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青年海外協力隊物語 JOCV story


7.ブータン横断旅行出張記・前編 (2000.12)
著作権freeの手頃な地図がなかったので自作しました。
ブータン地図
(クリックすると別窓で大きく表示します)
Excelで作りました。
こっちはボンデから各地への距離と標高
(これもクリックすると別窓で大きく表示)


7-1.【第一日】
ボンデ→ティンプー→シムトカ→ウォンディフォダン(移動距離・120km)


2000年12月5日。結局、出張の計画を考えてから、めでたく実現するまで4ヶ月かかった。

午前中は普通にオフィスで作業をしてから、ボンデを13時にスタートする。

同行するのはAMC専属運転手のK、私と同じ部署で働くTと前述の協力隊員I田という、ブータン人・日本人二人ずつの編成。

ブータン東西横断道路の起点シムトカは首都ティンプーの3キロ手前にあるシムトカという町にある。

ティンプーまでは1時間半ほど。Tがティンプーで雑用を済ませたいと言うので、一旦ティンプー市内へ行く。しかし、あちこちで寄り道をするうち陽が西に傾きはじめ、ティンプーを出発したのは16時近くになってしまった。

シムトカの分岐点を経て、いよいよ東ブータンへの道に入る。

道は上り一方だ。標高3,150mのドチュ・ラという峠を越えるためである。ちなみに『…・ラ』とはブータンの言葉で『峠』を意味する。

ドチュ・ラ
ドチュ・ラ。
右側に見える建物はチョルテン(仏塔)、
その横にある幟はチョルテン(経文旗)という。
ドチュ・ラに着いたのはちょうど日が沈む頃。夕日に映える山が美しい。

ドチュ・ラからは人の気配がほとんどない闇の中を下っていく。途中で一服した茶店は停電しており、ランプが弱々しく光っていた。ロウソクでなくランプが用意されているという点で、停電が長時間にわたることが多いことを想像させた。

19時頃ウォンディフォダンに着く。ホテルを紹介してもらい、I田とチェックインする。ブータン人2名は「知り合いの家に泊まる」というので、ホテルの前で別れる。


7-2.【第二日】
ウォンディフォダン→プナカ→ウォンディフォダン(移動距離・40km)

ウォンディフォダン
ウォンディフォダンの商店街
ウォンディフォダンは風が強いことで有名な町だという。そのためしばしば冗談っぽく『ウィンディ・フォダン』とも呼ばれる。そのせいかどうか、ここの商店街の作りはどこも似たような造りの小さな平屋で、風に耐えて縮こまっているように見える。

朝、ホテルの前でブータン人同僚と合流する。しかし何となく車内の空気が淀んでいるようだったので「もしかして…」と思い、「昨日はどこに泊まった?」と問い質すと、案の定、車中泊したとのことだった。どうやら彼らは日当を浮かせるため、極力ホテルには泊まらないようにするつもりらしかった。その後も彼らは毎晩我々と別れたあと、しばしば車を適当な場所に留めて車中で寝ていたようだった。

AMCウォンディフォダン出張所は従業員10人ほどのこぢんまりした施設だった。内部を簡単に見学させていただいた後、出張所のマネージャーが「ここから車で1時間ほどのところにあるプナカに行こう」と言ってきた。いきなり観光である。何だか、偉いさんの視察旅行での接待モードのようで恐縮するけれど、ここはご厚意に甘えることにする。

ブータンのゾンの中でも最も美しい形をしたゾンといわれる。
プナカのゾン
プナカは、1週間程度のブータン旅行ではパロやティンプーと並んで行程に含まれることが多い場所だ。しかし他のブータンの町と同じように、これと言って特に見所があるわけではない。強いていえば、ここのゾンはすぐ傍に川が流れているため、それがお堀のように見えて日本のお城っぽく美しいところくらいだろう。そのゾンにしても外国人は許可がないと中に入ることはできず、通常は外から眺めるだけである。

結局プナカで何かするわけでもなく、町をぶらついて食事をとってから、AMCウォンディフォダン出張所に戻った。施設の詳細説明を受け、在庫管理方法についてミーティングをする。

ミーティングを終えて雑談の中で私が泊まっている宿の話になったとき、マネージャーが「宿代が高い」と言い、わざわざホテルに電話をして値引きしてくれた。ツインの部屋が700ニュルタム(1,750円)から500ニュルタム(1,250円)になった。それでも中級クラスの宿としては、この国では割高のような気がする。しかし首都ティンプーから近く宿の数自体あまり多くない場所なので、仕方がないところかもしれない。


7-3.【第三日】
ウォンディフォダン→トンサ→ブムタン・ジャカール(移動距離・200km)


次の目的地、遥か500km彼方のAMCカンマ出張所を目指して8時に出発。

ウォンディフォダンを出ると、これまでと比べて道幅が少し狭くなる。交通量もめっきり減り、対向車とすれ違うのが数十分に一回くらいになる。いよいよ奥地に入ってきた感がある。この地域に自動車が通ることができる道路ができてから、まだ30年くらいしか経っていないそうだ。

ペレ・ラという標高3,300メートルのサミットで一服。ダルシンが強風ではためきチョルテンがあることで、ここがそれなりに意味のある地点だということが認識できる。しかしその他には、周りには人家も何もない。これは、この先幾度も越える峠のいずれもが同じような感じだった。そのため最初は車を降りて、それなりに峠の雰囲気を味わっていた私たちも、だんだん飽きてきて、峠は単なる立小便ポイントに成り下がっていった。

トンサは東西横断道とインド国境へ通じる道の分岐点だ。
トンサ市街
トンサで昼食をとる。車でティンプーを朝出ると夕方くらいにここへ着くため、トンサにはホテルが多い。また、ここは南部ブータンを経てインドへ抜ける道路の分岐点でもあり、さながら旅人が集まる宿場町の様相を呈している。

トンサを出るとヨートン・ラ(標高3,450メートル)を越えて、今日の宿泊地であるブムタンの中心地、ジャカールまで約3時間。この辺まで来ると標高3,000メートル級の峠も「…あ、そう」という感じで感動もなくなってくる。

ジャカールが近くなると、この国には珍しく風景が広びろとしてくる。外国人観光客向けの織物工房も見える。ブータン2週間コースのゴージャスな旅だと、この辺りまで旅程に入ってくるのだ。

夕方、ジャカール着。ジャカール村を含んだこの一帯を、一般にブムタンと総称している.

ブムタン。
ブムタン・ジャカールにて。
広々した土地だが、標高が高く稲作は不可能らしい。
「ブムタンは寒いよー」と同行のブータン人からかねがね聞かされていたけれども、たしかに風が強く吹いていることもあって肌寒い。標高は2,700メートルなのでティンプーやパロより数百メートル高いだけだから、地形のせいもあるのかもしれない。

宿にチェックインしてから、集落を歩いてみる。風が冷えびえしながらも雪がないところが、あたかも春先の、北海道の浦河・えりも辺りを思わせる。えりもの春は何もないけれど、ここも街中は雑貨屋が数十軒ある他には何もない。しかし郊外には寺院などいくつか見所もある。明日は1日市内観光をする予定なので、早々に宿へ戻る。

この日私たちが泊まったカイラ・ゲストハウスは、ちょっと洒落たペンション風の作りで、食事も辛くなかった。旅行シーズンには外国人観光客も多く利用するのだろう。今回の旅で滞在した宿の中で、もっとも観光チックな所だった。もっともこの時期は寒いせいか、観光客の姿は見られなかったが。

部屋に設えられたブータンで一番強力な暖房、薪ストーブ(『ボカリ』と言われる)を使い、ゆっくり寝る。


7-4.【第四日】
ブムタン・ジャカール(移動距離・10km)


今日は出張の中休みとして、一日をブムタンの市内観光に充ててもらう。

ジャカール・ゾン。
ジャカール・ゾン
まず宿の近くにあるジャカール・ゾンへ行ってみる。入り口近くでガードマンに呼び止められる。しかし「中で写真は撮るな。あとは別に構わん」と言われただけ。のんびりしたものだ。ゾンに入ると、少年僧が私をじっと見つめているのに気づく。だが残念ながら、ほとんど会話ができない。ブータンでは普通の子供は学校で早くから英語の授業を受けるけれども、僧侶は僧院などで独自のカリキュラムの教育を受ける。しかしどうやら、英語教育はあまり行われていないらしい。私は何度かこの国で坊さんと話そうと試みたことがあったけれど、英単語で間違いなく通じたのは「Monk(=僧侶)」くらいだった。

クジェ・ラカン。
ブムタンには古刹・名刹が多くある。
写真はクジェ・ラカン。
ゾンを後にし、寺をいくつか巡る。この辺りの寺は外国人が建物内に入ることに対して非常に神経質だと聞いていたので、いきなり訪ねて大丈夫かと心配したけれど、同僚のTやKが僧侶とうまく話をつけてくれたため、どこの寺でも中に入ることができた(それでも建物内は写真撮影禁止であったけれど)。この辺りは普通のブータン人が同行している役得のおかげかもしれない。

午後、宿へ戻ると、I田が「腹が痛い…」と呟いた。ウォンディフォダンで食ったチョーメン(炒麺)に大量にぶちこまれていた肉の脂身が怪しいんではないかと言う。けれども全く同じ物を食べていた私は何ともない。しかし胃腸の強さ、そして食べ物の得手不得手には個人差がある。だから、ここでI田が腹をこわしたからと言って、彼の胃腸が弱いとか私が強いとか安易に断定することはできない。ただ断言できるのは、「運が悪い」ということである。カイラゲストハウスのうまい食事が食えなかったのだ。この日の晩飯にはニジマスの空揚げが出た。後に2年間を振り返っても、私がブータンで食った魚料理の中で最高のものだったこのニジマスが食えなかったI田は、まことに不運だった。


7-5.【第五日】
ジャカール→ゲルポシン→モンガル(移動距離・200km)


ジャカールからモンガルまでは200キロ、7時間の道のり。この間には、ろくに宿泊施設がないため、東へ向かう車はその日のうちに意地でもモンガルまでたどりつかなければならない。

それゆえ意気込んで早起きしたのだけど、寒さのせいか、なかなか車のエンジンがかからない。この国のオイルは質が悪いので凍りやすい、という話も聞いたことがあるので、そのためかもしれない。

1時間近く悪戦苦闘した挙句、どうにか9時頃出発する。それにしてもJAFのようなものが見当たらないこの国、山の中で突然車が動かなくなったらどうするんだろう…という不安が頭の中によぎる。しかし車が故障して山中で人が遭難死したという話を聞いたこともないので、どうにかなっているのだろうと、あまり深く考えないようにする。

ジャカールを出た車は、まずトムシン・ラという峠を目指す。これまでいくつも峠を越えてきたので、今さらジロー峠越え、とも思うが、この峠は実に標高3,750メートル。今回の行程の中で最高地点なのだ。これは、きっと何かが違うぜぇと、ちょっと期待する。

標高が高くなるにつれて、道が凍ってくる。日陰には、いつしか降った雪が根雪のようになっている。ブータンの冬は乾季にあたるため、もともと雪はそれほど降らない。それに日差しが強いので、降っても日なたではすぐに溶けてしまう。しかし日陰では気温の低さも相まって、長い間残っているのだろう。

トムシン・ラ。
トムシン・ラ。
眺望がほとんどきかなかった。
ジャカールから3時間で、トムシン・ラ着。チョルテンが鎮座し、若干のダルシンがバタバタしている、いつもの峠の光景である。車を降りて、3,750メートルの空気を味わう…寒い。おまけにガスっていて視界もろくにきかない。…ということでチョルテンから少し離れた、この辺りならバチは当たるまいと思われる物陰で、いつものように立小便をして早々に車に戻る。

峠を1時間ほど下り、センゴルという集落で車を停める。この先数十キロは、まともに食事をとれそうな場所がないので、これまた意地でもここで昼食をとらなければならないためだ。数軒ある食堂の中の1軒で、牛の干し肉と唐辛子を煮込んだノシャ・パという料理を食べる。この辺ではメニューが複数存在するレストランなど期待はできない。黙って、出されるものを食うしかない。それでも肉が用意されているという所に、これは他所から来た旅人のためにあつらえられた豪華な食事なのだという感を強くする。そもそも標高3,000メートルはあるこの村で、肉を手に入れるのは容易なことではないはずだから。

メシを食っている間、他の車の姿はほとんど見なかった
センゴルで撮った横断道(上)と、
食堂の厨房
メニューを選択する余地はない
しかし昼食時というのに他の客の姿が見当たらない。というか、車がろくに通らない。ここを通る車はほぼ間違いなくこの村で、食事など一服していくと思われるのだが…。結局、絶対的な交通量が少ないのだ。これが東西横断道路の実態である。おそらく週に何回のバスでも来ない限り、この食堂が満員になることはないのだろう。

センゴルから先は、ひたすら、だらだら山を降りていく。2時間でリンミタンという熱帯っぽい小さな集落へ着く。ここはクリ・チューという川のほとり…というか、谷底にある。標高600メートル。たしかに、もともと緯度的には熱帯地方にあたるので、標高の低いこの辺りでは熱帯と言っても違和感はない。さすがに、時期的に暑いと言うほどではないけれども寒さはほとんど感じない。しかし、実にトムシン・ラから3,000メートル一気に下ってきたことになる。今、当時を思い起こしながらこの文章を書きながらも、思わず頭が痛くなってくる。

ここでメイン道路から脇にそれてしばらく行った所にあるゲルポシン高校という学校を訪ねる。ここに体育教師として派遣されている同期の協力隊員・I山嬢がいるためだ。

彼女は元気そうだった。しっかしこの高校、周りには民家すらろくにない、何なのよここ的環境にあった。何でも、近くの店(といってもよろず屋が数軒あるだけ)までは歩いて30分。彼女も、スクールバスなどに便乗してたまにモンガルへ行く以外は、休日でも全寮制のこの学校の中で生徒と共に過ごすことが多いということだった。

ブータンでは、国で唯一の大学が、ティンプーから遠く離れた東部の町タシガンから車で1時間ほど奥に行ったカンルンという小さな場所にあるなど、わざわざ不便な所を選んで学校を建てることが多い。これは学生を勉学に専念させるためには効果的なのかもしれない。けれども、このゲルポシン高校、標高が低くて気候が温暖なのはいいとして(ただし夏は40度まで気温が上がるそうだが)、周りにあまりにも何もないというのは、生徒達は若者にありがちな欲求をどのように発散するのだろうかと、ふと心配になる。もちろん、教師として過ごす彼女も決して楽ではないだろう。

「ここは暖かくていいね。でも、もう二度と来ねえよ」

思わず本音100%の感想をお嬢に言い、高校をあとにする。

そしてモンガルまで1時間、再び1,000メートルの標高差を登っていく。


モンガル市街地。
ひと気がない…。
モンガル。モンゴルと一字違いなので何となく広大な土地を想像していたけれども、実際は100メートルくらいの長さの小さな商店街があるだけの、わびしい寒村だった。

その中にある一軒の古びた宿屋に入り、そそくさと晩飯を食うと、もう、あとは何もすることはない。いくつかの窓にはガラスがきちんとはまっておらず、しかもせんべい布団一枚しかない寒々とした部屋。おまけに、しばしば停電する。早く朝にならないかと思いながら、着の身着のままで布団に入り、丸く固まって一夜を過ごす。


7-6.【第六日】
モンガル→タシガン→カンマ(移動距離・120km)


「モンガルからタシガン・カンマまでは、せいぜい4時間だ。だからゆっくり寝ていていいよ」と同行のブータン人は昨日言っていたが、とてもゆっくり寝ていられる環境ではなかったので、早々にモンガルを発つことにする。

タシガンまでの旅路は、昨日通った道の光景のスケールを小さくした感じだ。

シェリ・チュー。この辺りは亜熱帯に属するらしい。
シェリ・チュー。
結局、山の中であることには
変わりない。
まずコリ・ラという2,400メートルの峠を越える。もっとも、もうそんなものには車中の誰も興味を示さず、小便すらしないで通過。それから峠をだらだら下り、谷底のあたりで、再び熱帯っぽい雰囲気のシェリ・チューという集落に出会う。この辺も、昨日のリンミタンと同じく標高600メートルくらいだ。何となくブータン離れした、熱帯的なのんびり感がほのかにある。しかしながら谷底の限られた空間に慎ましく寄せ集まって建てられた家々からは、開放的な雰囲気はあまり漂ってこない。うーん、やっぱりブータンなのだなぁ…と、改めて感じさせられてしまう。

シェリ・チューからは再び山を上がりはじめ、タシガンの町の約5キロ手前にある鉄橋のたもとにあるチェックポイントで通行許可証を見せ、チェックを受ける。そして再び山の斜面を登っていき、タシガンに着く。

タシガン。この辺まで来るインド人以外の外国人は少ないだろう。
タシガンの商店。
インド直輸入品が並ぶ。
タシガンは、ティンプー以来久しぶりの『町』という感じの場所だ。商店街が複数の道路に渡っている。これはブータンでは貴重な存在である。タシガンから先には南へ通じる道路があり、そこを通れば車を使って6時間くらいでインドのアッサム州へ抜けることができる。だから、この町に入ってくる物資は首都ティンプーから来るものよりもインドから輸入されてくる方が圧倒的に多いらしい。時間的にも、首都からタシガンまで車で2〜3日を要するのに対して、インド国境からだと6時間程度しかかからない。しかしアッサム地方の治安が不安定なため、外国人がこの道を通り抜けるのは厳しいという。

タシガンで昼食をとり、カンマへ。AMCカンマ出張所に14時頃着く。マネージャーが迎えてくれる。しかしこの日は日曜日だったので、「まあ今日はゆっくり休めや。詳しい話はまた明日」っつーことで、まっすぐ宿へ案内された。

こんなところにまともな宿が存在するのか不安だったが、AMCに隣接して建っているRNR(Renewable Natural Resources)というやはり政府関連施設が運営する出張者向け宿泊施設があるというので、そこへ案内してもらった。ブータン人向け施設のため設備は質素ながらも、割と清潔な所で、ホッとする。

ボンデを発ってから6日目で、ようやく最終目的地のカンマに着いた。往路終了。あー長かった(…って、結構寄り道もしたんだけど)。

そしてこの時、私がブータンに来てからちょうど1年経ち、自分のブータン生活そのものも折り返し地点を過ぎていたことに、気づいた。



 
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