日本人のピアノを弾く人でヤマハを弾いたことがない人はまずいないでしょう。
また世界的にもヤマハは最も有名なブランドの一つではないでしょうか。
「ピアノ」がヨーロッパの民族楽器の1つにもかかわらず、東洋の日本でこれだけ
世界に認められるピアノが製造されているということは驚異的ではないでしょうか。
ここではその「ヤマハ」の歴史をのぞいてみたいと思います。
ヤマハの創業者は嘉永4年(1851年)に紀州で生まれた山葉寅楠です。 1851年というとスタインウエイやベヒシュタインがまさに始動しようと する時期です。日本では2年後に黒船が来航し、一気に幕末へと突入する動乱の時代ですね。 寅楠も幕末には旧幕府軍に身を投じて戦争の真っ只中にいたそうです。 しかし結果は幕府側の敗戦。寅楠は流浪の人となります。
明治維新後、寅楠は大阪に向かいました。寅楠の父は紀州藩で天文係という職についており、
土木・測量などの技師だったそうです。子の寅楠もそんな父の才能を受け継いでいたのでしょうか。
彼は大阪でまず時計商の徒弟として奉公し、その後長崎でイギリス人の下で5年間製造技術を学びます。
寅楠は時計職人としての技術を生かして、大阪で店を開きますがこれが頓挫して夜逃げ同然に
東京へ逃げ出します。しかし東京でもうまくはいかず失意のうちに東海道を西下、
浜松にたちより、そこで医療器具の修理をしながらなんとか食いつなぎます。
そんな中、寅楠は運命的な楽器と出会います。
それは小学校にあった「オルガン」でした。彼はオルガンが故障したときに医療器具の修理をしている関係で
修理を依頼されたのです。医療器具も楽器も同じ道具だからということでしょうか。
なんとも乱暴な話のような気がしますが、当時の日本はそういった技術をもっている人が
ほとんどいなかったのでしょう。ともあれ寅楠はオルガンを修理しました。
その時彼はあることを閃きます。「こいつを図面に写し取って、同じものをつくれば商売になる!」
当時オルガンは日本では製造されておらず、舶来ものとして珍重されていたのです。
さらに当時の近代化政策は音楽にも及んでおり、全国の小学校にオルガンを設置する方向にありました。
中を覗いて、その構造や仕組みが意外と単純であることを知ったの寅楠は、この閃きに可能性を確信します。
寅楠は知り合いの飾り職人の河合喜三郎を誘って早速オルガン製作に取り掛かりました。
悪戦苦闘の末なんとか試作第1号ができあがります。寅楠たちは浜松尋常小学校に持ち込み校長や唱歌の先生にみてもらいましたが、
どうやら音程がばらばらだったらしいです。しかし寅楠の行動力は静岡県令(現、知事)にまでこの楽器をみせにいきます。
県令は「お前はえらい!」なんていいますが、良し悪しは自分ではどうにも判断できず、
東京音楽学校の伊沢修二を紹介してくれます。伊沢修二は日本に西洋音楽を取り入れる重要な職についている人で、
日本における西洋音楽史の上で、はずすことの出来ない人ですが、
長くなってしまいますので、いずれ別に紹介してみたいと思います。
ともかく寅楠と河合は東京へ向かいます。当時鉄道は新橋から国府津までしか来てませんでしたので、
彼らは天秤棒で楽器をかついで250キロ先の東京めざして箱根越えをしていきます。
そんな状況を想像してみると、明治の人たちのパワーは本当にすごいですね。
新しい時代のパワーを感じます。
そんなこんなでやっと東京について伊沢修二にオルガンをみてもらった2人ですが、
やはり音程のでたらめさを指摘されて評価はもらえなかったようです。
そこで寅楠は伊沢に頼み込み、そのまま1ケ月程東京音楽学校で調律法を勉強します。
そしてさらに、伊沢は寅楠に販売会社として共益商社を紹介してくれています。
楽器製造当初から販路まで獲得できるとはなんと運の強い人でしょうか。
またそれほど魅力的な人物だったのでしょう。
こうした浜松に帰った明治22年、寅楠はいよいよ「山葉風琴製造所」を立ち上げます。
しかし、明治24年には有力な出資者が手を引き、製造所の解散を画策。社員総会が
開かれ、あっさりと解散に追い込まれてしまいます。
しかし、すぐに寅楠と河合はあらためて「山葉楽器製造所」として再出発しています。
さらに明治30年には「日本楽器製造株式会社」として改組しました。
そして寅楠はかねてからの懸案だったピアノ製造へと着手していきます。
明治32年寅楠はアメリカへ視察旅行にでています。
彼の渡米は5ケ月にわたり、克明な記録をつけています。アメリカではキンボールやメイソン&ハムリン、
スタインウエイ&サンズなどを視察しています。そして研究のためにアクションや鉄骨、加工機械などを
大量に買い込みました。アメリカから帰った寅楠は会社の組織を変更し、優秀な若い世代を
抜擢していきます。その中には将来ヤマハと覇を競う「カワイ」の創設者、河合小市もいました。
かれは11歳で山葉風琴製造所に入り、才能を発揮。数年もすると「発明小市」と呼ばれ、その後には「
日本の楽器王」なんていわれました。
さてさて、明治33年、いよいよ寅楠がアメリカで買ってきた加工機械をつかって国産第1号といわれる アップライトピアノが日本楽器で生まれます。それ以前にも日本人が組み立てたピアノはありましたが、 主要部分が外国から買い入れて組み立てただけのようなものであり、国産ピアノとはみなされていません。 この日本楽器のアップライトが国産第1号といわれるのは響板が国産だったからのようです。 ちなみに当時につくられたとされるピアノが国立音楽大学にあるそうです。 いったいどんな音がするのでしょうか。弾いてみたいですね(^^)。
このようにピアノ製造がはじまりましたが、当初はその複雑な構造から、生産台数がのびず、 利益もあがらなかったようですが、30年代後半から徐々に増え、44年には501台の生産まで拡大します。 しかし、明治末には明治天皇が崩御し、喪に服する意味で歌舞音曲が1年間禁止となり 楽器が倉庫に山と積まれ、さらに大正初期の経済不況で逆風にたちます。 寅楠はすでに拡大路線をとっていたため一気に業績が悪化し、その責任をとって 身を引きます。その後第1次世界大戦の好景気など紆余曲折がありながら 日本楽器は日本を代表する楽器メーカーとして成長していきます。
寅楠の後を継いだのは天野千代丸でした。天野は組織改革を進め、ピアノ製造のレベルアップを図ります。
いろいろと動きはあったようですが、その1つとしてベヒシュタインとの提携がありました。
日本楽器はベヒシュタインの監督技師であるエール・シュレーゲル氏を招聘し技術的な指導を受けたのです。
シュレーゲルのもと日本楽器では「良い音とは」「よいピアノとは何か」など抽象的な議論が繰り広げられ、
それまでの規格にあってれば良いというようなピアノ造りではなく音楽を想定したピアノ造りになっていった
ようです。
私が今愛用している楽器はベヒシュタインなのでこういった話を聞くととってもうれしくなってしまいます。
日本楽器ではそれまで、スタイウエイをモデルにしてピアノ造りをしてきましたが、シュレーゲル以降はしばらくの間、
ベヒシュタインをモデルとする方向へ転換されます。
シュレーゲルは単にドイツのピアノ造りを日本で実践しようとした
のではなく、日本にあったより良いピアノを求めていたようです。たとえば日本で手に入る木材はヨーロッパと違っていたため、
ドイツで決めていた弦の長さや打弦点もそれに合わせて変更しています。生粋のこだわりの職人だったのでしょうね。
こうして日本楽器、ひいては日本のピアノ造りに多大な影響を与えた、シュレーゲルは昭和4年に約4年間の指導を
終えて帰国しました。
シュレーゲルが去った後、日本は軍靴が高く響く、暗い時代へと徐々に突入していきます。 戦争は世界的に広がっており、楽器作りに暗い影を落としました。 日本のピアノ生産は昭和2年頃から右肩あがりで伸び、昭和12年には過去最高の7515台を記録します。 しかし、昭和12年は日中戦争が勃発した年でもありました。 以降、ピアノ生産は激減していきます。ヤマハでも軍需産業への転換がせまられ、プロペラや飛行機の翼の部品などの生産が比重が 高くなって、ピアノ造りはほそぼそと続けられていくことになります。 そして終戦。
ヤマハも廃墟からの再出発となります。
しかしヤマハの動きは早かったようです。戦後2ケ月後には早くもハーモニカやシロホンなどの楽器の生産を復活させています。
昭和22年にはピアノの生産も開始されます。
そして昭和25年にはなんと、コンサートグランドFCを完成させます。
しかし、このコンサートグランドはあまり芳しい評価が得られなかったようです。いわく「下帯のゆるんだ音」。
具体的には音量の不足が最大の弱点とされました。
ただ、戦後の物質不足の中で、戦後5年にしてコンサートグランドを作り上げる、ヤマハの意気込みは
執念すら感じます。この酷評はヤマハの社長を激怒させ、激しい論争へと発展しました。しかし、結果的にはこの屈辱的な評価は
ヤマハの反骨心をあおり、ヤマハのその後の発展につながります。
その後、ヤマハは現代的な流れ作業によるピアノ生産を生み出します。そして、さらに木材を強制的に乾燥させる
「乾燥室」をつくりました。ヨーロッパのピアノ生産においては木材は切り出してから、数年かけて
乾燥させていきますが、ヤマハのこの技術は6時間から48時間という短時間で木材を乾燥させるというものでした。
ヤマハはこれらの技術や生産方法によって、ピアノの大量生産への道を開きました。
これらのことが楽器としてのピアノの、本当の意味での品質向上に役立ったかは分かりませんが、
ピアノ全体の価格を下げ、一般の家庭でもピアノが購入できるようになったことは間違いないでしょう。
こうした安価で品質が安定したヤマハのピアノは世界を席巻します。昭和33年に日本のメーカーから輸出された
グランドピアノの台数は59台でしたが、昭和40年には2794台を数えるまでに成長します。
そしてその中の2004台はヤマハのピアノでした。この急激な成長のため、スタインウエイなどのメーカーから
かなり警戒されたようです。
ヤマハは大量生産によって普及品をつくる一方、コンサートグランドへの挑戦も続けていきました。
その努力の結晶ともいうべきCFが発表されたのは昭和42年のことでした。
巨匠リヒテルはヤマハを好み、こんな言葉を残しています。
「世界には素晴らしいピアノが5つある。スタインウエイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ペトロフ、
およびヤマハである。このうちスタインウエイは誰が弾いても素晴らしい音が出るが、その音色のきらびやかさを、特に
若い奏者の場合、頼りすぎる場合が多い。しかし音楽はそういうものではなく心の感度を示すものだから、
自分としてはこれをうまく表せるものでないと気に入らない。ベーゼンドルファーはもっとも好きなもので
心の表現のためには最高だが音量が不足で、ベヒシュタインは戦前のものは素晴らしかったが、
戦後は品質が変わった。ペトロフはたとえばプラハの音楽堂にある楽器は申し分ないが、ほかのものには
品質のムラが多い。ヤマハは、完全なものではないが、私の理想に近づいた音の力強さと表現力を共に
備え持っている」
西洋音楽が日本に根付き始めたのは明治の頃。たかだか100年ちょっとぐらいの歴史しかない日本から、 世界のトップピアニストにこのように評価してもらえる西洋楽器ができたというのは、同じ日本人として 嬉しいですね。
僕が最初に弾いたピアノは兄からお下がりされたヤマハのアップライトでした。おそらく
大量生産華やかし頃の1台です。その後、10年ほどして、少し上級クラスのアップライトに
かわりました。このピアノは5年くらいしか使いませんでした。そして、次は
ヤマハのC3のグランドピアノ。これは約11年つかいました。
こう考えると、僕のとなりにはいつもヤマハが一緒にありました。
小さい頃、いつかグランドピアノが欲しい!と夢見たときに、そのピアノは
ヤマハをイメージしていました。
「ピアノはやっぱりスタインウエイ」という評価が日本でも多いです。 でもヤマハを弾いて育った僕は、ホールなどで本番があるとき、 ヤマハのピアノが置いてあるとやっぱり心のどこかで安心感があります。 それはどうしてかな〜と自問すると、やはり長年親しんだ音色だからということ。 そしてヤマハのピアノで調整的に問題があるというピアノはあまり でくわさないということも、その理由の1つかもしれません。
ヤマハの功績の1つは、ピアノの値段を押し下げてくれたことでしょう。
もしも、スタインウエイやベヒシュタインなどの高級ピアノしか
なかったら、僕なんかはピアノを弾くことはなかったと思います。
たくさんの人がピアノを弾ける環境ができたことによって、
ピアノ界の裾野が広がったことは間違いないでしょう。
僕は今はベヒシュタインを使っていますが、ヤマハには今後も
普及品を作る一方で「ヤマハにおける究極のピアノ」を追求していって
欲しいものです。
がんばれ、Made In Japan!