礼典



伝統的にキリスト教会はサクラメントを救いの要素として重要視してきた。カトリックが7つのサクラメントを持つのに対して、プロテスタントはサクラメントを洗礼と聖餐の2つに減らしはしたものの、決してサクラメントを捨てたわけではない。
ルターは「信仰のみ」を主張して宗教改革を行った。しかし、「サクラメントによって救われる」という考えを捨てたわけではなく、実際は「信仰+洗礼(サクラメント)によって救われる」と考えていた。「律法によってでもなく、サクラメントによってでもなく、ただ信仰のみによって救われる」と主張したのはバプテストだった。
バプテストでは洗礼も聖餐も、救われた応答としておこなうものだと考える。サクラメントを否定する傾向が強い。だから、「聖礼典」ではなく、あくまで「礼典」なのだ。


●バプテスマ(洗礼)

バプテスマによって救われるのではない。救われた応答としてバプテスマを受ける、という立場である。 一般にバプテスマには「洗い」の要素と「沈め」の要素がある。多くの教派において「洗礼」と呼ぶのは「洗い」を強調するからである。バプテスト教会では「沈め」を強調するから「バプテスマ」なのだ。

信者のみのバプテスマ
バプテスマが救われた応答であるという考えから当然、バプテスマは信仰を告白した者に限定される。幼児洗礼はしない。

浸礼
「沈め」を強調するから、バプテスマの形式は浸礼。

他教派からの受け入れ
他教派の信者の受け入れに際して再洗礼を要求するのがバプテストだと誤解している人が多い。しかし、バプテストは再洗礼派ではない。洗礼は一度だけというのが、バプテストを含めた歴史的キリスト教会の立場ではないだろうか。
ただし、実際には再洗礼させているバプテスト教会がないわけではない。とくにランドマーク派は自分たちを再洗礼派と考えているので、浸礼か滴礼かにかかわらず他教派からの転会者には再洗礼を要求する。


●主の晩餐(聖餐)

サクラメント性の拒否
日本バプテスト連盟では聖餐という言葉を否定して、「主の晩餐」と呼ぶ。大西晴樹氏によると、初期のバプテストたちはサクラメント性を拒否して「聖餐」という言葉は使わなかったらしい。
ただし、現在では日本バプテスト同盟など多くのバプテスト教会で「聖餐」という言葉を使っている。

オープンかクローズドか?
陪餐にかんしてキリスト教界には他教会員の陪餐を認めないクローズドコミュニオン、バプテスマを受けたキリスト者なら他教派であっても陪餐を認めるオープンコミュニオン、バプテスマを受けていなくても陪餐を認めるフリーコミュニオンの3つの立場がある。
バプテストでも普通は「オープン」だが、ランドマーク派は「クローズド」で知られている。バプテスト連盟には「フリー」の立場もあり、西南学院の青野太潮氏が有名。

応答としての聖餐
他教派において聖餐とは、キリストのパンを受けることである。しかしバプテストにおいては、パンを受けた私たちの応答が聖餐である。
だとすれば、私のパンを隣人に与えるという生活のなかでの行為こそ聖餐といえないだろうか。応答としての聖餐を具体的に告白していくことが、今後のバプテストの課題である。