはまっている。 P.M.は私が戸惑っているのに気が付いたのか、慌てて「むずかしく考える必要は無い。簡単なものでいいんだ。スプレッドシートのような形でも構わない」と付け加えた。 管理する物品の数の分だけ入出庫管理表をExcelのような表計算ソフトで作るのだったら、プログラミングの経験のない私でもできるだろう。少し気が楽になった。 しかし今度は「その程度のものを作るためにわざわざ日本から来たのかよ、俺」と、思わず、すかさず自分で自分に突っ込みを入れてしまう。せめて、少しは本格的なデータベースらしきものを作らなければ格好がつかないだろう。 まあ最悪はExcelで作れば良しとしても、まずは私のできる範囲で、ある程度本格的なデータベースソフトを使ってシステムを作ることができるかどうか検討してみることにする。 活動は始まったばかりだ。 時間は、まだある。 しかし少なくとも現在インドで心臓病治療中のマネージャーが復帰するまでは、誰かが具体的に仕事の指示をしてくれる気配はない。 そこで私は、マネージャーが復帰するまでの間、仕事については全て自分で段取りを決めることにした。ここで誰も指示してくれないからといって、何もしないでいては仕方がない。 まず、ストア部門担当者の一人から簡単な仕事の流れを教えてもらい、業務で使っている入出庫カードや領収書・請求書などの帳票を見せてもらった。そして「入庫」「出庫」「残数」など、業務用語として使われる英単語をチェックした。 次に、放置状態になっているAMC在庫管理プロジェクトについて、私の前任者が何か書類を残していないかどうか調べた。 すると、当時、彼が作りかけた業務内容のメモや、JICAにパソコン購入を要請する書類などが見つかった。このような所で一人、見知らぬ人が書いた日本語の文書を読むのは興味深いものだった。 私は断片的なメモを整理しながら、過去に作られかけたシステムの概要と時期を解析した。どうやら今、私の目の前にある5年前くらいモデルの台湾メーカー製パソコンは、前任者がJICAに要請して購入したものらしい。彼も業務を成し遂げようとそれなりの努力はしていたようだった。 一方で、私でも、ある程度の設計が可能なデータベースソフトの検討を始めた。 AMCにあるパソコンを調べたところ、Microsoft Officeに含まれる汎用データベースソフトのAccess97やAccess2000がインストールされていた。 しかし職員に聞いてみたところ、その存在は知っているけれども、使い方は誰も知らないようだった。 もっとも私も同様で、Accessの使用方法は知らなかった。
そこでインターネットで日本の書店に、「できるAccess2000」を注文した。 私の現状の知識からすれば、まずは、これくらいのレベルの本が妥当だった。 AMCの職員は、私のことを前任者と同様に「SE」と思っているようだった。 しかしその実態は、「できる」シリーズに頼る、なんちゃってSEなのだった。 4-3. マネージャー現る (2000.4) 4月。配属から3ヶ月が過ぎたけれどもマネージャーはまだ姿を見せない。 相変わらず具体的に指示を出す人がいないので、私は一人で、過去に作られかけたシステムと現状の業務内容と「できるAccess2000」を基に、新システムの基本計画書を作っていた。 そんなある日のこと。 職場の私の部屋に、無言で中年の男が入ってきた。
5年前のモデルのパソコン1台しかないのに「コンピュータ室」もクソもないもんだが、それはともかく、この部屋には張り紙があるにも関わらず、たびたび(1)英語が読めないと思われる農民、(2)近所のガキ、(3)近所の女子高生、(4)野良犬、(5)ハエ、等、いろいろな人や生き物が迷い込んでくる。 このとき私は、てっきり(1)の農民かと思い、「しょーがねえなあ、ったく」的な表情でその男を見た。 男は目が合うと、「はじめまして。I am ウォンチュック」と言い、握手を求めてきた。 ウォンチュック? …あ。 彼こそ、心臓病治療中と聞かされていた、私と共に活動を行なうストア部門のマネージャーであった。 「おぉ、ウォンチュックさん…I've just missed you」 思わず私はこう言ってしまった。初対面なのに。 ウォンチュックさんは静かに言った。 「…インドで冬に手術を受けて以来、ようやく動けるようになったよ」 ブータンは基本的に、医療費無料の国である(これは結構すごいことだ)。さらに、彼のように国営の施設に勤める、いわゆる公務員の場合、事情によっては国費でインドに行って治療を受けることも可能なのだそうだ。おかげで彼はインド南部のチェンナイ(以前はマドラスと呼ばれていた)という大都市にある病院で手術を受けることができたという。 しかし恩恵の及ぶ範囲にも限界があり、インドでの医療費やそこまでの航空運賃はともかく、チェンナイからブータンまでの帰路分として支給された交通費は「陸路」のものだったらしい。 チェンナイからカルカッタまで夜行列車で2泊3日、さらにインド/ブータン国境の町・プンツォリンまでバスで16時間、そしてプンツォリンからここボンデまでバスで7時間。健常者でも体をこわしそうな道程である。 「…おかげで家に帰ってからしばらくは動けなかったよ」 当然のことだろう。 「…それに、標高の高い所に来ると調子が悪くなってなぁ」 それを言ったら、この国では住む所がほとんどない。 「…まあ、少しずつ慣らしていくしかないな」 自分に言い聞かせるかのように呟いたウォンチュックさんは、大柄で、がっしりした体格をしている。しかし彼の声は、ささやくかのように小さい。おそらく、まだ体調が充分ではないのだろう。 それでも、私と共に仕事をする人が現れた意味は大きい。 ようやく本格的に活動できる時が来たのだった。 |
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