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軽井沢・浅間牧場
浅間山の麓、標高1300mの浅間高原・北軽井沢に位置する浅間牧場は、800 haという広大な敷地面積の群馬県営の牧場です。「浅間家畜育成牧場」が正式名称。県内の酪農家から乳牛を預かり、放牧、育成しています。現在は、牧場800haのうち18haが一般に開放され、駐車場、清潔なトイレ棟、売店、散策路、あずまや等が整備され、憩いの場としてにぎわっています。
軽井沢・浅間牧場について
浅間家畜育成牧場は、浅間山(2569メートル)の東北東山麓の標高約1300メートルに位置し、草津白根山一帯の地域と同じ中央高原型気候(北海道北部に匹敵する気候)で、総面積約800ヘクタールの牧場です。
春と秋に6ヶ月齢以上の健康な育成牛(ホルスタイン種)を県内酪農家から預かり、希望により人工授精や受精卵移植を実施しています。放牧期間中は約700頭、冬は約400頭の牛を飼育し、足腰のしっかりとした丈夫な牛に育てています。
この牛たちは酪農家の大切な牛です。そのため、伝染病予防のため一部地域を除いて立ち入り禁止となっており、牧場内への車の乗り入れはできません。動物とのふれあいは基本的にはできませんが、夏季放牧期間中は事務所横のふれあい牧場に数頭の子牛がいるのでご覧下さい。餌の時間(昼前、夕方)、職員と会うことができれば牧場の説明をしてくれます。
さらに、天丸山・白糸の滝への遊歩道を通って浅間牧場の大自然を満喫できます。初夏から初冬にかけての朝と夕方なら牛が放牧され、牧草地で草を食べている光景が見られるかもしれません。とても雄大で素敵な風景です。

浅間牧場の歴史
1873年(明治6)北白川宮の開いた牧場の跡で緩やかな起伏をもった牧場で、浅間山周辺の農家の牛馬を5月から10月まで農家の委託を受けて放牧しています。景色もよく、とくに6月のレンゲツツジの花盛りにはにぎわいます。解放区の丘は藤山一郎の歌『丘を越えて』のモデルにもなりその歌の歌碑もあります。
観光客の多くは、茶屋からちょっと歩いただけで引き返してしまいますが、浅間牧場からみる浅間高原ほど雄大な姿はありませんので。時間があれば天丸山までハイキングした方がいいです。最低でも「丘を越えて」の記念碑のあるところまで行きたいです。

浅間牧場の沿革
| 明治16年 |
北白川宮能久親王により馬の放牧場として開設 |
| 昭和6年 |
群馬県畜産連合会が経営者となる
当時の馬産振興により放牧頭数が1000頭を超えた年もあった
後に、馬匹組合連合会と改革 |
| 昭和23年 |
馬匹組合連合会が解散
群馬県に財産債務と牧野経営権が移管、土地は国が買収 |
| 昭和26年 |
土地を群馬県に受渡し |
| 昭和27年 |
群馬県営牧野「浅間家畜育成牧場」が開設 |
| 昭和40年 |
年間を通しての受託放牧開始(それ以前は夏期のみ) |
| 昭和51年 |
乳用種雄牛の後代検定事業を実施(〜平成5年まで) |
| 平成6年 |
夏季放牧牛への人工授精を開始 |
| 平成8年 |
受精卵移植試験実施(4年間) |
| 平成12年 |
受託牛への受精卵移植を開始 |
浅間牧場の草花
牧場内には様々な草花があり、夏から秋にかけてエンジ色をしたワレモコウが事務所向かいの丘や牧道沿いにたくさん咲き、秋から冬には、鮮やかで小さな赤い実を山吹色をした額がそっと覆っているツルウメモドキが場内の木々に巻き付いて、とても綺麗な風景を作っています。また、秋の天丸山山頂は、秋の訪れを告げるマツムシソウとススキでいっぱいになり、そこから見える黄色く紅葉した唐松林もまた風情を感じさせてくれます。
浅間牧場に生息する野生動物とその被害
浅間牧場では様々な野生動物が目撃されます。一番多いのはイノシシで、クマの目撃も多く、一般の方は遊歩道通行禁止となりました。他には、キツネ、シカ、ウサギ、ヤマネ、タヌキ、サルが見られ、中には人を怖がらずに近づいてくる動物もいます。
浅間牧場茶屋
浅間牧場の入り口に位置し、レストラン、バーベキューなどのお食事、オリジナル乳製品や地元特産品等の観光みやげ、しぼりたてジョッキ牛乳、ソフトクリームの軽食コーナー、ウサギ、ヒツジなどの小動物のふれあいコーナーもあり、動物たちもも人懐っこいです。茶屋の裏手には引き馬もあり、ここのジョッキ牛乳は有名。搾りたての牛乳やそれで作ったソフトクリームもあります。レストランでは、ジンギスカン料理などが食べられます。冬は氷上祭をやっています。

カルメン故郷に帰る
昭和27年に「カルメン故郷に帰る」という日本のカラー映画が生まれましたが、その舞台が浅間牧場でした。監督:木下恵介、主演:高峰秀子、ほかに笠置衆とそうそうたるメンバーが出演していました。物語は、牧場の娘が東京でストリッパー「カルメン」として成功。その娘が故郷に帰ってきて引き起こす騒動です。
北白川宮能久親王
弘化4年2月16日(1847年4月1日) - 明治28年(1895年)10月28日(11月5日)
幕末・明治時代の皇族、陸軍軍人。
伏見宮邦家親王の第九子。1858年10月、仁孝天皇の猶子となり、親王宣下。この時、諱(いみな)を「能久」と賜ります。安政6年11月、輪王寺宮の附弟となります。青蓮院宮尊融法親王を戒師として得度し、公現(くげん)の法諱(いみな)を称します。慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、三山管領宮となりました。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いののち、公現入道親王は幕府の依頼を受けて東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に前将軍徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行います。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁親王に一しゅうされました。その後、彰義隊に擁立されて、上野戦争を遭遇し、その敗北により、東北に逃亡しました。仙台藩のもとに身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されました。
明治元年(1868年)9月、仙台藩は新政府軍に降伏し、輪王寺宮は京都で蟄居を申し付けられます。明治2年9月、処分を解かれました。明治3年(1870年)10月、伏見宮家に復帰、げん俗したので幼名で伏見満宮と呼ばれました。このとき上京を命じられ、同時に2年前に駿府で談判した因縁のある熾仁親王の邸に、ドイツ留学に出発するまでのあいだ同居する事となりました。明治5年3月、弟北白川宮智成親王の遺言により北白川宮家を相続。
明治3年(1870年)12月ドイツ(プロシア)に留学のため、日本を離れます。明治9年12月、ドイツの貴族の未亡人ベルタと婚約します。そして、明治政府に対し、結婚の許可を申し出ます。これに対し、明治政府は難色を示し、帰国を命じます。帰国の直前、能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したことから、政府高官の間で大きな問題となりました。明治10年7月、帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄し、京都で謹慎します。
帰国後は陸軍で職務に励みました。明治17年(1884年)は陸軍少将、さらに明治25年(1892年)中将に昇進しています。また、獨逸学協会の初代総裁となり、後に獨逸学協会学校設立に尽力しました。
明治26年(1893年)11月10日に第4師団長となります。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討に近衛師団長として出征。マラリアに罹患(りかん)し、台湾全土平定直前、台南にて薨去。皇族としては初めての外地における戦没者となり、陸軍大将に特進後、国葬に付され、豊島岡墓地に葬られました。また国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北に台湾神社(のち台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建されました。また、後に台湾各地に創建された神社のほとんど主祭神とされていました。敗戦後、台湾神宮と台南神社は廃社となったため、現在は靖国神社にて祀られています。
一時は朝敵の盟主となり、また台湾平定の英雄とされ、不運の死をとげた数奇な人生は日本武尊に喩えられました。
山内豊信の長女光子と結婚。離婚後、島津久光の養女富子(実父伊達宗徳)と再婚。子に、竹田宮恒久王(長男)、北白川宮成久王(三男)、小松輝久(四男)などがいます。
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