第1篇 戦争の本質について
戦争論の第一篇第一章は一章だけ読んでも判り難く、現実の補正部分を外して引用される場合も多いので読む場合には注意が必要です。
(補正部分を外すと第一次世界大戦以前の読み方になってしまう。)
1.戦争論第一篇「戦争の本質について」第一章「戦争とは何か」
2.ケッセルの理論
3.第二章の現実における補正
4.細かい部分の解説
5.「ドイツ人とフランス人」リッターとロートフェルス
...(ハンス・ロートフェルス「クラウゼヴィッツ論」政治と戦争−思想的研究(1920))
...(ゲルハルト・リッター「政治と軍事」−ドイツミリタリズムの問題−)
6.理念としての絶対戦争
7.簡単な「まとめ」
8.第一編第一章、簡単に眺めると
戦争論第1篇「戦争の本質について」第1章「戦争とは何か」
個人の決闘から戦争を説明した部分
2.定義(戦争の定義)
戦争の本質は、拡大された決闘にほかならない。
決闘者は両者とも物理的な力を行使して自分の意思を相手に強要しようとする。
P29
「戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意思を強要するにある。」
物理的強力行為が手段であり、相手に自分の意思を強要することが目的
3〜5「戦争(力の使用)は、無限にエスカレートする。」(注、6抽象的な考えで現実には違う)
第一の交互作用、岩波(上)P32
「戦争は一種の強力行為である・・・強力行為には限界が存在しない。・・・交戦者のいずれもが自己の意志を掟(おきて)として相手に強要する・・・そこで彼我の間に交互作用が生じ、この交互作用は、理論的に言えば極度に達せざるを得ない・・・」
第二の交互作用、岩波(上)P34
「我が方が敵を完全に打倒しない限り、敵が我が方を打倒することを恐れねばならない、そうなれば我が方はもはや自主的に振る舞うことができなくなり、敵は彼の意志をいわば掟として我々に強要する・・・この作用は・・・第二の極度に達する・・・」
第三の交互作用、岩波(上)P34〜35
「敵を完全に打倒しようとするならば、我が方に力の使用を敵の抵抗力と見合わせなければならない。・・・即ち我が方に力を増大して敵より優勢ならしめる・・・しかし敵も我が方と同じことをすれば・・・彼我双方は力を競う合うから、双方の力の使用は・・・極度に達せざるを得なくなる。」
(真の戦争、絶対戦争の理論として)有名な部分で戦争論の説明をする時によく引用された...
この部分は、クラウゼヴィッツが発見した絶対戦争の重要な理論だと、第一次世界大戦前までは考えられていた。=>理念としての絶対戦争
しかし、この部分は穴があり正確な戦争理論ではない。=>ケッセルの双極性
この部分は、クラウゼヴィッツがフランスのような国民総動員を可能とするために理論を歪めて作った。=>ドイツ人とフランス人
本文中でもこの部分は抽象的な概念(紙の上の法則にすぎない)と書かれていて...
現実における補正と言う書き方で修正されている。
A.双方の不完全な状況把握から行動が絶対的な域に達せず緩和される。
B.戦争の準備も現実的な制限から極限に至らない。
(国力の限界から維持動員可能な戦力は決まってしまう。)
C.さらに持っているすべて力を同時に使用することもできない。
(可動可能な軍は集結可能だが防御施設は動かせない。)
(同盟国の協力も計算通りに行かない場合がある。)
D.「攻撃に対する防御の優位が両極性を緩め戦闘を止める(休止させる)」
(劣勢側は決戦を避けて防御や敵の疲弊させる作戦を選択する。)
(そのため防御の優勢を得られるため攻撃側の優位が減る。)
岩波(上)P41
「このようにして、軍事行動は、力を極限に向かわせようとする法則から脱却する。」
(この後さらに、政治力が働いて制限を受ける。)
エスカレーション部分の理論の穴?個人の決闘を元にしているのに自己保存の考えが無いこと。.
(政治目的の説明(11)の中に僅かに現れる)
決闘の場合最初に考えるのは自分が生き残れるか?どうか(自己保存5)
相手を倒せても自分の被る損害が許容できるものでなければ戦えない
ケッセルの理論
「最初にもってくるべき戦争論用の理論は、(ケッセルの論文から...)
「敵戦力の撃滅」と「自己の戦闘力の維持」(自己保存)と言う二つの極を元にしなければならない。つまり「力の極限行使」では、制限無く力を使い合い、互いの損害も際限無く増してしまう。実際には極限などにはとうてい届きようが無いことは明白で、自己保存要素を考えなければ、理論として成立しない。」
「戦争論では、第一編二章になるまでこの基本理論が出てこない。
岩波(上)P67
二章の途中からバラバラと出てくる...
数箇所を統合しないと判らず「自己の戦闘力の維持」という簡単な言葉では説明されていない。」
ここは、ケッセルの理論を使うのがベスト2
双極的戦略(1931)エーベルハルト・ケッセル(クラウゼヴィッツ研究論文選)
P76〜P77
「すなわち戦略的防御が、機動と戦略的攻勢が戦闘と密着するように見えるとしても、これらの概念は決して完全には一致しない・・・攻撃と防御、戦闘と機動は単に戦争遂行の手段に過ぎないのであって、それのさまざまの蓄積された緊張は、戦争の本質の中にその共通の根底を有するに違いないのである。・・・
「敵の戦闘力の撃滅がすべての手段にもましてもつところの優越した価値は、この撃滅という手段の犠牲と危険に対立する。そしてこれを避けるためにのみ他の方策が取られるのである。」(第1篇第2章)
従って敵の戦闘力の打倒の目的に並んで第二の目的が現れる、少なくとも自己の戦闘力を維持するという条件の中で可及的に高い目的がこれである。従って人が戦略の双極性を言うとき、その二つの極は敵の戦闘力の撃滅と自己戦闘力の維持であって、この緊張関係が戦闘と機動、攻撃と防御などすべての他の戦争の緊張を包摂するのである。」
戦略の双極性は、「敵の戦闘力の撃滅と自己戦闘力の維持」(戦争の本質)
ここに見られるように戦争の本質として引用されている部分は第二章であって、戦争理論の基礎部分は第一章、第二章、の両方を読まなければ理解できない。(初めて読むと一章と二章が何故分けられているのか悩む)
クラウゼヴィッツは、エスカレーション部分を強調するために「自己の戦闘力の維持」という戦争の本質を一章「戦争とは何か?」から外し二章「戦争における目的と手段」に持って行った。
((「自己の維持保存を図りながら敵を撃破弱体化する、友倒れなら戦争などやらないほうが良い。敵の撃破よりも自己の維持のほうが優先される。」こう書くと使い捨ての兵隊用(教育用)には向かない理論になってしまう...
これが、クラウゼヴィッツが中途半端な理論のまま止めた理由の一つかもしれない。))
この部分は二章の現実による補正部分と重なるので以下に第二章の現実における補正のまとめを...
(P66、P67、P68が対応する部分)
第二章の現実における補正
岩波(上)P65
敵の防御を完全に無力ならしめることが抽象的戦争の目的であり。また諸他いっさいの特殊目的を併有するところの政治的目的のための究極の手段であるにせよ・・・現実の世界ではまったく有り得ないし、また講和を締結するに必須な条件でもない、それだからこのことを戦争理論における法則として定立するわけにはいかない。
岩波(上)P66
・・・敵にそれ以上の抵抗をまったく不可能ならしめることの代わりに、現実の戦争においては、敵に和を講ぜしめる動因となり得るものが二件ある、即ち第一は勝算のないこと・・・第二は、勝利を講うには過大な代償を支払わねばならないということ・・・。
岩波(上)P67
・・・講和への決意を促す一般的な要因は、これまで消費した戦力とこれから消費せねばならぬ戦力とに対する願慮である。およそ戦争は、盲目的な激情に基づく行為ではない・・・それだから戦力の消費が増大して、政治的価値がもはやこれと釣り合わなくなれば、この目的は放棄され、けっきょく講和が締結されざるを得なくなる・・・
岩波(上)P82
戦闘力の撃破は、諸他いっさいの手段に勝る卓越した価値を具えているにせよ、しかしこの手段は高価だし危険でもある。そこでこれらの不利を避けたいばかりに他の手段が採用されるのである。
(敵戦闘力の撃破は敵より優勢な兵力か有利を得ることのできる技術(科学or兵法)を持っていなければ、実現できない、優位が無いままの無理攻めは、敵の撃滅の前に自軍の方が損害過剰で撃滅されてしまう)
戦争論の第一篇第一章は一章だけ読んでも判り難く、現実の補正部分を外して引用する場合も多いので(これは第一次世界大戦以前の読み方になる。)読む場合には注意が必要です。
細かい部分の解説
「流血をいとうものはいとわないものによって必ず征服される」
流血の奨励は戦争に必要な一番基本的考え方「自己保存を優先する」に反する。
(通常、使い捨てにされる下級の兵士用なら可)
(戦争理論として将師や政治が使うものとしては不可)
平和主義とか博愛主義とかではなく純粋に理論を構築するための重要要素が足りない。
(フランス革命は、使い捨てにできる安い大量の兵を発生させた。その結果、フランス軍は、「流血をいとわない戦闘」が簡単に行えるようになった。この使い捨てにできる兵力が無ければ、「流血をいとわない戦闘」というものはできなかった。「使い捨てにできる大量の兵力を持つ側が必ず勝つ」とでも書くのが真実で...大量の兵力が主部で..流血をいとわない戦闘は結果...)
(つまりこの文章は正しくない。)
「激しい敵対感情に支配され戦い合う・・・」
通常、兵士や国民の感情は使うもの(植え付けてコンロールするもの)であって、それに引きずられて戦争がおこることは無い。
「敵の戦闘力の撃滅と自己戦闘力の維持」
自己保存の法則は、使い捨ての兵隊用(教育用)には向かない理論になってしまう...
これが、クラウゼヴィッツが中途半端な理論のまま止めた理由の一つかもしれない。
「軍事力の極限使用について...」
(戦争に勝つには軍事力で相手を上回らなければならず、その結果互いに軍備を拡張しあい、極限まで軍備増強してしまう。)
WW1の軍拡時期は、攻撃を成功させるためには相手を上回る兵力が必要とされて、防御の優勢は忘れ去られた(否定されていた)
実際には、護るだけなら同数か8割程度の兵力があれば国は護れる。
(攻撃より防御の方が強力な戦闘方式で陸戦では特に防御側が地形や施設利用で優勢になる)
(シミュレーションでは攻撃側が2倍の戦力で攻撃してもやっと五分にしかならず)
(攻撃側が勝つためには3倍以上の戦力が必要...)
(結局...)
(17.でこの防御の優勢が指摘され抽象的相互作用のエスカレーション部分は否定されている。)
本当に軍備増強して価値が有るかどうか?
双方とも増強すれば兵力バランスは崩れず、増強は無駄に終わる。
(国家は、)増強は敵に勝り、戦争に勝利して初めて利益が得られる。
(高級将校や軍事産業は兵器に使われる予算比率が高まるほど利益を得る)
そうでなければ、軍備に投資した資金はすべて無駄になる。
国力の面からも限界が有り、軍縮や緊張緩和(デタント)という形で軍事優先は止められてしまう。
通常国家の仕事は国を守れれば良く、攻勢戦争は利益が出なければ行なう価値が無い。
総力戦はいちじるしく戦争の利益を損なう。(世界大戦の結果判ったこと)
. 最近は、経済的要素のほうが軍事より大きい
大量の人命損失
民主的な政権の場合は世界大戦のような大量の人命損失のおこる戦いを忌避するが...
軍国主義や全体主義のような人命の安い使い捨てにできる体制の場合は制限要素にならない
ナポレオンの指揮するフランス軍も「大量の人命損失」を何とも思わなかったが、枯渇するまで使用したため国民に見放された。
第二次世界大戦も民主的な国家では、総力戦のような戦争を始めることが嫌われたことを忘れてはいけない。(戦争回避のためのイギリスのナチスへの譲歩...)
「シビリアンコントロールが必要な理由」
第一次世界大戦の元になった。過大な軍備は敵の脅威の宣伝(一円でも多くの注文を得ようとする兵器業者の画策)とそれによる軍備の拡張の繰り返し(敵国も脅威を感じて軍備を拡張する)で発生した。
作られた相互不信は、国家を兵舎に換え大量の兵器を持ってにらみ合う不安定な状態を作り出した。
「大量の兵器は軍事バランスを崩す。抑止は巨大な軍備を揃えることで達成されない。」
(抑止(戦争を避けるため)のための軍備が(過剰から不安定を招き)戦争を誘発する)
「そして、兵士が人ではなくただの道具になった時に戦争は始まる。」
(大橋武雄の「クラウゼヴィッツ「戦争論」解説」の一編一章を見ながら何じゃこれは全然あかん...とか考えながら書いてた部分(細かい説明の部分は)なのでここにつなげるのはちょっと合わない感じです...)
「ドイツ人とフランス人」
(フランスに囚われたクラウゼヴィッツの書いた論文から...)
(彼の敗戦原因の解析と勝利のための処方箋...)
(クラウゼヴィッツはドイツ精神を落としめても国民の力を動員しようと誓った)
「ドイツ人とフランス人」について書かれたリッターとロートフェルスの論文を見ると、この部分はクラウゼヴィッツがナポレオン型の国民総動員を可能とするために理論を歪めて作ったと考えられる。
フランス革命の結果フランスは国民総てを兵士として使うことが可能になり...その膨大な力に対抗するための論理的処方箋を作る必要が生じた。(ドイツ人はフランス人より論理的思考を重んじるため、フランスのようなジャーナリズムを使った扇動では国民を動かせないとクラウゼヴィッツは分析した。)
ロートフェルスの作品は、古いので資料として...、理論部分は、ゲルハルト・リッターから...
ハンス・ロートフェルス「クラウゼヴィッツ論」政治と戦争−思想的研究(1920)
P130
全論文を支配する国民の概念である。両民族を「お互いに対面する人間として」、すなわち集団的人格として考慮することは、クラウゼヴィッツのはっきりと表明した見解であった。
・・・戦争と対外的政治の諸関係においては、一般に抽象的な国家を具体的な実在として、特定の刻印を帯びた個人的存在として把握することは、恐らく最も早い時期に属するのである。
「ドイツ人とフランス人」
クラウゼヴィッツがフランスに囚われて10ヶ月後に書かれた...
(注、本中では、利点と欠点を並べて表記してあるが、短くするために欠点部分だけ抜書きしてある)
(決して欠点を挙げつらっているわけではない...)
P123
ドイツ人の性格と習慣は、・・・この素質の裏面は、公的意見の分裂の中に、利口ぶった不信と孤高の逃避の中に、すべての制限的形式に対する利己主義的な反抗の中に現れる。
P127
ドイツ人の思索的精神は容易に一面性と独善性に迷い込む。その結果は、無意味な体系追求であり、これは知ったかぶりの政論家を大量に生み出す、かくてドイツ人は統一的な本能、国民感情に欠けるのである。
P127
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
フランスの国民性の輝かしい表面の裏に、深い内奥から発する原則、「真に神聖な焔」、理念の欠けていることを嘆いている。意見や精神の進行、性格や道義の形成は外面的な願慮によって規定され、想念は悟性によって支配され、倫理は世間の道徳風に着色されており、創造的なエネルギー、「理念の力」が欠けているのである。
P125〜P126
フランス人についてシュレーゲル兄弟を驚かしたのはその画一性であった。ヴィルヘルムの考えでは、フランス人は、型で焼かれたワッフルのようなもので、この型にあたるのがその言葉なのである。フリードリッヒはあざけって言った。自然はとてつもなくすぐれている、
「自然はたった一つの人間の原型から3000万人の写しを刷り出した。」
「人は覚えこんだ彼の一生の役割を型通りにしまいまで演じ終わるのに苦労するが、その役割やせりふの受け渡しなどをすべてを、一度に覚え込む必要はない。この事についてフランス語のおかげであることを覚えておかねばならぬ。」
P124
フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」
「すなわち、言葉が人間によって形成されるよりも、人間が言語によって形成される方がはるかに大きいのである。」
P127〜P128
クラウゼヴィッツは要約する。
「この研究の最終的結論はどういうことであろうか?フランス人はつつましい生活振りにおいてまたその虚栄心の点で、一つの一様な全体に団結するし、支配の目的に対してはるかに従順であり、従って一般に政治的道具としてははるかにすぐれている、これに対しドイツ人の方はその精神の無制約性、個人の多様性と独創性、議論を好む性癖・・・」
P129
フランス人の熱狂は虚栄によるものかもしれぬ、しかしそれにもかかわらず、彼は、「哲学がそれに対して何を言おうとも、大きな力をむしろ動きつつあった国家機関の中に」認めるのである
P128
かくて、「ドイツ人とフランス人」なる論文は、クラウゼヴィッツがドイツの個人主義分化のきらびやかな宝庫の一部を、国民の政治的まとまりと行動能力のために全く犠牲にする用意のあったことを示している。
P165
われわれは、クラウゼヴィッツを、彼の仲間うちの呼び名「特定の任務によって縛られない者」(Unbedingte)と呼んだ。
ゲルハルト・リッター「政治と軍事」−ドイツミリタリズムの問題−
P36
「戦争においては精力的手段のための広い分野が開ける。そして私が私の魂の最も内奥の思想を言うべきであるとするなら、私は最も高圧的な手段に賛成する。私は鞭をふるって怠け者どもを叩き起こし、臆病と恐怖が彼らの身につけた鎖を引きちぎることを教えるだろう。私はドイツに一つの精神を流布したいとおもう。その精神は解毒剤のように、国民の全精神を麻痺する怖れのある悪疫を破壊的な力をもって根絶するのだ。」
教育手段としての戦争、全国民の政治教育のための、全国民の戦闘的な権力意思の引き締めのための最も有効な刺激としての戦争−これは全く新しい見方である!
P37
クラウゼヴィッツの心を奪ったものは、・・・政治的な問題であった。すなわち、その問題は、単なる文化的共同社会はいかにして政治的な意思の共同社会に−自己を意識した、防衛力を備えた、自らの自由と自らが外部からいかに見られるかについて細心の注意を払う国家的国民まで−創り直し得るかという問題であった。
・・・そして他方戦争の倫理的正当化の問題はそれ自体完全に関心の範囲から消え失せた。
当時のドイツ精神の歴史の中に道を開いた大きな転回の一つの表微として現れている。
・・・政治的崩壊の衝撃的印象の下で、政治的歴史的問題への決定的転換が、しかしそれと同時に「世界市民的」な思考から「国民国家的」思考への意識的転換が始まった。−それはフリードリヒ・マイネッケがフンボルトからヘーゲル及びランケに至るまでの最も偉大なドイツ的精神の内部発展において実例を挙げて説明したあの転回過程であった。
この思想の動きの内部でカール・フォン・クラウゼヴィッツが際立って特殊な立場をとった。彼がこの思想の動きの中に持ちこんだものは・・・プロセイン将校の軍人としての誇り高い自己意識であった。
(この影響が増幅され第一次世界大戦前には欧州中の国家が兵舎国家(徴兵制の採用から)と化してしまった。(ジョン・キーガン「戦略の歴史」))
P38
フランス抑留の時期に手がけたドイツと戦勝の誇り高いフランスとの比較検討が彼に示した事は、わが国民を団結して政治的な権力の目的に投入することをかくも困難にしているのは、ドイツの国民性格のまさに長所と見なされている一つの特徴である・・・
フランス人の場合その表面的性質と内容を欠く軽薄な面一的な全体に統合され、政治的目的の従順な道具とされやすい。・・・ドイツ人は理性的判断と自己批判を好むのである。
フランス人がしばしば世論の中に自らを見失うのに対して、教養あるドイツ人はしばしば世論には僅かの価値しかおかず、おまけに実際にそれに逆らうことすらある−これは一つの徳性であるが、しかし、政治的に見れば非常に災いになり兼ねないのである。
人はここで明確に悟るのであるが、この熱狂的な愛国者は政治的効率のためにやむ得ない場合は、ドイツ精神的富の縮小化と希薄化すら容認する用意があった。まさに人間の下等な本能や情熱さえも、国民の力の増大にために、利用されねばならないのである。
P39
かくて彼はプロセインの軍人階級の精神的内容を彼以前の何人も知らなかったような文学的形式において表現することを自己の使命と感じたのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ゲルハルト・リッターの「政治と軍事」全4巻
1740年〜1945年までのドイツ史、政治と軍事の対立関係に焦点を当ててドイツ史の見直しを目的に書かれた。
スタートは、クラウゼヴィツの歴史的命題「戦争に対する政治の優位」から始まってルーデンドルフの逆の命題に到達するまで...
新庄宗雅の部分訳、諸論、三章、八章
「政治と軍事」−ドイツミリタリズムの問題−
注、P6〜P18は、「戦争とは政治の継続」へ移動...
ドイツの思想史的な研究の資料からしかこういった面は現れてこない。
例えば、ピーター・パレットのクラウゼヴィッツの伝記的なもの(代表的な作品)を見てもこういった解析は書かれていない。
理念としての絶対戦争
戦争とは、我が方の意思を相手に強要するための一種の強力行為。二つの生ける意思が衝突しあい、相互作用が生じ、相互作用の繰り返しにより力の行使がエスカレートして、極限まで達してしまうこと...
第一次世界大戦の解析...
「・・・絶対戦争のこの観念がひとたび----クラウゼヴィッツ自身を通して----人間の意識の中に導入された後には、戦争遂行の強度の漸次的上昇がこの観念の実現の道程においてますます注目されざるを得ないことは予見できなかった。」
「相手の征服や政治的目的の到達のためには、・・・力の一層の緊張こそが必要であると明確に認識されると・・・いずれの国家も最初から戦争の中に利用し得る限度のすべてのものを投じ、この力をあらゆる手段をもって維持し、または上昇させようとすることに立ち到った。」
(結果)
「クラウゼヴィッツがただ単なる悟性の極端な構成物として定立した絶対戦争の観念が完全な範囲にわたって実現されることになった。」
エーベルハルト・ケッセル「双極的戦略」(Doppelpolige Strategie)(1931)P79
.
何故こんな書き方をしたのかと言うと...
破壊的な「絶対」戦争の概念を放棄することに気が進まなかったため、理論と実践の相違を橋渡した中途半端な作りにしてしまった。
クラウゼヴィッツは、最後の手記(1930)で第一編第一章を完全と認められる唯一の章と呼んだ。
しかし、ケッセルの研究によるとクラウゼヴィッツはこの部分でさえまだ手を入れる必要があると考えていたことが判っている。
近代戦争論の発生について−クラウゼヴィッツ「戦争論」の発生史−(1953)
エーベルハルト・ケッセル著、新庄宗雅訳
P158
第1篇第1章は1829年初めには現在の最終的表現が出来上がったと思われるのであるが、われわれはこの時期にもう一度彼の漏らした告白、「今でもずっとそう考えているが、まだ最終的に落着したとは思っていない」という言葉を有しているのである。
(1829年11月1日、クラウゼヴィッツよりグレーベンへ宛てた手紙)
つまり、一章の基本理論は不完全で妥協的な産物でクラウゼヴィッツの研究が進めば「絶対」戦争の概念は放棄されるはずだった。
「戦史に学ぶ 勝利の追求」ブライアン・ポンド
P73
クラウゼヴィッツは、歴史的な証拠の大勢は彼が優先的な地位を与えた前述のような総力による「絶対」戦争の理論に反しているという事実は遅まきながら直面した時に、彼の戦争哲学と方法論全体にかんする危機を経験した。
P74
要約すれば、戦争の真の姿をあらわしているナポレオン的な「絶対戦争」は非常にまれなものであると彼は述べている。・・・クラウゼヴィッツは、彼の戦争にかんする理論的な枠組みの土台が揺らいでおり、理論上の戦争に基礎を置く彼の論理が歴史上の現実の前に危うくなっていることを自ら認めた。
P75
・・・(クラウゼヴィッツは)破壊的な「絶対」戦争の概念を放棄することに気が進まなかった・・・破壊的な「絶対」戦争は戦争の真の性格を代表するものであり、優先されるべきであると主張する一方で、二種類の戦争を認めることによって理論と実践の相違を橋渡しすることを試みた。
ピーター・パレットによれば
戦争論では、戦争を行う善悪や道徳性については政治の問題として、戦争理論から切り離してあり考えられていない。
戦争を始める、戦争に訴えるという決定は戦争自体の外側に有り、政治の問題である。
つまり、戦争定義の外に政治が存在する...
政治から...
1.人間の欲求と希少な社会的価値を争うことが政治の社会工学的な考え方の出発点となっている。
「争うものが無く満ちたりていれば戦争は起こらない。」
(野生の豊かな土地に住む猿の群れ==>争いは少なく順列も判りにくい)
(人間から餌(少ない)をもらう猿の群れ=>この観察から猿の順列社会という話しが広まった)
(ボス(第一位のオス)や順番が餌の取り合いから簡単に推察できる)
(餌(少ない)係争物が争奪戦をクローズアップし順列が重要視された)
係争物が無ければ希少価値の争奪は起きない。(武器軍隊は在っても戦争はしていない状態)
注、国(国民)が豊かでも諸侯、王、皇帝、(指導者層、グループ)が貧欲になると戦争は起こる。
注、ニホンザルの最近の研究からボス猿ではなくα(アルファ)猿(第一位の猿)と呼ぶのがふさわしいと変わった。ニホンザルの自然状態が闘争頻度の低い自由な状態だからといって、動物の持つ闘争心、競争心(縄張り争いや順列争いなど)はハーレムを作る動物の雄の争いを見ても解るように生物の基本的な本能になっていて変わらない。
餌付けされた猿を見て人間に似ていると思うのは、自然状態と違い人間社会が知恵によって生み出された富に満ちているからで...猿が希少な餌を争って順列があらわになるような状態は人間社会によく似ている。
つまり、従来の猿の群れの研究はそのまま醜い人間社会?の分析に使える...
2.政治は「希少資源の合理的配分」という利益を争奪するのが基本的考えなので...
損害ばかり出て勝利の結果得られる利益(利権)より大きい被害を出してしまっては、戦争する価値が無くなってしまう。
無制限な軍備拡張もこの点から見れば、採算割れになる...
3.フーコーの羊飼いのような社会の考え方
((国民=羊)育てて使うもの。不況で困れば毛を刈るではなくて肉にされる)、国家利益や国民の利益ではなく軍や軍事産業の利益など国家が一部の利権で動く場合。
使い捨てにされる国民の目から見ると戦争は残虐な血まみれの闘争だが、使うものから見れば儲けのためのゲームになる。
このように、視点によって戦争の見た目が違ってくる。
羊は見えない柵の中に入れられ「お前たちは自由だ(その柵の中で)好きなだけ飛び跳ねろ!」と言われる。
(注、柵は社会を作るのに必要な道徳的な制限とは別のもの(変質したもの))
(政治部分は、切り張りしただけなので、もう少しましな表現に改定する予定)
(結局「政治」は別に研究する必要がある部分になってしまった。)
=>「戦争とは政治の継続」
=>下段の文章集積
簡単な「まとめ」
クラウゼヴィッツは、定義部分を抽象的な観念の遊びと呼び現実の戦争は、数々の要因によって制限され、極限状態から離れていくとした。
2.定義(戦争の定義)
3.力の極限行使(極度の強力行使)
4.目標は敵の無力化(戦争の目的は敵の防御を完全に無力ならしめるにある)
5.軍事力の極限使用(彼我双方の力の極度の使用)
この部分は、クラウゼヴィッツが発見した絶対戦争の重要な理論だと、第一次世界大戦前までは考えられていた。しかしこれは抽象的な例で現実では様々な要素が絡んでくるのでこういうことは殆ど起こらない。という部分は、忘れられるか書かれなかった...
(戦争論中の修正されていない部分(2編〜7編)では絶対戦争は理想の戦争とされている。)
最初にもってくるべき戦争論用の理論は、ケッセルの論文から...
「敵戦力の撃滅」と「自己の戦闘力の維持」(自己保存)と言う二つの極を元にしなければならない。つまり「力の極限行使」では、制限無く力を使い合い、互いの損害も際限無く増してしまう。実際には極限などにはとうてい届きようが無いことは明白で、自己保存要素を考えなければ、理論として成立しない。
戦争論では、第一編二章になるまでこの基本理論が出てこない。
二章の途中からバラバラと出てくる...
数箇所を統合しないと判らず「自己の戦闘力の維持」という簡単な言葉では説明されていない。
自己の維持保存を図りながら敵を撃破弱体化する、友倒れなら戦争などやらないほうが良い。
敵の撃破よりも自己の維持のほうが優先される。
(こう書くと使い捨ての兵隊用(教育用)には向かない理論になってしまう...)
(これが、クラウゼヴィッツが中途半端な理論のまま止めた理由の一つかもしれない。)
(つまり、使い捨てにされる下級の兵士用なら可)
(戦争理論として将師や政治が使うものとしては不可)
この部分はクラウゼヴィッツがナポレオン型の国民総動員を可能とするために理論を歪めて作ったと考えるのが正解
「ドイツ人とフランス人」について書かれたケッセルとロートフェルスの論文参照
フランス革命の結果フランスは国民総てを兵士として使うことが可能になり...その膨大な力に対抗するための論理的処方箋を作る必要が生じた、(ドイツ人はフランス人より論理的思考を重んじるため、フランスのようなジャーナリズムを使った扇動では国民を動かせない。)=>ロートフェルスとケッセルの資料参照
(シャルンフォルストは、フランスの人口当たり動員できる兵数の差は他の国の10倍に達すると言った。)=>ケッセル資料から
戦争論は未完成でこの部分は不要のものとして消去するべきだった
絶対戦争の概念を抽象的世界の考えとして残した...
=>勝利の追求「クラゼヴィッツ」資料参照
(このタイプの書き方が第一次世界大戦の理論補強に使われて大惨事を招いた、)
(人口爆発やダーヴィンの優生学と結びつき...)
=>レイモン・アロン資料参照(未整理)
第一次世界大戦は、セルビアの青年がオーストリアの皇太子を暗殺したから発生したのでは無く、双方が戦争の準備をしてにらみ合いきっかけを待っていたところに石を投げ込んだから始まった。
フットボールの試合より戦争を待ち望むようになるまでジャーナリズムをつかって世論を誘導した。
(民主的な国家で戦争を始めるためには、こういったしくみが必要になる。)
=>勝利の追求「第一次世界大戦」資料参照(未整理)
=>レイモン・アロン資料参照(未整理)
戦争論は未完成で終わったが、完成させるには長い永い時間が必要で、筆者が理論探索用に軍事史の年度別の執筆に執り組んでいる最中だったことから考えても数年で終わる作業では無かった。
ケッセルは、決して完成しなかったとしている。
完成には歴史資料が不足で二つの世界大戦の結果がなければ戦争理論の完成は無い。
第一編第一章、簡単に眺めると
第1章 戦争とは何か
新し目(戦略論より)()括弧内(古目、岩波(上)より)
1.はじめに(諸言)
2.定義(戦争の定義)
戦争は、相手に我が方の意志を強要する行為
注、戦争定義の上に政治が存在する...
係争物が無ければ希少価値の争奪は起きない。(武器軍隊は在っても戦争はしていない状態)
3.力の極限行使(極度の強力行使)
4.目標は敵の無力化(戦争の目的は敵の防御を完全に無力ならしめるにある)
5.軍事力の極限使用(彼我双方の力の極度の使用)
3.4.5.戦争の目的は敵の無力化、しかし、お互いに、強要しあう相互作用(相手をうわまわろうと互いに努力し...)極限に達する(絶え間ない兵力増強やエスカレートする殴り合いの乱打戦になる)。
力(軍事力)によって敵を動けなくし目的(領土を奪ったり賠償金を取る、古代の場合は完全に滅ぼして二度と歴史に出てこないように...)をかなえるのが戦争だが、敵も同じことを考えるので巧くいかず目的達成のために兵力を積み上げ相手もそれを恐れてさらに積み上げるという不毛な極限状態が発生する...
政治学から見ると動物は満腹すれば狩猟を止めるが人間は獲物を他人に取られれば他者が有利になり自分が不利になると推測する力があるため余剰に狩猟するのを止めることができない。(注意、もう少し賢くなると、資源が枯れることに気付き協調することを忘れないように)
過去の機動戦重視の決戦を行なわない方式の兵学を糾弾するために強調されている部分なので注意が必要...(何故最初に書かれているか?)
6.現実における補正(現実における手直し)
上の部分は概念だけを取り扱う抽象的な領域で概念の遊びにすぎず、現実に適合する法則ではあり得ないとここでまとめている。
7.戦争は孤立した行為ではない(戦争は孤立した行動ではない)
8.戦争は継続のないただ一回の打撃から成るのではない(戦争は継続のないただ一回の決戦から成るのではない)
9.戦争の結果は絶対的なものではない(戦争とそれから生じる結果とはいずれも絶対的なものではない)
10.現実生活における確からしさが論理上の極限と絶対の概念に代わって登場する。(そこで現実の戦争において現実と認められるところの極端なもの絶対的なものに代わるのである。)
11.そこで再び政治目的が現れる。(そこで政治目的が再び出現する)
ここでやっと現実に対応した戦争によって必ず生じる損害と得られる利益を測りにかけるというあたりまえの必要な部分が出てくる。(でもちょっと判りにくい...)
(注、ここは、導入部で第二章に解析文章がある。)
12.軍事目的の休止は前述の説明でもなお明らかでない。(軍事的行動に停止状態の生じる理由は上述の説明だけではまだはっきりしない)
13.行動を休止し得る理由はただ一つあり、この理由は一方の側だけにある(軍事的活動を停止し得る理由はただ一つある、そしてこの理由は常に一方の側だけに有るように思われる)
14.前述の理由によって軍事行動に連続性が生じ、すべてが再び極限に至る。(このような事情は軍事的行動に或る種の連続性を与えこの連続性はまたしても彼我双方の行動を極度に到らしめるかのように思われる)
15.そこで両極性の原理が必要になる。(そこで両極性という原理を立てることが必要になる。)
16.攻撃と防御は方式が異なり、両極性の原理は適応できない。
(攻撃と防御とは種類と強弱を異にする、2個の相異なるものであるからこれに両極性の原理を適応することはできない。)
17.攻撃に対する防御の優位がしばしば両極性の効果を消滅させ、またそれによって軍事行動の休止の理由が明らかになる。
(一般に防御は攻撃よりも強力でありかかる事情が両極性のはたらきをしばしば消滅させる、また軍事的行動に停止状態の生じる理由もこれによってよく説明されるのである。)
18.第2の理由は不完全な状況の認識にある。(軍事活動を停止せしめる第2の理由は不完全な状況判断にある。)
19.軍事活動がしばしば休止されると、戦争は絶対的形態からますます遠ざかり、確からしさの計算になる。
(軍事活動が頻繁に停止されると、戦争はその絶対的形態からますます遠ざかって、確からしさの計算となる。)
20.戦争を掛けにするためには偶然性がこれに付け加えられればよく、戦争には偶然が付き物である。(それだから戦争を博戯たらしめるにはこれに偶然が付け加わりさえすればよい、ところが戦争には偶然は付き物なのである)
21.戦争の客観的性質からと同じように、主観的性質からも戦争は掛けとなる。(戦争はその客観的性質から言って博戯であるがしかしまたその主観的性質から言ってもやはり博戯となる。)
22.このことは一般に人間の精神にもっとも適合している。
(このことは一般に人間の精神によく合致する。)
23.しかし、戦争は非常に重大な目的を達成するための真剣な手段である。−−戦争の更なる定義
(とは言え戦争はやはり厳粛な目的を達成するための厳粛な手段である。戦争のいっそう詳細な定義)
24.戦争は他の手段をもってする政策の継続にすぎない。
(戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない)
この部分は導入部にすぎず27で結論が書かれる...
「戦争は決して独立に存在するものではなくて、政治の道具とみなされねばならない。」
25.戦争の多様性(戦争には二通りの種類がある)
26.戦争はすべて政治的行為と見なすことができる
(これら二種の戦争はいずれも政治的行動と見なされてよい)
27.この見解の結論は戦史の理解及び戦争理論の基礎を成す
(上述の見解から引き出された結論は戦史の理解に先立ちまた戦争理論の基礎を成すものである)
「戦争は決して独立に存在するものではなくて、政治の道具とみなされねばならない。」
28.戦争理論の結論(戦争理論に対する成果)
第一、戦争の本領は原始的な強力行為にあり、殆ど盲目的な自然的本能とさえ言えるほどの憎悪と敵意を伴っている。この面は主として国民に帰する。
(つまり実際は逆で、国民を動員するためには憎悪と敵意の流布が必要となる...)
第二、戦争は確率の偶然の伴う遊戯のような面がある。
前世紀の兵法では、確実(100%)な作戦のみが採用され不確かな作戦は採用されなかった。
(前世紀より使える兵数が増し様々な作戦が可能になった。)
これは、(作戦選択の幅が狭く)逆に作戦の画一化を生み敵に行動を悟られてしまう。
機動の項目で書かれているように将師はチェスの指し手のように互いの作戦能力を競う。
成功度の低い作戦も選択の内に(敵が行う可能性も)入れておかなければならない。
(ちょっと長いが前世紀の説明が無いと理解できなくなる。)
第三、戦争は政治の道具であるという従属的性質を帯びる。
カルル・フォン・クラウゼヴィッツ
経歴...
クラウゼヴィッツの誤用...
フランスの将軍の悪例
二種類の戦争(Die deppelte Art des Krieges)
初版本(first edition)
第1篇 戦争の本質について
「戦争とは政治の継続」
用語=>「絶対戦争」
文章集積
戦史研究&戦車戦へ戻る