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青年海外協力隊物語 JOCV story


15-1.帰国(2001.12)

この駅で電車に乗るときっていつも複雑な気持ちになるんだよな
成田空港駅
空港を出て、京成電車の駅に向かう。ホームで少し考えてから、いつも海外旅行から帰ったときにしていたように、缶コーヒーとスポーツ新聞を買う。

一週間程度の旅行で日本を離れていたときには、こうして日本の新聞を読んだとき、その間に起きた海外では報道されない日本の小さなニュースによって生じた時流のズレを感じたものだ。けれども2年も遠ざかっていると、ズレまくっていて何がなんだかわからない。

千葉県内にある実家へ行くため、都内まで停まらない特急スカイライナーではなく、普通の電車に乗る。

何人かの乗客が携帯電話をじっと見つめている。気味が悪い。そのとき私は、この二年間で携帯メールが巷に普及していたことを知らなかった。

何回か電車を乗り継ぎ、二年ぶりの帰宅。もっともブータンへ行く前から長い間一人暮らしをしていた私にとっては、家族はともかくとして、実家に対する思い入れはあまりない。夜も遅くなっていたので、その日は、若干老けて見えた家族といくらか当り障りのない会話をしただけで、寝る。

翌朝「帰国時オリエンテーション」というのを受けるため東京の協力隊事務局へ出向く。

駅から事務局までの道すがら、見覚えのある男に会う。二年前、共に訓練を受けた後、南太平洋のある国へ行った隊員だった。

彼は言った。

「数日前に日本に着いたんだ。で、以前勤めていた職場に挨拶に行こうとしたんだけど、行ってみたら、会社がなくなっていたよ」

会社があればバイトででもしばらく雇ってくれないかお願いしようと思ってたんだけど、と笑った。私もつられて笑ったけれど、笑っていいものかどうか複雑な心境だった。

事務局に着くと、やはり二年ぶりに見る懐かしい顔ぶれが何人もいた。再会を喜んだあと、指定された席についた。

メモが一枚置かれていた。

「電話ください。S山」

数ヶ月前に「業務に復帰する意思はありますか」とメールをよこした、会社のS山氏だった。

「いきなり会社から呼出しかよ」

苦笑しつつ呟くと、周りも複雑な笑顔を見せた。

会社に電話した。あのメールのことではなく(そりゃ今さらあの話題を出されても困るのだが)、出社日や住まいについての確認だった。

オリエンテーションが始まる。

まず「外務大臣の直筆署名のコピーです」という、ありがたいんだか何だかよくわからない外務省からの表彰状をいただく。もっともそのときの外務大臣は、あの田中真紀子。直筆であったとしても、ありがたいかどうかは微妙なところだ。

続いて、健康診断。HIVの検査もあった。HIV検査の結果を見るのは初めてなのでちょっとドキドキしたけれども(「なぜ?」というツッコミは置いといて)、後で陰性の知らせを受けたときはホッとした。

その後簡単に事務局職員に活動報告などをしてオリエンテーションは2日で終わり、それから役所へ転入の手続き等をして、一週間後、出勤する。2年3ヵ月振りの職場の第一印象は、老若男女を問わず皆、2年分老けていたことだった。浦島太郎の心境が少し理解できたような気がした。

周囲の反応は、予想していたよりクールだった。

と言うより、どう扱っていいのか戸惑っていたようにも思われた。

意外にブータンでの生活や協力隊活動のことは聞かれなかった。それでもFAQのトップ3を挙げれば、

(1)何食ってた?
(2)英語ペラペラ?
(3)向こうで嫁は見つからなかったのか?

であった。しかしどれも答えにつまるような質問ばっかりだった。

食いもんはお世辞にも美味くなかったし、英語は喋れると言ってもブータン訛りだし、女性は(自粛


15-2. The life must go on...(2002. 1〜)

この写真と実際に行った居酒屋とは特に関係はないのだが
しばらくして、部長が飲み屋で歓迎会をしてくれた。部長は、いつものように豪快だった。

「ブータンだよ!すごいねぇ。ガッハッハッ」

それから先述のFAQと同じようなことを聞かれた。

しかしそのうち、部長が珍しく声を潜めて私に問いかけた。

「ところで……おまえ、ブータンでは何をやっていたんだ?」

……はぁ?

協力隊にいた間、私は3〜6ヶ月おきに活動報告書を協力隊事務所に提出していた。それは日本の協力隊事務局を経て、コピーが会社へも送られていたはずである。

この部長は私が日本を発ったときには別の部署にいたので直接の上司ではなかったけれど、それでも半年前から今の部にいるのだから、全く何をしていたか理解していないということは信じ難かった。

一応、できるだけわかりやすいよう意識しながら簡潔に説明した。けれど、既に酒が回っていてパソコンにもあまり強くない部長の脳味噌にどれだけきちんとインプットさせることができたか自信はなかった。

私はすぐに本格的に業務に復帰した。会社の定期人事異動は4月と10月なので、4月までは休職時に降格された平社員状態のままかと思っていたけれども、1月1日付けで何事もなかったかのように再昇格した。私の昇格公示の備考欄には「休職→復職」と一言書かれていただけだった。

復帰後の仕事は、管理系の業務だった。正直なところ日常業務でブランクの空いた私には不安を感じるジャンルだった。しかし後述の事情から、私は結構頼りにされたようだった。

私の上司はS山氏ではなく、親会社で20年働いてから天下ってきたNという男性だった。

「ぼ・ぼ・ぼ・ぼくも、海外に、仕事で行ったことが何度もあるから」

どもりがちに話す人だった。

「タ・タ・タイも3回行ったことがあるよ。タイはね。女性がよかった。じょせい。うん。じょ…」

いきなりタイ=女の話から始めようとするNとの会話はあまり発展しなかった。そしてそれより問題だったのは、どもるだけなら仕方がないけれども、彼は、話す言葉や行動が、ことごとく不正確なことだった。私は彼の話が理解できなくて、日本語を忘れたかと一時、真剣に悩みさえしたほどだった。日本語のみならず、海外に行ったことが何度もあると言う割には、海外の取引先からの英文メールに「意味不明?デス」と一言入れて俺に転送してきたこともあった。

そんな奴とコンビで仕事をしていたわけだから、結果的に私でも結構頼りにされたようなのだった。この男についてのエピソードはその他にも留まる所を知らず、正直なところ、ブータンのことよりも奴についての話の方がよっぽど面白いことがたくさん書けるのだけれども、それはまた別の機会にするとして(←…するのかよ?)、何となく私は『ショムニ』の江角マキ子に己の姿をダブらせながら仕事を続けていた。それにしても、ウチの親会社もとんでもない刺客を送り込んできたものである。余談ではあるが、俺はそれ以来、親会社の製品を店で見かけても買わないようになった。

そんなこんなで6月。ボーナスの支給があった。

明細を見て呆然とした。

支給された金額は、二年前にもらっていた額の半分以下だった。

私の表情をうかがったNが、慌て気味に言った。

「き、君は今まで休んでいたから、どーしても査定が低くなっちゃうのよ。ぶぶぶ部長も頑張ったんだけどさ。でも、それが精一杯なんで…」

Nは口角から泡をふいていた。

カニさんですかオマエは。


それはさておいて、会社の評価は所詮こんなものなのだということを私はここではっきり実感した。たとえ何をしていようと、2年以上休んでいたことは事実である。

最近、男性が育児休暇をとれるようになったが、休暇をとると後の査定に響くという話を聞く。それに比べれば、私が協力隊活動のため休職していた期間は一般の育児休暇の倍以上だ。影響があって当然だろう。育児休暇と協力隊活動を一緒にするのはどうかとも思うけれど、会社にとって利益にならないという意味では同じである。直属の部長でさえ私が協力隊で何をしていたか知らなかったのだから、今さら会社の理解なんぞ期待できるわけがない(余談ではあるが、そのくせウチの会社は『社員の意識を高揚させ、自主的な社会貢献活動を支援します』などとわざわざ会社案内にうたっているところが腹立つのだが)。そこはこちらとしても割り切らなければいけない。


だからと言って、私は協力隊に行ったことを全く後悔してはいない。今の会社にいる限りは何の利益ももたらさないだろうけれども、会社を休んで協力隊に参加したがゆえに得られた有形・無形の経験と財産は多い。

そしてそれらを今後の人生にどう生かしていくかは、私自身が考えるべきことである。

協力隊活動をしていた当時、JICAブータン事務所の所長に戴いた言葉を今も思い出すことがある。最後にそれを紹介して、この物語の締めくくりとしたい。


「…協力隊は、活動が終わってからが、本当の活動の始まりなんだよ」

ニシオカ・チョルテン
AMCのそばにあるニシオカ・チョルテン。
1964年から28年間農業指導をブータンで行ない、92年に現地で亡くなった日本人専門家・西岡京治氏の功績を称えて作られた仏塔。
西岡氏は、ブータンに貢献した日本人として今なお一番に名前が挙がる人物である。



 
(終)


 
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