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青年海外協力隊物語 JOCV story


12-1. 9.11(2001.9)

長椅子に座ると、窓からボンデの村が一望できた
ネットをしていた自宅の居間。
手前の電話付近からモデム経由で
ピーガーやっていた
自宅にテレビがなく、ラジオジャパンの日本語放送も運がよければ夜だけ受信可能という環境に住んでいた私は、毎朝湯を沸かし、インスタントコーヒーを作って、それを啜りながらインターネットで日本のニュースをチェックするのが習慣になっていた。

その日、AMCは何かの振替休日で休みだった。私は、いつもにも増してのんびりとノートパソコンの電源を入れた。

青空の下、高層ビルに飛行機が突っ込んで白煙が上がっている写真が画面に現れた。

しかしそれは、まるでCGのように出来すぎた画像だったため、かえって現実味を感じなかった。またネットの画像は音声を出すわけでもないので、緊迫感や重大性は伝わってこなかった。

一通り記事に目を通した。

まあ大事件ではあるんだろうな。しかしアメリカでの出来事だ。世界的な大事件というほどでもあるまい。

それが、率直な第一印象だった。

しばらくして家の扉をノックする音がした。開くと、同僚の姿があった。近所に行くついでに、うちに来たと言う。彼は開口一番、言った。

「アメリカで事件があったな。知ってるか?」

ラジオのニュースで聞いたらしい。

彼の言葉で、これが現実であることを改めて認識した。もっとも、彼もそれ以上この事件についての感想などは話さなかった。

数日経ってJICAから「米英関係の施設には不用意に近寄らないこと。また米英系航空会社もなるべく利用しないように」との通達が届いた。JICAが、関係者が駐在する各国向けに発行したもののようだった。しかしこの国には米英関連の施設は、大使館すらなかった。もともとブータンは不思議なくらいアメリカとは関係が薄い。と言ってアルカイダのようなイスラム過激派ともほとんど関わりがあるわけではない。ブータン人から「モスレムってテロリスト?悪者なのか?」と聞かれるくらい、イスラム文化に対する認識も理解もなかった。ブータン人が身近に認識する悪者とは、せいぜい隣国チベット住民を苦しめている中国のコミュニストくらいだ。従ってこの国に住んでいる私や他のブータン人にとって、この事件は対岸の火事にしか感じられなかった。そんなわけで、私はこの事件のことを特に気に留めなかった。

それから数日後、一通のEメールが届いた。

初めて目にする送信者名だった。だがその名前には見覚えがあった。日本の会社で同じ部署にいた先輩、S山氏だった。

> Subject: 当方の状況ご連絡の件
> 青年海外協力隊 B.God 様
> ご無沙汰しています。
> ○○課のS山です。2000年8月21日付にてK川課長の後任として着任しました。ご連絡が遅くなりまして申し訳ありません。


K川課長は、日本出国当時の私の上司である。その後任にS山氏が来たという話は、昨年のうちに別の同僚からのメールで知っていた。

さて、先輩のくせに妙に慇懃な書き出しで始まったメールは以下このように続いていた。

> 先般の米国ニューヨーク貿易センタビルのテロ事件以来、中近東(特にパキスタン周辺国)諸国への米国の報復がニュースに取り上げられておりますが、そちらの国内情勢は政治的緊張が高まっていませんか。青年海外協力隊事務局に本日問い合わせたところ、ブータンはインド東方に位置しているため、外務省の避難勧告対象外と伺いました。とは言え、海外に勤務している以上、貴君の身の危険がないか心配しております。できたら、そちらの状況等を連絡ください。

ちょうどその頃、アフガニスタンに接したパキスタンに派遣されていた協力隊員が治安の悪化を懸念して全員日本に強制緊急帰国させられたという話を聞いていた。そう考えれば、ブータンはアフガニスタンの隣のパキスタンの隣のインドの隣にあるのだから、全く的はずれな心配とは言えないのかもしれない。もっとも先に触れたように、この国にはアルカイダが狙いたくなるような施設はほとんどないのだから、かえって日本よりも安全なような気さえした。

私は「そんな心配は一切無用ですよ」と、気軽に返事を書こうとした。

しかしながら、そのメールに書かれた最後の文を読んで、目の前が一気に暗くなった。

> (略)ところで、帰国後は当社の業務に復帰する意思はありますか。 国際協力事業団派遣が決定した時点(1999年3月8日)でK川課長が、貴君の派遣終了後は復職の意思があることを確認していますが、現在でもその意思は変わっていませんか。

私が帰国後の不安を感じ始めている今、なぜわざわざ改めて「復職の意思」を問う必要があるのか。理解に苦しんだ。それとも、ここで「きがかわりました。にほんにはもうかえりませんばいばい(´ー`)ノ」とでも書けば、それっきり縁が切れるのだろうか。この一文で、会社に対する私のモチベーションは急低下した。

それはさておき。

そこで「いいえ」と返信をして、本当にそれっきり出社しなくて済むのだったら、多分そうしていただろう。でも、おそらくそうはいかないのが大人の世界である。私は「はい」と一言だけ入力して返信した。他にS山氏、と言うか会社に対して何か書こうという気も起こらなかった。

その代わり、日本にいた当時、私がいた隣の部にいた某課長のプライベートアドレスにこのメールをそのまま転送して「どう思いますか?」と訊ねた。正直、今、会社が俺のことをどう考えているのか、ある程度客観的な立場にいる人の意見を知りたかったからだ。

数日後、「…個人的には、失礼な話だと思います。君に、戻ってきて欲しいと思っている人が会社にはたくさんいます。とにかく心配しないで無事に帰ってきてください」と、あくまで無難に、しかし言葉に充分気を配った様子の返事が届いた。少し救われた気持ちになった。だが会社に対するモヤモヤは、完全には晴れなかった。


12-2. 黄昏時の思い出作り (2001. 9-11)

帰国後の不安が心の中でじわじわ増大しつつも、任期終了の12月までに、悔いのないよう、やるべきことはやっておかなければならなかった。

この頃の私には、協力隊が、人生の縮図のように感じられていた。協力隊組織では、隊員のみならずJICA事務所にいる調整員の任期も標準2年間とされている。ゆえに、私がブータンに来たころに比べると、既にほとんどの隊員や調整員の顔ぶれが変わっていた。そして私にも、まもなく「世代交代」の時が訪れようとしている。私は、たそがれた気分になっていた。定年が近くなったときにもこんな気持ちになるのだろうかと思った。

そして協力隊活動の終わりは同時に、ブータン生活の終焉も意味していた。今、無意識に日々を過ごしているこの国も、ひとたび日本へ帰れば、旅行で訪れることさえ容易ではない。

この子供たちに、言葉は通じなかったが意思疎通はできたのかな。このじいさんに、言葉は…(以下略)
当てもなく道を歩き、一期一会の邂逅を味わっ
農家の屋根でトウガラシを干しているため、赤く見える
そこで私は、休日になると、歩いた。近所にある、なるべく未だ通ったことのない道を見つけて、写真を撮りながら自分の足で歩いた。別に、何かめぼしいものがあるわけではなかった。しかし、そこに何気なくある寺や農家や田んぼが、もうじき手の届かない存在になってしまうことが惜しかった。

この2年で、ボンデやパロの町でも私を知る人は多くなっていた。その中には、私が歩く姿を見かけて「ぃよう。どこに行くんだ?」と声をかけ、自分の運転する車やバイクに乗せようとする人もいた。顔見知りになった乗合タクシーの運転手の中には、短距離ならタダで乗せてくれる人もいた。そんな人たちに「いや…俺は歩いていきたいんだ」と言っても、私の意図を理解させるのは難しかった。

一方で協力隊としての活動は、どうにかシステムへのデータ入力も終わり、スタッフへ操作説明をさせられる段階まで来た。しかしながら彼らも、私がいなくなったあとの不安を感じ始めているようで、「おまえ、やっぱり任期延長は無理なのか?」と、幾度も聞かれた。たしかにシステムの操作が一通り理解できても、何らかのバグやトラブルが発生した場合に対処できるスキルを持つ人間がここにはいない。私は日本のメールアドレスを教えて、「何かあったら連絡してくれ」と話した。「それでうまくいくくらいなら苦労しねえんだけどなぁ…」と日本語で呟きながら。

さて、任期中にやらなければならない協力隊活動として忘れてはいけないのが国内旅行を兼ねた東ブータンへの出張である。折しもAMCの地方出張所にこの夏、新しいパソコンが入ったことをネタに、「パソコンの活用方法を現地職員にレクチャーしたい」という口実を作り、私は「Memorial Tour」と心の中で密かに銘打った出張を企て、10月末に再びスタッフと共に旅立った。

2001.10東ブータン出張行程表
月日 行 程
10/29 ボンデ→ウォンディフォダン
10/30 ウォンディフォダン(AMC出張所訪問)
10/31 ウォンディフォダン→フォブジカ→トンサ
11/1 トンサ→ブムタン
11/2 ブムタン
11/3 ブムタン→モンガル
11/4 モンガル→タシガン・カンマ
11/5 カンマ(AMC出張所訪問)
11/6 カンマ→モンガル
11/7 モンガル→トンサ
11/8 トンサ→ボンデ
左の表の通り、季節も去年とほぼ同じ、ルートも前回と同様にブータン中部のウォンディフォダンと東部のタシガン・カンマ出張所を目的地として途中の町や村に寄っていくものだったので(もっとも、旅行できる場所や季節に限りがあるために変化をつけようにもできなかったのが事実だったのだけど)、前回のような新鮮な発見は多くなかったけれども、それでも私は旅を堪能し普段訪れることのない、貴重な、地方での協力活動に邁進した。

唯一心残りだったのは、カンマ出張所のマネージャーが出張で不在であったことだった。隣の県の、とある村へ行ったらしい。しかしながらそこは自動車道路がないため、一週間ほとんど歩き通しの出張なのだそうである(…)。前回カンマを訪れたとき来客数の少なさに拍子抜けしたことを思い出したが、そこには単純に数字では判断できない仕事のペースがあることを、帰国直前の今になって知らされた。

フォブジカ
今回、初めて訪れたフォブジカ。冬は鶴が飛来するらしい。
鶴が事故を起こさないよう、あえてこの村には送電線を引いていないという。
(その話を聞いて「ここって最初から電気いらなくねぇ?」と思った俺は不謹慎だろうか)

11日間の出張から戻ると、これまた前回と同様、間を空けずにインド国境のプンツォリンへ行った。もうプンツォリンに協力隊活動として行く用事はなかったけれども、この際だから行けるところは行ってしまえという考えで、東ブータン行きの移動許可証を申請するときドサクサ紛れに目的地の一つとしてプンツォリンも加えておいたのだ。

毎朝8〜9時頃は長距離バスの出発で賑わう。
パロのバスターミナル
秋には雪山を背に稲刈りをする光景が見られた
パロの北15kmにある村、ドゥゲル
今度はまったくの私用なので、バスを利用するつもりにしていた。プンツォリンへはパロから路線バスが毎日1〜2本出ている。ブータンの長距離バスは全て定員制なので、私はバスターミナルへ前売りの乗車券を買いに行った。しかし、あいにく「売り切れ」と言われた。すると、それを見ていた休憩中の車掌が声をかけてきた。

「どこに行くつもりだ?プンツォリンか…明日、出発の30分前に、ここに来いよ。運転席横の調整用の予備席をお前に売ってやるから」

彼とは、首都ティンプーやパロ北部の小さな村・ドゥゲル行きのバスで、しばしば乗り合わせたことがあった。特に、冬の晴れた日にチベットの山々がきれいに見えることだけが取り得という寒村ドゥゲルへ向かう路線バスなど、外国人で利用したことのある好事者は俺くらいのものだったから(まあ俺も写真を撮りに行くことだけが目的だったんだけど)おそらく印象に残っていたのだろう。

とにもかくにも、私の顔がパロのいろいろな所で通用することになってきていたようだった。そして、そんな些細な出来事一つひとつにも名残惜しさを覚えた。


 

 
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