書評「馬の瞳を見つめて」 もう一つの競馬の真実
数年でも競馬を見続けているファンなら、 競走馬の多くが辿る悲しい運命に気づくはずだ。 8歳、9歳で現役から退いていく馬たちも、 大切に世話をされれば30歳を越えて生きる。 だが、天寿を全うする馬はほとんどいない。 少なくとも3分の2以上の競走馬は食肉用として処分される現実がある。 「馬は牛豚と同じ家畜動物。処分して何が悪い」、あるいは 「競馬を認めることは動物虐待だ」と考えたファンもいるかもしれない。 どちらが正しいのか、答えを出すのは難しいが、その代わりに一冊の本を紹介したい。
1頭余分に養うと、それで経営用の1馬房分を使い、 貴重な放牧地の面積と地力を消耗させることになる。 労賃、エサ代、寝ワラ代。用のなくなった馬は赤字にしかならない。 これ以上、赤字を増やさぬためには、 その馬を家畜商に連れていってもらうか、その場で安楽死させるしかない。 まず、ほとんどの牧場が、家畜商に連れて行ってもらう手段をとる。… 愛する馬たちが、自分の目の届かないところで、 どんな死に方をするのか? その時の馬の心は、どんなふうであろうか? 苦痛と恐怖の程度は、いかばかりか。 馬の場合、安らかな死に方をする例はほとんどない… という現実が分かるにつれて、私はやはりつらくても悲しくても大変でも、 自分の目の前で安楽死をしたほうがいいと考えるようになった。
本の名前は 「馬の瞳を見つめて」(2002年刊行)。 著者はナイスネイチャで知られる渡辺牧場の渡辺はるみさん だ。 渡辺さんは岐阜大学獣医学部に在学中、実習で出会った馬の魅力のとりこになり、 学業なかばで渡辺牧場に嫁いだ。 この本では我が子のように手塩にかけて育てた馬たちを 『処分』しなければならない、生産者の苦悩と葛藤が克明に描かれている。 決して派手ではないテーマながら、最後までJRA馬事文化賞を争ったノンフィクションの傑作だ。 渡辺さんは引退した自分の生産馬を積極的に引き取ってきた。 しかし、牧場が一杯になると、いずれかの馬は安楽死させなければならない。 渡辺さんは最後の瞬間まで馬がなるべく苦しまない方法で、 天国へ旅立てるよう心を砕く。
2頭の牡馬、キクとヒットの安楽死を決意してから、 その日を迎えるまでの約半年、私の心はいつも張りつめ、落ち着かなかった。 この日にしようといったん決めても、 何らかの事情で流れたりすると、張りつめながらも、ほっとする。 そんなことが何回か繰り返され、私の心は振り回された。… 誕生日の早いヒットからやることにした。 彼らは注射をされることには慣れていて、 何とも思わない。口に一杯、好物をほおばりながら…。 鎮静剤の後、麻酔薬を注射してもらうと、ヒットは突然バタンと倒れた。… 麻酔が十分効いているか、それだけが心配であり、重要なことであった。 薬剤を入れるとすぐに反応があり、最後は痙攣が起きて 四肢をうーんという感じで伸ばし、息絶えた。…
渡辺さんは気が狂いそうになりながらも、 トラクターで遺体を運び、自らシャベルカーで掘った墓地に埋葬する。 競馬場という人工的な空間でしかサラブレッドを見ない私たちにとって、 リアルな死と対峙しなければならない渡辺さんの気持ちは想像を絶するものだろう。 馬を手にかける最後の日まで宝くじを買って、一縷の望みをつなぐ様子はあまりに切ない。 馬はそれぞれの思い出と個性を持った存在だ。 そこでは競走馬の3分の2は食肉になる、といった統計上の数値は何の意味も持たない。 だが、渡辺さんは競走馬の哀れな末路を直視しつつも、 決して競馬そのものを否定はしない。 渡辺さんの願いは「屠場で肉になろうと、死ぬ直前まで 優しく『おーよ、おーよ』と顔を撫でて」恐怖と苦痛が 取り除かれる努力がなされることだ。
競馬社会の中で主役であるはずの馬の立場や福祉が、 人間のできる限り最大の努力のもとに守られるのであれば、 その悲しみは、つらくとも正視できるものとなるのではないか。 …タブー視し続けることは、かえって競馬ファンを疑心暗鬼に陥らせる。 それよりも「死」を表面に出したとしても、 そこに馬の福祉が守られたことを明らかに、 堂々としていられたら競馬ファンはむしろ応援してくれるのではないか。 …もしも、自分の買った馬券代の何パーセントかでも、 馬の余生のために、馬の福祉のために使われるのだと、 明らかに具体的に謳われるのであれば、彼らは今度は 馬券を買わずにいられないだろう。
すべての競走馬を生かすことは未来永劫、不可能だろう。 しかし、競馬を支えてくれる馬たちに、 生が与えられるチャンスを広げることはできるはずだ。 馬券の売り上げの一部で公の乗馬施設を各地に作れば、 市民が馬と接することもできるし、そこで役割をもらえる引退馬も増える。 重賞賞金の1割は引退後に飼育費として分割で払うのはどうだろうか? 命を長らえることが許されるのなら、重賞勝ちの重みも増すというものだ。 シニカルに馬は経済動物と一面的な見方をしなくても、 ファンが競馬と馬を愛することができる道はたくさんある、と私は思う。 渡辺さんの著作は競馬ファンに様々なことを感じさせてくれるに違いない。
馬の瞳を見つめて(桜桃書房・1575円)