南部藩の飢饉
飢饉のことをこの辺では「けがず(飢渇)」といいます。作物が実らず、食べものがなく、飢え苦しむことが、南部藩においては1600年(慶長5年)から1870年(明治3年)までの間、実に270年間にもわたって続きました。その間、不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回ありました。なお、不作は平年作の4分の3、凶作は2分の1、大凶作は4分の1の収穫をいいます。これは、主として寒冷な気候による日照不足や低温が原因の「天災」とされますが、それだけではなく、実は、藩の放漫財政のツケを過酷な年貢として農民に押しつけ、次の年のことも考えずに厳しく取りたてたことからくる「人災」でもあったのでした。
さて、その飢饉の惨状ですが、まったく想像を絶するものです。

南部藩四大飢饉のうちの天明飢饉は「やませ」と呼ばれる海からの冷たい風によって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、加えて、大風、霜害によって収穫ゼロという未曾有の大凶作となりました。
食べ物を求めて泣き叫ぶ子供を石で打ち殺して川に捨てた母親、幼い子供を交換して殺し、肉鍋にして食べた両親、木の根を掘って食べようとして力尽き、そのまま凍死した者、食べものを求めてさまよい歩き、死体につまずいて転び、起きあがることができずにそのまま死んでしまった者、死んで仰向けになっている母親の、もう出るはずのない乳にむしゃぶりついている赤子、ワラビやユリの根を堀って食べた後、その穴に赤子を生き埋めにしたが、夜になっても泣き叫ぶ声はやまず、やがて声がなくなった、と……。
栄養失調や不衛生による「しょうかん(チフス)」、「ろうがい(結核)」、「あかはら(赤痢)」などの悪疫が流行し、次々と死んでいきました。盗みは横行し、畑荒らしが後を絶たず、大根数本を盗んだ一家五人が殴り殺されるということまで起きました。赤魚が大漁とのことで、空腹にそれを大食した者が下痢を起こして死んだりもしました。火事が一ヶ月おきくらいに起き、窮乏にさらに追い打ちをかけました。嬰児の死体が橋の下に累々とたまり、川の流れが変わるほどだったといいます。
南部藩35万人のうち、1年間で10万人が死んでいったといわれる大飢饉。それは天明の世ではおさまらず、天保に入ってさらに目をおおうような惨状を呈するのです。
その地獄のような状況にあって、人々から気ちがい扱いされながらも、「慢性的な飢饉は、沿岸と内陸をつなぐ道がないゆえ。」と、単身、鑿を持ち、鶴嘴を振るい、衆生済度の道に命を賭けた鞭牛和尚の偉大さに心打たれずにはおられません。