八月二日から四日までの三日間、この三日間はとても長い期間だった。もし、この時ホームスティに行かないで、いつものように塾に行っていたら反対にとても短い期間になっただろう。
僕はこの作文で三日間の行程を全部書くつもりはない。全部書いていたら原稿用紙三枚では全然足りないからだ。それほど多くの事があった。だから特に印象に残ったものだけを書こうと思う。
八月二日の午後、対面式で僕達のホストファミリーの方の紹介があった。村長のところと聞かされたときはびっくりしたが反面うれしい気持ちもあった。コンクリートででかい家。それが僕の想像だった。が、実際は確かにでかいが木造だった。思い浮かばない人は博物館にあるのを少しだけ近代化してくれればいい。それでもダメな人は、来年もしこの体験学習があったら行って見て来るといい。
そしてその夜、村長が何か歌を歌い始めた。何かと思って聞いているとそれは日本の国歌だった。遠くを見ながら、まるで昔を思い出すかのように歌っていた。普段、君が代を聞いてもなんとも思わないが,この時は違った。申しわけない気持ちでいっぱいだった。そして君が代がこんなにも寂しいものだとは思わなかった。四十年以上も前の、しかも侵略された国の歌を覚えているのである。当然仲間が連れていかれたり殺されたりしたのだろう。日本を恨む気持ちもあるだろう。その全てが君が代に表われていたような気がした。一人の日本人として、過去の出来事を忘れてはいけないと心に誓った。
この体験学習で残念だったのは、あまりにも家にいる時間が少なすぎて生活の様子が分からなかったことと、マレー語を勉強していかなかったので、思う存分話ができなかったことだ。ひとつめは予定があり、しようがなかったがもし来年あるのならその辺をよく考えてほしい。二つめは自分達の問題で、英語でも通じるだろうという考えが甘かった。マレー語の大切さがよくわかった。
「この体験学習で学んだことば何ですか?」と聞かれたら何と答えるだろう。たくさんありすぎて困るかもしれない。たった三日間の短い期間だったがたくさんのことを学んだ。そしてこの質問の答えは行った人にしかわからない、説明のできないものだと思う。
最後に僕達の面倒を見てくれたホストファミリーの皆さん。そLてこの体験学習の企画をして素晴らしい体験をさせてくれたPAMAJAの皆さん、本当にありがとうございました。
それはホームステイ1日目の夜のことだった。ベッドに入り、真暗闇の中で眠れずに目を開けていると、おばさんの優しい歌声が聞こえてきた。"Sejahtera Malaysia"という歌だ。この歌はテレビなどでよく耳にしていて、私の母もコーラスクラブで歌っていたのですぐに分かった。
おばさんはきっと、眠れない赤ちゃんの子守歌として、歌っていたのだろう。私もおばさんの所へ行って一緒に歌いたかったが、それはできなかった。何故なら歌詞を知らなかったからである。いや、知ろうとしていなかったのだ。
私はいつも、マレー語から逃げていた。理由は(もし話しても通じなかったら・・。)という不安だ。だから、”Sejahtera Malaysia”の歌詞を覚えることを拒んでいた。
このホームステイでも、マレー語で話すのは恥ずかしかった。それでも(せっかくのチャンスだから。)と思って何か話したら、大人には通じず、子供には笑われてしまった。そんな状態にいながら、私はお別れの時に代表としてマレー語でスピーチをする事になっていた。正直なところ、とても悩んだ。これほど大変な思いをするくらいなら、これからの会話は英語が通じるおじいさん達に頼ってしまおうとまで思った。
しかしもう一度考えてみた。本当にそれでいいのだろうか。たとえ下手なマレー語だとしてもKLに戻ってから後悔しないようにできるだけ頑張れないものだろうか・・・。間違いを恐れず、マレー語を使ってみよう。この夜の決心は、残りの日々で得た喜びと自信に大きくつながっていった。
ホストファミリーの方々が気を配って下さったおかげで、カンポンをじっくりと肌に感じることができた。特に、まだ小さい子供のルビス君、ムハナちやん、高野さん、私の四人で手をつなぎ散歩した時は、日本とマレーシア、二つの国が手をつないるようでとても幸わせな気分になった。そしてKLよりずっと澄み切った青空と、あふれ
んばかりの緑と、涼やかなそよ風。ガイドブックに載っていない、本当のマレーシアの姿を少しだけでも私は見つけ出せたと思う。
KLに戻ってきてからは、家族や友達など誰の話し声も全てマレー語にしか聞こえず、まいってしまうことが何日か続いた。三日間のホームステイは、それほどの影響を私に与えたのだ。あの夜、あの決心をしていなければ楽ばかりして刺激も何もないホームステイになっただろう。マレーシアでの最後の夏休みは、この素敵な思い出で飾ることができた。
いつかまたカンポンを訪れる時は、お上産に頂いたブルーのバジュクロンを着て、もっと積極的にマレー語を話せるよなって訪れたい。もちろん”Sejahtera Malaysia”の歌をマスターしておくことも忘れずに…。
昨年は歴史の重たさの残るネグリセンビラン州でのホームステイだった。手さぐりの試みではあったが、参加した生徒も教員もそれぞれに確かな「何か」を得た。私はあれから日本軍による華僑虐殺に関する書をむさぼるように読んだ。事実を知ることは怖かったが、知らないでいる方が恐しいのだ、と読み進むにつれて思えるようになっていった。
今年は豊かな田園の広がるペラ州でのホームステイ。広々とした風景がとても懐しく感じられた。どこか我が郷里・岩手に似ている、と思えた。似ていたのは風景ばかりではなかった。「五十年ぶりオラン・ジェプン」(日本人)ということで、我々(杉野氏と私)のステイ先には大勢の人々が集まっていた。ひとりひとり間柄を紹介され、挨拶を交わし・・・・その直後にはもう誰が誰だかわからなくなっているほど、次から次と人が出入りするのだった。ちょうど、盆や正月で実家に帰った折に本家の方へ出向いていくと、いろり端に見慣れない人々が陣取っていて、その人達は実は遠い親類だと紹介された時の状況を思い出した。
甘い菓子をつまみ、それにも増して甘いコーヒーをすすり、賑やかに談笑するその光景は、ひねもす眺めていても飽きないほど興味深かった。しかし、彼らは我々をそういう傍観者にしておいてはくれず、「日本は今寒いのか?」とか、「日本に行くには何時間かかるか?」とか尋ねてきて、我々を話題の中心にもっていこうとするのだった。その度に「セベンタール(ちょっと待って下さい)」と言いつつポケット版マレー語辞典を取り出し、質問の意味を確認し、さらに自分の答えを探してから、やおら答えるという様で、まるで相撲のような会話なのだった。それでも彼らは我々の答えをじい一っと待ち、答えを聞いて互いに早口であれこれ話し、楽しむのであった。これが夜更けまで続いた。
「五十年ぶりのオラン・ジェプン」はあちこち親戚回りにも連れていかれた。一軒回るごとに例の甘い菓子とトロけるようなコーヒーを出され、腹は常に満腹状態、動くとタポタポ音がした。血管の中を砂糖が駆け巡っているようにさえ思われた。正月二日には家々を回り、朝から酒をふるまわれ、自慢の御馳走を出される・・・・夕方にはもう倒れるように眠っている・・・そんな日本の正月の年始回りを思い出した。懐しい回想である。「食を共有する」ということの意義を改めて認識した。今の日本の家庭ではこの「食の共有」ということがおろそかにされ、文化としての「食」が衰退しつつあるのではないか、と思った。
「寝食を共にする」ということが交流の基本であると私は思う。基本的な周波数が合った時に真の交流は始まる。そしてこのホームステイは決して旅行者の交流ではなく「生活者としての交流」なのだといういうことを忘れてはならぬと思う。
来年私はマレーシアを去るが、心はいつまでも「マレーシア生活者」であり続けることだろう。
私の故郷となった家は、パーティーをした小学校の裏にありました。お母さんは既にご主人を亡くしていましたが、KLに出稼ぎに行っている娘夫婦の子供2人を預っています。そして今回は、近くに住む息子さん一家も一緒に泊まってくれていました。
家の奥には広い土間があり、近所のおばちゃんたちの井戸端会議の場になっていました。どことなくシャイで温かいおばちやんたちの輪の中に入って、マレー語を教えてもらいながら食事の支度を手伝いましたが、幼い頃に母の実家でこんな風景を見たような気がして懐かしくなりました。土間の奥の納屋には、たくさんの食器がしまってあり,村で集まりがある時は、そこから運ばれるのだそうです。私たち日本人学校のために用意された食事なども全て、その土間で調理されていました。このような支度を全て仕切っていたのが私のお母さんで、私の家はまさに、「村の台所」という感じでした。
お母さんが預かっている孫のうち、下の子(イズワン)はまだ3歳半です。周りの人た
ちにかわいがられてはいますが、やはり愛情に飢えていて、どことなくいつも寂しげでした。私はなぜかイズワンのことが常に気になり、話しかけたりしていたのですが、彼はなかなか、心を開いてはくれませんでした。
ホームステイ最後の夜は、家に戻るのが遅くなり、それからお母さんたちに浴衣を着せていたので、寝ようとしたのは午前1時近かったように思います。イズワンのいとこで同年のハキンは、実のお母さんに添い寝をしてもらい、すやすやと寝ているのに、イズワンは、まだミニカーで遊んでいました。私が、「イズワン、ねんねは?」と動作で示しても、全くだめです。その日に限らずイズワンは、誰にどうやってすがって寝たらいいか分からないように見えました。しかし、私はやさしい言葉をかけてあげることはできず、もどかしい思いでした。何とかしてあげたいという気持ちからか、最後の夜は、お母さんとイズワンと私で川の字になって寝ました。お母さんはイズワンにだけでなく、まるで自分の娘のように私にも手をあててくれていました。夜中に寝相の悪いイズワンのパンチやキック攻撃にあいましたが、寝顔を見ていると、ふとKLにいるイズワンのお母さんが一番辛いだろうなと思いました。いつかまた、カンポンを訪れた時に、イズワンの幸せそうな笑顔が見られることを願います。
今回のホームステイでは、数えきれない体験をさせていただきましたが、その中で私が一番嬉しかったのは、「人々の温かさ」です。息子さんが「蛍の光」をギターで奏でて、お別れの挨拶をしてくださった時、涙が止まりませんでした。そして、バスが発車する時のお母さんの悲しそうな顔が今でも忘れられません。もし、私たち日本人が逆の立場だったら、同じようにできるだろうか・・・・と考えてしまうホームステイでした。
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