樋口一葉の日記から
其の壱

 トップページに載せた「樋口一葉の日記から」の保存版です。
 各本文を選んだことに、深い理由はありません。100年以上前の「今日」の一葉はどうだったかなと思い、その日その日の文章をひろい、私の簡単なコメントをつけたものです。 どうか、気楽に読んでくださいますように。
 また
トップページの日記は年月日に従って取り上げているわけではありません。そのため、コメントに重複がある、文章に統一性がない等の欠点がありますが、お許し下さい。

『全集 樋口一葉B 日記編』(小学館 1996年)より
     注:繰り返し記号は、ウェブページの都合上、適宜、平仮名・漢字に変えています。      

※ このページは、1891(明治24)年の日記について掲載

4月        4月15日   4月22日   
5月2日    5月15日   5月27日  
6月6日     6月10日   6月24日
9月24日
10月2日   10月7日    10月18日   10月28日   10月30日  
11月3日   11月23日    11月24日   12月25日


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4月   (『若葉かげ』)  
日記本文  花にあくがれ月にうかぶ折々のこゝろをかしきもまれにはあり。おもふこといはざらむは腹ふくるゝてふたとへも侍れば、おのが心にうれしともかなしともおもひあまりたるをもらすになん。さるは、もとより世の人にみすべきものならねば、ふでに花なく文に艶なし。たゞ其折々をおのづからなるから、あるはあながちにひとりぼめして今更におもなきもあり、無下にいやしうてものわらひなるも多かり。名のみことごとしう若葉かげなどいふものから、行末しげれの祝ひ心には侍らずかし。
    卯のはなのうきよの中のうれたさに
          おのれ若葉のかげにこそすめ
【注】「おもふこといはざらむは腹ふくるゝてふたとへも侍れば」は、「思うことを言わないのは腹が膨れる感じがするというたとえもあるので」。『徒然草 十九段』を踏まえた言葉。
「おもなきもあり」は「恥ずかしいこともあり」。
「名のみことごとしう」は「日記の題名だけは大げさに」。
「うれたさ」は「嘆かわしさ、癪に障るような感じ」
 一葉の生きた4月。
 4月11日から書き始めた日記「若葉かげ」の序文である。一般的には、この「若葉かげ」から本格的な日記が始まったとされている。これ以前、「身のふる衣まきの一」という文章や断片的な文章、詠草が残っているが、日記の体裁は整っていないとみなされている。
 さて、上記の文章に続く日記本文では、4月11日、吉田かとり子邸での華やかな花見の宴のさまが記してある。しかし、その邸に行き着くまでの記述もしみじみとして情感豊かだ。妹邦子を誘って上野の桜を愛で、亡き父を偲んで「山桜ことしもにほふ花かげに ちりてかへらぬ君をこそ思へ」という一首を詠んだこと、続いて昔の住居近くを通ってその景色の変貌ぶりに驚き、相変わらず何事もなし得ない我が身を嘆いたこと、隅田川沿いでは母のために桜餅を買って邦子に持たせたこと等。幸せであった往時への思い、今を生きねばならない心細さや辛さが、穏やかな文体の底に流れている。上流子女と交わりながら、その内奥では彼女らになじめぬものを感じ、世間への怨念を抱えて生き続けた一葉が、ここにも確かにいるのである。
 上記は、そんな一葉が書き始めた日記の序文である。「若葉かげなどいふものから、行末しげれの祝ひ心には侍らずかし」。一葉はこう言っている、「若葉かげ」などと大げさな題名を付けたが、これは将来立派になれという願いを込めた意味ではない、若葉の陰なのだ、と。「卯のはなのうきよの中のうれたさに/おのれ若葉のかげにこそすめ」。下記全集の脚注によれば、歌意はこうである。「白い花をつけた卯の花の葉かげに隠れて郭公が冥途のたよりを告げて鳴くように、私は身の上のなげかわしさに、厭世的な気持ちでこの日記を書いている」。――もうすぐ満19歳になろうとしている娘樋口奈津は、花の季節にこのような言葉を記して日記を書き始めたのであった。これから一生を終えるまで断続的に書き続け、途切れる毎に日記の題名は改められたが、当初から表れていたこの「うきよの中のうれたさ」、自らに対する「かげ」の意識は終生変わらなかったと言えよう。
4月15日   (『若葉かげ』)  
日記本文 十五日 雨少しふる。今日は野々宮きく子ぬしが、かねて紹介の労を取たまはりたる半井うしに、初てまみえ参らする日也。 ( 略 )  初見の挨拶などねんごろにし給ふ。おのれまだかゝることならはねば、耳ほてり唇かわきて、いふペき言もおぼへずのぶべき詞もなくて、ひたぶるに礼をなすのみ成き。「よそめいか計おこなりけん」と思ふもはづかし。君はとしの頃卅計にやおはすらん。姿形など取立てしるし置んもいと無礼なれど、我が思ふ所のまゝをかくになん。色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん。おもむろに当時の小説のさまなど物語り聞し給ひて、「我思ふに叶ふべきは人好まず、人このまねば世にもて遊ばれず。日本の読者の眼の幼ちなる、新聞の小説といわば有ふれたる奸臣賊子の伝、或は奸婦いん女の事跡の様の事をつゞらざれば、世にうれざるをいかにせん。( 略 ) 我は名誉の為著作するにあらず、弟妹父母に衣食させんが故也。( 略 ) 君が小説をかゝんといふ事訳、野々宮君よりよく聞及び侍りぬ。さこそはくるしくもおはすらめど、しばしのほどにこそ、忍び給ひね。我れ師といはれん能はあらねど、談合の相手にはいつにても成なん。遠慮なく来給へ」と、いとねんごろに聞え給ふことの限りなく嬉しきにも、まづ涙こぼれぬ。( 略 )
【注】「よそめいか計おこなりけん」は「よそ目には、どんなにか愚かしく見えただろう」、「卅計」は「30歳ぐらい」
 一葉の生きた4月15日。
 この日、一葉は初めて半井桃水を訪問した。まだ20歳にも満たない一葉は、母と妹を養うために小説家になろうと決心し、妹の友人野々宮菊子を介して半井桃水を頼ったのである。当時、彼は、「朝日新聞社東京支局員」として「東京朝日新聞」に小説や雑報を書いていた。
 桃水への印象は、「色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様」であったらしい。現在残っている彼の写真を見ても、なかなかの美男子であったようだ。思い詰めて弟子入り志願した一葉を、桃水は優しい言葉でもって受け入れ(彼女の記述によれば)、この日から師弟の交わりが始まった。また、やがては彼に対する思慕の情も募らせていくことになったのである。
 今日、半井桃水の名はほとんど忘れられている。「胡砂吹く風」、「五月闇」等の作品を残したが、現代まで広く読まれている作品はない。実は後に、弟子の一葉も、「文章粗にして、華麗と幽棲とをかき給へり。又みずからも文に勉むる所なく、ひたすら趣向意匠をのみ尊び給ふと見えたり」(「よもぎふ日記」明治26年2月23日)と評すようになるのである。が、弟子一葉の才能を見抜き、雑誌「武蔵野」を創刊して彼女に作品発表の場を与えたのは、他ならぬ桃水であった。後に彼女は桃水を離れて才能を開花させていくが、彼女の中で、桃水への恋慕が消えることはなかった。 
4月22日   (『若葉かげ』)  
日記本文 廿二日 例の、午後よりなから井うしをとふ。種々のもの語りども聞えしらせ給ひて、「先の日の小説の一回、新聞にのせんには少し長文なるが上に、余り和文めかしき所多かり。今少し俗調に」と教へ給ふ。「猶さまざまの学者達をも紹介し参らせんなれど、いさゝかさわる所なきにしもあらねばやみぬ。されど、吾友小宮山即真居士は良師ともいふべき人なれば、此君のみには引合せ参らせん」などの給ひ聞ゆ。「昨夜かきたる丈の小説の添刪給へ」とて差置たるまゝ、此日は早う帰りぬ。人一度みてよき人も二度めにはさらぬもあり。うしは先の日ま見え参らせたるより、今日は又親しさまさりて、「世に有難き人哉」とは思ひ寄ぬ。
【注】「なから井うし」は「半井桃水」のこと。「うし」は漢字では「大人」と書き、「先生」の意
 一葉の生きた4月22日。
 前回紹介した日記には半井桃水宅へ初めて訪問したことが書かれていたが、これは2回目の訪問についてのもの。桃水は、一葉の書いた小説が新聞小説としては「少し長文なるが上に、余り和文めかしき所多かり」と注意を与えたらしい。
 「小宮山即真居士」は、当時、朝日新聞東京支局の主筆をしていた小宮山天香(桂介)で、桃水はこの後5月8日に、彼と一葉とを引き合わせることになる。やがて、彼女の小説『別れ霜』が「改進新聞」に掲載されたのは、小宮山の陰ながらの尽力によるとの説もある。
 実は、桃水への訪問の日にちや話の内容等は、彼が一葉の死後に語ったものとは少し異なっている。たとえば、彼が明治40年に書いた「一葉女史」では、自分は彼女の小説家志望を諫めた、お互い独身なので手紙ですむことは手紙で寄こすようにとも言っておいた等。日記が正しいのか、桃水の言い分が正しいのか……。どちらとも言い難い。リアルタイムで書かれる日記が、必ずしも真実を述べているとは限らない。一方、桃水の言葉も、一葉の死後かなり年数が経ってのものだから記憶違いがあるかもしれないし、もしかしたら彼なりの配慮もあったかもしれない。ただひとつ言えることは、一葉は、日記という小宇宙で桃水への思いを育て、その屈折した感情が、書くことへのエネルギーのひとつになり得ていたということではないだろうか。
5月2日   (『若葉かげ』)  
日記本文 五月二日 小石川稽古也。空めづらしく晴渡りて一村のくもゝなければ、来給ふ人々いと多かり。師の君の給はく、「いかで、今日過さず、植物園のつゝじ、牡丹みてこんはいかに」とうながしたまへば、人々、「いとよき事なんめり」とて、みなみな、「うれし」と思ひたり。三時頃より十三人して行。師の君、例の直なる道は行たまはで、あやしう伝通院のうら薮めきたる所を分おはす。行ども行ども其道ならねば、ゆかるべくもあらず。里の子の草村に遊び居たる呼びてとひたるに、いとよく教へくれたり。見にくき子成しかども可愛かりき。「五時といふを限りに人は入ぬなり」といふを、十分ほど前なりしかば、あわたゞしく切符もとめて入ぬ。中のけしき人々のさまは、詞たるまじく、よ日 記しぬべし。六時頃みなみなかへる。
 一葉の生きた5月2日。
 「小石川」とは、一葉が学んでいた歌塾萩の舎のこと。萩の舎の弟子には、当時の貴族や中流以上の家庭の子女が多かった。一葉のような貧しい家庭の娘は例外中の例外だったのである。もっとも、樋口家も、一葉入門当時は父が生きており、経済的に多少の余裕はあったが。
 この日は、歌の稽古がすんだ後、師中島歌子の発案で植物園に出かけた。萩の舎では、このようにして植物園に出かけることがしばしばあったらしい。桂園派の流れをくむ和歌に花は重要な題材であるから、学びの意味もあって出かけていたのかもしれない。
 一行は13人。「師の君、例の直なる道は行たまはで、あやしう伝通院のうら薮めきたる所を分おはす。行ども行ども其道ならねば、ゆかるべくもあらず」。良家の娘達がほとんどだから、さぞかし美しい一群だっただろう。そしてそんな女性達の群れが薮の中を彷徨った。不安どころか、あでやかでにぎやかな絵模様が想像される。
 ただ、これに先立つ4月15日、一葉は半井桃水を訪問しており、彼から小説の指導を受け始めている。生活に窮し、小説家となって一家を支えていこうと決心した一葉は、この日の花見をどのように感じたのであろうか。「中のけしき人々のさまは、詞たるまじく、よ日 記しぬべし(よじつ しるしぬべし)」。名門の姫君令嬢達と共に、自身も華やかなひとときを満喫したのだろうか。いや、それだけではないような気がする。
5月15日   (『若葉かげ』)  
日記本文 十五日 ひる過るほどより、契りしやうに半井のうしを平河町にとふ。こたびの家はいとめでたき所也けり。行てのち、しばし有て帰らせ給ふ。「何等のみ用にや」とゝひ参らするに、「いなとよ、我がしる大阪の書しにて、雑誌をこたび発兌せんとす。『小説かく人世話し給はれ』と申しつれば、『君をこそ』と物語りおきつるなれ。さるをあやにくに、『露国太子殿下の急変にて俄に用事出来たり』とて、今朝しも汽車にて帰阪なしたり。断りまゐらせんともおもひたれど、はや及ばじとおもひてさしおきぬ。百罪ゆるし給てよ」と詫給ふも心ぐるし。此日はものがたり少しして帰る。日没まへ成し。
 一葉の生きた5月15日。
 「半井のうし」は、半井桃水。これは、一葉が桃水から小説の手ほどきを受け始めてひと月後の話である。
 一葉は、12日に桃水から来訪を請う手紙をもらい、この日に訪問した。だが、彼は出かけており、しばらくして帰ってきた。そして、次のように語った。
 知り合いの大阪の書肆で雑誌を出すので、小説を書く人を世話してくれというから、君(一葉)のことを話したが、あいにく「露国太子殿下の急変」で用事が出来、今朝帰阪した。君の来訪は断ろうと思ったが、間に合わないのでそのままにした、と。
 「露国太子殿下の急変」は、歴史上有名な「大津事件」である。また、話題となっている雑誌は、『なにはがた』というもので、明治24年4月から26年1月まで発行された、大阪文壇の代表的雑誌である。
 一葉が桃水主宰の『武蔵野』に掲載された『闇桜』で文壇デビューするのは、この10ヶ月後の明治25年3月である。そこに至るまでには、このように、話が持ち上がって頓挫するというようなこともあったのだ。
5月27日   (『若葉かげ』)  
日記本文 廿七日 前約の小説稿成しをもて、桃水ぬしにおもむく。今日は、我れ例刻より遅かりしをもて、君既におはしき。種々我が為よかれのものがたりども、聞えしらせ給ふ。帰宅し侍んとする時に、「今しばし待給へ。君に参らせんとて、今料理させおくものゝ侍れば」と、まめやかにの給ふを、例のあらくもいろひかねて其まゝとゞまる。やがて料理は出来ぬ。「こは、朝せん元山の鶴也」となり。さる遠方のものと聞に、こと更にめでたし。たふべ終れば、君、「いでや帰り給へよ。あまりくらく成やし侍らん」など聞え給ひて、今日もみ車たまはりぬ。かへりしは七時。 
 一葉の生きた5月27日。
 一葉の日記で、現存する最も古いものは、明治20年に書かれた『身のふる衣まきのいち』というものである。ただ、これやその後しばらく書いていた断片的な文章は、様式も文体も確定しておらず、雑記的なものであった。ここに挙げた『若葉かげ』はその4年後のものだが、雅俗折衷体で日件録様式で書かれ、晩年までそれが継承された。従って、『若葉かげ』から、一葉の本格的な日記が書き始められたと言われている。
 『若葉かげ』は、彼女が小説家として立つことを決意して約3ヶ月後に書き始められた。単なる文章修練や雑記のつもりで書き始めたのだろうか。いや、それだけではないだろう。ことさらにある部分が強調されたり、ある部分は隠されたりしているように思える。日記の中で、主人公としての「樋口一葉」が生きている。
 『若葉かげ』を記し始めた直後、一葉は小説を学ぶために桃水のもとに通い始めた。そして、上記のような桃水との交流を記録していった。以後、日記での桃水に関する記述からは、恋情の自覚、絶交後の痛みや思慕、屈折した感情等がありありと伝わってくる。戸主として生きる現実の厳しさに立ち向かっていた彼女は、日記の中で、もう一つの生を夢想していたのかもしれない。 
6月6日   (『若葉かげ』)
日記本文 六日 小石河稽古也。人々におくれて、みの子ぬしと二人手ならひする。帰路くら子ぬし、我家へ来給はんとあるに、いなみかねてともなふ。夜八時頃帰り給ふ。頼まれたる針仕事遅くまでする。
 一葉の生きた6月6日。
 「小石河」とは、一葉が学んでいた歌塾萩の舎のこと。「小石川」と書くのが普通だが、彼女は「河」の字を使うこともあった。一葉は、だいたいにおいて、漢字には無頓着なところがあったようである。
  「みの子」、「くら子」は、同じ萩の舎に学んでいた友人である。「みの子」は田中みの子。一葉より15歳も年上であったが、篤い友情で結ばれていた。一葉の日記には、彼女の名が頻繁に出てくる。『樋口一葉事典』(1996年 おうふう)によれば、歌の師中島歌子、小説の師半井桃水に次いで3番目の頻度で出ているとのこと。一葉は彼女と共に上野の図書館に通い(6月10日の日記)、また2人で萩の舎の代稽古もした。このみの子と一葉と、そして伊東夏子の3人は、皇族や華族ら上流社会の夫人や令嬢が通う萩の舎で、「平民組」と称して結束してもいたのである。
 この日は、仲の良い2人で手習いをしたとある。師中島歌子は、千蔭流という書も弟子達に教えており、一葉もこれを学んだのである。歌や古典や書を学び、そしていつ発表してもらえるかも分からない小説原稿もしたためながら、さらに、夜なべで針仕事もしなければならなかった。これが、満19歳の一葉の日々の生活であった。
6月10日   (『若葉かげ』)
日記本文 十日  (略)
 一日師の君のもとに小集有りし時、「座中の男女の年齢比らべせん」といふ人あり。「夫れをかしからん」とて師もの給ふ。男は六人にて女は十四人有り。「負くべきにはあらず」とおもへば、文雅堂のあるじ伊豆田、一渡りみ渡して数をとる。鈴木重嶺うしは、「七十八」との給ふ。「これ計にても女子の方の四人振は有よ」とて一同笑ふ。梅村のりをぬし七十、加藤安彦うし七十二、はや二百の数はこえたり。江刺恒久君七十、木村正養君少し下りて四十九、水野忠敬子四十、合て「三百七十九」との給ふ。女の方は師の君四十八、伊東延子ぬし五十九、みの子ぬし三十五、とよ子ぬしも同じく、かとり子ぬし四十七、小川信子ぬし四十五、これら少しは数のうちながら、残るはいずれもいずれも口をしきまでに若し。高田不二子ぬし廿三、前島きく子ぬし廿、田辺静子ぬしも「おなじく」、伊東の夏子ぬしも「おなじく」といへば師の君、「雷同し給ふにはあらずや」との給ふ。小笠原のつや子ぬし十六、広子ぬし十九、中む田恒子ぬしの十三などいふこと更に口をし。おのれは「廿」といへば、師の君、「あまりの掛値也。まけじだましゐか」と笑ひ給ふ。誠のことなるものから、いつまでも若き様に思ひ給ふもをかし。かぞふれば四百十九也。「あなうれしや、四十計のかちにこそ」とみなみなどよむほどに、小出粲ぬし来給ひぬ。「すはや、味方の一人ふゑたるよ」とて、男方又色めきてみゆ。「君はいくついくつ」とせめとへば、おもむろに、「戸籍改めにや。拙者は当年六十歳」との給ふ。まことにはおはすべけれど、空言にやと計にくし。決をとれば、こなた廿のまけに成ぬるぞ、限りなくうらめしきや。
 一葉の生きた6月10日。
 これは、9日に萩の舎で月次会が行われた際、座興で、男女の年齢比べをした様子を記したもの。萩の舎は、何度も書いたように、上流子女が通っていたところだが、客員として男性歌人や高級官僚、華族の男性も名を連ねていた。「鈴木重嶺」、「梅村のりを」、「加藤安彦」、「江刺恒久」は、みな歌人。「木村正養」は官僚、「水野忠敬」は元大名。
 この場面、他愛もない遊びに興じる名流の人々が目に浮かぶ。王朝女流日記に見られるような、華やかなサロンでの遊びである。一葉の日記は、他の近代作家の日記とはいろんな意味で性質を異にしている。このように、王朝女流日記文学を模しているような場面も、その特徴の一つである。
 尚、年齢は当然ながら、数え年。一葉が自分の年齢を20歳と言ったのは嘘ではない。だが、これを聞いた師の中島歌子は、負けん気で年を多く言ったと思ったらしい。一葉はこれを「いつまでも若き様に思ひ給ふもをかし」と記しているが、某資料によれば、一葉自身が、明治23年頃は年齢を2つ若く言っていたらしいのだ。とすると、一葉のこの感想には、嘘(虚構)があるということか。
6月24日   (『若葉かげ』)
日記本文 廿四日

 究竟は理即にひとしとぞきく。入りなんとする昔しの迷ひと、覚めはてぬる後の悟と、それ大方は似たるべし。此わか葉かげ、そも迷夢のはじめか、悟道のしをりか。かれ木の後に見る人あらばとて、
   なほしげれくらくなるとも一木立
  一葉の生きた6月24日。
  2002年に岩波書店から出版された影印版『樋口一葉日記』を見ると、24日という日付のすぐ下には何も書かれていない。このページは、20日分の記載の残り、21日、22日、23日それぞれのごく短い記述、そして24日という日付で終わっている。これらの文字の大きさから推測すれば、あと2、3行は書けそうだが、そこは余白のまま残され、次のページ(裏表紙の見返し)に上記の言葉がある。文字もこれまでのものよりは大きい。そして、これで『若葉かげ』は終わっている。従って、上記は24日の日記文というより、『若葉かげ』の跋文と考えられる。『樋口一葉事典』(おうふう)の解説でも「跋文」と見なしている。
  「究竟(くきやう)は理即(りそく)にひとしとぞきく」は、『徒然草』第217段に出てくる言葉である。蓄財のためには欲を抑え銭を使うなという大金持ちの心構えは、貧乏人に人間的な欲望を捨てて貧しさを悲しむなというのと同じだ、そう考えれば、貧乏も富裕も区別はない、つまりは悟りは迷いに等しいのだ、というのがその概要である。
  その『徒然草』中の一言を踏まえ、一葉は書いている。「迷いのために何かをしようとする、その迷いと、目覚めた後の悟りとは、大体は似ている。この日記の「わか葉かげ」は迷いのはじめなのだろうか、それとも悟りへの道しるべなのだろうか」と。経済上の不如意を小説で解決すべく、彼女は半井桃水の門を叩いた。序文では、「おのれ若葉のかげにこそすめ」と書いて始めた日記ではあるが、4月以降の記載からは、桃水との交流の中に活路を見出そうとする喘ぎも窺える。それが「迷夢のはじめか、悟道のしをりか」という自問に表れているのかもしれない。
  これ以前の6月17日、桃水は彼女に、当時の『東京朝日新聞』主筆小宮山桂介の助言も交えて創作上の意見をしたようである。それが彼女にとってはかなり苦いものであったらしく、帰路には、「堤の柳の糸長くたれてなびくは、人もかく世の風にしたがへとにや、いとうとまし。(略)思ふことある身には、みる物聞ものはらわたを断ぬはなく、ともすれば、身をさへあらぬさまにもなさまほしけれど、親はらからなどの上を思ひ致れば、我身一ツにてはあらざりけりと、思ひもかへしつべし。」という痛ましい心境にまで陥っていた。しかもこれには、創作上の苦しみだけでなく、思慕する桃水への複雑な心理(下宿人の女性を妊娠させたという誤解。本当の相手は桃水の弟だったが)も働いていたらしい。「身をさへあらぬさまにもなさまほし」、つまり死んでしまいたいほどという思いは、そこから生じた苦悩であろう。生活はますます逼迫していくのに、小説はなかなか売れるようなものが書けない、師とも兄とも思って頼り慕う人には他の女性の影がつきまとっている……。今で言えばまだ19歳の娘である。理性では制御できない混濁したものが渦巻いていたのかもしれない。彼女は、この後しばらくは桃水宅へは行かなかったらしい。
  そして、この24日の日付を最後に、『若葉かげ』を続けることも止めた。何らかの区切りをつけたかったのであろうか。生活の手段への模索、また、桃水への複雑な感情も関与しているか。意味深な空白であるが、意図的なものなのか否かは分からない。
  次の日記らしき体裁を整えたものとして残されているのは、7月17日からの『わか艸』である。
9月24日   (『蓬生日記 一』)
日記本文  (略)
 甲州なる広瀬七重郎来る。同姓ぶんの犯罪に付、上告事件の為成といふ。おのれの為にも遠縁の親族なれば、いといたう心にかゝりて、「そはいかなる事件にか」とて猶とふに、「いはんもいとはづかしう、つゝましけれど、えいわではつべきにしもあらねば」とてかたる。「おのれがめひなるものから、文こそよの淫婦にては有けれ。夫をかゆることはや六、七人にも成ぬ。今相添ふは信州の種商人にて、小宮山庄司となんよぶおのこ成けり。此前にもてるは、同じ郡の北野象次といふもの成き。(略) 
       
【注】 「文」は「ぶん」のこと。 「夫」は「つま」と読む。
 一葉の生きた9月24日。
 「広瀬七重郎」は、一葉の父則義の従弟に当たる人。「ぶん」は七重郎の姪で、彼女の父が早世したので、七重郎が代わって面倒を見ていた。尚、この広瀬ぶんも一葉の父則義の従妹に当たるのだが、その複雑な経緯については省略する。いずれにしても、2人は樋口家にとっての親戚である。「上告事件」というのは、広瀬ぶんが「小宮山庄司」と謀って美人局まがいの恐喝詐欺をしたと訴えられ有罪となったため、東京控訴院に上告したというものである。
 広瀬ぶんは、最初の婚家から逃げ帰って以来、家出を何度も繰り返しては七重郎に連れ戻されていた。七重郎は、彼女の素行を改めさせようと再婚に手を尽くしたが、何度結婚させても、やはりそこに落ち着くことがなかった。今回の事件は、彼女のそんな奔放さが招いた悲劇であった。
 訴えたのは、「北野象次」である。彼は、七重郎が世話したぶんの何度目かの再婚相手だが、ぶんが小宮山庄司と関係したため、離縁していた。だがその後、過ちを悔いたぶんは、北野と再び交際するようになった。そして、この年の4月、甲府の旅館でぶんと北野が会っていたところ、小宮山がその現場に現れた。逆上した小宮山は、北野を脅して示談金100円を要求した。しかも、ぶんも、公衆の面前でなじられるのを恐れて態度を翻し、小宮山の側についてしまった。これに怒った北野が、小宮山とぶんを訴えたというのが、事件の概要である。
 裁判では一審も二審も有罪で、この3日後の9月27日に上告も却下され、ぶんは執行猶予監視付きとなり、樋口家が監督を引き受けることになった。
 この後、ぶんは小宮山としばらく同棲したこともあったが、やがて甲州の七重郎の元に帰り、30代半ばで近所の家に嫁ぎ、以後、95歳で世を去るまで静かな後半生を送ったという。一方の小宮山は人力車夫に身を落とし、自分の元を去ったぶんを忘れられず、一葉の所に消息を尋ねに来たこともあった。このような彼の姿は、『にごりえ』の源七に投影されているとも言われている。
 結婚の経験もなく、20代半ばで亡くなった一葉であるが、彼女が遺した短編には、底知れぬ暗闇が潜んでいる。それは、彼女の周囲のこんな人間模様も影響しているのかもしれない。
10月2日   (『蓬生日記 一』)
日記本文 二日 曇天。今日の新聞に「津田三蔵肺炎症にて空知監獄に死す」てふ文あり。暴風雨の損害ども多くのせ、「野菜のいたく高値に成たり」などもしるせり。「『国会』『朝日』の内幕」とていたく攻げきしたる、商売忌敵かあらぬか、にくしとおもふも我心からなめり。午後より藤田屋参る。金七円計来月返金の約束にて貸す。庭の木石などつくろひくるゝ。干物の蚕豆一舛到来せしかば、庭前なる冬瓜一ツ送る。薄暮に成て帰宅す。(略)
【注】「蚕豆」は「そらまめ」
 一葉の生きた10月2日。
 一葉は、ごくまれに、新聞から得た情報を日記に記すことがあった。
 「津田三蔵」は、この年の5月、ロシア皇太子を斬りつけて世を騒がせた大津事件の服役囚である。この日、彼女が見た新聞が何かは不明である。筑摩書房版『樋口一葉全集 第三巻(上)』の「蓬生日記一」の注釈には、「『讀賣新聞』明治二十四年十月二日付が報じた「○津田三蔵死去す」によれば、三蔵は三十日午前零時二十分肺炎のため北海道釧路の集治監で病死したとある。」と記されている。これが正しいとすれば、一葉の記した空知監獄というのは誤りであるようだ。
 「暴風雨」は9月30日の台風のこと。一葉宅に被害はなかったが、場所によっては家屋、樹木、塀垣がつぶれたところも多かったらしい。その台風のために農作物の被害も甚大で、野菜の値上がりの記事も見られたのであろう。
 「藤田屋」は、父樋口則義が存命の頃からの知人で、植木職人であった。樋口家とはかなり懇意にしていたらしい。貧しくて他から借金ばかりしているはずの樋口家は、この日、この藤田屋に7円もの金を貸している。樋口家は借金の仕方も半端ではないが、いくらか入手できれば、それをさらに困っている知人に渡したりもしていた。相手が困っていれば助けて当然、こちらが困っていれば助けられて当然、樋口家の人々の金銭感覚はそういうものだったようである。
 
10月7日   (『蓬生日記 一』)
日記本文 七日 快晴。午前、髪すましぬ。午後より文机に打むかひて文どもそこはかとかいつゞくるに、心ゆかぬことのみ多くて、引さき捨引さき捨することはや十度にも成ぬ。いまだに一篇の文をもつゞり出ぬぞ、いとあやしき。早うものし初たるになむ、師の君に一回丈添削を乞いたるあり。そがつゞきをつゞらばやと思ふに、我ながらおもしろからで、かうは引やりつるなれど、さてしはつべきならねば、別に趣向をもうけなどして、又つゞり出るに、夫もこれもいとつたなし。昔し今の名高き物語も小説も、みる度に我筆我ながらかなしう成て、はてはては打も捨まほしけれど、中々に思ひ初つることえやむまじきが心に、をこがましけれど又つゞしり出ぬ。「あさて迄にはかならず作りはてん、これ作りはてねば死なん」とおもふも、「心ちいさし」と笑ふ人はわらひねかし。
【注】「夫」は「それ」と読む。
 一葉の生きた10月7日。
 一葉は、この年の初めに小説家として立つことを決心した。そして4月に、「東京朝日新聞」の小説記者半井桃水に弟子入りし、以後、彼のもとをしばしば訪れて指導を受けていた。だが、6月末からしばらくは桃水に会っていない。
 一葉は、この頃、『かれ尾花』と『
なし小舟』を書いていたが、『なし小舟』には和歌の師中島歌子の添削が加えられている。10月のこの日の記述に出てくる「師の君」は、中島歌子のことかもしれない。ただし、『かれ尾花』も『なし小舟』も、完成することはなかった。いずれも『源氏物語』等の古典の影響が強い、雅文体の小説であった。
 一葉の作品が世間で認められるようになるのは、龍泉寺時代を経た約3年後である。この頃は、家族からの重圧、生活への不安、展望のない将来への苦悩等に苛まれながら、ただひたすら修練を重ねていたようである。そのような中で、彼女は、社会の厚い壁や人間のどうしようもない運命、そして一人一人の心の底に澱む闇の存在に気づいていったのであろう。
10月18日   (『蓬生日記』)
日記本文 十八日 晴。(略)午後より菊子ぬし参らる。卒業しけん終り給ひて、いとよろこばしげ也。「一昨日より半井君のもとに遊びて、よべ帰りぬ。『夏子ぬしはいかゞし給ひしや』など、いといたう打案じての給へりし。参らせ給へよ」などの給ふ。こゝにもかねてより、参り寄らまほしく思ひながら、猶なんさわる事ありてまかでぬを、常に心ぐるしうてのみなんある。かうねんごろにの給ふにも、猶いとはづかし。さまざまもの語りありて帰り給ふ。(略)十一時頃ふしどに入しかど、思ふこと多くて、いもねず。一時計成けん、花しよの国には致りつきぬ。
【注】「さわる事」は差し支え、支障。「一時計」は「いちじばかり」で、「一時頃」。
「花しよの国」は「華胥の国」。「華胥には致りつきぬ」は「眠りに入った」
 一葉の生きた10月18日。
 「菊子ぬし」は野々宮菊子のこと。この時は東京府高等女学校の小学校教員養成部に通っていた。
 彼女はそれ以前に、木村裁縫伝習所という裁縫学校に通っていたが、そこに一葉の妹国子も通っており、その頃に2人は親しくなったようだ。卒業後、菊子は上記の女学校へ通うようになったが、その学校に半井桃水の妹幸子がいた。半井家に女手が少なくて家事に困っていると聞いた菊子は、友人樋口国子の家が家計に窮していることを思い、半井家の洗濯や縫い物の仕事を紹介した。これが、樋口家と半井家との交際のきっかけである。一葉が小説家になろうという意志を持って、菊子の紹介で初めて桃水に会ったのはこの年の4月15日だったが、それ以前から、樋口家の女性は半井家に出入りしていたわけである。
 さて、その桃水から小説の手ほどきを受けるようになって約半年。初めの頃は、しばしば半井家を訪問していた一葉であったが、この頃は「さわる事ありて」足が遠のいていた。それは何だろうか。上野の図書館へも通い、小説の勉強を怠らない彼女ではあったが、桃水の助言を重く受け止めて落ち込むこともあったし、才能の不足を悲観してもいた。が、何よりも大きかったのは、桃水にまつわる不品行の噂であった。彼の家には幸子の同級生鶴田たみ子が下宿していたが、彼女が7月に女児を産んだ。実は、桃水の弟浩の子だったのだが、桃水がたみ子に生ませたという噂が広まっており、国子も9月末にその噂を聞きつけて一葉に告げていたのだ。桃水を男性としても意識していた一葉は、このことに衝撃を受け、ますます桃水宅へ通いがたくなっていたと思われる。この日、菊子が語る桃水の名を、一葉はどのような思いで聞いたのだろうか。「思ふこと多くて、いもねず」という言葉が、とても痛々しく感じられる。また、女学校卒業の目処が立ち、前途洋々の菊子に引き比べ、先の見通しの立たない自らの状況や、闇に立ち往生する片恋。その悲嘆は察するに余りある。 
10月28日   (『蓬生日記 一』)
日記本文 廿八日 曇天。六時頃、急なる地震あり。「ことしは大地しんの卅七年」とかやいひて、いとうあやふがる人も有るなり。十時頃坂上なる洗たく店の主来る。「明日午後までに綿入二枚仕立貰度し」と也。断らむもさすがにて、いけがふ。午後よりもてくる。国子と二人して日没迄に平縫丈なし終りぬ。暮てより、空晴行。風少し吹く。例の手ならひ一時計して作文にかゝる。
【注】「卅七年」は「三十七年」、「貰度し」は「もらいたし」、「一時計して」は「いっときばかりして」
 一葉の生きた10月28日。
 「急なる地震」は、濃尾大地震。この前日の日記にも、朝7時に地震があったことを記している。この日の大地震の前兆だったのだろう。「大地しんの卅七年」というのは、全集の注によれば、天明2年、文政2年、安政元年、安政2年と、ほぼ37年おきに大地震が起きたことから、安政2年の江戸大地震から37年目に当たるこの年に大地震が起こると噂されていたことを言うものらしい。
 まだ、情報の遅かった時代である。東京に住んでいた一葉らが、この日の地震で大変な被害が出たことを知ったのは、翌29日の新聞を見てからである。そして、その29日、さらに30日には新聞から得た地震の情報や、自らの不安などを記している。
 ところで、一葉の日記全てを詳細に点検したわけではないので、いい加減なことは言えないが、彼女は、地震、火事については、比較的こまめに記載しているように思う。その理由についても、まだ考えてみたことはない。が、先人の遺してきた日記や随筆等の古典が、彼女の意識の中に様々に混在していたのではないか……そんなことを、このようなところから考えてしまう。
10月30日   (『蓬生日記 一』)
日記本文 三十日  風止まず。空曇りたる様にて、いと寒し。新聞の来る遅しと取てみるに、此度の災害地の殊に害を被むりしは、岐阜県下及大垣、笠松など也。殊に岐阜は全市焼失、更に実情相知れず。岐阜接近の場所、加納、笠松、関、大垣辺、死傷算なく、焼失崩潰等枚挙にいとまあらずといふ。「江崎牧子ぬしは、上加納高岩町に居し給ふなる、如何し給ひけん」と思ふに、涙たゞこぼれにこぼる。されど鉄道も電信も郵便も不通成りといふに、安否を問参らする事も能はず、空しう打なげきて空のみながめぬ。( 略 )
 一葉の生きた10月30日。
 この年、一葉は19歳。小説家として立つことを決意し、半井桃水の指導を受け始め、また、上野の図書館にも通い始めていた。小説の師桃水に、一葉は恋心をも抱いていた。

 「此度の災害」とは、「濃尾大地震」のこと。28日、29日ともに、一葉は地震のことを書き、被害を心配している。
 この記述の後、一葉は桃水のもとを訪れたことを長々と綴っている。彼の家に同居していた鶴田たみ子が7月に女児を産んでいたのだが、一葉は彼の子だと思いこんで心を痛めていた。実は彼の弟浩の子で、この日一葉は桃水から釈明を聞くのだが、彼女はこの後も長い間桃水を疑い続けた。恋する女の心は、その恋ゆえに不安定でもある。
11月3日    (『蓬生日記 一』)
日記本文 三日 天長節なれば例によりて餅少し計つかす。山下君参る。しるこをとゝのへて参る。雑誌をかる。「『早稲田文学』をからん」とて約束す。午後に君は帰る。午前のうちに裁縫上着丈なし、午後よりした着の裾直しをする。各評廻る。田中君より滝の川の誘引状あり。断りを出す。日暮れてより書見。
【注】「計」は「ばかり」
 一葉の生きた11月3日。
 「天長節」については、1895(明治28)年11月3日の日記でもほんの少し触れておいたが、要するに明治天皇の誕生日であった。それで、樋口家でも餅を用意して祝ったらしい。「山下君」は、山下直一(なおかず)。一葉の父の友人の息子であった。樋口家がまだ豊かであった時代、書生として寄宿したこともあったらしく、この頃も頻繁に訪問していた。一葉は、よく彼から雑誌を借りている。この日も『早稲田文学』を借りる約束をしているが、金銭的余裕がなく、同時代の文学を学ぶための雑誌すら買えない彼女には、こうした父の時代からの知人が、かけがえのない援助者でもあったのだ。
 この日の「裁縫」は、全集の補注によればおそらく歌の師中島歌子からもらった着物で、それの寸法直しらしい。「滝の川の誘引状」は、歌塾の友人からの紅葉見物の招待状である。しかし、借りた雑誌で小説の勉強をし、お下がりの着物を直して着なければならない生活の中では、物見遊山を楽しむ余裕はなかったのであろう。
 翌日の日記には、一葉は、「今日より小説一日一回づヽ書く事をつとめとす」と書いている。実際には計画通りにはいかなかったのだが、追いつめられた状況での決意が何とも痛々しい。
11月23日    (『よもぎふ日記 二』)
日記本文 廿三日 半井君より書状来る。「幸閑に付来訪され度し」となり。「午後より行かまし」の心にて其かまへなしつるに、正午より空俄に暗く成て、大雨只盆を覆す様也。母君も、「心地なやまし」とて打ふしなどし給ひしに、「路もいと難儀なめり。彼方にてもかゝる折に人の来訪するはいたく迷惑のものなれば、今日はやめにせずや」などの給ふ。例の怠惰心に制せられて、行ず成ぬ。雨、日暮て後も降にふる。今宵も三時に床へは入りぬ。
【注】「幸閑に付来訪され度し」は「さいわい、ひまにつき、来訪されたし」。「かまへ」は準備。
 一葉の生きた11月23日。
 一葉が亡くなったのは、1896(明治29)年11月23日だ。今、この日は一葉忌と言われている。彼女の顔がお札になった今年は、記念の催しがいつもより多いかもしれない。勤労感謝の日の行事には及ばないだろうが。
 上記の11月23日は、亡くなる5年前。まだ小説家のタマゴとして、習作に四苦八苦していた頃だ。彼女の作品が初めて活字になったのは翌年の3月末、その後「たけくらべ」の舞台となった龍泉寺町の時代を経て、丸山福山町に転居したのが3年半後の1894(明治27)年5月。今日知られている彼女の作品の多くは、この町に移ってから書かれた。そして、「たけくらべ」が鴎外の絶賛の栄に浴すのは、亡くなる年の5月である。日本の近代文学という石ころ道を、僅か4、5年で一気に駆け抜けたような一葉の小説家人生。それほどに短いのに、彼女の生と作品は、今日も人々の心を捉えて放さない。不思議と言えば不思議である。
 さて、上記の日記である。小説の教えを請うために半井宅に行こうとして、前日に都合を尋ねる書状を出していたのだ。その返事が来たという記述から始まっている。が、この日は大雨が降って止め、訪問は翌24日になった。半井桃水を男性としても意識し始めていた一葉にとって、訪問での差し向かいの一時は感慨深いものだったようで、彼の一言一言を実に詳細に再現している。その一端は、24日の日記をご覧いただきたい。
11月24日    (『よもぎふ日記 二』)
日記本文 (略)
例の人なき小室の内に、長火桶一ツ間に置てものがたりすることよ。我が学びの友達、あるは親戚の人々などに聞かせ奉らんに、何とかはそしられん。あやしかるべき身にも有哉。まして、かたみに語り合ふことなどいとまばゆしかし。新作せんとおもふ小説の趣向筋立などかたりて、おしへを乞はんとてのすさび成けり。君まづの給ふ。「いかなる趣向かつきたまひし。承らまほしう」といふ。心決しては来たりしものから、何となくはなじろみて、爪くはるゝ心地しけるぞわろき。「いとなめげなることなるに、『あからさまには』とも一度は思ひはべりしながら、文にはことに意を尽しかねて、みづから参り侍り」とてかたりいづ。「骨子は片恋といふことにて侍り」とて、其筋だてなどかたる。「そは、いとよかるべうこそ。其くだりはかくかくせばよからん。こゝはかくせば」などの給ふ。 (略) かくて十二時にも成ぬ。ひる飯、本宅よりもて来たりぬ。辞しかねて、こゝにてたべぬ。「君は、など、さは打とけ給はぬ。おのれはかゝる粗野なるおの子なれど、恐れ給ふにはたらじを」などいふに、「などかはさること侍るべき。こはおのれが性ねにそ侍れ。年久しく相馴たる友はみなしることにて、かくかたくなゝるが本色にさふらふ」といへば、君も少し打笑ひて、「さることにや。されば猶ぞかし。おのれもみる所こそかゝれ、心は君がの給ふごとなるものに侍るを。哀、友とし給ひて、隔てなくものし給へよ」といふ。「そは今はじまりたることかは。おのれはたゞ、師の君とも兄君とも思ふなるを」といふに、君また少しものいはず成ぬ。少しありて、「哀、我身こそ幸なきものなれ」(以下散佚)
【注】「かたみに語り合ふことなどいとまばゆしかし」は、「互いに語り合うことなど、とても恥ずかしい」。
「何となくはなじろみて、爪くはるゝ心地しけるぞわろき」は、
「何となく気後れがして、爪を噛むような心地がしたのはみっともなかった」。
「いとなめげなることなるに」は、「(こちらへ訪問するのは)たいそう不作法なことなので」。
 一葉の生きた11月24日。
 5千円札の顔になった一葉。それもあってか彼女に関心を持つ人が増え、一葉関係の行事も盛んなようだ。生前より様々な形で世人に騒がれ、死後100年以上経った今でさえ人々の心を捕らえて止まない一葉。彼女がこの世に生きた時間はわずか24年と数ヶ月だ。しかし、その短さと、彼女にまつわりつく幾つかの逸話とが相乗効果を生むのだろうか。今や、一葉は伝説の人だ。百人百様の一葉像が、それぞれの心の中で生き続けている。それはそれでいいのだろうが………。
 上記の日記は一葉が満19歳の時のものである。この頃は、生活のために小説家を志し、半井桃水に師事していた。この日も、小説の指導を受けるために彼の仕事部屋を訪問した。だが、若い女性が30代の独身男性(桃水は愛妻を病気で亡くしていた)と狭い部屋で2人きりで向かい合う……何というはしたないことと眉を顰められかねない。彼女自身そんな躊躇を記しながら、それでも面会の一部始終を詳細に思い起こして記録した。途中の省略部分には、桃水の恋愛観が書き留められている。約1時間ばかり話して昼になった。昼飯をすすめられ、断りかねて2人で食べた。
 その食事をしながらの会話だろうか。緊張して堅くなっていた一葉に、桃水が、自分は粗野な男だが恐れることはないからうち解けるようにと言った。彼女は、怖がっているのではなくて、堅くなるのは本性なのだと応えた。桃水は少し笑って、ならばなおさら楽にして自分を友と思って気兼ねのないように、と。対して一葉は、あなたを先生とも兄とも思っている、と。この言葉に、桃水は少し黙った。そして、しばらくして次のような感慨を述べ始めた。「ああ、私こそ不幸な者はいない……」。
 一葉が桃水を先生とも兄とも思っていると言った後、彼はなぜ沈黙したのか、そして一葉がこれをどう解釈したのか、よく分からない。また、この後桃水はどのような話をしたのかも、興味深いところだ。この時期、すでに一葉は桃水を慕い始めていた。したがって、この場面にも恋の匂いを嗅ぎ取ることはたやすい。だが、ここ以下は無くなってしまっている。一葉自ら破り捨てたのだという説もあるが、たまたま無くなってしまったのかもしれない。この後に続く日記で、最も近いものはこの年の12月20日か21日の後半部分で、ここも前のところは無い。つまり、11月24日の後半から12月20日あるいは21日の前半部分までが、意図的に捨てられたかたまたま紛失したかで欠けているのだ。そして、欠落部分に続く12月20日あるいは21日の後半は、桃水宅での話の続きである。「約束の妻君ことはりにしたりし家政改革の物がたり等あり。」などという言葉が意味深で、だからこの間に何があったのか、ついつい尾ひれを付けて想像してみたくなってしまう。
 だが、事実は闇の中だ。この欠落部分には、実は一葉の借金の申し込み(月末だから諸方面への支払いが迫っている)の記載があったのではないか、それを後に本人か誰かが切り取った、そのため、さも恋愛感情の高まりが書かれていたかのように想像されてしまう、という解釈(和田芳恵氏等)がある。また、欠落部分のことはともかく、11月24日の記載からは、思わせぶりな言動をする桃水に対して警戒的な一葉の姿勢が読み取れるという見方もある。いずれにも、なるほどと思わせられるのだが、それ以上のことはとにかく分からない。遺された物に対しては、あくまでも冷静で慎重な対処を心がけたいと、一葉忌を控えて改めて思う。
12月25日    (日記断片 その一
日記本文 廿五日 晴天。寒気ことに甚だし。午前に髪あげをなし、母君、安達へ歳末に趣き給ふ。佐藤梅吉歳暮に来る。鮭の魚一尾到来。今日は、半井うし、約束の金持参し給ふべき約なれば、其事となく心づかひす。庭前の梅一輪(以下散佚)
【注】「趣き給ふ」は「赴き給ふ」。
 一葉の生きた12月25日。
 この日記は前後が散逸している。現存するものは、12月20日か21日かの途中からであって、22日、23日、24日と続き、25日の途中でまた無くなっている。従って、「日記断片」というのは一葉が付けた題ではない。欠けている部分には興味をそそられるが、あえて触れないことにする。
 「安達」は、安達盛貞宅。一葉の父則義は、上京して約2年後の1859年に御勘定組頭菊池大助の中小姓となるが、安達盛貞はその時に共に仕えた人物であった。則義死後も繋がりは深く、金銭の貸借もあったらしい。また、血縁関係はないが、則義の兄ということにもなっていたため、日記には「伯父君」として記載されることもあった。この記述は、そのような付き合いの一端が窺えるところである。
 「佐藤梅吉」も、父の関係した人物である。一葉の両親は、上京直後は同郷の成功者真下専之丞宅の家僕になる。そこに、同じく甲州出身の梅吉がいたのである。樋口家と彼との交流も長く、則義死去の際には形見分けもしたらしい。
 「半井うし」は、桃水。一葉は、この数日前に彼に借金を申し込み、25日の晩に持参するという返事を貰っていた。「心づかひ」とは、彼を迎える準備であろうか。続く「庭前の梅一輪」という言葉につい気を取られてしまいそうだが、興味本位の想像は止めよう。……お金は、結局は使いの者が届けに来たらしい。
 いずれにしても、家計逼迫の中で諸方の付き合いも等閑に出来ない事情を抱え、若い一葉が支える女ばかりの家は漸うのことで年の瀬を切り抜けようとしていたのであった。

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