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| 青年海外協力隊物語 JOCV story | |||||||||||||
13-1.The final countdown (2001.11) 顔見知りの車掌の計らいで、私は無事にプンツォリンに着くことができた。 おそらくこれがブータン生活で最後の国内旅行になるだろう。 プンツォリンはインド国境の向こう側のジャイガオンからパスポートチェックなしで歩いて入ることができるから、その気になれば、インドビザさえ持っていれば日本帰国後もインド旅行のついでにここを訪れることは可能だ。しかしジャイガオンに最も近い大都市であるカルカッタからでさえ、ここまでは列車とバスを乗り継いで16時間かかるので、その気になるのは簡単ではないような気がする。 南国の粘っこい空気を肌に感じる。「ブータンは沖縄と同じ緯度にある」という、いつか聞いた言葉を思い出す。プンツォリンの標高は200m。普段生活しているボンデやパロは標高2,300mなので、南の国に住んでいる実感はほとんどなかった。 夏場は40度まで気温が上がるというプンツォリンも、11月の今は陽射しも柔らかく過ごしやすい。私は、ひねもす寺院などでまどろみ、夕方になると市場を散策した。ブータン人とインド人がカオス状態を醸すプンツォリンの市場にも、日暮れ時には和やかな空気が流れていた。
そして数日後パロ行きのバスに乗り、「あぁ…またいつもの単調な生活に戻るのかぁ」と思わずため息をつこうとした瞬間、その単調な生活も残りあとわずかであることを認識し、ひとり苦笑した。 もっともプンツォリンから戻ると、もう単調な生活を過ごすことはできなかった。 協力隊事務局への最終活動報告書の提出、AMCを管轄する農業省への表敬訪問等の公的なものから、お世話になった人々へのご挨拶や各種飲み会などの私的なものまで、各種イベントが連日続いた。 農業省では、次官から「ユーザーの立場で考えられた、使いやすい、良い在庫管理システムを作ってくれたと思う。ありがとう」と言われた。悪い気はしなかったけれども、そのお褒めの言葉が、かえって、今後AMCのスタッフが、私の作ったシステムを活用できるかどうかの不安を呼び起こさせた。 ティンプーに行ったついでに、ブータン到着時にホームステイでお世話になった家を訪ねた。女子高生が二人住んでいるというおいしい環境だったのに、ホームステイ後は全くご無沙汰してしまっていた。
この国の学校は落第が多く、またクラス10から11への進級は特に難しいと聞いていたので、留年したこと自体は、特に気にならなかった。ただ、2年前には日本の同年齢の女の子より大人っぽく見えた彼女が、気のせいか今回は子供っぽく感じられた。留年は人の成長も留めてしまうものなのかな、と思った。 私は宇多田ヒカルや安室奈美恵など日本の音楽をカセットテープにダビングし、それに自分で作った英訳の歌詞カードを付けてプレゼントした。もう彼女に会うことはおそらくないだろうけれど、ささやかながら思い出にしてほしかった。
宴の最後に、私は数十人のスタッフ・その家族・その他パーティに来ていた知らない人(←謎)を前に、英語で挨拶をした。 「今日は私のためにパーティを開いてくれてありがとうございます。この2年間、ブータン、そしてAMCに貢献できたことを嬉しく思っています。ブータンは私にとって、過ごしやすい国でした。今、私は、2年前にブータンに来るときの不安より、これから日本に戻ってからのことを考えるときの不安の方が大きく感じています。日本は確かに先進国です。けれども、日本人の私でも、これから日本の生活にadjustすることは、ブータンよりも難しいかもしれない…」 決してお世辞や大袈裟な言葉ではなかった。 今にして思えば、会社を休職して協力隊に参加するときには、それなりの覚悟は必要だったけれども、その時の私には『勢い』があった。だから、それほど苦労を感じなかった。家族や会社に対して説得するときでも、「いざとなれば裸一貫ででも行ってやるさ、ブータンに」くらいの意気込みが心中にあったから、強気で圧すことができた。 しかし、今、私は、勢いで飛び出してきた日本に再び戻ろうとしている。いや、戻らなければいけない。わかりやすく言えば、清水の舞台から飛び降りた後で、体に綱をつけられ再度引っ張り上げられようとしている状態が、今の私である。かえってわからなくなったかもしれないが。 もちろん先日送られてきた、あのメールも、気持ちを重くする大きな原因の一つだった。結局は開き直るしかないのだろうが。 また、会社を別にしても、私には日本という国が客観的に見て住みやすい所とは思えなかった。 「日本は、いい国だよな。向こうでは、いくら給料をもらっていたんだ?」 同僚からよく訊ねられたことの一つである。 「今の10倍だよ」 こう答えると、彼らは決まって目を丸くした。協力隊では、活動期間中にはJICAから「手当」として生活費が支給される。この金額は物価水準に併せて国毎に決められており、ブータンでは月額330ドルだった。日本の感覚では非常に安く思われるけれど、これをブータン人の給与に置き換えると公務員の次長クラスに相当する。即ちAMCの中で私は、おそらく収入ではトップクラスだった。それなのに、いくら物価の差があることを知っているとは言え、私が日本で、その10倍の給料を得ているとは信じ難いだろう。 けれども高収入が、イコール豊かな生活を意味しているわけではない。 日本では自殺者が、交通事故で亡くなる人の3倍以上いる。 私が日本の話題の中でこのことを話すと、彼らは決まって表情を曇らせた。もっとも2年間に2回車で死亡事故を起こしているAMCも、それはそれで人間死にすぎなのだが。 しかし日本人は、もはや偉そうに途上国に上から手を差し伸べられる立場ではないような気がしてならなかった。空腹が満たされず困る人が世界に多くいることは事実だけれども、空腹が満たされていても精神的に満たされず苦しんでいる人のケアは二の次でもいいのだろうか。 私は日本の町に溢れている、物乞いをしなくても食っていけるホームレスの姿を想像した。 ボンデにも、あばら家に住み(暖房が普及していないこの地では、さすがに野宿では冬は凍死する)、職につかずに昼間から飲んだくれの親父がいた。だが、彼は不幸には見えなかった。 彼は俺に遭うと、「Sir, Where… you go?」とたどたどしい英語で声をかけてきた。俺が「There!」と適当な方向を指すと、満足そうに頷いて握手をした。それがいつも彼と俺が唯一交わすコミュニケーションだった。しかし、彼は常に陽気で幸せそうだった。もちろん酒による所が大なのだろうが。しかし彼に限らず、この国ではヤケ酒をくらって独りで怒りまくっている人を見ることはめったになかった。
幸せって、何だろう? ブータンの有名な国策の一つに「GNH(Gross National Happiness) の向上」がある。GNHとは、「国民総幸福量」とでも訳せばよいのだろうか。GNP(国民総生産)をもじった言葉である。要は、「物質的に豊かになることに拘りすぎて、そのために生じる環境破壊などの問題に苦しむよりも、国民一人ひとりの心の豊かさを重視し、『自分は幸せだ』と感じる国民の数を増やしたい」ということらしい。 もっとも私はGNHという言葉を初めて耳にしたとき、それは、国家の大きな理念のone of them として存在する程度では結構なものだと思うけれども、国策の一つに掲げるには抽象的過ぎる性質のものだと感じていた。そしてまた、今感じるのは、ブータンよりも、むしろ現代の日本のような国でこそ、「心の豊かさ」は、真剣に論じられなければならない課題のような気がすることである。 けれども最近ではブータンでも、若年層の失業率の増大が深刻というニュースを聞いたり、自動車の数が目に見えて増えたりしている。この国にも、GNHの向上を切実に考えなければならない時が訪れているようにも感じられる。 私は、ちょうどいい時期にブータンに来たのかもしれない。 13-2. さらばブータン (2001.12) 12月6日。日本を発ってから丸2年経過。任期満了である。まずは同期隊員全員が大きなケガや病気をすることなく無事に任期を務めあげられたことを喜ぶ。厳密には同期5人のうち、銀行でSEとして活動しているM田が任期を1ヶ月延長したので、今日の段階では彼を除く4人ということになるのだが。 本来なら明日には帰途につかなければならないところだけれど、8ヶ月前にT口が懸念していたように、その日はブータンからバンコク行きのフライトがない。従って、望もうが望むまいが私たちは1日余分にブータンにいなければならなかった。もっとも皆、もともと時間通りに事が進まないことが多いこの国のペースが体に染み込んでいるためか、T口を含め、誰ももう気にしていないようだった。 私は『ボーナス・デイ』になった翌7日、一日ティンプーのJICA事務所で挨拶や雑用を済ませ、夕方、たまたま所用で来ていたAMCの車に乗せてもらい、パロへ向かった。
彼らは私を見るなり、「よく来てくれた」という表情を浮かべ、ある帳票の出力方法を訊ねてきた。 …大丈夫かよ、オイ。 私は数カ月前にスタッフの一人ひとりにマンツーマンでシステムの使用方法を教えた後、約60ページの英文マニュアルを作り、「今後わからないことがあったら、俺に聞く前に、まずこれで調べろ」と手渡していた。 しかし彼らはマニュアルを見ようともせず、いつも私に直接質問していた。「それはマニュアルの、このページに載っている」と言っても、皆、「自分で調べるよりお前に聞いた方が早いから」と、はぐらかされた。まあ機械に弱い日本のオッサンも必ずそう言うが。 とは言え、明日以降のことを考えると、そう甘やかすわけにもいかない。 私は「俺の任期は、もう終わっている」と意地悪く一言クギを刺してから、「今日は Real volunteer だ(?)」と言い、操作を教えた。 そして翌8日、本当のブータン最後の日が来た。 11月いっぱいで私は、以前住んでいたボンデの家を引き払い、6kmほど離れたパロの商店街の中にある、顔馴染みのチベット人夫婦の家に転がり込んでいた。その家は奥さんが以前小さな食堂を営んでおり、私は常連客だった。しかし、学校の先生をしていた旦那が数ヶ月前に新しいビルを建て、それから彼らは家賃収入で左ウチワの生活をしていた。そのビルの中に将来ゲストハウスとして使う予定にしているという小部屋があったので、私は、それまで一人暮らしで使っていた台所用品をプレゼントする代わりに、ブータン最後の数日間を、メシ付きでそこに住まわせてもらっていたのだ。
馴染みの店の一つである食料品店に入った。私がその店をひいきにしていたのは、そこの奥さんが美人だという、ほとんどそれだけが理由だった(…)。 挨拶かたがた、記念に彼女の写真を撮らせてもらおうとした。 すると隣にいた旦那がスッと近づき、彼女の肩をしっかりとお抱きになりやがった。…むぅ。もっとも私はそこの旦那とも仲がよかったので、苦笑いしながらシャッターを切るしかなかった。 旦那は「元気でな」と、売り物の飴玉を一個つかんで私に渡した。それは、ある時にはちょっとしたプレゼントになり、またある時には1ニュルタム(2.5円)硬貨の釣り銭代わりにもなる、便利グッズだった。 朝食をとり、AMCの車で空港へ向かう。空港では、同じ飛行機に乗る予定のT口とI山嬢が先に着いていた。いや、彼らだけでなく、20人近くの後輩隊員が我々の見送りのためにわざわざティンプーから来てくれていた。そして、そこには隊員だけでなくJICA事務所の所長や調整員の姿もあった。小さなパロ空港の入口は、数十人の日本人でごった返していた。
見送りに来ていただいた一人ひとりに挨拶した後、胴上げされ、私たちはガッツポーズで空港内に入った。 それからしばらくして、飛行機は静かにブータンの地を離れた。見送りの余韻がまだ残っていたせいか、私たちの表情はにこやかだった。 |
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