樋口一葉の日記から
其の弐

『全集 樋口一葉B 日記編』(小学館 1996年)より
     注:繰り返し記号は、ウェブページの都合上、適宜、平仮名漢字に変えています。      

※ このページは、1892(明治25)年の日記について掲載

1月1日     1月2日      1月8日     1月12日      1月13、14、15日
2月4日     2月19日
3月18日    3月20日     3月21日
4月5日
6月7日     6月15日    6月22日
7月1日
8月21日    8月27日
9月3日     9月5日     9月15日    9月18日     9月23日
10月2日    10月11日             10月19日    10月20日    10月24日
11月9日    11月11日   11月11日続き

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1月1日     (『につ記 一』)
日記本文  まつ人、をしむ人、喜こぶ人、憂ふる人、さまざまなるべき新玉のとし立返りぬ。天のとのあくる光りにことし明治廿五といふとしの姿あきらかにみえ初て、心さへにあらたまりたる様なるもをかし。人よりはやくといそぎ起て、若水くみ上るもうれし。よべは雨いたくふりて、風さへにすさまじかりしを、名残なく晴渡りて大空の色のみどりなるに、いかのぽりの声のいさましきも、つくばねののどかなる声もまじりて聞え渡れる、何となくうれし。きのふより気候とみにことなりて、気味わろきまであたゝけし。地震のこと心にかゝればなれど、埋火のもと遠くはなれて、梅花の風軒ばにゆるく吹く。「か計の新年まだせしことなし」とて人々よろこぶ。いつも雪の様にみゆる霜の、今朝し置たりといふ色だになければ、
    いか計のどかに立し年ならむ
        霜だにみえぬ朝ぼらけかな
とおもはれぬ。雑煮いわひ、とそくみなど例年の通りなり。化粧などしてさて書初めをなす。国子は
 「日出山」をしたゝめたり。おのれのは、
    くれ竹のおもふふしなく親も子も
         のぴたゝんとしの始とも哉
など様のことをしたゝむ。( 略 )
【注】「天のとのあくる光り」は「天の岩屋戸が開けて姿を現した初日の光」。「いかのぼり」は「凧」。「つくばね」は「衝羽根」。「か計の」は「かばかりの」で、「これほどの」という意味。
 一葉の生きた1月1日。
 110年前に一葉が迎えた元旦の感想である。 「天のとのあくる光りにことし明治廿五といふとしの姿あきらかにみえ初て」云々は、いささか大げさにも感じられるが、彼女には期待するものがあったのであろう。既に半井桃水について習作を始めていた彼女は、この明治25年より小説を公にし始め、やがて世間の注目を集めるようになるのである。この年頭にその予感があったか否かはともかく、新たな年に向かって進もうとする、凛とした気概が感じられる一節である。「くれ竹の」の歌が、それを一層よく表していよう。 
 
1月2日     (『につ記 一』)
日記本文 二日 曇天。早朝より年始着の三ツ揃へ仕立にかゝる。訪人まれなる宿のならひ、「あら玉のとし」ともいわず、いといとものゝ静かなる、もとめねど閑成けり。午後より小宮山来る。おぶんの物がたり四時頃までする。今日年頭にこし人は、土田恒之助、ならびにもと師の君がり仕へたる玉とよぶ女、今二人三人成けり。今宵も裁縫に夜をふかしたり。
【注】「師の君がり仕へたる」は「師の君の下で仕えていた」。
 一葉の生きた1月2日。
 この年の1日の日記は紹介済みなので、そちらを参照されたい。化粧をし、書き初め等をして穏やかに過ごしたようだ。翌日のこの日は、「訪人まれなる宿のならひ、(略)もとめねど閑成けり」と記している。「訪問客の少ない家の常として、(略)そうなるように求めたわけではないけれど閑なことだ」との意。侘びしさ寂しさが伝わってくるような言葉である。ただ、直後の記述では、年始客が4、5人はあったことが窺える。矛盾しているようにも思えるが、父の生きていた古き良き時代と比べての印象がそう書かせたのかもしれない。あるいは、日記に向かう際に生じるある種の虚構意識がそう書かせたのか。それとも、これらの訪問者は、彼女にとっては客の数に入らない者だったのか。
 「小宮山」とは、小宮山庄司 、「おぶん」は広瀬ぶんのこと。1891(明治24)年9月24日を参照されたい。この時期、ぶんは執行猶予監視付き(今で言う保護観察のような扱い)であって、某旅館に置かれていた。小宮山庄司がこの時何をして生活していたかは不明(やがては人力車夫になる)だが、樋口家に年始に来たぐらいだから、近くに住んでぶんの身が自由になるのを待っていたのかもしれない。とすれば、この日は年始にかこつけて、ぶんを忘れられない胸の内を訴えに来たとも想像される。一葉は、この時まだ満20歳にもなっていないが、小宮山は彼女よりは遙かに年上のはずだったろう。そんな男性から聞かされる愛憎劇を、若い一葉はどんな思いで受け止めていたのだろうか。「おぶんの物がたり四時頃までする」という記述の裏の、文字にされなかったものが気になるところである。 
 
1月8日     (『につ記 一』)
日記本文 八日 早起、空打あふげば、いとよく晴て塵計のくもゝなし。うらうらとかすみたる様なるが、誠に春とのみ覚ゆ。(略)車いそがせて平川町半井うしの本宅に来てみれば、門戸かたくとざして、「かし家」のはり紙なゝめにはられたり。先むねとゞろかれて立よりてみれば、「半井氏御尋の方は六丁目二十二番地小田何某方まで参られたし」と也。さらばとて、又同家へ行。「半井ぬしは何方へにか」と訪へば、下女めきたるをな子打笑みながらに奥に入たり。引違へて出来つるは主婦にやあらん、三十計の人、我がとふに答ていふ様、「うしはさる頃より旅行して、只今は留守に侍り。御用ならばこゝにいひ置給へ」といふ。「御旅行はいづ方へか」と又とへば、只、「地方へ」と計いふ。今は尋ぬるも無益しとおもへば、只、「おのれは樋口と呼ばるゝものに侍り。別しての用なるならねど、御年頭の御礼にとて参りつるなれば、御帰京のふし、其由申しつぎ給てよ。又御手数なるぺけれど御帰京の報をもねぎ奉るになん」といひて出ぬ。「なぞの御旅行か、まさしく御隠れ家になるべし。ぶしつけは覚悟也。頼み参らすこといと多かるを、いかで対面せずには」とて、例のうら家をとひ寄たり。まづ庭口の方よりみれば、ゑんがはの障子新たにはりかえて、物何となくあらたまりたる様なるは、「もし、よの人の住家にかはりたるか」などもうたがわる。格子戸のもとにたちてあまたゝびおとなへど、誰れいらへする人もあらず。「さては留守にや」とおもへど、火鉢にたぎる湯のおとなど、人なき折のさまにもあらず。うちにかとみれば、格子戸の尻にせんさして出入かたく禁じたり。こゝ迄来て入れられざるも何となく物たらぬ心地のするに、いかで対面給はらばやとさまざまにいひ入たれどかひなし。水口の戸の明はなしあるにいさゝか力を得て、そこよりいりぬ。さしのぞけば、さまざまの家財つみ重ねたる納戸めきたる所みゆ。奥のかたにうしはおはすにかと、おそるおそるのぞきたれど、人ありげにもみえず。留守なる所に上り居らんも後の人ぎゝいかゞなるべきかと、いそぎ立かへらむとす。「さるにても、参りしかひには、奉らんとてもてきしものだにおかばや」と思ひ寄て、台所の板の間なる所に、土産の小箱さし置て出ぬ。車にのりて帰る道すがらも、「思へばあやしき事をもなしたるかな。我身むかしはかゝる先ばしりたる心にもあらざりしを、年たけると共におもての皮厚く成て、はしたなくもなりつることよ。かゝる筋のこと、世の人もれ聞ましかば何とかいふらむ。あやしう、なき名などたてられなんもしるべからず。いかゞはせん」など思ひ出れば、心は身をせめていとくるし。家に帰りしは二時計頃なりし。(略)この夜、日頃のつかれと遠路のつかれにや、疲労ことに甚だし。さらに何事をなすべき心地もせねど、半井うしには、是非一書参らずはすみがたかるべし、とてしたゝむ。幾そ度書直しけん、と角に心にもいらず、からうじて書終へたるは、よみ返してみるに、何となく末におそれの種やまかんとおそろしくさへ成て、状袋にいれたるまゝ、便にもたくせず余事にうつる。母君九時頃帰宅。十二時まで詠歌す。
【注】
 一葉の生きた1月8日。
 多くもない年始客を迎える日が続いた後、この日は一葉自身が年始回りに出かけていった。西村宅、萩の舎、田中みの子宅を経て小説の師半井桃水の本宅へ。ところが、そこには「貸し家」の貼り紙がしてあった。桃水の弟子宅の住所が連絡先になっていたのでそこへ行ってみると、地方へ旅行に出かけたというばかり。不審に思った彼女は、「隠れ家」にいるに違いないと考え、そこへ向かったのである。
 結局はそこでも会えなかったのだが、「こゝ迄来て入れられざるも何となく物たらぬ心地のするに、いかで対面給はらばや」と思い、何とか会おうとして家の内をあれこれ覗き見た。記述からは、彼女のその様が目に見えるように伝わってくる。全集の脚注によれば、この日どうしても会いたかったのは、経済的援助を請う目的があったかららしい。年始の挨拶で借金の依頼とは迷惑な話だが、遠慮していられるような状況ではなかったのだ。同じ脚注に、森昭治(父則義の上役)という人物が1月のうちに「相談相手の肩代わりをした」とあり、ひとまず窮地からは救われたようだ。だからだろうか、この月は、これ以降、彼女は桃水へ連絡を取ろうとしていない。
 一葉が桃水を異性として強く意識するようになったのは、一般に、翌月2月4日の出来事からと言われている。だが、上記の日記の行間にも、援助を請う気持ち以外のものが読み取れないだろうか。この夜、「半井うしには、是非一書参らずはすみがたかるべし」と思って手紙を何度も書き直しながらしたためたという。が、「何となく末におそれの種やまかんとおそろしくさへ成て」出さないで終わったらしい。借金の申し込みだけなら、「おそれの種」を蒔くことはないだろう。いったいどのような文面だったのだろうか。……どうでもよいことだが、つい、余計なことまで勝手に想像してしまう。 
1月12日     (『につ記 一』)
日記本文 十二日 早起。雪ちらちらと降いでぬ。みるまに一寸計も積りたるは、「極めて大雪になるべきなめり」などいひ合ふ程に、十時計の頃には名残なく晴わたりて、日のかげさへにもれ出ぬ。午後よりは雪たゞ消にきえて、雨だりのおと軒ばに繁し。暮てよりは又雨に成ぬ。此夜より又、小説著作にかゝる。ことの外になまけたり。
【注】「計」は「ばかり」
 一葉の生きた1月12日。
 
この日の記述は簡単である。一葉は、元日以来、年始客の応対や裁縫等に追われて多忙な日々を過ごしていた。そして、8日には自らの年始回りに出かけた。小説の師半井桃水宅へも土産物持参で訪問したが、留守だったようで会えなかった。余程残念だったのか、彼女は、本当はいるのではないかと声をかけてみたり、勝手口から入り込んで中を覗いたりしたらしい。そんな自分の様子を、その日の日記に詳細に記している(かなり長文なので、ここでは紹介しない)。
 連日、深夜に及ぶまで裁縫や雑事に時間を取られ、この12日の夜、やっと著作に取りかかることができたのだ。そして翌13日には、午前9時から午後3時までを図書館で過ごした。全集の補注によれば、12日の著作は「片恋」をテーマにしたものらしい。そして、やがてはこれが『闇桜』という小品に結実した。幼なじみへの恋心を打ち明けられず、苦悩の果てに死んでしまうというもので、彼女の文壇的処女作である。
  
1月13日、14日、15日     (『につ記 一』) 
日記本文 十三日  晴天。図書館へ行く。九時頃より家をば出づ。『太平記』『大和物語』をかりる。但し『大和ものがたり』はみずして『太平記』のみ閲覧す。三時頃出館、家にかへる。母君の為に按摩を雇ふ。旧幕臣也とて、述懐のはなしあり。日没後、母君なほよろしからずとて、おのれ又按摩をなす。十二時床にいる。
十四日  晴天也。母君、神田辺へ年始に趣き給ふ。午前のうちに綿入ものをなす。午後より作文にかゝる。日没後より歌をよむ。宿題五ツ、十首を詠ず。十二時床にいる。この夜、浜田何某夜にげの奇談。
十五日  早起。小豆がゆの節行ふ。午前髪あげをす。午後より作文。夕刻、吉田君年頭として参らる。夜食を出す。八時頃まで談話。国子附木店まで送りて行。十二時床にいる。
 一葉の生きた1月13日、14日、15日。
 「図書館」とは、上野公園内の東京図書館のこと。彼女はここに頻繁に通い続け、小説著作の勉強に励んでいた。小学校中退の彼女にとっては、上野の図書館が学校であったと言っていいかもしれない。彼女の古典への教養は、和歌の師中島歌子と、ここで読んだ数多くの書物から得たものである。母に仕え、家事をこなし、そして学び、著作する、樋口一葉の日々の生活はこの繰り返しであった。
2月4日      (『につ記 一』)
日記本文 四日 早朝より空もようわるく、「雪なるべし」などみないふ。十時ごろより霙まじりに雨降り出づ。晴てはふりふりひるにもなりぬ。「よし、雪にならばなれ、なじかはいとふべき」とて、家を出づ。真砂町のあたりより、綿をちぎりたる様に、大きやかなるもこまかなるも小止なくなりぬ。  ( 略 ) 平川町へつきしは、十二時少し過る頃成けん。うしが門におとづるゝに、いらへする人もなし。あやしうて、あまたゝびおとなひつれど、同じ様なるは留守にやと覚えて、しばし上りがまちにこし打かけて待つほどに、雪はたゞ投ぐる様にふるに、風さへそひて格子の際より吹入るゝ、寒さもさむし。  ( 略 ) 一時をも打ぬ。心細くさへなりて、しわぶきなどしばしばする程に、日覚給ひけん、つとはね起る音して、ふすまはやがて開かれたり。寝間きの姿のしどけなきを恥ぢ給ひてや、「こは失礼」と計いそがわしく広袖の長ゑりかけたる羽織き給へり。「よべ誘はれて歌舞伎座に遊び、一時頃や帰宅しけん。夫より今日の分の小説ものして床に入しかば、思はずも寝過しぬ。まだ十二時頃と思ひつるに、はや二時にも近かりけり。など起しては給はらざりし。遠慮にも過ぎ給へるよ」とて大笑しながら、雨戸などくり明け給ふ。   ( 略 )  「雪ふらずは、いたく御馳走をなす筈なりしが、この雪にては画餅に成りぬ」とて、手づからしるこをにてたまへり。「免し給へ。盆はあれど奥に仕舞込みて出すに遠し。箸もこれにて失礼ながら」とて、餅やきたるはしを給ふ。ものがたり種々。うしが自まんの写真をみせなどし給ふ。暇をこへば、「雪いや降りにふるを、今宵は電報を発して、こゝに一宿し給へ」と切にの給ふ。「などかわさることいたさるべき。免しを受けずして、人のがりとまるなどいふ事、いたく母にいましめられ侍る」と真顔にいへば、うし大笑し給ひて、「さのみな恐れ給ひそ。おのれは小田へ行て、とまりて来ん。君一人こゝに泊り給ふに、何のことかわあるべき。よろしかるべし」などの給へど、頭をふりてうけがわねば、「されば」とて、重太君をして車やとはせ給ふ。半井うしがもとを出しは四時頃成けん。白がいがいたる雪中、りんりんたる寒気ををかして帰る。中々におもしろし。ほり端通り、九段の辺、吹かくる雪におもてもむけがたくて、頭巾の上に肩かけすつぽりとかぶりて、折ふし目計さし出すもをかし。種々の感情むねにせまりて、「雪の日」といふ小説一編あまばやの腹稿なる。家に帰りしは五時。母君、妹女とのものがたりは多けれはかゝず。
 一葉の生きた2月4日。
 「うし」とは、一葉の小説の師半井桃水のこと。この日の記述は非常に長い。
 前日3日に会う約束をし、午前10時頃、悪天候を押して桃水宅に出かけていった。12時過ぎにやっと着いたが留守のようで、寒さに耐えて待った。しかし、耐えきれなくなって玄関に上がって耳をそばだてると、かすかにいびきが聞こえてきた。どうやら桃水は寝ているらしいと気づき、1時頃まで待った。が、それも心細くなって咳払いをすると、やっと起きてくれた。
 その後、桃水は寝巻き姿で火桶の火を熾し、湯を沸かし始めた。一葉は、起き抜けのままの寝床を片付けようかと申し出たが、彼に断られ、彼女もそれ以上は出しゃばらなかった。そして、男1人の侘びしい生活の有様を、淡々と書き付けていく。
 この日の桃水の用事は『武蔵野』(一葉の作品を初めて世に出した雑誌)創刊のことで、一方の一葉の用は、作成途中の文章を彼に読んでもらうことであった。互いの用は短時間ですんだのだが、その後も2人は様々物語り、やがて桃水は彼女にしるこを作ってもてなした。彼女が辞したのは午後4時頃。
 用事以外の話がどのような内容であったのか、一葉はそれは記していない。が、彼手ずからのしるこまで味わって過ごしたこの日の体験は、一葉にとってはかけがえのない思い出となったようだ。「種々の感情むねにせまりて、「雪の日」といふ小説一編あまばやの腹稿なる」という言葉が、それを物語っている。また、この日のことは、後に「しるこの昔」という言葉で偲んだりもしている。
 少女からいきなり戸主となり、一家を支えて生きていかなければならなくなった一葉の、これが数少ない青春の日の出来事であったのかもしれない。 
2月19日      (『につ記 二』)
日記本文 十九日 母君先おき出給ひて、妻戸をしたまふ。「さてもつもりたる哉。尺にもあまりつべし。まだいくばくか降らんとすらむ」などの給ふは、雪のことなめりとうれしくて、やをら起ぬ。国子をも起して共にみ出すに、あめもつちも木立も軒ばも、白妙ならぬ方なし。綿を投ぐる様にふるさまいといさましく、「ならば角田川あたりに一葉をうかべたらましかば」など風流がりて笑はれぬ。朝いひしまひて後も中々にやまず。待人もなき宿ながら、切めて這入だけも道あけばやとて、国子と共に支度のみはいさましくして雪かきをす。尺といひて二、三寸はあまりつべし。「近来覚えぬこと」など語り合ふ。終りてより習字せばやとするに、手ふるひてせんかたなし。力業する人の、手かくことものうくするは断りぞかし。荻野氏より借りたる雑誌并に山東京山編の『くもの糸巻』通読。『朝日新聞』の記事少し見て昼飯にす。午後より『早稲田文学』中「徳川文学」「しるらる伝」并に「まくべす詳訳」、「誹諧論」など四、五冊通読。岩佐君来る。母君、新平のもとへ参り給ふ。日没後帰宅せらる。一時臥床に入る。
【注】「妻戸をしたまふ」は「雨戸を開けなさる」。
「尺にもあまりつべし。まだいくばくか降らんとすらむ」は、「一尺以上はあるに違いない。まだこれからどれだけ降るだろう」。
「あめもつちも木立も軒ばも、白妙ならぬ方なし」は、「天も地も木も家も、全て白一色に覆われている」。
「切めて這入だけも道あけばや」は、「せめて出入りするだけの道は開けておこう」。
「手ふるひてせんかたなし。力業する人の、手かくことものうくするは断りぞかし」は、「手が震えて仕方ない。力仕事をする人が、字を書くことを億劫がるのは尤もなことだ」。
 一葉の生きた2月19日。
 朝起きてみたら、外は一面の銀世界……何もかもが白一色に覆われ、音さえも雪に吸い込まれたかのような静かな朝。空気の匂いまでがどこか違う。子供の頃は、こういう朝は何だかワクワクした。雪遊びができるからというのではない。いつもとは違う世界が目前に広がっているようで嬉しかったのだ。……今年の立春前も雪の朝を迎えた。窓を開けたら外は真っ白。勤務先まで大変だなと思いつつも、玄関を出て外の空気に触れた瞬間、幼い頃のあのワクワクした感じが甦ってきた。もっとも、この感じは、通勤客で溢れかえる駅に着いた途端に消えてしまったが。一葉も雪の朝は嬉しくて、妹を起こして外を眺めたようだ。「綿を投ぐる様にふるさまいといさましく」という表現は、いかにも彼女らしい。この朝は30センチ以上も積もって、まだ降り続けていた。
 「角田川」は隅田川のこと。小学館の全集の脚注では、「寒けれどすをあげて見ん角田川こぎ行ふねのけさのしら雪」という彼女の歌を紹介している。これは明治24年2月(「樋口一葉全集 第四巻(下)」(岩波書店 1994年6月刊)では、明治24年1月)作の「舟中見雪」という題の詠草である。雪中の船遊びをイメージした風流で優雅な歌ではあるが、やや凡作のようにも思える。この朝、目前に降りしきる雪を見て、ふと、一年前に作った歌の景色を思い出したのかもしれない。が、真偽のほどは分からない。
 ところで、「一葉をうかべたらましかば」という記述で、「一葉」という語が出てくる。彼女は、この時期にはすでに「一葉」というペンネームを使い始めていた。「綿を投ぐる様に」「いといさましく」雪が降る川に、小さな一葉舟の浮かぶさまを想像した彼女。この時、その一葉舟に自分の筆名、いや自分自身の姿を重ね合わせなかっただろうか。勿論、これも、その真偽のほどは分からない。勝手な想像は慎まねばならないが、ちょっと気になってしまうのだ。
 尚、「徳川文学」は関根正直著「徳川文学に於ける文学の現象」、「しるらる伝」は森鴎外著「シルレル伝」、「まくべす詳訳」は坪内逍遙著「マクベス評注」、「誹諧論」は饗庭篁村著「俳諧論」。一葉の学問に関する興味深い記述であるが、これについては後の機会に。
3月18日      (『日記』)
日記本文 (略)思ひがけず半井うし来訪し給ふ。あたりを取片付るなど大さわぎ成し。我家に来給ひしは実に始めてなればなり。母君ならびに国子にも初対面のあいさつなどなす。いとくだくだし。居を本郷の西片町に移し給ひしよし。「その報知がてら『むさしの』の事いはんとて也」といふ。(略)茶菓を呈したる計にて二時間計ものがたらる。「今しばし」などいはまほしかりしが、いそぎ給へば、えとゞめあえず帰宅し給ふ。母君も国子もとりどりにうわさす。母君は、「実にうつくしき人哉。亡泉太郎にも似たりし様にて温厚らしきことよ。誰は何といふとも、あしき人にはあらざるべし。いはゞ若旦那の風ある人なり」などの給ふ。国子は又、「そは母君の目違ひ也。表むきこそはやさしげなれ、あの笑む口元の可愛らしきなどが権謀家の奥の手なるべし。中々心はゆるしがたき人なり」などいふ。母君、「何はしかれ、半井うしが詞に、『かく近くもなれるに他には行く所もなし。夜分など運動がてら折々に参るべければ』などいはれしこそ当惑なれ。人の目つまにもかゝれば正なき名やたゝん」など杞憂し給ふ。国子さていふ、「とに角に家の狭きなん不都合なる。あはれ、今一間あらましかば、か計に心ぐるしからまじ。いかでこの隣りなる家こゝよりは少し広やかなるを、かしこに家移りせんはいかに」などいふ。おのれ、「そは詮なきこと也。我が友とする人は家の狭さひろさ、衣の鮮と弊とをとはず、かざりなき詞、かざりなき心をもてこそ交らはめ。もし、『かしこは家せまし、衣ふるびたり』とて捨る人あらば、そはをしむにたらず」といふ。「それはそれながら、いかにもなれば心ぐるしきぞかし」とてくに子は笑ふ。今日の半井うしが着服は、八丈の下着に茶とこんのたつ縞の紬の小袖をかさねて、白ちりめんの兵児帯ゆるやかに、黒八丈の羽織をき下し給へり。「人わろしと聞く新聞記者中にかゝる風采の人も有けり」と素人目には驚かれぬ。(略)
【注】「計」は「ばかり」、「詞」は「ことば」、「正なき名やたゝん」は「よくない噂が立つだろう」、「か計に」は「これほどまでに」
 一葉の生きた3月18日。
 
これまでにも何度か紹介した半井桃水が話題になっている。この日の記述は、桃水が初めて一葉宅を訪問したときのもの。突然の男性客に、大慌てする女性一家。そして、帰った後の品定めのあれこれ。母と妹の批評や当惑ぶりを読むと、ひと昔前のホームドラマを見ているようでほほえましい。
 母が言う「泉太郎」は一葉の8歳上の長兄で、明治20年、23歳の若さで病死した。おとなしく勤勉な人だったらしい。その、細面の優しい顔立ちは、今日残っている写真からも窺え、繊細な人だったのだろうと想像される。一葉はこの長兄をこよなく慕い続け、小説の男性造形の一端にも反映されているという指摘もある。また、『あきあはせ』という美しい随筆にも、亡き兄への思慕が窺える。
 そして、母が桃水にこの泉太郎の面影を見たように、一葉自身も桃水を兄がわりのように思っていたところもあった。この泉太郎という名は、桃水の幼名でもあったのである。偶然の一致でしかないのだが、このような点からも、一葉は、彼に強い親近感を抱いていたのである。
 2人の醜聞が広まって絶交を宣告する日の、約3ヶ月前のことである。
3月20日     (『日記』)
日記本文廿日 晴天。今日は『むさしの』発行とかきくに、春季皇霊祭にもあればとて、すしなど調ず。近隣両三軒に配りなどす。伊東君に約束して、「今日来訪せん」といひしかば、午前より其支度をす。山下直一君来る。『早稲田文学』九、十号持参して貸くるゝ。同人帰路、もろ共に我も行く。同じかたなれば也。行々ものがたりつゝ行くに、車夫などの、「同車にて」など進むる。よの人ならましかば、いか計はづかしからむ。さるを、何とも思はず同行するは、心に邪心のなければなるべし。恥は情より発するものにや、をかし。御茶の水橋にて袂を分ち、伊東ぬしのもとをとふ。( 略 )
 一葉の生きた3月20日。
 『むさしの』は、半井桃水が主宰した文芸雑誌『武蔵野』のこと。今日では、桃水が、一葉を世に出すためにこの雑誌創刊を企図したのだと言われている。が、あまり売れず、第3編で終刊となってしまった。
 「春季皇霊祭」は明治の祝日のひとつで、宮中では歴代天皇、皇后皇妃皇親の霊を祭った。民間では彼岸の中日。
 「山下直一」は、一葉の父樋口則義の友人だった山下信忠の長男で、父存命の頃に樋口家に寄宿していたこともあった人らしい。以後も頻繁に訪問しては長居をしていたことが、日記の他の部分からも窺え、気のおけない間柄だったらしい。年齢は不明だが、一葉にとっては、幼なじみのお兄さん的な存在だったのではなかろうか。この日も、彼が帰る時に自分もちょうど友人の家に行くからと言って、一緒に家を出た。そして、途中で一緒に人力車に乗ったのである。“他の人とならば恥ずかしいけれど、でも、この人のことは何とも思っていないのだから、一緒に乗ったって平気だわ……” 「よの人」(他の人)として考えた相手は、まず、桃水ではなかろうか。“もし、桃水先生とだったら……”
と想像して、「恥は情より発するものにや、をかし」と記したのかもしれない。
 それにしても、明治20年代のことである。一葉は20歳の未婚女性。男性と2人で人力車に乗るというのは、大胆な行為であったはずだ。一葉には、こんな思い切ったことをする一面もあったのである。
3月21日     (『日記』)
日記本文 廿一日 晴天。望月何某の妻来る。ひる飯馳走す。おのれは半井うしのもとへ、いふことありて行く。今度の住家のいと近くて、はい渡るほどなるがいと嬉し。表は例の戸ざし堅して、庭口よりぞ自由の出入はゆるしためる。物がたり種々。大人、「前日の風邪猶よからず」とて、咳などいたくし給ふ。家にて相談せしこと、半井うしにもかたる。「おのれが小説、到底よに用いられまじきものなれば、つゝみなく断り給てよ。おのれはおのれの心を信ずるが如く、人の仰せられし言を信ずるものなれば、君もし表面のみの賞詞を下し給ふ共、其真偽ををし計るべき智は侍らずかし。君が真意をえしらずして、一向み詞のみを頼み奉らんに、我が愚かさはさておきて、君いか計困じ給ふらむ。とても世に用いられまじきものなれば、今より直に心をあらためて、我が身に応ずべきこと目論侯はん。只み心のうちを聞かせ給へてよ」とくり返すに、君いたくあきれ顔して、「そは又何ぞの事ぞ。おのれ、かひなしといへども男のかたはし也。うけがひ参らせしこと偽りならんや。月々に案じ日々にかうがへて、君が幸福を願ふぞかし。我れはあくまでも相携へて始終せんと思ふを、君はなどさ計にうたがひ給ふ。さりながら、これより他に良善の策向あらば、そは止め侯はじ。なくは今しばしたえ給へ。我思ふに、君が著作、此『むさし野』両三回の後には、必らず世に名をしられ給はん。さすれば『朝日』にまれ、何にまれ、我れ周旋の方法あり。家事の経済などに付て憂ひたまふとあらば、そはともかうも我すべし。『むさし野』初版より二千以上の発売あらば、利益の配当あるべきの約なれば、この分のみは我れのも合せて君に奉らんの心なり。か計に思ふ心偽ならんや。大方は察し給へ」などの給へり。
 (略)
【注】「今度の住家」は、半井桃水の新しい住居。「大人」は、「うし」と読む。桃水のこと。
  一葉の生きた3月21日。 
  上記にある『むさし野』は『武蔵野』のことである。これは桃水主宰の文芸雑誌で、彼の門弟や斎藤緑雨らが参加した。しかし今日では、桃水がこの雑誌を出そうとした真の目的は一葉を世に出すところにあったと言われている。一葉は、この雑誌のことを2月初めに聞き、同月15日に「闇桜」を渡した。その際、3月1日頃には発行される見込みだと言われたのだが、それが15日に延び、20日に延び、それでもまだ出来上がらなかった。生活苦や歌塾「萩の舎」の腐敗にも悩まされていた一葉は、これら諸々のことで自分の才能や将来に不安を抱いたのであろう。前日の20日には親友伊東夏子と塾のことや学問について長時間に渡って話をし、また、それを踏まえて母とも今後の相談をしたようである。そして、この日の桃水訪問となったのである。
  彼女がここで桃水に訴えたことは、「自分に才能がないのならはっきりと断って欲しい。上辺だけで誉めてくれても、言葉の真意を見分ける力が自分にはないので分からない。私の小説が世に認められないなら、今からでも直ぐに改心して小説は諦め、自分の身に相応しいことを考える。」というような内容である。これに対して桃水は次のように答えた。「私が引き受けたことに嘘はない。貴女の幸福を考え、あくまでも共に行動しようと思っている。ただ、貴女が別の良い道を考えているのなら、自分は止めはしない。それがないのならば、しばらくは辛抱して欲しい。貴女の著作が『武蔵野』に載れば、必ず世に名を知られるようになるだろう。そうなれば、『朝日新聞』にでも何にでも私が世話をする。云々」
  この言葉で一葉は安心したのであろうか。彼女は後日また会うことを約束して帰宅し、翌日は再び小説著作に励んだのであった。『武蔵野』創刊号はこの6日後の27日にやっと刊行された。この雑誌は第2号、第3号まで出されたが、いずれも予定より遅れて刊行され、売れ行きも悪く、3号で終刊となった。桃水の見込んだ一葉の才能は本物であった。しかし、彼女の小説が脚光を浴びたのは、桃水の手を離れてからであった。
  尚、冒頭の「望月何某」については、 1893(明治26)年5月2日を参照されたい。
 
4月5日     (『日記』)
日記本文 四月五日 今日は水野君和歌小集の催しある日也。朝来晴天。半井師に約して、「今日は二回丈是非送らむ」といひし『改進新聞』原稿、未だ一回もしたゝめ終らず。因じ果てゝ、強して著作に従事す。十一時に家を出んとするに、十時過るまで草稿したゝめ居たり。からうじて一回分書き終へたれば、いそぎ化粧などして家を出づ。詫がてら半井君のもとに行。同君留守。伯母の君に言訳申して、車をいそがせぬ。至り侍しは一時近かりけん。来客早いと多かり。点取「夜帰雁」及び「野遊」成し。来会人数三十名計。酒肴も中に三曲の合奏あり。水野せん子君の琴声、心なき身にもそゞろにみみかたぶかれぬ。始は「小がう」、次は「松竹梅」、酒宴やんで又一曲、何といふ曲かしらねどいとおもしろかりし。散会は九時。車にて送らる。此夜二時まで小説著作に従事す。
【注】「水野君和歌小集の催し」は、水野銓子宅での歌会のこと。
「半井師」は、小説の師半井桃水のこと。「伯母の君」は桃水が身を寄せていた河村重固宅の母。
「伯母の君に言訳申して、車をいそがせぬ。」は、
「河村の伯母様に原稿が1回分だけしかできなかった言い訳を言付けて、車を水野家に急がせた。」
「点取」は、和歌の点取りの題
  一葉の生きた4月5日。 
  「『改進新聞』原稿」とは、「別れ霜」のことである。現代ではあまり知られていない小説であるが、1892(明治25)年のこの時期に15回に渡って『改進新聞』に連載された。開始は3月末頃から4月4日頃で、終了は4月18日らしいが、いずれも正確なところは分からない。この時のペンネームは「浅香ぬま子」(「浅香のぬま子」)である。何だか江戸時代の戯作者のような名前だ。が、「一葉」も一説には、足のない(おあしがない、お金がない)達磨が一葉舟に乗って海を渡ったという話から付けたとも言われているから、これだって戯作っぽいネーミングと言えなくもない。
  「別れ霜」の粗筋は次のようなものである。主人公のお高と芳之助はいずれも呉服商の一人娘と一人息子で、許嫁の間柄であった。だがお高の父は欲深い野心家で、芳之助の店を乗っ取ってしまう。家を追われた一家は長屋に住まい、芳之助は人力車夫に身を落とした。ある日偶然、彼の車にお高が偶然乗り合わせ、2人は再会した。お高は彼の両親に詫びるが、彼の父は許そうとはしなかった。2人は両家の墓所で心中を図るが、お高の店の番頭が彼女を止めたため、芳之助だけが亡くなった。その後、お高は軟禁生活を強いられたが、親の勧める医師との結婚を承諾して周囲が油断した時、芳之助の後を追おうと家を抜け出した。……やりきれない悲恋話だ。人力車夫に身を落とす男性、その車に偶然乗り合わせるかつての恋人という取り合わせは後の「十三夜」を連想させて興味深い。
  日記の後半は水野家での歌会の様子を記している。当時の上流家庭で行われた雅な催し物だ。和歌が短歌というものに押し流されていく前の当時の状況が、一葉のこのような記述からも垣間見られて面白い。
 
6月7日     (『日記 しのぶぐさ』)
日記本文七日 「何は置て、半井うし訪て見よ」と母君もの給ふに、ひる少し過る頃より行く。例の従姉妹の君もおられたり。おのれ、いつも取立たる髪など結はざりしを、島田といふものになして有しかば、人々めづらしがる。「是よりは常に、かくておはせよかし。いとよく似合給ふを」などいわれて、中々に恥し。半井ぬし扨の給ふやう、「種々に御事多かる中を、さぞ出がたくやおはしけん。実は君が小説のことよ。さまざまに案じもしつるが、到底絵入の新聞などには向き難くや侍らん。さるつてをやうやうに見付て、尾崎紅葉に君を引合せんとす。かれに依りて『読売』などにも筆とられなば、とく多かるべし。又、月々に極めての収入なくは経済のことなどに心配多からんとて、是をもよくよく計らはんとす。されど夫も是も我は日かげの身、立出て何事かなし得べき。委細畑島にいとよくたのみて、それが知人より頼み込せし也。此二日三日のほどに、君一度紅葉に逢ては見給はずや。もし其時に成て、『他人に逢ふはいやなり』などいはれんがあやふくて、先この事を申也」との給ふ。「何事のいなか有べき。いと辱し」といふ。雑事さまざまにて帰る。直に小石河へ到る。こゝは只、人々酔へる様也。 
【注】「の給ふ」は「のたもう」で、「おっしゃる」。「扨」は「さて」。
「何事のいなか有べき。いと辱し」は「どうして否と断ることがありましょうか。大変かたじけないことです」
 一葉の生きた6月7日。
 一葉は、6月1日から萩の舎に泊まり込んでいた。和歌の師中島歌子の母いく子が危篤に陥ったため、諸々の手助けに呼ばれたのである。そして、3日午前11時、最期を看取り、その後もかなり長い間萩の舎にとどまって歌子を助けた。ただ、6日に半井桃水から話があるとの連絡が来たので、その夜は帰宅し、翌7日に桃水宅へ行ったのである。始めに自分の島田髷の話題を挙げているが、これはおそらく、いく子の葬儀のために結ったのであろう。
 さて、桃水の用は、一葉を尾崎紅葉に紹介するということであった。1885(明治18)年に『硯友社』を結成して以来文学者のリーダー的存在であった紅葉は、当時も『読売新聞』等で活躍し絶大な力を誇っていた。『読売新聞』と言えば、その頃は最も有力な文芸新聞だったのである。一方、桃水は小説家としては既に限界にきており、一葉を世に出すための文芸誌『武蔵野』も不振で、この7月に出す第3編で終刊となってしまう。そして、この失敗もあって経済的に困窮した彼は、このひと月後に葉茶屋を出すことになる。つまり、一葉を育てることに行き詰まったため、桃水は、後事を紅葉に託そうとしたのであろう。「畑島」は、畑島桃蹊(はたじまとうけい)で、『武蔵野』の同人である。知人に紅葉門下の星野麦人がいたため、桃水の依頼を受けて、紅葉に一葉を紹介する労をとったのである。
 この時、一葉は受諾して謝意を表したようである。後年、彼女は紅葉のことを「通俗小説の尤なるのみですよ」と言ったらしいが、この当時は、そこまでの批評眼はなかっただろう。むしろ、生活のために小説家として世に出たいと切望する身としては、これは願ってもない話だったはずだ。ところが、そのような思いまでは記していない。実は、そこには複雑な事情がからんでいたのである。
 この5日後、一葉は親友の伊東夏子から桃水との仲を追及され、彼との交際を絶つことになる。それゆえに、桃水を介しての紅葉へのつながりも、彼女は断ってしまう。そしてその直後、当時の有力文芸誌『都の花』へ、萩の舎の姉弟子田辺花圃が紹介してくれることになる。やがて掲載された『うもれ木』が評判となり、『文学界』の青年らが彼女に注目するようになっていく……。彼女が小説家樋口一葉として世に出るまでには、このような経緯があったのである。
 一葉の日記には、まとめ書きが多い。この時期も、実際には中島いく子の葬儀等で多忙を極めていただろうから、後になってまとめて書いたものと思われる。それが何日であるかはわからないが、紅葉への話を断る方向に進みつつある時期であったため、話を聞いた際の内心まで記す必要はなくなったのであろう。だが、萩の舎の不幸、自分と桃水とのスキャンダル、紅葉への紹介の話、何よりもこうしたことから生じる先々への不安と期待等、この頃の一葉は苦悩の渦中にあった。そしてそういう中で、彼女はしたたかに自らの生きる術を模索していたのである。
6月15日     (『日記 しのぶぐさ』)
日記本文十五日 午後より半井君のもとへ至る。 (略) 我、師の君より教へられつる様に、ことつくろひてもの語りす。「師の君のもとに家の内取りまかなふ人なく、我行き居らではもの毎に不都合也とて、いとせめて頼まれぬ。さるを無下にはなど断はらるべき。とし月の恩といひ、義理はくろがねの刃も立ず。今しばらくは手伝ひ居らんとす。さすれば、いつぞや仰給はりし紅葉君のことも、何も、先え寄りの事ならずば、折角御目通りしてからが、筆も取りがたくは其かひあるまじく、お前様へ不義理にも成り申べし。この事申さんとて、今日はいさゝかのひまもとめて参りつる也」といふ。「それは困りたるもの也。尾崎の方も万々話しとゝのひて、『いつにてもあれ御目にかゝらん』といふとか。明日にも手紙にて、君に其通知せんと思ひしを、今に成りて断りもいひ難し。いかにぞや、筆とることはとまれ、一度対面丈なし置給はずや」といふ。「さりながら、御目通りせし上にて、『筆取りがたし』といはゞ、何の甲斐もあるまじ。我も色々心にかゝる事ありて物がたりには尽し難けれど、こゝにかしこに、いとものうるさく身を責る頃なれば」といふ。「さらば先兎角、師の君に打明し給へよ。いつまで包み給ふとも、かくしおほせらるゝにもあらじ。其上にてよき考案つけらるゝぞよき。こゝかしこに義理だて計し給ふとも、家計のことなどもあり、心を労し給ふほど人は察し申間敷に」などかたらる。常ならましかば、いか計嬉しと聞く言の葉ならむ。今日は何となく上の空也。 (略) 暇を乞て立つ。宅用少し有て菊坂へかへり、少時にて小石河に帰りぬ。今日のあらましもの語りなどして、師の君よりさし図うけて、半井君のもとへ文を出す。
【注】「さるを無下にはなど断はらるべき」は「それを、どうしてむやみに断ることができましょうか」。
「察し申間敷に」は「察し申すまじくに」で、「察し申し上げないでしょうに」
 一葉の生きた6月15日。
 前回紹介した日記の続きである。ただし、12、13、14日分は省いている。
 7日、尾崎紅葉へ紹介してやると桃水から言われた一葉は、謝辞を述べて帰ってきた。しかし、一方では、彼とのスキャンダルに心を痛めてもいた。そして12日、友人の伊東夏子が彼との絶交を彼女に迫ってきた。さらに翌々日、師の中島歌子に相談したところ、歌子も「実は、その半井といふ人、君のことを世に公に『妻也』といひふらすよし、さる人より我も聞きぬ。」「もし全く其事なきならば、交際せぬ方宜(よろしか)るべし」と言い、絶交に賛成した。そこで一葉は、この日、「萩の舎の手伝いを強く頼まれ、これまでの恩義があるので断れない。だから、紅葉への話の方を断らざるを得ない」と、歌子から授けられた断りの口実を桃水に伝えたのである。彼は一葉の変心に当惑し、また樋口家の経済をも案じて引き止めようとしたが、彼女の決心は固かった。こうして紅葉への話は消え、後の22日、「今しばしのほどは御目にもかゝらじ、御声も聞じとぞおもふ」という、絶交の日を迎えることになるのである。
 ただ、この紅葉紹介への断り、桃水との絶交の経緯には、一葉の日記だけでは判断しがたい背景がある。醜聞の種を振りまいたのは、日記に書かれている桃水や友人達だけではあるまい。また中島歌子の、一葉を手放したくないという思いも絡んでいたようにも思われる。そして何よりも、一葉自身の生活や将来への不安は想像を超えるものだったのではないだろうか。これは、私の浅はかな想像に過ぎないが。小説家が道楽者と思われていた時代である。女が小説だけで一家を支えていくことなど、常識を遙かに逸したことだったのだ。そういう現実を前に、一途に小説家への道を進めただろうか。生涯、歌門萩の舎との関係を絶とうとしなかった彼女を考えると、その疑いは否定できない。一葉にとって、萩の舎の人々の言葉に逆らって桃水から小説を学び続けることは、和歌の道を捨てるに等しい行為であった。和歌や古典で収入を得る道も、彼女にとっては捨てがたいものだったのではないだろうか。
 10代半ばで戸主の重責を負わされてしまった一葉は、生活、お金の呪縛から解放されることはなかった。桃水との関係も、経済上の理由から生まれ、そして経済問題も含む複雑な思惑の中で絶たれたように思われる。だがそのような現実ゆえに、日記の中でのみ、彼女は自らの恋情を解き放っていったのではないだろうか。
6月22日     (『日記 しのぶぐさ』)
日記本文 (略)
 実は、我がかく常に参り通ふこといかにしてもれにもれけん。親しき友などいへば更に、師の耳にもいつしかいりて、疑はるゝ処かは、『君様と我れ、まさしく事あり』と誰も誰も信ずめる。いひとかんとすれば、いとゞしくまつはりて、此無実の名晴るべき時もあらじ。我身だに清からば、世の聞えはゞかるべきにも非ずとおもへど、誰は置きて、師の手前是によりてうとまれなどせられなば、一生のかきんに成べき、それ愁はしう、と様かうざまに案じつれど、我、君のもとに参り通ふ限りは人の口ふさぐこと難かるべし。依りて今しばしのほどは御目にもかゝらじ、御声も聞じとぞおもふ。其こと申さんとて也。(略)
 一葉の生きた6月22日。
 この日、一葉は、半井桃水のもとを訪れて絶交を申し出た。これは、その時、彼に伝えた言葉を記した一節である。
 小説を学ぶために桃水宅へ通っていたことを、萩の舎でスキャンダラスに騒がれ、一葉は追いつめられていた。また、桃水の交友関係者の中でも、2人のことは妙な噂になっていたらしい。そして、この10日前の12日、親友の伊東夏子に2人の仲を詰問され、師の中島歌子に相談した一葉は、彼との絶交を決意したのである。ただ、日記では、友人達や桃水だけが噂をまき散らしたかのように書いているが、実は一葉自身も、萩の舎でおおっぴらに桃水の話をしたりして、噂の種を蒔いてはいたのである。だがその点は伏せて、周囲の者だけを非難し、裏切られた悲しみを切々と綴っている。日記の中では、一葉は悲劇のヒロインになっているのである。このような点においては、彼女の作為が感じられなくもない。
 ついでに記しておくと、絶交といっても完全に交際を絶ちきったわけではなく、手紙のやり取りは続き、時を置いて訪問することもあったのである。
7月1日     (『しのぶぐさ』)
日記本文七月一日 俄に師君思ひ立て鎌倉に趣かれんとす。同伴は田中君なり。小笠原、伊東の両君をも誘はれたるものから、いづれも障りあるよし。午前十時、家を出らる。留守居には西村の鶴どのとおのれなり。下婢二人と池田屋の妻が、大方家の内取まかなへば、鶴どのは取あつめて針し事などなし置かんとす。おのれは来客の応接の外は他事もなきに、一意著作に従事せんとす。今日は終日、師君が路ぢのほどいひ暮して、夜にも入りぬ。戸ざし早うして、みなみな一処に寄りつどひて、もの語りどもなす。
【注】「趣かれんとす」は「赴かれんとす」。「針し事」は「針仕事」
 一葉の生きた7月1日。
 尾崎紅葉への紹介を断り、半井桃水に絶交を申し出て一週間余り。「師君」中島歌子の母の葬儀後の雑用や、亡き兄泉太郎の命日など、一葉は傷心を癒す間もない忙しい日々を送っていた。そんな時、実母を亡くしてこれも傷心の歌子が、鎌倉への旅を思い立った。そのため、一葉は萩の舎の留守を頼まれたのだ。
 師に同伴した「田中君」は田中みの子。萩の舎で一葉、伊東夏子と共に、いわゆる「平民組」をなしていた人である。彼女については、以前紹介した1891(明治24)年6月6日の項を参照されたい。
 留守を預かった一葉だが、自分には「来客の応接」以外に用がなかったため、「著作に従事」していたという。この時の著作は、萩の舎の先輩田辺龍子(花圃)が紹介してくれた有力文芸誌『都の花』への作品である。小学館の全集(上記)の脚注では、「最初『経づくえ』を試作したが、間もなく趣向を変えて『うもれ木』を制作した。」とある。これは9月15日に完成し、彼女は念願の原稿料11円75銭を得ることになる。この原稿料については、10月19日の項を参照されたい。ただし、小説家として世間から注目されるようになっても、彼女は生涯、原稿料だけで家族を養うことはできなかった。やがては生活に行き詰まり、実業に手を染め、またあやしい宗教家に近づいていく未来が待っていたのである。
8月21日     (『しのぶぐさ』)
日記本文廿一日 晴天。午前より野々宮君来る。歌の添刪をなす。頗る佳絶のも有けり。点取りニツ詠ず。終りて後、種々談話。同君が朋友の一女生、本年四月人に嫁したるが、其後便りのあらざりしかば、此方より郵書さし出さんとて、宿処を問合せに其里方へ趣きたる処、其人不計も居りたり。嬉しくて、「如何にして当所には」と問へば、涙を一目うけてもの語りたる事よ、哀さ堪がたし、とて野々宮氏涙ぐまれぬ。我も心にかゝりて、「其人いかにせしにや」ととへば、此頃の新聞などにも見えたる沢木何某が妻なるよし。夫は有為の若人なるに、事素志と同じからず、鬱憂のあまり神経の変動を来たし、終に自殺を志ざしゝ也とか。「疵もいと深かれば、多分は一命も六ツかしかるべし」といふ。其兄弟なる無頼漢のこと、親友なる柳何某とか『時事新報』の記者のこと、取集めて談し多し。「半井君へ、妻君に野口といふ人周せんせばやとせしに、中に立人をかしく引しろひて、『今一人の人を是非』といふ。我は余り心も進まねど、頼れ故止を得ず写真あづかりて来たり」とて見する。さまでには見にくゝも非ず。其人のことに付て小説の事種々かたる。『こさ吹風』といふ痴史が作をいたく愛でゝ、「夫より、行たしなどの念に成たるなめり」といふ。怪しう世にはさまざまの人も有もの也けり。同君、「帰路、半井君を訪はん」とて四時頃帰らる。同君よりかり受たる絵画の手本、今日よりならひはじむ。日没後国子と共に散歩す。三崎町もよりより九段下まで行。半井君の寓居もよそながら見たり。宅に帰しは八時也し。これより小説に従事。
【注】
 一葉の生きた8月21日。 
 この日は野々宮菊子が訪問し、彼女の和歌を添削してやった後、様々な話をした。菊子については、これまで何回かコメントした。「一葉関連人物」で確認されたい。
 初めの話は彼女の友人について。今年4月に将来有望な青年と結婚したが、夫は仕事が上手くいかず、ノイローゼになって自殺を図った。おそらく命は助かるまいということ、その夫の兄弟や親友のこと等。
 ただし、何よりも一葉の関心を惹いたのは、菊子が半井桃水の妻を世話するという話だろう。菊子は「野口」という女性を紹介しようとしたが、間に立った人が別の人を是非にと頼んだので、気が進まないながらもその写真を預かってきたという。その女性は桃水の小説「胡砂吹く風」の愛読者で、これを読んで彼の妻になりたいと思うようになったらしいと菊子は言っている。一葉は、この約2ヶ月前に桃水との交際を噂され、悩んだ末に交際を絶っていた。しかし、彼への思慕の念は日記の随所に漏らしていた。そういう彼女が聞かされる桃水の結婚話。その女性の写真を見て「さまでには見にくゝも非ず」と書く一葉の心境や如何。小説家としての桃水には批判的な眼を向けていた一葉だから、この女性が彼の小説の愛読者だという点では「怪しう世にはさまざまの人も有もの也けり。」という冷ややかな感想を漏らしてはいる。が、この日の日暮れに妹を連れて散歩に出かけ、桃水の家まで見てくるという行動……。複雑な胸中を物語っていて、なかなか面白い。
8月27日     (『日記』)
日記本文 廿七日 小石川稽古に趣く。稽古後、師君と少しものがたりす。伝通院内淑徳女学校とかやに我を周旋せられんとする物語あり。我も思ふ処のべなどして帰る。母君にこの事を聞かせ奉るに、喜限りなし。今宵はいたく勉強したり。
【注】「師君」は中島歌子
 一葉の生きた8月27日。
 淑徳女学校は、現在の淑徳学園。この年の9月に創設された。開校直前まで教員を探していたのだろうか。一葉は、「読書」の教員として周旋されたらしい。母が喜んだと記しているが、「今宵はいたく勉強したり」という言葉には、彼女自身の喜びや期待が窺える。
  だが、この就職は結局は実現しなかった。理由は、彼女の学歴だと言われている。一葉の最終学歴は私立青海学校小学高等科第4級である。首席で修了はしたが進級しなかったから、つまりは小学校中退なのである。父は、上に進ませたかったようだが、「女子にながく学問をさせなんは行々の為よろしからず、針仕事にても学ばせ家事の見ならひなどさせん」という母の意見に従ったのだ。この時のことを彼女は「死ぬ計悲しかりしかど学校は止になりけり」と後に記している(「塵之中」1893(明治26)年8月10日)。
  日記にはこの就職話の行方は書かれていない。立ち消えということであったのだろうか。それとも何らかの言葉を伝えられながら、日記には残さなかったのか。いずれにしても、この日の喜びが行間に強く感じられるだけに、後の落胆が想像されて何とも悲しい。この少し前には半井桃水との絶交を経験し、またこの直後にはもと許嫁渋谷三郎が再訪するという出来事が控えている。恋愛も、仕事も、毎日の生活さえも意の如くにならない。まさに、荒波に揉まれる一葉(ひとは)の小舟のような状態であったと言えようか。しかし、彼女が女学校の先生となっていたら、後の「たけくらべ」や「にごりえ」は書かれたかどうか。……人生は皮肉なものだ。
9月3日     (『につ記』)
日記本文 三日 晴天に成りぬ。早朝に洗濯もの三、四枚なす。「此頃柔弱に馴れたる身の苦しさ堪がたきに、是よりはつとめて力わざせばや」などかたる。久保木来訪。姉君家出のてん末ものがたる。投身などの覚悟にや、水道橋の袂にて取押へたるよし。聞く心堪がたし。久保木帰る直に、母君、奥田へ例月の利子もて行給ふ。(略)  
【注】
 一葉の生きた9月3日。
 小説の師であり思い人であった半井桃水と別れて2ヶ月余りの頃である。一葉は気持ちも新たに、『都の花』へ掲載する『うもれ木』を執筆していた。この間の8月、自分に背いたかつての許嫁渋谷三郎が現れ、9月1日に求婚してくるという出来事があった。彼女は当日の日記に彼とのこれまでの経緯を記し、「今この人に我依(よ)らんか、(略)そは一時の栄、もとより富貴を願ふ身ならず、位階、何事かあらん。母君に寧処(やすきところ)を得せしめ、妹に良配(よきつれ)を与へて、我れはやしなふ人なければ路頭にも伏さん、千家一鉢(せんげいっぱつ)の食にはつかん。今にして此人に靡きしたがはん事なさじとぞ思ふ。そは此人の憎くきならず、はた我れ我まんの意地にも非らず。世の中のあだなる富貴栄誉うれはしく捨てゝ、小町の末我やりて見たく、此心またいつ替るべきにや知らねど、今日の心はかくぞある。」と書いた。「小町」とは勿論小野小町だろうが、この「小町の末我やりて見たく」という言葉が何とも潔いではないか。だが、一方では痛ましくも感じられる。そして、翌日は「終日何もなさず沈思に終る。」と書き、さらにこの3日の日記に至るのだ。早朝の洗濯、「力わざせばや」という言葉は、彼女の何かを振り切りたい心の表れではあるまいか。
 「久保木」は彼女の姉ふじの夫久保木長十郎である。この時、ふじは2人目の子供を妊娠中で神経過敏になっていたらしく、2日に家出していたのだ。彼女については、1893(明治26)年5月15日の項で記しているので、そこも参照されたい。なお、この時の子供は死産であった。
9月5日     (『につ記』)
日記本文 五日 曇天。芝より兄君来る。「薩摩陶器の土瓶、かひてあらば売たし」とて五箇ほど持参。「我家にても一ツあがなひ度し」などいふ。日没まで遊びて、帰路、諸共に万世橋まで行く。兄君はこれより馬車。おのれと国子は小川町に廻りて焼あとの新築を見、東明館に墨をかふ。今宵、旧七月の十五夜也。夕方より一点の雲なく成りて、明月の光り何ともいへず。お茶の水橋に虫声きゝながら暫時たゝずむ。 (略) 家に帰りても月の光見捨がたく、板敷のもとに更るまで一人起居たり。 
【注】「あがなひ度し」は「買いたい」
 一葉の生きた9月5日。
 「兄君」は、一葉の次兄の虎之助のこと。1893(明治26)年5月15日の日記に、一葉が「こゝろうき人々」と書いた1人である。
 一葉には2人の兄がいた(3人目もいたが早世)。長兄は泉太郎と言ったが、5年前に病死していた。彼については、この年の3月18日を参照されたい。虎之助は、一葉の6歳上の兄である。
 彼らの父則義の死後、樋口家の戸主は一葉、つまり樋口奈津子がなったが、本来(という言葉が適切かどうかはともかく)ならば次兄の虎之助がいたわけである。だが、彼は10代半ばの1881(明治14)年に分籍されていた。その理由は、素行が悪いためとも、父則義による徴兵忌避策だとも言われている。ところが、跡継ぎの泉太郎が1887(明治20)年に、父則義もその2年後に相次いで亡くなってしまった。それで、残された女所帯の樋口家は虎之助との同居を始め、また、彼を戸主とする準備も進めたらしい。だが、結局は実現せず、同居も約1年で解消された。長い別居による生活感覚の違いから、彼と母との間に争いが絶えなかったからだ。一葉が彼のことを「こゝろうき人々」と書いたのも、このようなことが背景にあったからだろう。
 ところで、虎之助は、薩摩焼きの陶工に弟子入りさせられて着絵師として修業を重ね、後には「奇山」と号するまでになった。一葉がこの時期に書いていた『うもれ木』は薩摩焼きの絵師とその妹が主人公の話で、虎之助に陶器のことを尋ねたりもして完成させたのである。「こゝろうき人々」と書きながらも、彼女は彼と母との間を取り持ち、彼が負債や病気で苦しんでいた時には心を砕き、妹として家族としてのいたわりを忘れることはなかった。彼の方も何かにつけて彼女らを訪ね、支えとなっていたのである。
9月15日     (『につ記』)
日記本文 十五日 小説「うもれ木」出来上る。田辺君に持参。途中より雨に成りぬ。車にて到る。同君何方へか結婚の約整のひて、「是れよりは筆とり難き身と成らんとす」とて物がたらる。我が小説、「雑誌に掲載せんよりは小冊の本になしたる方、後来の為よかるべし」と物がたらる。「我れ一人舞台は心細きに、君も何か書て給はらば、驥尾の青蠅、僥倖なるべし」といふに、「否々、夫処ではなし。却て蛇の足ならんが、何か四、五枚の物かくべし」とうけがはる。「半紙判二ツ折の小形製にして、うるはしき表装にせば」などいふ。「明日直に金港堂に持たして遣ん。但し、十日位い、間はあるべし」とにて帰る。
【注】 「驥尾の青蠅」は「きびのせいよう」と読む。青い蠅が駿馬の尾に付いて千里の遠くまで達したという話(「史記」)から生まれた言葉。つまり、後進者(ここでは一葉)がすぐれた先達の士(ここでは田辺君)に付き従ってことを成すこと。
「僥倖」は「ぎょうこう」で、思いがけない幸せ。「夫処ではなし」は「それどころではなし」と読む。
 一葉の生きた9月15日。
 前回のコメントで、この頃の一葉は、次兄の虎之助に陶器について質問しながら『うもれ木』を書いていたと記した。この15日、それを脱稿したのだ。この小説については、同年7月1日、及び10月19日の日記も参照されたい。
 「田辺君」は田辺龍子のこと。彼女のことは、1894(明治27)年2月25日の項で取り上げているが、小説家樋口一葉誕生を語るには欠かせない存在である。この時期も、小説の師半井桃水と別れ、尾崎紅葉への紹介も断った一葉に、彼女は文芸雑誌『都の花』への執筆を促した。『うもれ木』は、それを受けて完成させた小説である。
 さて、作品を持参した際、龍子は単行本にすることを勧めたようである。だが、一葉は彼女との合著を希望した。「我れ一人舞台は心細きに」と書いているとおり、いくつかの発表作品はあるとしても、確かに単行本として出すのは不安だったに違いない。しかし、結婚を控えていた龍子に執筆の余裕などあるわけがない。従って、彼女は「四、五枚の物」だけ書くと約束し、それを『うもれ木』の序文として作品に添えて金港堂(『都の花』を出している出版社)に送り、単行本での出版を交渉したのだ。だが、結果は雑誌掲載になり、3回に分けて発表されることになった。載ったのは、第95号(11月20日)、第96号(12月4日)、第97号(12月18日)である。
 ところで、この日、龍子は一葉に結婚の報告をした。相手は、ナショナリズム運動の先駆をなした評論家、三宅雪嶺(雄二郎)である。一葉は、後に祝いを届けた日の日記に、「三宅雄次郎といへば世にはたゞ木のはしなどのやうにおもひて「仙人」とさへいふめり。さるを、「この君のよにめづらしきまで才たかきをむかへたまふなる、猶たゞ人にはあらず」とて目をおどろかす人々多し。」(「道しばのつゆ」同年11月11日)と書いている。また、新居を訪問した際の日記では、「彼れ(雪嶺)にこと葉なし、これ(自分)に詞なし。初対面は窮屈なるものにて、はては困じて次の間に入られぬ。」(「よもぎふ日記」同年12月26日)と記している。晩年、ジャーナリストや社会運動家らにも興味を持たれ、多くの訪問者を迎えることになった一葉だが、この時期の彼女とナショナリスト三宅雪嶺との出会いには、特筆すべきことはなかったわけだ。
 ただ、雪嶺が一葉の席に顔を出す前、彼は志賀重昴(しがしげたか)と「五百円何とやら、宮崎が今必死也。君何ほどとやらを出さば、其余は我何ともすべし。我れに手もとの無きは無論なれど、夫(それ)こそ何とかして才覚すべし」という話をしていた。これは、朝鮮独立運動の活動資金についてらしく、一葉はこれを襖越しに聞いて、「窮鬼は何方をもおそふものかとをかし」と記している。が、この、「をかし」という感想は実に曖昧だ。1円2円という生活費の借入に奔走している自分、一国の大事に何百円単位の金を捻出しようとしている彼ら……襖ひとつ隔てた両者の境遇に、一葉は何かシニカルなものを感じたのだろうか。
9月18日     (『につ記』)
日記本文 十八日 晴天。野々宮君稽古に参らる。今日は用事ありとて正午帰宅。午後より諸宗教文少し見る。習字二返り計して、夫より『万葉集』を見る。夕暮より国子と共に散歩をなす。右京山に虫を聞て、夫より田町通り、本郷の台にのぼりて、大学前あたりを遊びて帰る。二人にて母君のもみ療治をなす。臥させ奉りてより近松の浄瑠璃集をよむ。    
【注】 「計」は「ばかり」、「夫」は「それ」と読む。
 一葉の生きた9月18日。
 「野々宮君」は、野々宮菊子のこと。千葉県の生まれで、教職を目指して東京府高等女学校に通っていた頃、一葉との交流が始まった。一葉に半井桃水を紹介したり、また、彼女に和歌の弟子を斡旋し自らも習うなどして彼女の生計を援助したりした。時として、互いに批判的な眼差しを向け合う時期もあったが、一葉の生涯にとって重要な関わりを持った人物である。
 この時期、菊子は東京市麹町尋常小学校訓導をしていたと思われるが、頻繁に一葉宅へ和歌の稽古に通っていたのである。ついでに言えば、明治28年以降は安井てつ(後の、東京女子大学第2代学長)などを伴って一葉宅へ通い、和歌や「源氏物語」「古今和歌集」などの古典の指導も受けた。
9月23日     (『につ記』)
日記本文 廿三日 雨猶やまず。早朝、野尻君より書状来る。「『甲陽新報』へ載すべき小説、著作しくれ度し」と也。 (略) 午後、小石河師君よりはがき来る。此月に入りてより、思ふことありて何方の歌会へも一度の出席もなさゞれば、夫をあやしみてなるべし。兎も角明日の会には出席せばやと思ふ。日没少し前より大雨盆をかへす様也。母君、「明日は不参の方よかるべし」との給ふに、「さらば」とて師君のもとには手紙を出す。 
【注】「著作しくれ度し」は「著作しくれたし」で、「小説を書いてほしい」。「夫」は「それ」
 一葉の生きた9月23日。
 19日からずっと雨天だった。いわば、秋の長雨だろう。19日の日記には、「雨だれの音軒ばのらんの葉にほとほととして、吹風のそゞろ寒きなど、気候のうつり行さまいとしるし(とてもはっきりしている)」と書いてある。温暖化の現代の9月は、朝晩は涼しくなっても、日中はまだ蒸し暑い。ここ神戸にも何度か雨の日はあったが、草木の葉に「ほとほと」と降りかかるような雨だったかどうか……。
 「野尻君」や『甲陽新報』については、この年の10月19日及び1893(明治26)年5月25日の項を参照されたい。
 「小石河師君」は、歌塾萩の舎の師中島歌子である。歌会を休み続けている一葉に葉書を寄こしたらしい。だが、一葉には、出席したくないだけの「思ふこと」があったのだ。それを、彼女はあからさまに書いてはいない。が、今日では、教師への就職話が関わっていると考えられている。
 一葉は、ひと月前の8月27日、歌子から女学校教師として周旋すると言われて乗り気になっていたのだ。「母君にこの事を聞かせ奉るに、喜限りなし。今宵はいたく勉強したり。」と日記にも書いた。学校は小石川にあった淑徳女学校で、彼女は、「読書」(国文漢文の購読、作文、和歌)の教師に、という話だった。貧困に喘いでいた樋口家にとっては、願ってもない就職話だ。ところが、小学校中退(青海学校小学高等科第4級)という彼女の学歴がネックとなって採用は見送られてしまい、彼女は少なからぬ衝撃を受けたらしい。
 この一件がなかったとしても、元から彼女には、大小の苦悩の種がいっぱいだった。困窮した家計状態、将来への不安、小説の師であり思い人でもある桃水との別れ、婚約不履行の渋谷三郎の再来、等々。そんな時に降って湧いたような教師への話だった。それは、闇の中に差した一筋の光明のようなものだったに違いなく、だからこそ、消えた後は一層暗いのだ。ショックは小さくなかっただろう。ただ、一葉が萩の舎に行かなかったのは、歌子を責める気持ちからというより、もっと深い自らの生への不安や焦燥によるものだったのではないかと、私は思う。 
10月2日     (『につ記』)
日記本文 二日 晴天。田辺君よりはがき来る。「『うもれ木』一ト先『都の花』にのせ度よし、金港堂より申来たりたる」よし。「原稿料は一葉廿五銭とのこと、違存ありや否や」と也。直に「承知」の返事を出す。母君、此はがきを持参して、三枝君のもとに此月の費用かりに行く。心よく諾されて六円かり来り。そは、「うもれ木」の原稿料十円計とれるを目的に也。此夜国子、共に下谷ステーシヨンより池のはた近傍を散歩す。 
【注】「一ト先」は「ひとまず」。「のせ度」は「のせたき」
 一葉の生きた10月2日。
 9月15日に田辺龍子のもとに持参した小説『うもれ木』について、金港堂(出版社)が当時の有力文芸雑誌『都の花』に掲載したいと言っているとの連絡を、龍子から受けた。「原稿料は一葉廿五銭」とあるが、この「一葉」は1枚のこと。原稿用紙1枚につき25銭を支払うがどうか、という問い合わせだ。金が欲しい樋口家に、その多少を云々する余裕などない。一葉はすぐさま承諾し、母のたきは、早速、この葉書を償還証明にして当面の生活費を借りに走った。ただ、この稿料はなかなか手に入らず、一葉はその不安を10月19日に記すことになる。
 『うもれ木』は、現在は殆ど知られていない作品である。粗筋はこうである。
 主人公は薩摩焼陶器の着絵師、入江籟三(らいぞう)。金が物を言う時代の趨勢に逆らい、唯一の身寄りである妹のお蝶だけを頼りに、彼は赤貧の生活に甘んじていた。ある日、彼は、かつて師匠を裏切って逃走した相弟子で、今は慈善事業家になっているという辰雄に再会し、和解した。また、妹お蝶も辰雄に男気を感じて慕い始め、以来、兄妹とも彼の援助を受けながら親交を深めていった。そして、辰雄から海外博覧会への陶器出品を勧められた籟三は、その制作に意欲を燃やすようになった。だが、辰雄の真意は、自分の詐欺に兄妹を利用することにあった。やがて、お蝶は、病院設立の志を果たすために有力者に貞操を捧げるように辰雄から頼まれ、苦悩の末に死を決意して家を出ていった。それを知らず、仕上がった花瓶を辰雄の家に持参した籟三は、辰雄の奸計を偶然耳にした。……自分の芸術への執着がこのような結果を招いてしまったと悔いる籟三は、花瓶を眺めて抱きしめ、そして「いざ共に行かん」と言って庭石に叩きつけ、虚しい笑い声を立てるのであった。……
 発表当時から、幸田露伴の影響を指摘された作品である。また、主人公の籟三は、一葉の兄で薩摩焼陶器の着絵師虎之助をモデルにしたという人もいる。が、兄妹の境遇、籟三の芸術への執念には、桃水のこと、萩の舎のこと、渋谷三郎のこと、背負わねばならぬ樋口家のこと等に対する当時の一葉自身の様々な思いが影を落としているように思われる。勿論、作者そのものを作品世界に持ち込むことは愚だが、小説家樋口一葉の歴史の中では、この作品はいろいろな意味で彼女の転機が窺えるものだと思う。
 尚、7月1日9月5日の各項においても、『うもれ木』に関連して少しずつ触れているので、参照されたい。
10月11日     (『につ記』)
日記本文 十一日 少し雨のひまみえたり。野々宮君来訪。岩手県に新高等女学校開校されんとするに招かれて、主座の任を帯て十四日出立せんとする也。付きて、「教科書の不審の処問ひきゝ度し」とて我れを訪ふ。『和文読本』四冊を相談す。同人より駒下駄壱足貰ふ。此方より花むけとでもなけれど、有合せの半ゑり一かけ送る。夜に入るまでものがたりして帰る。
 一葉の生きた10月11日。
 友人の野々宮菊子が、盛岡に出立する挨拶を兼ねて国語教科書の質問に来たという記録である。彼女については、この年の9月18日の項で少し紹介しておいた。カトリック系の盛岡女学校が新設され、彼女がその主座として赴任することになったのだ。脚注に依れば、主座とは「校長の下で働く学監のような立場」とあり、さらに菊子について「十一月十四日付の書簡によれば、家政・唱歌・習字・洋裁・算術・国語などの授業を受持った。」とある。生徒指導や授業もたくさん担当しながら、教頭の仕事も掛け持つポストだろうか。当時の私立女学校の実態はよく分からないが、もしそうであれば相当な仕事量だ。この頃菊子は熱心にキリスト教教会へ通っており、その関係で赴任することになったのであろう。彼女は一葉より3歳年上、当時満23歳だったはずだ。現代ならば、大学を出たばかりの新米先生の年齢である。が、菊子は小学校教師をすでに経験しており、明治の新しい教育を担って立つ有能な女性教師であった。この女学校へは翌年の12月まで勤務して退職、後に関東へ戻って教師を続け、一葉の元へも古典を学びに再度通うことになる。
 そして約3年後、この野々宮菊子を通して、一葉は、安井てつや石黒虎子ら当時の女性教育者にも接する機会を得ることになる。週に1回程度だが、菊子が彼女らに、一葉宅に古典の講義を受けに通うことを勧めたからである。勿論これは、一葉の生活を助けようという菊子の思いやりからでもある。だが、かつて学歴がないために女学校教師への道を断たれた一葉は、このような形で、当時の教育者との関わりを持つことになったわけである。前にも書いたが、野々宮菊子と一葉とは、時には批判的な目を向け合うようなこともあった。しかし、半井桃水を紹介し、また少ないながらも収入への援助をし続けた菊子は、一葉の短い人生に大きな功績を残した人ではないかと思う。
 尚、安井てつは、英国留学のため、そう長く通うことはできなかったようだ。また、一葉の晩年には、樋口勘次郎という若い教育者が教科書への助言を求めに来たこともあった。そのことはまた後の機会に触れたい。
 それにしても、小説家としての一葉、歌人としての一葉、商人としての一葉……、一葉には様々な顔がある。教育者としての一葉も、そのひとつだ。短い年月に、しかも東京というごく狭い空間の中で、実に多彩な関係を持ち多面的な顔を見せた一葉。彼女の魅力は、ほんとうに尽きることがない。
10月19日     (『につ記』)
日記本文 十九日 好天気なり。(略)『都之花』に載すべき筈にて金港堂へ廻し置たる小説もはや一ト月計にも成れるを、いまだ其価は我が手に入らず。さりとて催促すべき処もなければ、日々首をのばして便を待ばかり。母君よりは手元の苦るしさをしばしば訴へ給ふ。それも道理也。「此月中に是非入金の道なくば」と頭を悩ます。『甲陽新報』へも六回計の物差出し置し夫さへ何の便りもなく、日々に送り越す新聞さへ此両三日は如何にしけん発送もなし。彼れ是れと煩はしくて、夜に入れどねむり難く、書見に二時すぐるまで更したり。
【注】「計」は「ばかり」、「便」は「たより」、「夫」は「それ」
 一葉の生きた10月19日。
 小説の原稿料が入らず、不安を募らすさまが記されている。
 出版社金港堂の『都之花』は当時の一流文芸雑誌で、二葉亭四迷の『めぐりあひ』、『浮雲』、幸田露伴の『露団々』などもこの雑誌に掲載された。この日記にある「小説」とは『うもれ木』で、翌月の11月と12月に分載され、これによって、一葉は『文学界』グループの青年達に注目されるようになっていったのである。
 ところで、この時の一葉の原稿料は1枚25銭であった。この額は低いのか、それとも妥当なのか、比較できる資料を持っていないので何とも言えない。『うもれ木』は計47枚であったから、11円75銭であった。結局、これは、2日後の21日に受け取ることができた。しかし待ちに待って得た稿料も、その半分以上の6円が、さらに2日後の23日、借金返済に消えていったのである。
 『甲陽新報』は、一葉の両親の故郷山梨県で出版されていた地方新聞である。これにも彼女は、『経つくえ』を6回分送っていた。野尻理作という、山梨出身で樋口家に出入りしていたこともある青年から依頼されて書いたのである。だが、これもこの日まではナシの礫で、彼女は夜も眠れないほどの焦りと不安に苛まれていた。しかし、この新聞の方も翌20日の朝には届けられ、小説も確かに載っていた(連載は、編集の都合で7回になった)。これを確認した一葉は、「此分にては、更に著作し送るとも没書にも成るまじ」と、前日とはうって変わった大胆な言葉を記している。安堵のあまり、ふと漏れ出た自負の念であろうか。仮面の下の素顔が、このようなところに見えている。
10月20日     (『につ記』)
日記本文 廿日 好天気。よべ夜更しをなしたるに、少し朝寝をしたりし枕もとに、早くも『甲陽新報』つき居たり。邦子いちはやくくり広げて、「あゝ今朝より『経づくえ』出たり」とさけぶ。我れもあわたゞしく起出て見れば、実にぞしか也き。此月の六日計にさし出し置しの也けり。「此分にては、更に著作し送るとも没書にも成るまじ」と安心す。おもへば我ながら恥かしき心也。智識たらず学事とゝのはずとは万も二万も承知なしながら、文学中ことに六つかしゝと聞く小説をかきて一家三人の衣食をなさんなど、大たんといはんか身知らずと言はんか。人知らぬよ半の寝覚に背に汗のいと心ぐるし。さるものから、是れに依らずは母君を安心させ奉ることも家の名をたつることも成らずなど様々に。
【注】「実にぞしか也き」は「げにぞしかなりき」で、「本当にそうであった」。
「此月の六日計にさし出し置しの也けり」は、「今月の6日頃に(甲陽新報社に)送付しておいた小説だ」。
「文学中ことに六つかしゝと聞く小説をかきて」は「文学の中でも特に難しいと聞いている小説を書いて」。
「よ半の寝覚」は「夜半の寝覚」で「よはのねざめ」と読む。菅原孝標女作とされる物語の題名だが、ここではそれを折り込みながらも、「夜半に人知れず、背中にびっしょり汗をかいて目覚めるほど、心苦しい」というのが本来の意。
「さるものから」は「そうは言っても」。
 一葉の生きた10月20日。
 前日19日の日記に続いて読むと、状況がよく分かる。いつまで経っても『うもれ木』の原稿料は貰えないし、机に齧り付いて書いた『経づくえ』についても、甲陽新報社から何の連絡もない、いったいどうなってるのかと前日は寝つけないほどに心配していたのだ。それが、一夜明ければこうである。『経づくえ』の第1回が新聞に載っているではないか。前夜のことは忘れたかのように、「此分にては、更に著作し送るとも没書にも成るまじ」と大胆なことを書く一葉。「智識たらず学事とゝのはずとは万も二万も承知なしながら、文学中ことに六つかしゝと聞く小説をかきて」云々の語にも、大事を成したかのような自信と誇らしさが感じられる。9歳の頃から「我身の一生の、世の常にて終らむことなげかはしく、「あはれくれ竹の一ふしぬけ出でしがな」とぞあけくれに願ひ」(『塵中日記』1892(明治26)年8月10日)続けてきた彼女の一端をここに読みとることもできよう。
 だが今日多くの人が知っているように、その願いは「くれ竹」のように真っ直ぐには伸びなかった。それゆえ、周囲への罵倒、邪推、冷笑等、日記からは苦悶する一葉の生身の姿が窺える。自負の念と挫折感を生々しく語っている所もある。その意味では、一葉の日記は`生の闘いの日記´とも言えるのではないだろうか。
 ところで、『経づくえ』の署名は、「春日野しか子」である。ちょっとふざけたような名前にも思えるが……。ついでに紹介すると、この年の4月に『改進新聞』に連載していた『別れ霜』の署名は「浅香のぬま子」であった。どちらも戯作者的なイメージが強くて、私など、遊び半分に付けたような名前だなと思ってしまう。勿論、「一葉」というペンネームにも、達磨大師が乗った一葉の葦舟という発想から、足のない達磨におあしつまりお金がない自分を掛けて付けた、つまりシャレからできた名前だと解釈する人がいなくはない。が、それだけではないのだ。このペンネームは、資料によれば明治24年秋頃から見られるらしく、漂う舟、彷徨、挫折といったイメージを伴うものであったらしい。だが、彼女が記した次のような和歌には、もっと深いものが感じられる。
   「なみ風のありもあらずも何かせん 一葉のふねのうきよなりけり」(1892(明治25)年8月23日「しのぶぐさ」)
   「行みづのうきよは何か木の葉舟 ながるゝまゝにまかせてをみん」(1894(明治27)年4月末書簡)
   「極みなき大海原に出にけり やらばや小舟波のまにまに」(1895(明治28)年10月「水のうへ日記」)
 それぞれ、恋や人生への煩悶の時期、商売に挫折して敗北感に打ちひしがれていた時期、文界で持て囃されることに戸惑っていた時期の歌である。世間という大きな波に翻弄される小さな存在、そんな自分を歌に託している。だが、不安や恐れと同時に、どこか達観したような響きがありはしないか。小舟のような力無い自分でありながらも、彼女はそれを冷静に見据えている。「生きるしかないのだ」とつぶやきながら。彼女の人生は短く、その行動範囲も非常に狭いものであったが、深い洞察を通して培われた世界観、人生観が、「一葉」という名を重く大きいものにしているような気がする。
 では、「春日野しか子」や「浅香のぬま子」という名前は、いったいどういうつもりで付けたのか。深い意味は……。いや、こちらはそれほどでもないような……。
10月24日     (『につ記』)
日記本文 廿四日 大雨。午後より田辺君を番町に訪ふ。留守にて母君としばし談る。帰路、半井君下婢に逢ふ。同氏の近況を聞く。万感万歎この夜睡ることかたし。
【注】「談る」は「かたる」。「睡ることかたし」は「なかなか眠れなかった」
 一葉の生きた10月24日。
 「田辺君」はこれまで何度も登場した田辺龍子(花圃)のこと。雑誌『都の花』の編集者が、来年の新年号の付録に女流3人(一葉、花圃、佐々木竹柏園(光子)か坪井秋香)の作品を掲載したいと言ってきたので、その相談に行ったものと思われる。が、留守で会えなかったらしい。ちなみに、この新年号付録の話は、後に中止になってしまった。
 さて、帰路に出会った半井家の下婢からは、いったいどんな話を聞いたのだろうか。彼との交際を絶って約4ヶ月が過ぎていた。ただ、書簡でのやり取りはあったらしいが、それも一葉が彼への返信を8月10日付けで出して以来絶えていた。だが、この日に聞いた「同氏の近況」は、彼女の心を強く揺さぶったものと思われる。そして、彼女は久しぶりに桃水に手紙を出したらしい。正確な日付は不明だが、10月末頃に書いたと思われる手紙の下書きが現存している。
 「 (略) 此ほど途中にて不図(ふと)お女中にお逢ひ申御様子承り候へば兎角(とかく)おすぐれ遊ばさずとか 御目もじかなはねば殊更にお案じ申され候 何とぞ何とぞ御自愛あそばし候やう とし頃のおならはし成るべけれどあまりの夜ふかしなどはおよろしかる間敷(まじく)御勉強もおほどほどにと存じられ候 さりながら新聞の上にお前さまお作のものゝ見えぬ時はいよいよ心ぼそくもしお心わるくてかなど胸をいため候 何事にもたよりなき身ゆゑ万(よろづ)のことを考へ候ほど如何いたしてよろしきにや実に途方にくれ申し候 あの後田辺と申(もうす)友の世話にて金○に相頼みやうやう少し計(ばかり)のもの来月下旬より都のはなへ出すことに相成り候まゝそのお話しも申上度(もうしあげたく)なほ御目どほり願ひ度(たき)ことのみ御座候へどもおのづからの時をと待渡り候 あし分船のよの中なればこそかく御不沙汰申上候ものゝ茂き御恵みにあづかりしことはわたくしのみならず母も妹も身にしみて有難く存じ居御うわさ申出すと共に憂きよと計(ばかり)かこたれ申候 先は御不沙汰のお詫ながら右申上まで    あらあらのみかしこ」( 【注】文中の「金○」の「○」は、「港」を書きかけたまま空白になっているところ。「金港堂」(『都の花』の出版社)と書くべきところである)
 一葉は、8月に桃水の縁談を聞いて動揺し、その日のうちによそながら彼の住まいを見に行っていたこともあった(8月21日)。その時からは約2ヶ月経っている。その間も、おそらく心のどこかで桃水のことを思い続けていたに違いない。だが、会うことのかなわない身としては、深奥に潜ませておくことしかできなかった。だから、下婢との出会いは幸いだったのだ。そして、これを口実として久々の手紙をしたためた……勿論、結婚への質問など、そんなはしたないことはしない。健康を気遣い、自分の近況を知らせ、これまでの恩義に対する礼を述べただけである。が、行間はとても深い。
11月9日     (『道しばのつゆ』)
日記本文 九日は萩のやの納会なり。二日三日前より、時のけにや、いたくなやみてかしらもあがらず、「出席むづかしかるべし」と思ひしも、今朝より俄に心すがすがしく、「此ほどならば」と行く。髪などもはかばか敷はとりあげず、手あしなどもあかつきたるまゝ成し。田中、鳥尾、中村などの人々は我より先成けり。さはいへど常の様にもあらねば、歌もえよまずものうげなるを、人々みあつかひてさまざまに介抱さるゝいと嬉し。来会者は三十人にあまりぬ。龍子の君の、田中ぬしにことづけて、我と伊東君に文あり。この廿日までに嫁入り給ふべきよし。今日の会をおもひやりて歌あり。
   「むれ遊ぶ沢辺のさまをおもひやりて
          心そらにもたづぞ鳴なる
なくねもしどろなるみだり心地をゆるさせ給ひてよ」など、例のうるはしうみだれ書給へるうつくしくさゝやかなる紙に、遠山のかたかすかにかすませて、田鶴鳴渡る松ばらのけしき絵もをかしかりし。我には又別に。「十五日前にいま一度おどろかし給てよ。あたらしき家居には誰もゐごゝちよからぬものにて、今よりのちしばらくは、ゆるゆる御ものがたりもかたかるべく、いかでいかで」などありけり。「これがかへしは」と人々いふものから、さわがしさにまぎれてやみぬ。夕すぐるほどかしら俄になやましう成りしを、人めにもしかみえけん、まだ残る人いと多かりしかど、我はくるまたまはりて家に帰りぬ。 
【注】「はかばか敷は」は「はかばかしくは」。「歌もえよまず」は「歌も詠むことができないで」。
「人々みあつかひて」は「人々が心配してくれて」。
「心そらにも」は「気もそぞろで落ちつかない」。「なくね」は「鳴く音」。
「おどろかし給ひてよ」は「私を訪ねてきて下さい」。「かたかるべく」は「きっと難しいでしょうから」。
「これがかへしは」は「これへの返歌は?」。「人めにもしかみえけん」は「人目にもそのように見えたのであろうか」
 一葉の生きた11月9日。
 この記録から、表題が「道しばのつゆ」になっている。『樋口一葉全集 第三巻(上)』(筑摩書房)の補注によれば、この表題の出典は『新古今和歌集』の次のような和歌である。
   巻八、慈円作、「故郷をこふる涙やひとり行くともなき山のみちしはの露」(故郷(ふるさと)を恋ふる涙や一人行く友なき山の道芝の露)
   巻十三、朝光作、「消えかへりあるかなきかの我身かな恨みて帰る道芝の露」、
   巻十三、賀茂成助作、「誰れ行きて君につけまし道芝の露諸共にきえなましかは」
 同じく補注には、「思う人を離れて1人で生きてゆく悲しみや心細さを表現したもので、桃水への思情が象徴されている。」との説明がある。
 日記が書かれているのは9日、11日、12月7日、12月20日のみで、内容は「龍子の君」つまり田辺龍子の結婚や彼女との話、半井桃水宅を訪問した感慨等が中心である。期間は短いが、11日の記載などは実に長い。これは後に紹介する。また、龍子については、まず1894(明治27)年2月25日、そして1892年(明治25年)9月15日を参照されたい。上流家庭に生まれ、才能にも恵まれ、歌においても小説においても先輩であり恩人でもある龍子は、いよいよ結婚する。言ってみれば、ついに″女の幸せ″までも得たわけだ。一方の自分は、桃水への思慕に蓋をし、貧極まりながら、文筆で家族を養っていかねばならない。しかもその桃水には縁談の噂がある……。そんな穏やかならぬ心の手綱を締め直す気持ちで、一葉は日記を改めたのかもしれない。
 さて、上記の文章だが、萩の舎の1年を締めくくる納会の日である。上流子女達が30人あまりも集まった和歌の学舎は、いつもに増して華やかだったに違いない。その上に、舎中の優秀な弟子龍子の婚約の報が、更に花を添えた。
 だが、一葉はそんな中にあって、1人沈まずにはいられなかったのだ。「時のけにや、いたくなやみてかしらもあがらず」は、一葉の死の病につながる頭痛である。この身体上の苦痛と共に、心に淀んでいた言いようのない苦悩は、周囲が華やかであればあるほど強く彼女を襲ったはずである。「髪などもはかばか敷はとりあげず、手あしなどもあかつきたるまゝ成し」という記述を言葉通りに受けとっていいかどうかはともかく、この記録は、一葉自身の疎外感や寂寥感を浮き上がらせたもののように思える。人々からの介抱に対する「いと嬉し」という感想も、そんな寂しさの裏返しではあるまいか。
 そして、賑わいに背を向けて、1人先に帰る自分。その自分をこうして書きとめることで、一葉は自らの孤独や悲しみに向き合えたのではないだろうか。
11月11日     (『道しばのつゆ』)
日記本文  (略)
 君は何ごとの心がまへもなきやうに例のあざれ居給へり。何某新聞の評したらんやうに、大雅堂の夫妻おぼゆらんかし。三宅雄次郎といへば世にはたゞ木のはしなどのやうにおもひて、「仙人」とさへいふめり。さるを、「この君のよにめづらしきまで才たかきをむかへたまふなる、猶たゞ人にはあらず」とて目をおどろかす人々多し。「『みやこの花』の松竹梅のこと、いかに成りし哉。われもいよいよ十九日には鬼界がしまに移らんとするを、中々いとまなきしも、心のどかなればにや、短編のものかゝばやの心ぐみあり。 (略) 是れを今金港堂に出さば、大方は松竹梅に加へんとやする。『新年の付ろく』といふさへ花々しきを、女計三人など、いさゝか目だつふしなきにもあらず。かしこにも、さるけざやかなることを好まぬほんしようなるに、とつぎてほどもなくいかにぞや。それも君とわれと坪井の秋香ぬしなどならばまだ少しはよし。坪井の家は三宅とはいさゝか縁しのなきにもあらず。此十三日に小石河の植物ゑんにて披露をなすべき筈なれば、夫よりは追々にしたしみを重ぬる道理なればなり。聞くところにては竹柏園や撰みに当りけん。それにては少し不都合なれば」とて笑ふ。「おなじうは君のと共にして、一冊のものよに出さばや。金港堂ならで春陽堂にてもよし。何かお作はなくや」と問はる。「我れ例の遅筆なれば、是れぞとおもふものもあらず。されども、かねてものしかけしが、しばしにてまとまらんとするを、あはれ諸ともにせさせ給はゞ嬉し」など語り合ふ。ひる飯たまはりて、しばしして出ぬ。二時にも成けん、番町より車にて三崎町にいそぐ。北風いとつよく、身をさす様也。
(略)  
【注】「例のあざれ居給へり」は「いつものようにくつろいでいらっしゃる」。
「鬼界がしま」は、結婚のことを『平家物語』の俊寛の故事になぞらえて言ったもの。女性は嫁ぐと戻れないと言われていたから。
「けざやかなること」は「目立つこと」。
 一葉の生きた11月11日。
 この日の記述は非常に長く、田辺龍子(花圃)宅への訪問、そして半井桃水宅への訪問とその心境が縷々と綴られているが、今回の紹介はその4分の1程度、田辺龍子訪問のところのみにとどめさせていただく。
 「君」は龍子のこと。三宅雄二郎(雪嶺)との結婚を間近に控え、「鬼界がしまに移らんとする」と言いながらも、いかにも華やいだ様子の彼女を語り出している。この結婚については、同年9月15日の項を参照されたい。
 「『みやこの花』の松竹梅」は10月24日の項でも触れたが、新年号の付録で女流3人の作品を掲載するという計画である。一葉と龍子と、もう1人は佐々木竹柏園(光子)か坪井秋香という話だったらしい。龍子は、結婚のことで忙しいが落ち着けば短編を書きたい(省略したが、翻訳物を考えていたらしい)、これが新年号付録になれば目立つだろう、夫になる人も華々しいことは好まないのに結婚したばかりでこんなに目立つのはどうだろうか、云々。浮き浮きとした、そして誇らしげなさまが伝わってくる。一葉は、これらの話をいったいどのような思いで聞いていたのだろうか。彼女からすれば、龍子は才能も門地もそして伴侶にも恵まれ、今を春とときめいているように見えたのではあるまいか。
 「三崎町にいそぐ。北風いとつよく、身をさす様也」。この言葉が、この時の一葉の複雑な心境を如実に物語っているように思える。龍子の笑顔を後にし、一葉は、無念にも交際を絶たざるを得なかった半井桃水宅へ向かったのである。この日は、母や妹の許しを得てやっと訪問がかなった。こんな我が身に引き比べて……と一葉が思ったかどうかは知らない。ただ、彼女の頬に当たる北風の冷たさに思いを馳せるばかりである。
 三崎町の桃水宅でのことは、「続き」に。
11月11日続き     (『道しばのつゆ』)
日記本文  (上記掲載から続く)
 月日隔てゝものぐるほしきまでおもひみだれたるを、君はさしもおぼさじかし。心にもあらぬやうなる別れのその折は、さまざまいひさわがれたる人ごとのつらさに、何ごとをおもひ分くるいとまもなかりしを、今さらにとりかへさまほしうおぼゆるぞかひなき。はじめよりにくからざりし人の、しかも情ぶかうおもひやりのなみ成らざりしなどおもひ出るまゝに、「何故にかく成りけん。身はよしや、さは大かたのよにつまはじきされなんとも、朝夕なれ聞こえなましかば、中々にいけるよのかひなるべきを」など取あつむれば、人も我もよの中さへもいとにくしかし。「まづ何ごとをいはゞや。かの君がみ心もしらず、うちつけならんやうに月日の隔てをかこたんもいかゞ。さりとて『都の花』のことよりせんもいとわびしかし」など思ひつゞくる間に、車は大人が店につきたり。いま更に心おくるれば、音なうもしばしとたゆたはれぬ。  (略)  ものつゝましういざり入れば、六畳敷計の処に机おきて、ゆたかに大人は寄りかゝり居たまへり。ふとあふげば、ものいはず打笑み給へる、嬉しなどはよのつね、たゞ胸のみおどりぬ。といはん角いはんなどおもひつゞけしことは、何方にかげかくしけん、さらにさらにいはるべくもあらず。からうじて、「月日いかゞすぐし給けん。心には忘るゝ間もなきを、おもひよらずもの隔てゝのみなんありし。御なやみの後は、さしも御なごりなうとこそおもへりしに、此ほど御めしつかひより、『そこはかとなくよわげに』などうけ承りしは誠にや」など、ほのかなるものがたりに気色心みれば、たゞにこやかに打笑みて、こと少なゝるしも、底に物ありげにていとくるし。『都之花』のことかたるに、「そはいとよき事成かし。何方にまれ筆とりておはしまさば、よろこばしき事ぞかし。我がしれる友などもみな惜しみ合ひてありしものを」などかたらる。  (略)  商ひのいといそがはしくして、大人のしばしも落付給ふいとまなく立はたらきおはすさま、何とはなくかなし。  (略)  人なきを見て、つと御身ちかくさし寄りつゝ、「何は置て、御めにかゝることのいとはるかなるが口をしうこそ。何事もうき世に申合す人なき様にて、心ぼそさ堪がたし」と言へば、「何かは我などの御助けにも成る筋あらんや。されど、もし、こゝに申ことありとも覚さば、此うら道のいとさびしく、人めといふものふつにあらねば、此処より立寄給はんに、誰かは見とがめ申べき」とさゝやき給ふ。「いでや、其しのびたるたぐひを厭へばこそ、こゝにかく心ぐるしきを」と言はまほしけれど、申さず成りぬ。何も何も残したる様にて別れぬる也。
【注】
 一葉の生きた11月11日。その後半を紹介する。
 田辺龍子(花圃)宅を辞して半井桃水のもとへ向かう際、そして彼に対面した時の狂おしいまでの心情が告白されている。
 ここでの「君」、「大人(うし)」は、勿論、桃水のこと。この頃の彼は三崎町で葉茶屋を営んでいた。彼も、小説だけでは生活していけなくなっていたからである。この年の夏に夫を亡くしたばかりの従妹河村千賀子、他にも5、6人の店員を雇っていたらしいが、経営ははかばかしくなかったようだ。この後、彼は店を千賀子に譲り、自分はその隣の家に移り住むことになる。
 さて、「はじめよりにくからざりし人の、しかも情ぶかうおもひやりのなみ成らざりしなどおもひ出るまゝに、「何故にかく成りけん。身はよしや、さは大かたのよにつまはじきされなんとも、朝夕なれ聞こえなましかば、中々にいけるよのかひなるべきを」」。はじめて会った時から私にとっては特別な存在だったのに、それなのにどうしてこんなことになったのだろう、たとえ世間から捨てられたって2人で……。一葉の胸には、こんな思いがこみ上げていた。久々に会う旧師は、一葉にとっては強く激しい恋愛の対象だったのだ。勿論、この対面は、表向きは静かで穏やかな雰囲気のもとに進行していったのだが。
 しかし、彼女は周りに人がいなくなったすきを見て、会えないことがとても残念で心細いと彼に訴えた。彼は、話があれば人目のない裏道からいらっしゃいと答えた。彼女は思った。「いでや、其しのびたるたぐひを厭へばこそ、こゝにかく心ぐるしきを」。人目を忍ばねばならないという、そのことが私には辛いのだ、と。だからこんなに苦しいのに、と。だが、彼女は、目の前にいる彼にそこまでは言えなかった。いや、言ってはならないことだったのだ。そして、「何も何も残したる様にて別れぬる也」。最も伝えたかった思いは置き去りにしてしまった。だが、このようにして何度も封じ込めてきた思いが、やがては゛もの書く゛エネルギーへと昇華していったようにも思う。
 だが、ふとこんなことも考えてしまう。もし、この時訴えていたら、桃水はどう受けとめただろう。2人はどうなっただろう……と。
 一葉の死後、これらの日記は、妹邦子の手元で何年も保存されたままになっていた。したがって、彼女の悲恋も知られないままだった。だが、何十年も経って日記が公開された時、文壇でもほとんど忘れられていた半井桃水は、夭折の作家樋口一葉の恋人として一躍脚光を浴びることになった。しかし、彼の控えめかつ上品な発言の中に、意地悪な世間が期待するようなものは一切なかった。
 もうすぐ11月23日、一葉忌だ。静かに、静かに、彼女の恋に、そしてその生に思いを致したい。

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