シェリーフェンプラン

シェリーフェン伯爵(Alfred von Schlieffen 1883-1913 ビスマルクやモルトケ亡き後のドイツの参謀総長
ビスマクル亡き後の政治家を信ぜず、2正面作戦を強いられると考え、敵を1つ1つ殲滅しようと戦略を練る。
ハンニバルのカンネーの殲滅戦を参考にフランス軍の包囲殲滅プランを練る。
(北からベルギー領を通りアミアン→パリの背後→スイス国境へ抜ける壮大な計画)
6週間でフランス軍を完全に殲滅する作戦でした。
ドイツ軍はこの作戦を実行するために、優勢な敵に対する各個撃破と、殲滅戦の訓練を徹底して行いました。
しかし、シェリーフェンの名は有名になり(モルトケ以来ドイツの参謀本部は有名に...)シェリーフェンプラの内容が漏れ(無名であるべき参謀とその計画が世界的に有名に...)各国は要塞の建設に走りました。
彼は、第一次世界大戦が始まる1年前に他界してしまいました。
遺言は、「右翼(ベルギー突入予定軍)を徹底的に強大ならしめておけ。」でした。

第一次世界大戦では、後任のドイツの参謀総長小モルトケが、彼のプランを信ぜず、ロシア戦線に部隊を引き抜いて右翼を骨抜きにしてしまいシェリーフェンは不発に終わりました。
(しかし、骨抜きにされた右翼でも連合軍の左翼は敗れパリから50kmまでドイツ軍は到達しています。)

詳しい解説は、
ケンブリッジ、トリニティー学部のリース・ノウウェルス講座
「18世紀から20世紀に至る軍事思想の動向とその欧州史に与えた影響」より

第3章 「歪曲された理論」
「....さらにひどい皮肉と目されることは、ドイツ軍がクラウゼウィッツの<兵力集中>なる戦略原則を墨守して、西部戦線において勝利を逸したことであろう。ナポレオン戦法をクラウゼウィッツの歪んだ解釈で学んでいたため、ドイツ人はナポレオン流の広くからめとる投げ縄方式、すなわち<敵の注意を自然に散漫に導く手段>の本質と価値とを把握し得なかったのである。

クラウゼヴィッツによって育成助長された膨大な量の集中という思想により、各軍団あるいは各軍相互の間隔を従来通り広く保ということは困難化して来たことは認められるが、まだある程度の間隔をとり分散することが可能であった時期においてすら、クラウゼヴィ ッツの原則を至上のものと考える現代の軍司令官、軍団長たちは、孤立することを恐れていた。それで広正面をもって前進することなく、彼等は本能的に隣接部隊と密着して前進しない限り、危機に陥ることを危惧していた。だがそうすることによって、敵に脅威を与えることや敵を翼側包囲することが不可能になることを意に介さなかった。火器の射程の増大と通信の進歩により部隊の安全確保上の危険が減少してきていることを考えると、彼らに先見の明がなかったことは一驚を喫するばかりである。このような視野の狭さによる愚かしさ加減は、開戦直後の数週間の西部戦線において著しい。

フランス軍の戦争計画を蹉跌(さてつ)させたドイツ軍の国境会戦当初の総前進の作戦正面は、比較的広かったし、しかもドイツの右翼が予想以上の広正面をもって猛追撃を続行して、ジョッフルの国境会戦に引き続く作戦を失敗に帰せしめたのであったが、小モルトケは広正面作戦の利を明確に会得していなかったため、前進中の各軍団に生じた間隔に対し不安を増大していった。このため彼は、当初の計画を変更するに決し、最右翼のクルック軍(Kluck)をしてパリの西方から敵を席捲(せっけん)させることを断念し、パリ−の東方に向け旋回せしめた。以上の如く、戦線を収縮することと危険防止に懸命になったので、小モルトケは、全軍を決定的な反撃にさらすことになり、これはドイツの運命を決することとなった。何となれば、マルヌ(Marne)の一戦を失したことはこの戦争におけるドイツの勝利への希望を奪ってしまったからである。クラウゼヴィッツの理論こそ、マルヌ敗戦の記念碑に彫刻するのに適わしいものであろう。

しかも、これ以外、クラウゼヴィッツの教義の重大な悪影響は、たちまち露呈してきた。ドイツ軍は、<唯一の手段>すなわち<戦闘における敵野戦軍の撃滅>の追求に驀進したため、防御力薄弱なパリーの占領だけでなく無防備の英仏海峡沿岸の占領の機会までも全く放棄してしまった。熟柿を労せずして手中に収め得る状態にありながらこの戦機を逸してしまったのである。....」


--解説1--
部隊を集中使用しようとする本能にも似た狭義が作戦を失敗させたとしている。この時代は、機関銃によって歩兵火力が上がり十分に準備された防御正面に対する攻撃は必ずと言っていいほど失敗した。そのため機動によって準備の整っていない会戦形に持ち込むか敵部隊の側面や後面を攻撃しないと攻撃作戦は成功しなかった。

動き続けそして敵の防御行動を上回る行動をし続けないと勝利はない。


補給戦より
シェリーフェンプランの問題点
「作戦時間42日の間にイギリス海峡の海岸近くを通過してパリのはるか下方のセーヌ川まで400マイルも歩いて前進する。 25万人...これだけの大軍を補給するのは不可能だった...

ナポレオン時代までは、補給は現地徴発に頼っていました。(第一次世界大戦の初期にはまだ摘発に頼る部分もありました。)しかし、戦争の様相が変わり、弾薬、や燃料を大量に消費するようになると食料の量は全体の2割以下で輸送には全然問題無くなりました。

ヴァレンシュタインからシェリーフェンまでの戦史は組織的略奪の歴史として見れば全体がよくわかる。この時期の最大の特徴は、軍隊は移動を続けることによってのみ食料を得られたという事実...

ナポレオン時代いや普仏戦争の時も弾薬は全補給品量のわずかな部分にすぎなかった。第一次世界大戦の塹壕戦は弾薬対その他の補給品の比率を逆転させた、(膨大な弾薬の消費)第二次世界大戦では総ての補給品に対する食料の量は10%になった。

シェリーフェンの思想を細部にわたって追求する限りでは、彼はその計画を発展させた時、兵站にはそれほどの注意を払っていなかったようである。彼は遭遇するであろう問題をよく理解していたが、組織的な努力をはらってそれを解決しようとしなかった。もし努力していたなら、彼はこの作戦は実行不可能であるという結論に到達したであろう。

シェリーフェンはもともと輸送や補給に興味を持っていなかったが、神秘的な正確さでベルギーで起こる鉄道破壊の姿を予言することができた。ある場合にはもし1914年に破壊されれば大困難を引き起こすであろう施設の名をあげたほどである。現地徴発で軍隊に食料を補給するには可能であるという彼の予想は、ほぼ正確であることが分かったが、当時の軍事評論家はすべてこれに疑念を表明していたのである。もしシェリーフェンがこの点について間違っていたなら、作戦全体が開始早々から失敗を重ねていたであろう。」


--解説2--
結局、進撃するドイツ軍の補給を後方から運ぶのは失敗した。パリの全面まで進むことができたのは、フランス、ベルギー軍が集積していた補給品を分捕ることができたからでそれでも騎兵隊の馬などは飢え死にしてほとんど壊滅した。補給の面から考えて元々パリの後方を旋廻して包囲するような機動は不可能だったと結論できる。


しかし失敗の本当の原因は、小モルトケの作戦に対する無理解とドイツ皇太子の無茶な攻撃命令。

小モルトケの作戦に対する無理解
ドイツ軍左翼は薄くしてわざと負けて後退してフランス軍の主力を誘い込むぐらいの努力が必要だった。しかし、小モルトケは左翼を補強しこの部分のフランス軍の攻撃を跳ね返してしまった。(これによってフランス軍を罠にかけて包囲するという博打が不発になった)。

ドイツ皇太子の無茶な攻撃命令
成功したドイツ軍右翼の突破を見て皇太子が左翼方面でも突破口を作れと無茶な命令をだしてしまった。しかし堅固なフランス陣地に対する正面攻撃になってしまうこの攻撃は、いたずらにドイツ軍の消耗を増やすだけに終わった。この時の損害が進撃するドイツ軍の側面に展開する部隊の不足を招きこれが包囲網の縮小の主原因の一つになった。



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