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青年海外協力隊物語 JOCV story


14. 時代をかけ下りる旅 (2001.12)

活動期間を満了した隊員は、必ずしもまっすぐ日本に帰らなければならないわけではなかった。『帰路変更』という制度があり、直行した場合の旅費との差額は自己負担になるけれども、任期終了日から二週間以内であれば、ほぼ自由に他の国を寄り道しながら帰国することができた。

「海外旅行が一般的でなかった時代に『せっかく国外に出たんだから、ついでにいろいろ見てきたら?』と言う感覚で作られた制度じゃないですかねぇ」

調整員の人が、以前そう話していた。

共に任期を終えたI田が私たちと同じバンコク行きの飛行機に乗らなかったのも、「インドに寄ってタージマハルを見たい」と、翌日のデリー行きに乗るためだった。そして海外旅行はともかく二週間の休みは一般的ではない私にとっても、これは言うまでもなく活用したい制度だった。

私が考えた帰路は『パロ→バンコク→香港(マカオ)→成田』だ。

ブータンで、時代を遡ったような生活をしていたので、文明に自分を慣らすためになるべくバンコクや香港といった比較的垢抜けた都市を通りながら日本へ帰ろうと思ったのだ。そして最後にマカオで、ブータンで使い道がなくて余した若干の小金で一勝負しようと(…)。題して『時代をかけ下りる旅』である。

一方、今、私と一緒にバンコク行きの飛行機に乗っているT口とI山嬢は、バンコクで一泊して翌日の深夜便でまっすぐ帰国するという。

バンコクに着くと、空港から先は、最もタイに慣れている私が案内することになった。

早速タクシーで私の定宿に向かいチェックインする。顔馴染みになりつつあるフロントは妙齢のI山嬢を意識したのか、いつも私が泊まる450バーツ(=1,100円)の部屋ではなく、600バーツ(=1,500円)の少しきれいな部屋を勧めた。まあ普段の部屋に比べて、心持ち清潔で、テレビ画像のノイズが少なくて、シャワーの湯が若干熱い程度の違いだったが。

部屋に荷物を置くとすぐにホテルを出て、我々は中華街のレストランで祝杯を上げた。
余談だがブータンでは、アジアの国には珍しく屋台がほとんど見られなかった
夜遅くまで食べ歩きできるバンコク・中華街の屋台

んまいぃぃぃ!

んま過ぎる!

旨いのは酒だけではなかった。

卓に並んだ数々の料理。

特に、チャーハンよ。

それは、この晩のチャーハンを超えるチャーハンにありつくことは生涯ないだろうと思わせるほど狂おしく我々の舌を刺激した。

もちろん他の料理も非常に美味しく感じられた。もちろんそれは、これまでブータンで食べていた料理がいかに(略

私達は店を出た後も、その夜は満腹になるまで屋台を食べ歩いた。

翌日はバンコク市内のデパートなどを巡りながら一日を過ごし、夕食後、空港まで彼らを見送る。

これから先は、また一人旅だ。

パスポート
公用旅券(左)と
バンコクで作った
一般旅券
実は、ここで私は、持っているパスポートを切り替えなければならなかった。協力隊活動は「公務」に当るため、今までは一般のパスポートと異なる緑色の公用パスポートを使っていた。しかしこれから香港やマカオを寄り道しながら日本に帰るのは「私的用事」になるので、一般旅券を使用しなければならないのだ。もちろん私は一般のパスポートも持っていたけれども、ブータン滞在中に失効してしまったため、新たに作り直さなければならなかった。で、これがまたブータンで予め作ることができれば何の問題もないのだが、ブータンには日本大使館や領事館の類がなかった。したがって私はバンコクに数日滞在し、領事館でMade in Thailandの日本旅券を作成した。

一週間後、できたてのパスポートを手に香港へ飛ぶ。

目の前に下がる看板は迫力がある。
香港の繁華街・尖沙咀
(チムサーチュイ)
天気がよければ街歩きも楽しかっただろうなぁ…
マカオの裏通り
高層ビルが林立する香港。

年々バンコクも垢抜けてきているけれども、香港には、都市としての歴史と風格が感じられる。まだバンコクには走っていない地下鉄に乗ろうとして、駅で「Octopus Card」というプリペイド・カードを売っているのに気づく。改札機にこれをかざすだけで、きっぷとして読み取るのだ。すごいなあ。東京より進んでいる(これとほとんど同じ仕組のJR東日本のSuicaが発売されたのは、私が帰国した数ヵ月後だった)。

私は素直に、文明の利器ひとつひとつに感動していた。

ブータン人も外国へ行くとこんな気持ちになるのだろうか。

ふと、もはや彼方の存在になってしまった国のことを想った。

香港は過去に何回か訪れたことがあったけれども、ホテル代が高いので長い間滞在したことはなかった。もっとも今回の旅ではブータン生活中に余したいくらかの金を持っているので、懐は若干暖かい。とは言え、急に貧乏性が直るわけでもなく、私は現地の旅行代理店を何軒か回って見つけた安ホテルに泊まった。

翌日、高速船でマカオへ向かう。

マカオはカジノのイメージが強いため、特にその趣味がない私にとって今まで縁がない場所だった。

しかしアジア最後の、西洋の植民地だったマカオには香港以上に洋風の古い建物が多く見られ、ぶらぶらと街歩きをするのも意外に楽しいように思われた。だがあいにく港に着いた途端、雨が降り始めた。それに肌寒い。東南アジアはどこも年中暖かいものだと勝手に思い込んでいたのに(マカオは東南アジアと言うには無理もあるけれど)。

天候のせいか、或いは徐々に帰国の日が迫っているせいか、私の気分も滅入ってきた。散歩どころか、派手にギャンブルをする気分にもならなくなってしまった。結局、せっかくだからと一軒のカジノに入ったものの、スロットマシーンを10ドルだけやって、やめた。あぁしょぼい。

夜のマカオの町を、健全に、しかし、とぼとぼと徘徊する。

寂れた一軒の寿司屋を見つけ、何気なく入る。こんな店だから味は大して期待できないよなぁと思いながら、半ばネタが干からびた握りをほお張る。その瞬間、「しまった。2年ぶりの寿司は、もっとうまい店で食べるべきだった」と気づき、激しく後悔する。

マカオから香港に戻り、私は中古カメラ屋を探した。香港は以前、ライカが安く売られていることで知られていた。せっかく小金があるので、これを機に、ライカを手に入れようと思ったのだ。

しかし何軒かの店を巡ったけれども、日本とあまり値段は変わらないようだった(あとで知った話では、今日びの香港のカメラ屋の多くは、日本のカメラ雑誌の広告を参照してライカの値付けをしているということだった)。そこで、個人的に以前から欲しかったヤシカのカメラを買うことにした。ヤシカは日本のメーカーだが(現在は京セラに吸収)国内より輸出向け製品に力を入れていたらしく、海外のほうが、知名度が高いという話を聞いたことがあった。たしかに日本よりタマ数が豊富で(もっとも最近の日本の中古カメラ市場もよく知らないのだけど)、数軒の店で、比較的状態のよい一眼レフボディ1台と24mm、35-70mmズーム、50mm、135mmのレンズを手に入れることができた。しかも合計で、日本円で50,000円もしなかった。

だが、普通なら安い買い物をしたと喜ぶところなのに、懐が生暖かったこの日は、なぜだか不満な気持ちになった。物価の安い、というか、物のない国で暮らしていた習慣が染み付いたせいか、高価な買い物をすると、何ともいえない違和感を覚えるようになったようだった。

間抜けな表情なのでこのくらいの画像サイズで勘弁を。
断髭。
香港を発つ日の朝、けじめとして、今まで生やしていた口ヒゲを剃る。2年前に日本を出てからずっと生やしていただけに心残りではあったが。

私は毎日何本も飛んでいるキャセイ・パシフィック航空成田行きのうち、最も出発の遅い便を予約していた。しかし空港でチェックインした時は、まだ、その一本前の便にも間に合う時間のようだった。

「Sir, 一つ前の便も空いていますけど、どうされます?」

係員が訊ねた。

私は断った。急いで日本に帰りたい気分ではなかった。

気持ちとは裏腹に妙に明るい香港の空港。
成田行き飛行機を待つ
チェックインを済ませて待合室に入る。2年ぶりに聞く日本語のアナウンスに、嬉しいような悲しいような複雑な気分になる。機内に入っても、日本人の多さになぜか居心地の悪さを感じる。

そうは言っても、時間は私の気分とは関係なく、皆に平等に進んでいく。飛行機は時間通りに離陸し、やがて眼下に、あの成田の、緑が多いのに殺風景な夜景が沈んでいるのが見えてきた。

そのとき私は、子供の頃、旅行から帰る列車内で、帰るのが嫌で列車の座席を必死に進行方向と逆の方向へ押していたことを思い出した。このときも、そうしたい気分だった。もっとも、ここでヘタに飛行機に予定外の動きをされても困るのだが。

やがて鈍い衝撃と共に、傾いていた窓外の光景が水平になった。

2001年12月20日21時05分、成田着。


 

 
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